<一隅を照らす人・宗信和尚のページ>
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 一隅を照らす人 ―― 神戸六甲祥龍寺・菅宗信和尚二十六話 ―― 鹿岳光雄

   祥龍寺の菅宗信和尚が亡くなられてやがて30年になる、般若団員の多くがお世話になり、親しく接していただいた。
   懐かしい六甲・祥龍寺とともに、宗信和尚を想い出される方が多いと思う。 
    この二十六話を読み、宗信和尚が、今様良寛さんともいうべきか、菩薩道の実践においては、仏教徒でないが、
   あのマザー・テレサをも想起させる昭和の傑僧であったことを知りました。 
    偉大な実践者でありながら、何事もなきように、いつも春風駘蕩、飄々とされていたあの和尚の温顔を重ねると、
   本物の偉大さ、奥深さに感動します。  また、
   宗信和尚と同時代の人でありながら、これほどの宗信和尚賛歌を新聞紙上に連載され、冊子にもして世に紹介された
   鹿岳光雄師(祥龍寺に遠からぬ神戸岡本の宝積寺ご住職)の澄んだお心にも感動しました。
  ご承知の方も多いと思いますが、改めて菅宗信和尚を学びたいと転載させていただきました。

<菅宗信和尚の略歴

 碧堂和尚(宗信和尚)は、明治44(1911)820日、大分県は佐伯市でお生まれになりました。昭和2(1927年)4月、満15歳で血縁者でもあった碧層軒老師に就いて得度され、その後、祥福僧堂、円福僧堂で修行されました。円福僧堂での修行後は、祥龍寺で晩年の碧層軒老師に仕え、昭和19(1944)3月に碧層軒老師が遷化されたのちに祥龍寺住職になられました。
 碧堂和尚がお亡くなりになったのは、昭和53(1978)1226日、療養先の有馬中之坊、享年満年齢67歳。     ―― 上記は戸田千之先輩からお知らせいただきました ーー

<出典について>

以下に収録する二十六話は、菅宗信和尚の自伝的著『馬鹿になりきるの記』の『まえがき』からの転載させていただきましたが、もともとの出所は、菅宗信和尚の友人であった宝積寺(神戸市東灘区岡本)の鹿岳光雄和尚が、中外日報という新聞に連載された「宗信和尚十五話」という随筆がもとなっております。鹿岳和尚は昭和45年6月、『一隅を照らす者 ――随筆・宗信和尚―― 』という小冊子にまとめられ、これを「宝積寺」から発行されていますので、新聞紙上での連載はこれより前のことであったと思われます。なお、この冊子では二十話になっております。

 鹿岳光雄和尚の随筆に菅宗信和尚の人物像を見事に浮き彫りされているので、『馬鹿になりきるの記』(注)の編集にあたり、編集者が再編集し、宗信和尚二十六話として『まえがき』にかえたとのことであります。
  (注)昭和52年12月、実業出版社より発刊された。

                          以上(
2007.01.03 岡田記)


  <菅宗信和尚26話 目次>

 
  
 1>カッパ菩薩    2>宗信さまの子  3>無花果      4>微笑  
     5>赤耳太郎     6>道草を喰う   7>寒山の道     8>鐘は鳴る
    9>恵聞尼      10>宿世の絆   11>膚のにおい    12>世上道  
    13>小島の春     14>良寛さま    15>雲水世界を行く  16>地下水
    17>苦悩の英雄    18>行雲流水    19>一隅を照らす   20>”乞食”の心
    21>馬 鹿      22>書かざる経   23>竹と詩人    24>尼僧と男僧
    25>いのちの花開く 26>薊の花

   
宗信和尚のこと、「馬鹿になりきるの記」(岡田関連寄稿)へ

                  ◇◇◇
              


1>カッパ菩薩

ひねもす雲を吐く六甲山南の高台に、臨済宗妙心寺派の宝珠山祥龍寺がある。この寺の再興は、前妙心寺管長碧層軒五葉愚渓禅師の偉業であり、禅師大円寂の道場である。

禅師の衣鉢を嗣ぐ菅宗信和尚は、中外日報社から、かって「涙骨文化賞」を贈られ、一隅を照らす仏者として、読者の記憶にもあろうと思う。

もう十七、八年も昔のことだが、粉雪のちらつく二月の一夜、筆者は祥龍寺を訪ねた。方丈の電灯は薄暗く、火鉢を前にした宗信和尚が、おむつを両手で乾かしておられ、その肩と膝とに二人の幼児が乗り、もう一人の幼児が、和尚の横に坐って抱きつくようにしていた。和尚から飴玉をひとつずつもらって、嬉しそうにさわいでいたのが、今も眼底から消え去らない。
 
終戦直後から今日まで、二百人以上の、幼少青年たちを、和尚の托鉢行願で、養い育てて来た風雪のあとは、頭の下がるという位のことでは、言いつくされない。

ある時、一人の赤ん坊が病気になった。医者に来てもらったが、戦災直後の神戸ではよい薬が手に入らぬ。和尚と二、三の小僧さんでは、気をもむばかりである。女気のないこの寺では、赤ちゃんに何を飲ましたか、喰わしたか分からない。刻々に様子は危ない。骨と皮になって、腹は太鼓のようにふくれ、糞詰まりをしている。浣腸したいが薬もない。ご本尊に熱祷した和尚は意を決し、赤ちゃんの尻をまくり、肛門に口をつけ、力一杯吸うて、吸うて小半刻もした。忽ち音を立て、ドロドロの糞汁が、和尚の口に溢れた。和尚の眼から涙が止まらない。「ああよかった」の一言で、赤ちゃんは助かった。
 
まことに常識を破ったことである。だから、筆者はこの和尚を「尻を吸うカッパ菩薩」と尊称して、おかしいと思わぬ。

昔々、光明皇后が、ライ病人の膿をお吸いになったという。これに対しも、真の仏法者なら、みじんの疑惑などあってよいはずがない。
 
歎異鈔に「慈悲に聖道浄土のかわりめあり云々」の有名な言葉がある。この玄義は、偏った自力の頑頭で、解きほごせないことは当たりまえである。だが、雪深い越後における恵信尼さまが、親の無い不幸な子供を大勢ひきとって、これを養い育て、幾歳もつづく飢饉と苦闘し、一人の子供も殺すまじと悩まれた。この血の滲むような慈悲の消息を、京都におわす夫親鸞のもとへ書き送られている(弘長三年、文永三年)。これを拝読すると、自力他力の観念論に停滞せず、足踏みしない、純粋な人間の美しさ、信に生き抜く者の心の深さが仰がれる。「祖師は紙衣の九十年」の実践が何より有難い。

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2>宗信さまの子

ある日、宗信和尚のところへ、見知らぬ女性から手紙が来た。その上電話までかけて来た。

「和尚さまの、玉のような男の子を生みました。ぜひお目にかかりたい」というのである。そこで和尚は「わしの子にちがいない。いつでも貴女と、わたしの子にあいたい」と返事した。

木枯らしの吹く寒い夕ぐれ、二十二、三歳の色白の女が、よほど思いつめたように、伏し目がちに和尚の前に現われた。口数は少ないが、性根のありそうな女で、赤ちゃんを置いて、さっさと帰ってしまった。捨て子するより堅い方法である。

 和尚は「わしの子じゃ、わしの子じゃ」と、その日からおむつのお世話やら、ミルクを飲ませるやらで一仕事ふえた。しかし、数週間後に彼女が気の抜けたように飄然と現われ、和尚に手を合わせ泣くばかりである。和尚が「どうじゃ、わしの子は玉のように可愛いだろうが、ほら笑っとる」と言うと、彼女は急に「すみません、すみません」と畳に顔をすりつけ、「和尚さんの子を抱かせてください」というなり、ひったくるようにして駆け出してしまった。それっ切り何の音沙汰もない。白隠禅師の物語と似ているので面白い。

 仏曰く、「三界はわが有、その中の衆生はわが子」と。そして、和尚のいえる「わしの子じゃ、わしの子じゃ」に徹する外何があろうぞ。でなくば、良い子も弟子も育たない。

宗信和尚を「お父さん」と呼べる人々が、今では立派に成人し、社会人になった者、僧籍にある者が、九十余名もある。そして「おじいちゃん」と、和尚にだきつく孫も数十名になった。僧籍の人は二十四名、僧堂で修行した者、住職した者もある。このように大勢の子や孫を持つ和尚を悪くいう者も出る。世間とは面白いところだ。

 雲巌寺の植木義雄老師の肉弟である植木義邦氏は、神戸タワーの大親分で、子分も沢山あるという。この人のところへ、「宗信という坊主は女極道で、かくし女は何人あるか分らん」と訴えて来た。親分答えて「あの和尚は豪傑じゃ、わしが知っているだけでも、四五百人の女信者が熱をあげとる」と。そこで、この阿呆はギャフンと参った。

 植木親分、元妙心寺派に僧籍があったという。一日、宗信和尚に「あなたの弟子になりたい」と申された。和尚は、ただ微笑しながら、「流転三界中、恩愛不能断」と、かすかに唱えていたことであろう。

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3>無花果

 大勢の子供達がひしめいていた頃、これを養う飯びつを空にしておけない。宗信和尚の弟子菅応峰さんの書いた「冷や飯托鉢」の一節に

 「和尚の日課は、昼はお寺にいないということである。雨の日も風の日も、一日中托鉢に出かけているのであった。私の仕事は、そんな和尚の後を追うて歩くことであった」とある。

師も弟子も朝飯のない托鉢の日課である。いまだ夜気が漂い、鶏でも鳴きそうな時刻、六甲の高羽という町に「ホー、ホー」の声が澄んで、ほとんどの人間は床の中に在る。

「ふと見ると、ある家の庭に、うまそうな無花果が実っていた。和尚はアジロ笠を傾けて、実にうれしそうな顔をした。秋の冷気の中で、みずみずしく熟れた無花果が、今にも落ちて来そうに思えたからである」托鉢僧二人が、無花果の木の下にたたずんでいるのを見ていた家人が「お一ついかがです」と、「私達に一つずつもぎ取ってくれた。よく冷えた無花果が、口の中でトロリととけて咽喉を通り、胃の中に納まるのが、空腹においしかった。托鉢の醍醐味も、和尚のように三十年もやれば、こういうふうに味わえるのかも知れない」と、応峰さんの膚に感ずる言葉である。 

 この二人の托鉢僧は、やがてキリスト教会の前に来た。教会の庭は、露にぬれた秋草の花が、朝日をうけてひときわ美しい。和尚は教会に向かって鄭重に合掌し、「キリスト家先祖代々頓生菩提」と唱えており、前代未聞の回向である。応峰さん曰く、「仏である和尚が、神の子であるキリストに回向したからとて、別に不思議とは思わない」と。それからある家の前に立った和尚が、いざ回向しようとすると表札がない。ポリさんの警邏箱だけが眼についた。和尚は「警邏家先祖代々頓生菩提」と、平気な顔で唱えている。応峰さんは「こういうことになれている私も、思わず吹きだしてしまった」と記している。

 和尚がキリスト教牧師さんの家に、毎日托鉢に行ったが、宗教が違うので、米一握りも供養してくれなかった。三年たったある日、「ぜひ家にあがって下さい」という。そして、「あなたによって、キリスト教の真髄がよく分かるような気がする。今日から和尚さんに協力させて頂きたい」という。
 行雲流水の仏教者には、「異教徒」などというものはない。「岩もあり、木の根もありて、さらさらと、たださらさらと、水の流れる」(甲斐和里子)という、みじんの停滞もなく、悔いもなく如々として無住所に住する、和尚のすがすがしい日常。ねたましいほどのものがある。


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4>微 笑

 本堂の縁や、墓場で遊んでいた幼児も少年も、亡き母や父を想い出して、急に泣き出し、「かあちゃんと寝た夢を見た」と夜泣きすることもある。宗信和尚がその子を抱きしめ、微笑してやれば、一瞬に「和尚が生みの母と同じになる」と、かって祥龍寺発行の『微笑』誌に誰かが書いていた。

微笑誌に和尚と信者の対話の一つ
「またうちで孫がうまれてなあ」
「和尚さんに孫がありますかいな、子供もないくせに」
「何を言うか、血の通うた孫が生まれとる。世間のように、自分が生まないと、子でも孫でもないと思うとる。おかしいことじゃ」 と、

和尚にとっては、仏法が父であり、母であり、子や孫である。摩訶般若の世界だからである。維摩経仏道品偈では「智者は菩薩の母なり、方便を父とし、一切の導師これより生ぜざるなし。慈悲を女(むすめ)となし、善心誠実を男(むすこ)とす。ひっきょう空寂は舎(いえ)なり」 とある。
 だから和尚の言うてることは、仏法の摩訶般若の世界としてで、少しも間違っていない。だから「三界はわが有(う)、その中の衆生はわが子」と仏は申される。真の仏教者なら、この道理を信じねばなるまい。

かって、黄檗潮音精舎の村瀬玄妙老師が、例によって問候の金一封を方丈の床に置き、しばし対談しておられた。その時、弟子の一人が、様子ありげに和尚へ耳打ちした。何か分らぬが、弟子は床の問候を下げて行った。筆者も同席していたので、後で聞いた話しでは、和尚の心も知らず出奔した弟子があり、寺とあまり遠くないところに住んでいた。同棲していた女が、コチコチの創価学会の信者で、祥龍寺へ仲間と折伏に行こうというほどである。

この出奔の弟子が、急病で入院することになったが、一円の金にも窮していたので、和尚に助けを求めて来た。しかし、和尚も手許不如意で急場の間に合わない。そこで間髪を入れず、玄妙老師の問候が助けの神になったという次第。和尚に他人はなく、親疎の差別はない。摩訶般若の世界だから、菩薩のまねごとをなさる。

底抜け貧乏の和尚のところへ、アメリカの女性が訪れ、「和尚さんにお金を差しあげたい」と言う。和尚は「わしのような寺の留守番に、とんでもないことじゃ、ご本尊さんに聞いてみるがよい」と、にべもない挨拶である。
 彼女は辞去するとき、五万円在沖のガマ口ぐるみ賽銭箱に投げこんで帰った。「こ憎らしい和尚め」と思ったか。この外人女性の胸の底に、とも慚愧ともつかぬものが、揺れ動き、微笑しながら去ったことであろう。


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5>赤耳太郎
 
  宗信和尚の随筆の一節に、
 「花がしずかに部屋いっぱいに香りを漂わせている。無心のままに、悲しみも、楽しみも、いちようにしずかにかたずけてくれる」
 とある。明けても、暮れても、子供たちのことで、心も身も休む暇もなかった頃、しばしの憩を方丈の一室に過ごした和尚の消息である。
 浮世の辛酸を味わいつくし、どん底の人生を踏まえながら、仏道ひとすじに生き抜こうとする和尚にとって、「前世からの借りがなかなか返せんでなあ」と言い、「仮の世に、仮のころもの、かり姿、かりを返して、もとのもくあみ」と詠じている。わが身を今生だけと思い、前世の因果を信じない者には、和尚のこころを、膚で感じ得ないと思う。年少の頃から、浮世の苦難と闘った和尚の素顔を、自ら記した一節、
 「わたしは生まれながらにして、左の耳から頭にかけて痣(あざ)がございますが、小学校四年の時でございました。学校へまいりまして、ふと机の上を見ますと、赤耳太郎、と落書きがしてあったのでございます。ぶるっと体が震えて、前の物が見えないほど、ショックを受けたのでございます。そのまま家へ飛んで帰り、母親に、殺してくれ、といったそうでございます。母は泣きながら、わたしを抱き、お前は菅原道真の末孫ではないか、そんなことでどうする、とはげましてくれた ・・・・・」

 「赤耳太郎」というあだなをつけられた、和尚の人生行路は、小学二年生の時から新聞配達をしたり、十二歳の時に、大阪に出て洋服やでミシンを踏んだりしたが、常に赤耳太郎という、潜在的なコンプレックスに悩んだ。しかし、
 「なんとかして、自分が世の中のためになる人間になりたい。肉体的に欠陥のある人や、劣等感に苦しむ者、暗い気持ちで暮らしている人々を、明るい心にしてあげたい。という考えが次第に強まり、いつとはなく、わたしの信念になったのでございます。それを実行するには、坊さんになるのが一番よい。 と大それた考えを起こしたのでございます」

 かくて、仏縁は遂に結ばれ、前妙心寺派管長碧層軒愚渓禅師によって、剃髪得度することになった。正師を得たことが、和尚の今日をあらしめたことでもある。赤耳太郎のコンプレックスなど、もはや問題でなく、天真清朗な和尚の微笑は、絶世の美という外なく、その魅力にひかれない者はないはずである。
 仏弟子の阿那律は盲目の聖者といわれ、伽那菩提は片目の聖者である。まことの仏者ならば、仏頂国師のような「ぶっちょうづら」であってもよいではないか。

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6>道草を食う

 
昭和四十年一月に長逝せられた元神戸銀行頭取吉山義一氏が、かって、宗信和尚に手紙をよせられ、「実は妙なお話でございますが、草鞋(わらじ)が六足ありますので、ご入用でしたら、是非お使い頂きたい」というのである。吉山氏が富士登山に用意したのが不用になったから、和尚の托鉢に役立てて欲しいというのである。都会では「わらじ」を手に入れるのはむつかしく、下駄ばきの雲水さんが托鉢している時代である。

 吉山氏の草鞋をはいた和尚が、応峰さんを連れて山手方面を托鉢していた。その時の和尚の様子を、応峰さんが記して、
 「春になると、冬の寒さから解放されて、素足のわらじ托鉢も楽しいものとなる。水もぬるんで,、ポカポカと春の陽が背中をあたため、道端の雑草も目を楽しませてくれる。そんな時和尚は、ほんとうの道草を食うのである。ヨメナ、ハコベ、クサヤナギ、ジューヤクまで摘んで、きれいに洗い、それをまるめてムシャクシャ食うてしまう。見ていて決しておいしいものではないはずだが、この時ほど”道草を食う”という言葉を味わったことはない」 とある。

 天衣無縫の人、というのはこの和尚のことであろうか。もしこの和尚が、乞食桃水の弟子?洲の立場であったら、乞食仲間の死人が食べ残した雑炊を桃水と共に喫して、?洲のようにヘドを吐く醜態はしないであろう。桃水が不憫な乞食の遺体を丁重に埋葬回向してから、?洲にいえる「不憫と云うのは、乞食の世界だけじゃない。天子も将軍も裸で生まれ、裸で死ぬ。人間と名のつくかぎり、不憫でないものがあろうか」と。 そこに和尚が居合わせたら、コックリうなずき、微笑したにちがいない。
 道の草を食うほどの和尚だから、愉快な話題も多い。和尚が潮音精舎に玄妙老師を訪ねた時、老師が一箱の土産を贈った。帰山して箱を開くと、みごとな鮎が一杯詰まっていた。和尚は「明朝学校へ行く子供や弟子達の弁当のおかずにしてやりたい。さぞ喜ぶだろう」と、さっそく鍋に入れ、砂糖も醤油もはりこんで、とろ火でコトコト煮込んだ。
 しばらくして、変なにおいがするので、応峰さんが鍋のフタを取って見た。鮎の姿はすっかりくずれ、魚どころではない。「和尚さん、これは鮎じゃない。お菓子ですがな」という。 和尚は平気な顔で「そうかな」というたきりであった。

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7>寒山の道

 宗信和尚を「寒山のようだ」という人がある。あの無頓着なアピアランス、背の低い赤耳太郎、小僧か和尚かサッパリ見分けがつかぬ。台所で「今日はワシが飯たきの当番だ」と、水を汲んだり、飯台を拭いたりしている。訪問者が「和尚はおられるか」「わしがこの寺の留守番じゃが」というだけで、事は足りている。

 先師碧層軒が「馬鹿になれ」と教誡された。バカになる修行が、和尚の生き甲斐である。だから風貌や風采のことなど、何のことでもない。

 幼児から和尚の手塩にかけた弟子の一人が、九州大分の某寺で、晋山式を行うことになり、和尚はよろこんで馳せ参じた。平素の木綿の黒衣に、粗末な袈裟をかけた風采である。新命和尚は、粗末だが新調の法衣と袈裟をかけて式場に臨もうとした。しかし、参列の各寺院方に比して、師匠の法衣があまりにもひどすぎるので、「お師匠さん、頼みますから、わたしのと取り替えて下さい」と泣くように懇願した。「なにを言うか、今日のお前の晴れ姿を見なくては」と、和尚は取りあわない。

 その後、弟子は「バカになる修行には、キレイな法衣や袈裟は不要です」と、和尚へ送って来た。血の通う師弟愛のひとこまである。

「寒山のような和尚」という世評もあるが、ある時女の信者が、和尚の顔の皮膚が荒れているので、明色アストリンゼンという化粧水やポマードまで持参して、「少しはきれいにしなはれ」という。後で無頓着な和尚も、ポマードを顔につけた。ベタベタして気持ちが悪い。信者が「何をしてはんのや、それは顔につけるもんだすがな」と大笑いしたことがある。もし昔の寒山がこれを聞いたら、哄笑したであろう。

 寒山詩に「洛陽の若い女子が、路辺の花を摘んで髪にさし、身を美しく飾っているが、それは恋人や夫を愛する。ただひたすらに可憐な心からだ。わたしの、この風狂の姿、垢面蓬髪、まるで乞食同然の風采をしているのは、酸々怜ある、すのようないやな思いや、世にすねたりしているのじゃない。ただひたすらに、衆生愛のため、人を救いたいねがいの外にない」(洛陽女児)というのがある。

 宗信和尚も、この寒山の心に学ぼうとするにあるだろう。寒山を論じ、讃えるものは世に多い。しかし、「寒山の道、人は来ず、もしよく来れば、仏を見ん」とあるように、寒山への道は難路なのである。一真実への道は、頭の空廻りでは登れない。

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8>鐘は鳴る

 戦争に供出した祥龍寺の梵鐘が、平相国清盛時代の由緒あるものであったという。宗信和尚にしてみれば、六高山南の高台から、神戸市民に朝夕鐘をきかせたい一心で、むしろ執念の鬼のようであり、夢にさえ鐘を撞いていた。堂々たる鐘楼の上に、鐘のない風景は淋しくてならぬ。

 神戸がようやく戦災復興に立ち上がりつつあった頃、ある日元町方面を、和尚は四、五名の弟子をつれて托鉢していた。ふと気がつくと、古道具屋の店頭に大鐘が、デンと坐っているではないか。和尚の胸は急に弾んだ。鐘を両手で撫でまわし、ためらう気配もなく、「これを持って来てくれ」と店に頼んだ。店では「お寺さん」のことでもあり、別に疑いもせず、早速祥龍寺へ運び、鐘楼門に吊るしてくれた。この時のことを応峰さんは、「さすがに目利きの古道具屋も、こちらが借金だらけの文無し寺だ、というところまでは気がつかなかった。そのうえ銭のことなど無頓着な和尚のことだから、大変なことである」

 ところが、この鐘はもともと出来が悪く、まるでフライパンの底を叩くような音で、たとえ銭があっても、代価を払う気にもなれない。しかし、店からの請求は矢のように来たが、のびのびになって三年の間、雲水達は根気よく打ち鳴らしていた。ある日、昏鐘を撞こうと応峰さんが、元気一杯撞木を引いた。しかるに撞木は空を突いて、一向に音を出さない。鐘楼門だから、下から鐘は見えにくい。そこへ他の雲水が来て、「応峰さん、今日鐘を引き取って行きましたよ」と言う。

 無欲で無頓着で通る和尚も、鐘への執念は、日増しに強い。山内数十人の衣食から、教育の諸費用に追いかけられ、日々の托鉢では、百万円近い梵鐘の鋳造費にまで、手の届くことではない。この和尚の願望は、いつしか信者たちの心を動かし、遂に昔に劣らぬ銘鐘が鋳造され、鐘楼門からジョウジョウの音を発する日が到来した。和尚の執念成就ということである。

 神戸市内の寺院の鐘は、ほとんど復興した現在、その鐘が「鳴らずの鐘」では仕方がない。

仏教本来の「祇園精舎の鐘」の心を忘れて、マスコミの風に吹きまくられた、大学出の若い和尚の「仏教の近代化」だけをいうているのも、おかしいことだ。ヘミングウエーの「誰がために鐘は鳴る」の巻頭に見る、ジョン・ダンの「霊魂の進歩」は、「されば、鐘は誰の死を弔って鳴っているのかを、問うことを止めよ。その鐘は汝を弔って鳴っているのである」と。そして、宗信和尚の鐘は、「仏法を大事にせよ、仏道に生きよ」と鳴るようだ。

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9>恵聞尼

 昭和三十八年二月六日に「尼の身故に、大法を汚し、迷惑を掛けたことを懺悔する」の遺言状を残して死んだ、西村恵聞尼は、四国宇和島の城主、京極左京の城代家老勝田光政の長女である。彼女が神戸平野祥福寺の末庵の西村恵推尼の弟子となり、養女として西村姓になったのである。恵推尼の没後に、この庵に住持したが、宝珠庵を廃滅するような重大事件が起こった。筆者はこれを解明することを好まない。恵聞尼は責を負うて退山し、大阪の福島に住む実景、勝田長賢氏の家にひきとられた。そして十年の歳月を、懺悔の涙で暮らしていたのである。

 その後、碧層軒愚渓老師が、祥福寺を引退になり、六甲の祥龍寺を復興された時、老師の大慈悲心によって、この不運な恵聞老尼を引き取られた。しかし、老師入寂の後に、宗の内外から恵聞尼批判が巻き起こり、その上なき老師に対し、思いもよらぬ濡れ衣を着せるがごとき、不届き者も現われ、雑言、卑語さえ平気で言う阿呆もあった。

 「恵聞尼は碧層軒の何であるか、そのことの如何にかかわらず、この際老尼を追放し、碧層軒の徳を護り、宗信和尚の重荷にすべきでない」 というのである。

この衆議を代弁して、宗信和尚に膝詰め談判を持ち込んだ人は、元衆議院議長で、戦後に神戸市長になった小寺謙吉翁である。

小寺翁いわく、「宗内外の誤解を一掃するため、断固として、恵聞尼を追放せよ」 と。

和尚はこれに答えて、
「小寺さん、この老いたる尼僧が、もしあなたの母親であったなら、追い出しますか」
「世間の非難がどうであろうと、私にとって大恩のある碧層軒でさえ、恵聞尼を救いあげられ、追放せられなかった。しかるに、修行の足らん私が、世間の誤解に巻き込まれて、邪見な心を起こせますか。今この老尼をお護りするのは、恩師に酬ゆる道と思う」と声涙ともに下る和尚の真情に、さすがの小寺翁も二の句が出ず退山した。

それ以来誰一人恵聞尼のことを言うものもいなくなった。和尚にとって、老尼を母と思い、手厚い看護もしたが、春雪の降る二月六日の朝、「一点梅花の蘂(ずい)、三千世界香し」とでも言いたい、すがすがしい気持ちで、恵聞尼は、宗信和尚の手を握りながら入寂したのである。

 このことがあって、五年後に、和尚の生母菅さき刀自も、八十五の天寿をまっとうせられ、平素から和尚への誡めに「祥龍寺の松は枯れようとも、法の縁はたやすでないぞ」が遺言である。祥龍寺とほど遠くない東灘区本庄町青木の、和尚の弟菅比代志氏の自邸で、さき刀自は、蒲団の上に坐禅を組み、微笑を浮かべながら大往生の本懐を遂げられた。さすがに、さすがにという外ない。

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10>宿世の絆

 祥龍寺の堂の下やら、庭木の陰から、いろいろ顔をだした雑種の犬たちが、尾を振りながら、何か物言いたげに現われる。この犬たちは、戦災の町から集まった野良犬や、飼い主と別れた犬か、その後つぎで、寺で生まれ、寺で死ぬ。もことに仏縁の深い、そして、人間と犬との宿世の絆ということである。

「狗子に仏性ありや無しや」などと、人間の中の賢いのが言うた。しかし、禅寺の犬だからとて、問答は無用だという顔をしている。ましてや、中国の作家魯迅の「犬の反駁」のような皮肉もいわない。宗信和尚や雲水の、日々の托鉢に、いかにも楽しげにゾロゾロ後を追うて来る犬たちなのだ。

 和尚は犬たちの頭をなでながら、「おまえたちは、嘘を言うたり、罪を犯して苦悩する人間に生まれないでよかったのう」と、微笑してござる。カール・レビットは「ヘーゲル以後の哲学における人間性の問題」の序説に、

「物を言うことのできる動物が言うた。人間というものは、一つの先入見である。すくなくとも、われわれ動物は、それに悩むことがない」と書いている。和尚は犬たちに独り言しているのは、それに当たるようだ。サマセット・モームの「人間の絆」は、

「いつも最上のことを望みながら、愚かな迷いと誤りをくりかえして、苦しみぬいたあげく、どん底の気持ちから立ち直る人間の物語である」(上田義一郎) といわれているが、その「迷いを重ね、誤りを繰りかえして、苦しみ悩む」いわゆる煩悩具足の、泥凡夫の救いのために、高い数学や、深い宗学やがあるというが、今では、現実と遊離して、みずから、ハタと戸惑うてはいないだろうか。現実はきびしいが、身を捨て、対決する外にない。

 原爆孤児で、幼い頃和尚に育てられたが、中学の頃悪友に誘われ、各地を流浪したあげく、罪を犯して刑務所に入った、不幸な人がいる。「わたしの父は、宗信和尚さんです」というので、消息が分った。和尚は刑務所に飛んで行き、

「わたしがお前を迷わせ、誤らせた」と涙を流して抱きしめ、「刑が終わったら、まっすぐ戻っておいで、わしとお前の絆は、どんな力でも断ち切れんのじゃ」と、

和尚の周辺は、人間危機の渦巻きである。
和尚の印鑑を盗用して、寺有の境外地を売り飛ばし、十年前の地価一千万円以上の損害を与えた者さえあった。和尚は泥水をかぶり、足で蹴られる立場である。この事件のごときは、祥龍寺全信徒のキモを冷やし、皆が寺に集まってきた。

 そして、「これは、われわれ信者一同の責任です。和尚さんのようなお方に、俗事をおまかせしたのが悪かった」 と、全員が畳に頭をすりつけ、和尚に泣いて詫びた。
法縁としての、宿世の絆の深さが分かる。


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11>膚のにおい

 宗信和尚をどうして知ったか、神戸葺合の○○寺という浄土真宗の寺の一人息子(名を秘す)が、和尚の弟子にしてくれねば「死んでしまう」と両親を困らせた。彼が神戸高校在学中のことである。両親もやむなく息子を連れ、宗信和尚に面会を求め、「当人が、身命をかけて、あなたの弟子になりたいというかぎり、親子の縁や、宗門宗旨にこだわっておれない。よろしく頼む」ということになった。
「親鸞は弟子一人ももたず候」の宗門の寺の子が、師弟関係のきびしい禅寺の弟子になるということ、宗信という和尚の膚のにおいが、どんな魅力があって、この青年の心をゆさぶるのか。

彼が剃髪のツルツル坊主になり、雲水姿で学校に通っていると、担任の先生から「他の学生の気持ちも考え、コロモ姿の通学を遠慮してもらえないか」と、和尚へ頼みに来た。これはほんの小話にすぎないが、和尚の弟子らしい面白みがある。しかし、「非僧非俗」とはいわぬ禅門ながら、俗よりも俗な子弟が多い今日、この小話が、話題になっても不思議でなかろう。

 和尚をめぐる異色の消息は多い。芦屋のカトリック教会堀神父は、両親の遺骨を祥龍寺に納め、和尚の御回向を願いたいと。それは「如来法明の空界に入る」という、摩訶般若の世界だから、昇天も往生も一円相に納まる。それの分る神父さんであろう。
 同じ芦屋のキリスト教会、英人牧師エーゼット氏一家をはじめ、神戸山手教会のゼームス牧師も、「和尚さんによって、仏教の真面目に触れることができる」と、足しげく訪れ、仏教もキリスト教も「真実は一つ」と言う。この真実という公案の故に、六甲カトリック大教会の外人神父さんも、毎日曜日の坐禅会に和尚さんと共に坐り、禅話を聞くところに、これからの世界宗教ということが、反省させられる。かって、ヴアン・M・エームズ教授が、

「坐禅によって、われわれは釈尊はじめ、他のあらゆる人々と結び合えるのである。人間性は仏性に他ならないからでえある」(禅ブームの行進)
「禅は、宗教の根源が、人間性の人間的条件の中にある、という西洋の心理学者や、哲学者が発見しつつあることを、とうの昔に見いだしていた」(同)

と論じているように、そのことを、右の外人神父や牧師が、もっとも身近なところで、膚で感得するようになったのは、宗信和尚の仏作仏行に触れてからであろう。「あなたによって、キリスト教の真髄が分るような気がする」と言える牧師もあるからである。

 和尚は弟子や学生たちに、方丈も茶室も勉強部屋に提供し、自分は庫裏の天井裏に三畳の小部屋を設け、ここで、外人も賓客も、胸襟を開いていた。それは、七、八年も前のことだが、この部屋は維摩の庵室のように、次から次へと、何人でも入れるので感心した。筆者はここで天理教会長の龍田敬太郎氏に、はじめておめにかかった。龍田氏が「わたしは、和尚の信者どころじゃない。押し込み弟子なんです」と言われたのが忘れられない。
 その後インドの教育者で、ガンジー首相や、各界の知名人とも親交のあるシンパナー氏は、和尚と初対面の日から、ついに帰国を一年以上延ばして、雲水生活をしながら「和尚の膚のにおい」にひきつけられていた。寒山のような風貌、赤耳太郎という男ぶりの和尚を追跡する筆者が、いまだコロモの端も捉えられないのが恥ずかしい。

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12>世上道

 祥龍寺の信徒総代で、阿部建材社長阿部久太郎氏が、昭和37年に亡くなられた。氏の臨終七日前に、宗信和尚を枕元に招いて、

「わたしの死に土産に、是非とも和尚の耳にいれておきたいことがある。あなたが肝硬変で床に伏し、病状極めて重大であった時、七人の信者さんが、一カ月の間滝にうたれ、はだし参りをして、快癒を祈念せられた。その人々の名は言わぬが花でしょう。このことだけを私がいわねば、誰一人名乗り出るはずもない。わたしの寿命のつきるのは仕方ないが、あなたは今の世にはなくてはならぬお方だ。長生きなさって、世上のお役に立っていただきたい。これだけのことをいいたいばかりに、来ていただいた」

さすがの和尚も愕然として、「もったいない、もったいない」と、胸のはりさける思いであった。親や子のために、滝にうたれ、はだし参りをする人もある。しかるに「寺の留守番だ」と自称する一雲水のために、ひそかに「和尚さん、死なないで下さい」と熱祷し、一か月間も滝にうたれ、はだし参りをする信者があるとは、今の宗教界では未聞の佳話といえる。
 宗信和尚の信者が、妙心寺本山に参拝し、「うちの和尚さんは、管長さんよりありがたいお方です」と、今は亡き、大航猊下に、臆面もなく、めくら蛇なことをいえる信者たちだから、滝にうたれ、はだし参りする位、何のことでもないようだ。

 現代仏教の、寺の留守番は沢山おられる。しかし、その寺の信者と息が通わず、血もつながらなければ、世上道を粗末にしている証拠である。小野清一郎先生が、高楠順次郎博士の「人間学としての仏教」を評せられた中に、

「仏教は出世間であるといわれる。まことそれは単なる世間道ではない。一歩世間の上に出て世間を見るものである。その意味では、世上道ともいわれる。そこには世間を超越する見方と修行とがある。しかし、仏教は、世間すなわち生きた人間の世界を超絶して、抽象的な観念の世界に終始するものではない。世間を超越しながら、ひるがえって世間学を学び、世間を平和にし、浄化しようとするものである。この還相的な、文化的実践面を重んずるところに、高楠のいわゆる」人間学があるといえよう」

 と申される。禅者としての宗信和尚の修業や内容までは、筆者の手の届くものではない。しかし、和尚の日常底では「抽象的な観念の世界に終始するものでない」ことだけは分かる。「世間を超越しながら」「世界を平和にし、浄化しようとするものである」という前提を、そのまま引用して、この和尚の強い信念から実践されているものに、われわれは頭をさげざるを得ない。それは「単なる世間道ではない」のであって、「一歩世間の上に出て世間を見るもの」としての、仏教本来の目的に精進している宗信和尚として、見のがせないのであり、そのことが、信者や世間の人と息が通い、血のつながりを拡げて行かれる「世上道」であると思う。

 和尚の世上道には、停滞も足踏みもない。天衣無縫で無頓着であるのは、「裸で生まれて、裸で死ぬ者」という、深い人生観に立ってのことであろう。一昨年の夏であった。和尚は応峰師と岩崎執事を伴い、自動車で外出した時、石材運搬のトラックに追突され、それ以来頭の痛む日が続いた。石材会社から、治療費その他を出したいと申して来た。しかるに、「本来裸の禅坊主は、坐禅しとると治る。わしに銭は無用じゃ」と、取り合わなかった。
 それにしても、五十八年の和尚の肉体は、長い過労の蓄積で、床に伏す日は多く、肝硬変が再発しているらしい。弟子や信者の不安は「和尚さん、死なないでくださいよ」という祈り、切切として、無言の声になっている。和尚いわく「わしに休養はない。だから死後の休息もないぞ」と。

 
ワーズワースの「歓喜こそ、苦悶こそ、愛こそ、人の不屈の精神こそ、われらの友」
 これは和尚のための詩であるという他ない。


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13>小島の春

 悲惨胸をえぐる「明石海人遺稿」や、小川正子の「小島の春」で知られる長島愛生園は、今日こそ立派な施設になったが、いまだお粗末な療養所であった時代が長く、ライ患者の島流しとさえ誤解されたこともあった。
 宗信和尚が、町内の有志をつれて、春たけなわな、小島の愛生園を訪ねられた。一行が愛生園の門をくぐった途端に、有志の過半数が後がえりし、患者の姿を見た時、残りの人も園外に飛び出し、遂に和尚一人になった。和尚は観光に来たのでなく、患者とゆっくり話し合い、身の上話も聞いてやりたい。そして、法話もして慰め、勇気を出して治療にはげむようにしたいという他にない。患者の切実な願いは「医者も看護婦も沢山来てほしい」という一語につきる。

 和尚が愛生園から帰山した後を追うようにして、一人の青年ライ患者が、祥龍寺の門を叩いた。和尚は子どもの一人が戻って来たように喜び迎え、その夜は方丈に床を並べて、二人の寝物語りは、夜のふけるのも忘れた。翌朝、弟子の一人が、ライ病人と寝ている和尚を見て、驚いた顔をしていた。
 青年は、いまだ曾てない胸のふくらむ思いで辞去した。 そから、和尚は弟子たちに、
「世の中に、わが身ほど醜い人間はない。世上の人間すべて、汚いものでないはずはない。しかし、この醜い汚ない人間同士でも、心の底から話し合うことが大事だ。不幸のどん底にいる人間ほど、それが救いの根源になる」
と言うている。和尚と愛生園との心のかけ橋は、その後も長く架かっている。

ロンドン仏教教会のウイリアム・コリンズ博士は「医師としての仏陀」という論文に「古今を通じて、最も偉大な医者は、苦しみと不幸の原因をつきとめた仏陀である」と申される。この「偉大な医者」について、鉄眼禅師の「大蔵経化縁の序」を拝読すると、

「経に曰く、仏は大医王の如く、法は甘露の妙薬の如く、僧は看病人の如く、衆生は重病をうけたる人の如し」

とある。「大医王」である、釈尊の本生譚(ジャータカ)が説かれている金光明最勝王経の、除病品は、病いに悩む人々を救済し、慰安する菩薩道の精要が説かれ、大慈悲心の展開として、次に流水品が説かれ、そして、有名な捨身品が説かれているのである。こういう経典を読むことさえ知らない仏教者が、「僧は看病人の如く」とい精神を失い、仏陀の道を、お座なりの月並説教だけで、お茶をにごしているのは恥ずかしい。
 ライ病人を看護せられた、文殊菩薩の行願を説ける文殊涅槃経も、われわれ仏者必読の聖経だと思う。この経の信仰が盛んな時代もあった。和泉式部の夫藤原保晶や、平重盛という人達が写経を行っており、和泉式部は「わたしも、ライ病人となって、文殊菩薩を、身をもって証(あかし)したい」という和歌を詠んでいる。このような捨て身の誓願を忘れた仏教者が、バタくさい仏教の近代化、などを言うてみたところで、「僧は看病人の如く」になれようか。

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14)良寛さま

 室生犀星が「東京の濁った空こそ美しい。あの空の下に、数知れぬ人々の、苦しみ、悲しみが反映している」と書いている。東京にかぎらず、神戸の空も「人間の苦しみ、悲しみ」の深さを反映するかのように濁っている。しかし、この濁った空の下に、子供の世界があり、この世界だけが、濁った、汚ない大人の世界とは別に、「美しい」と言えるのではないか。

 もう大分以前の話だが、宗信和尚が、幼い数人の男の子、女の子と手をつないで、神戸大丸百貨店の、エスカレーターに乗っておられるのを、筆者の寺の信者が見ていた。その時の和尚さんが「話で聞く良寛さま」のように拝まれ、おもちゃ売り場では、子供たちが珍しそうに眺めている間、ニコニコして、いつまでも待っておられる和尚に、「つい涙ぐみました」と、感慨深く語っておられた。

「乞食坊主」と嘲笑されることもある和尚の、風采も風貌も、およそ現代の「魂なき繁栄」を象徴するかのような百貨店という世界では、和尚の一行は、異様なものに見えもする。しかし、今日はせめて、世間の子供らと同じように、楽しませたいという和尚の親心、それが、どんなに尊いことか量り知れない。たとえ高価なおもちゃを買い与えられなくとも、子供の欲望の何分の一でも充たしてやりたいという願いは、菩薩の慈悲という外はない。
「濁った空の下」に、人間のかぎりない、欲望の渦巻く百貨店で、この和尚が、子供をいたわり愛する一念というものは、一切の煩悩を浄化する「一隅のひかり」ではないか。「話で聞く良寛さま」という、実感のこもった人の話は、胸にうずく。

 詩人としての良寛は、昔の寒山にも劣らない。その脱落の境涯と、菩提心の深さは、いずれ劣らぬ仏者の真情に溢れている。良寛詩集の中に、良寛が、陽春草の芽が萌える頃、鉢をたずさえて、街に出ようとした。

「子供らが、衲(わし)を見つけ、声呼び合うて寄って来て、お寺の門前でつかまえた。寄ってたかってぶら下がり、衲は歩こうにも歩けない。そこで鉢の子を白石上へ、頭陀袋を松の枝へとかけ、さあ来い、草相撲の番だ。さてお次はまりつきか。衲がまりつきゃ、皆は唄い、衲が唄えば、皆がつく番・・・・」(飯田利行、良寛詩集)
とあり、詩意は世人もよくご存知である。

宗信和尚の寺の子供たちと、近所の子供も大勢仲間になり、本堂の前で、ベースボールをやっているのを筆者も見た。和尚のあの不器用な投球を子供たちがヤンヤとはやし、子供の投げたボールが、本堂の障子を突き抜けて、御本尊さまのところへぶちこんだり、和尚も子供も、手をうって笑いこけている無心は、良寛さまと相通ずるものがある。このような無心の世界こそ、濁った空の下にある花園であり、「美しい」世界と言えよう、ハーマン・ハーゲドーンが、シュバイツアーを讃え、「彼が行くところには花が咲く、彼は花に対して、子供のするように、天真に朗らかに挨拶をおくる。彼は偉大な笑う人である」と。筆者はこの語を借用して、宗信和尚の座右に呈したい。


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15)雲水世界を行く

 メキシコ祥龍寺から、今年二月初旬に、トバール・ラウール、ウラシナ・サリーナという二人のメキシコ人が、はるばる日本の祥龍寺へ、禅修業にやって来た。つづいて五月には、フェルナンド・セブルベタ、ホフネル・ギエルモという人も渡来し、十か年という長期間在日のパスポートを持って、宗信和尚の導きを得たいということである。今後あとに続く者も多いだろうと和尚は申される。

 中外日報の読者諸賢は、かって「雲水世界を行く」の記事により、和尚の弟子高田慧穣師の消息をご存知と思う。慧穣師は、和尚の数ある弟子中の高弟で、祥龍寺前副住職ということで、メキシコに行った逸材である。弟分の応峰師が、只今副住職として、和尚の補佐役をつとめている。

 慧穣師が和尚の弟子となって二十数年、花園大学も卒え、神戸平野祥福寺僧堂で、山田無文老師の爐鞴(ろはい)に投じ、仏祖の第一義諦に参ずること十年である。この間、在日の米人で評論家だというジュテース氏や、メキシコ人の思想家クラウエ氏が、師の宗信和尚に帰依しておられ、慧穣師の人物にも深く信頼をよせていた。機はようやく熟し、両氏が「若いななたが、和尚に代わって、メキシコに第二の祥龍寺僧堂を開いて欲しい。われわれが万端の準備をして、ご案内する」ということになった。

かねてから海外布教の雄志の抱いていた慧穣師にとって、絶好のチャンス到来である。師の激励もあって、昭和四十二年の晩春、信玄袋一つを肩に、クラウレ氏と共にアメリカに渡航し、サンフランシスコよりニュウヨークまで、行雲流水の托鉢行脚を敢行した。そこからメキシコの首都に着いたのは、日本を出発してより半年後である。

日本人の僧侶来るの声は、この地の人々の心を大きく揺るがし、メキシコ人の求道者は、忽ち五十人ほどになった。メキシコ政府や、日本大使館の理解ある関心や好意もあって、道場の建設は、着々と具体化に向かった。メキシコ市の中心から十キロ離れた、丘陵地一万一千平方メートルの土地が提供されることになり、そこはメキシコ富士で知られるポポカラベク山を望む景勝地に「メキシコ宝珠山祥龍寺禅堂」が湧現したのである。初建はレンガ造り、スレート葺きの白い平屋で、狭い禅堂一棟であるが、やがて日本風の瓦葺き本堂を建てる計画も進み、瓦の注文も来ているという。

慧穣師は、諸般の打ち合わせもあって、昨夏日本に帰って来られ、師の宗信和尚をメキシコ祥龍寺へ迎えたい。そして弟子たちが、平常合い言葉にしている「祥龍寺魂を忘れるな」を、メキシコの雲水や信者たちにも与えて欲しい。画龍点睛のためにも、是非師匠の飛錫を乞わねばならぬというのである。これこそ「雲水世界を行く」ということであろう。

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16)地下水

大地の底を、無限の地下水が流れるように、人間と人間との心の地下を流れる、真実という清水。それは、つきることがないから、仏のおんいのち、といただかれる。

 宗信和尚と慧穣師という師弟をつなぐパイプは、今は地球の裏と表の長さである。しかし、同じ名の祥福寺道場に、師弟が同じ請願につながり、永遠の今、此処に立つことは、何処も地球のまん中である。そこを掘れば、いのちの地下水が湧き、すべての人をうるおすことができる。日本でも、メキシコでも、すべての弟子や信者たちや、その他有縁の人々から、無縁の人々にまで、誓願のパイプをつないで、真実の水、仏のおんいのちの水を、注ぎ流したいということである。

 慧穣師が、昨年五月十八日に、メキシコ・オヤスペテクで開かれた全世界女性報道人会第一回総会に招かれ、さわやかな講演を行った。その一節に、

 「ちょうど、私の足元を掘り下げますとき、地下水にぶつかるように、そこには一人ひとりの人間の奥底に、清い人間性が、黒でもなければ、白でもない、金持ちでもなければ、貧乏でもない、裸で話し合える。それも言葉なしで話し合える。そうした人間の心の通じあえる、何ものかに出合えると思うのであります」

 と申された。こうした発言は、師の宗信和尚の日常底が、慧穣師の体内を通じて、湧き出た地下水という他はない。

 「言葉なしに話し合える」もの、「心の通じ合える何ものかに出会う」というのは、論理以前であり、衆生の救いを目指さす、いかなる教学も宗教も、これを無視して成立することはない。「裸で話し合える」ものでなくては、宗信和尚の行実でみられるようなものは、どの一つだって生まれはしないであろう。

 慧穣師は今春もメキシコから再度帰国し、師匠と打ち合わせをするという。その一つには、先行のソウール氏、サリーナ氏のこと、後続のメキシコ雲水の日本における修行について、具体的な方針を話し合うこともあろう。そして、慧穣師の発願は立派なものに違いないが、仏者の道は、はるかに遠く、難路であり、万人の指導者として立つには、更に深く自己を磨き、仏心を養い続けねばならない。したがって、メキシコ祥龍寺で結集した求道者の中から、選ばれて日本に渡り、師の宗信和尚のふところへ送り届けることは、今の慧穣師にとって、最善の道と思う。

 宗信和尚が、立派な仏法者であることは、疑う余地はない。和尚が「わしは人の上座にいる者じゃない。人の下座で修行中だ」というておられ、常に縁の下の力持ちを、楽しんでいる人であるから、ケキシコ雲水の諸君も、はるばる日本に来たことに、悔いはなかろう。

和尚のふところは温かいからである。それは「いのちの通う」温かさであり、「言葉なしに話し合える」のだから、彼等が日本語なしでも不自由はない。日本の祥龍寺には、何処を掘っても「真実という清水」が湧いて、彼らをうるおすであろう。

 今日和尚を訪ねて聞いた話の中に、祥龍寺周辺の各町内、二百五十人の有志が、朝夕鐘を聴くよろこびから「縁会」という会をつくり、和尚と心のパイプをつながせて欲しいという。地下水を汲む人間の仲間づくりが、おのずから布教伝導なおである。華々しい口頭禅の世界では、地下水は湧かないであろう。

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17) 苦悩の英雄

ハーゲドーンの書いた「シュバイツアー伝」に、「行為の英雄というものはない。ただ諦念と苦悩の英雄があるのだ」とある。行為の否定というより、「諦念と苦悩」の底知れぬ、宗教的精神の深さを凝視せよ、というシュバイツアー観であろう。それは、釈尊やキリストをはじめ、聖者と称せられる人々を、凝視する要諦と思う。

宗信和尚を、聖者などという必要もない。ただ和尚の数々の行為の底を掘り下げれば、無明の凡夫の悲しみ、醜悪な人間の不憫に、止めなく涙が流れているという、宗教人すべての本領にほかならない。諦念と苦悩の渦巻くところ、おのずから和尚の行為が湧き出たのであろう。醜悪な、不憫な、人間自身に驚き、泣くことを忘れて、宗教者の行為は在り得ないと思う。

この五月に、遥々メキシコから東洋の心を求め、宗信和尚のふところに飛びこんで来るフェルナンド・セブルベダ氏は、北メキシコの若い闘牛士として有名な人だという。彼は今までに何頭とも知れぬ猛牛と闘い、勝利したが、最近における猛牛との闘いに、見事な剣さばきで突き殺した、その倒れた猛牛が、苦痛の息を吐きなながら、悲しそうな眼で、セブルベタ氏の顔をギョロッと見ていた。彼は全身の血が一時に凍結したように、ブルッと震え、息も詰まる思いであった。彼は「闘牛士としての生涯は、今日限りで終わった。これまでの自分は死んだ」と、自分自身の回心を宣言した。そして、その場からポポカラベク山麓の祥龍寺禅堂に飛びこみ、高田慧穣師の導きを受けることとなった。彼の心の転換、純粋な人間性への復帰、ということを、これほど現実に、ソレムニティに見ることは稀なことである。そこに、仏教でいう無常感があり、懺悔があり、「醜悪な人間自体に驚き、泣く」セブルベタ氏を見ることができる。このような純粋で、真実な求道者が、真正面から自己と対決し、万里の海を渡って、宗信和尚のふところへ飛び込むことに、深い意義がある。

 先着のメキシコ雲水の一人オラシオ・サリーナ氏は、陸軍士官学校に学び、一転して喜劇俳優になり、映画やテレビを初め劇場にも出演していたが、

「メキシコの古い文化は、本来東洋的なものである。それを探求するためにも、日本の禅仏教が最も良い。宗信和尚は、わたしの願いを導いて下さると信ずる」

というている。碧眼雲水の、純粋な道心、人生に対する果敢な回心というものに、日本の仏教者は、どう反応するのか。

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18)行雲流水


 宗信和尚が「仏道は歩くことである。釈尊も歴代の祖師も、宗祖も碧層軒も歩かれた。自分も、自分の弟子たちも、歩かねばならぬ」というている。

 和尚の托鉢三十年、それは歩く仏作仏行である。「一鉢千家の飯」の精神を相続した弟子菅応峰師が、かって埼玉県野火止の平林寺僧堂に掛錫する時、神戸から六百キロの道を、托鉢行脚しながら、白水老師の膝下へ向かった。弟分の宗哲、朝光、信一、無一、宗好も皆歩いて行った。

「江海に遊び、山川を渉り、師を訪うて、参禅をなす」

と、永嘉大師は唱道歌に吟じておられる。

応峰和尚は、行脚の試練に四国八十八カ所を巡拝して、足慣らししたが、平林寺への道は、木曾の山又山を踏み越え、天竜川の上流らしき渓谷も渡り、眼前に散る奥山桜の風情に、ひとしお行脚の面白さを味わったという。「落花流水に随い、流水落花を送る」と、禅者は古人の句を引きたがるが、行脚の体験なくては、応峰師のような感懐は出てこないであろう。

 わらじを履き、袈裟文庫を負うた行雲流水の禅僧が、新幹線のひかり号に乗り、飛行機にでも乗っている風景は、漫画にはなるであろう。それは仏作仏行と縁遠い存在としか感じられないからである。かって、大山澄太郎先生が、主宰の「大耕」誌に、応峰師の行脚を取り上げられ、宗信和尚の親心といえるもの、

「お前は雲水である。汽車に電車に乗ってゆくようでは修行にならぬ。道場まで歩いて修行にゆきなさい」

と書いておられる。まさしくその通りで、仏僧の「歩く」ことの珍しい今の世では、この一事に先生のご注目を得たことは、むしろ慚愧に堪えないことである。

 この度メキシコより、宗信和尚のところに、求道の旅をしたサリーナ氏も、桜の散りそめる四月中頃、小崎和尚雲水と同道して、東海道を托鉢行脚しながら、埼玉の平林寺僧堂へ歩いて行くとのこと。また、この五月に来日するフェルナンド・セブルベタ氏や、空手四段のホフル・ギエル氏も、日本禅を徹底的に究明したいとの念願があり、平林寺への道六百キロを踏破させたいと、宗信和尚は申される。

 慧穣師がサンフランシスコよりニューヨークへの数千キロを歩き、そして、メキシコへの半歳の旅を思えば、東海の島国日本を、東西に歩いたところで大したことでもない。

師弟の呼吸を心も、一つに契った行雲流水の世界、昔曹洞の卍山禅師が、師弟相別れるにあたり、弟子を誡められ、

「海西万里、眉毛を結ぶ」と申された。わしとお前との眉毛は一つに結ばれている。仏法界で淋しいの悲しいのと、泣きごとを言うなとのこと、行雲流水はサラサラとしたものである。

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19)一隅を照らす

宗信和尚が常に言う「わしは寺の留守番を、いつ止めねばならぬかも知れない。袈裟文庫とアジロ笠の用意がある」そして、弟子たちに「お前たちも用心を怠るなよ、寺は私宅じゃない。雲水は一所不在だから十方へ散って行け、無相の世界だ、停滞するな」

かって妙心寺開山無相大師六百年御遠諱に、山田無文老師の記念講演の一節に、

「純粋な人間性の美しさ、」大らかさ、広さを見つめて、そこに自己の安定の場所を求めて行くこと」とあり、そして、

「無相というお名前が、本当にぴったりするような、全く相のない、ただこの人間性の純粋さだけを、ひたすら守り通されたようなお方が、無相大師である」

とある。宗信和尚も、宗祖の無相の精神、たとえば、伊深における「人間の純粋」というものを、まざまざとお示しなされた。それを学修することが、児孫の道とするほかに何もないであろう。

無相大師三百年御遠諱に、愚堂国師が香語せられ、「関山幸に児孫の在る有り」の一句がある。無相大師関山慧玄の児孫は、実に傑出せる法孫によって、法燈続焔を今に見ることができる。筆者もいささかお導きを頂いた今は亡き神月徹宗禅師をはじめ、五葉愚渓、古川大航猊下の如きは、立派な児孫大徳であられた。

現代の仏教界は、学識の高い諸先生方、宗門要職の大徳方も沢山おられる。要はすぐれた人材が宗門を支えているのである。「法は人にあり」は真実だからである。千年の昔、伝教大師が山家学生式(さんげがくしょうしき)で、

「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人いわく、径寸十枚これ国宝にあらず、一隅を照らす、これ即ち国宝なりと」

「一隅を照らす運動」のスローガンを掲げて、今や比叡の峰から嵐のごとく吹きおろされ、天下に伝教祖師の精神を伝えようとしている。その成果を期待して止まない。しかし、この運動は、天台一宗のことであるはずがない。すべての宗門が推進すべきことである。

鎌倉仏教の各宗祖師方が、比叡の峰で学修せられたものは「宝とは道心なり」であり、「一隅を照らす」実践の外に何があろう。鎌倉の祖師方より二百年後に無相大師が世に出られ、一隅を照らす偉大な国宝であったように、その児孫も一隅を照らす者として、「純粋な人間性の美しさ、大らかさ、広さ」の人格を成就し、仏法にからだを張った広宣流布に精進しなくてはならない。

「一隅を照らす者」とは、宗信和尚のいえるごとく、「寺は私宅じゃない」から先ず学びたい。「無相の世界だ。停滞するな」は、三世をつらぬく、大乗仏教の根本、摩訶般若の世界だからである。これを相続する仏教者だけが、一隅を照らす者といえよう。

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20)”乞食“の心

宗信和尚の弟子たちが、六甲ホテルに招待され、経営者の心温まる供養接待を受けた。その夜は豪華な特等の部屋で泊まることとなり、その時の様子を、和尚は次のように語っている。

「弟子の三人はベッドの下で寝たが、他の者はクッションのついたベッドに寝た。なんだか平常と違うので、夜通し寝つかれず閉口した。禅坊主は乞食のような生活なら、どこでも安眠できる。貴族や金持ちのまねは得意ではない。ハッハッハ」

ホテルでは、特別上等の洋食が出た。皆がどうして食べるのか、眼を白黒させ、とりあえず、腹の位置にだけは納めてしまった。

「托鉢に出て、施主の点心をいただき馴れた雲水たちも、王膳(貴族の食事)にあうのは勝手が違う。麦飯に味噌汁と沢庵なら、腹一杯いただきよる。ハッハッハ」

と和尚は笑っていた。

魂の抜けた繁栄の今の世では、猫も杓子も「消費が美徳」の信者で、貴族や金持ちのまねごとが、当たり前になった。「もったいない」などというのは、時代おくれのようになったが、雲水の修行では「乞食」の精神が、仏祖以来の鉄則で、「食事五観の偈」は、永遠に変わる筈はない。だから世間の、物の豊富の悲劇など、寺院生活にあったら、仏教も、いかなる宗教もおしまいだ。

されば「一滴の水も大事にせよ」と弟子を誡めた適水禅師、一杓の水を琵琶湖にかえされた道元禅師、落ちた一枚の紙切れを、押しいただき「仏法領のものを粗末にするでない」と申された蓮如上人等の精神は、いつの世にも、つらぬかれねばならない「宗教のこころ」である。

「坊主は、そんないじましいことをいうているから、時代おくれだ」というなら、お眼にかかって対決したい。「いじましい」とは何か、枯淡で不十分な生活も、してみなくては、「ほんとうのこと」は、言えない筈である。糀の花を咲かしたように、浮きうきした、カッコよいことだけが人生ではない。「山頭火乞食記」に、山頭火が延岡地方を、行乞の旅をしていた時のこと、「この地方の子供は、みんな跣で学校へゆく。(この地方にかぎらず田舎はどこもそうdが)学校にはチャンと足洗い場がある。ハイカラな靴を穿いた子供よりも、なんぼう親しみがあるか知れない」

とあり、そして、「跣足の子供らが、お辞儀をしてくれた」と記している。こういう素朴でさわやかな頬笑ましい風景は、過密人口の都会には見られない。自然にそむかず、みずからを処して悔いのない山頭火を、白い眼で見送る者こそ、頭の燃えた、人間不在の亡者であろう。山頭火の句に「麦の穂の青き真実」とあるが、そういう真実の分るのは、なまやさしいことじゃない。

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21> 馬 鹿

大山澄太先生と種田山頭火との交情は、先生の数々の著書に、温かい血の通うものが感じられる。先生ご自身の禅的な仏行、天衣無縫の風格というものが、山頭火と変らぬ境涯に思われてならない。その著「人生百話」に、「馬鹿」の題があり、風格の一端がしのばれる。

 「浄土寺の門前を通りかかると、二人の小さい子が、楽しそうに遊んでいるので、私は口をあけ、にこにこ笑って、五、六歩歩くと、『あのおいさん馬鹿だろうか 』といった。私はまたにこにこ笑って振り返った。すると今度は、女の子の方が、『やあい、お馬鹿さんよう』といった。子供は正直で、よく知っているなと、一人でうなずいたことであった」

とある。これで思い出すのは、昭和十三年の水害に流失した筆者の寺、宝積寺が梅の谷の高台にあったころ、寺の隣が谷崎潤一郎さんの家で、その下の坂道に、点々と藁葺きの農家があった。谷崎さんが、中国風の豪奢な邸宅を建て女性問題で兎や角の浮き名や、批判のきびしさにも平然として、「蓼食う虫」を出版せられる前後のことである。「宿無し興道」のあだ名さえある澤木興道老師が、この坂道を登って、毎年春秋二季に、宝積寺の禅会へおこしなされた。谷崎さんの妹須賀子さんも、老師と坐禅を共にし、提唱を聞かれた。

ある時、筆者が老師のお伴をして、坂道の農家の前を通りかかると、小さな子供数人が遊んでいた。子供好きの老師は、グッと口をつぐみ、独特の顔いっぱいの笑みをたたえ、おどけた愛想をお示しになった。すると、一人の子供が、「あのぼんさんあほうか」と言うた。それにつれて、他の子供も口をそろえ、「あほうのぼんさんよい」と言うた。大山先生のお話と似ているから面白い。

桃水さんも、良寛さんも、「やあい、お馬鹿さんよおい」といわれなさったのだろうし、宗信和尚も「乞食坊主のあほう」とそしられるのが常である。大山先生が「子供は正直でよく知っているな」と申され、腹を立てる大人は負けである。「よく知っているな」と感心するだけでよい。小学三年生の詩に、

「パチンコしているおじさん

 豆たべてる

 実をすてて皮たべてる

 あほみたいだ」

とある。所詮人間とは、滑稽な生きものである。「あほ」につける薬はない生き物であろう。それ故に、桃水も良寛も、山頭火も宗信も「あわれな乞食」に見えもする。碧層軒が「なあ宗信、馬鹿になる稽古をせよ」と申されたように、宗信和尚は「子供らが、乞食坊さんの馬鹿と笑ってくれるから、っても、楽しい、托鉢に元気が出る」という。こんな人間に、「つける薬」などありようもない。腹の立つあいてでないからだろう。

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22> 書かざる経

 宗信和尚が手塩にかけた子供の一人が、寺の営繕金三十万円を持ち逃げして、使いはたし、大阪の悪の巷を彷徨中に、罪を犯して、曽根崎警察署に、留置せられたことがある。署長からの連絡で和尚は飛んで行った。

 その少年の前に立った時、少年は顔を伏せて、むせぶように泣き、「恩知らずです」と、声にもならぬ声で詫びた。和尚は少年の肩を抱いて涙を流し、「わしのふところに戻ってくるのだ、罪のつぐないは、ほかでは出来ん」と、祥龍寺へ連れて帰った。和尚の身元保証が認められたからである。

 少年を寺につれもどったのは良かったが、ほかの弟子や子供たちが、渋い顔で、口をそろえて言う、「和尚さんは甘すぎる。このような悪い奴は、また何を仕出かすかわからん」と。和尚曰く、「お前たちが、悪い奴だから見捨てようというなら、なおさらわしのふところに、入れてやらにゃならん。お前たちは、良い悪いの分別を、真実にいえるなら、皆出て行くもよい」

 父であり、母である。和尚のふところは、広くして深く、温かい。「衣の袖ゆかにもかい抱きつつ」という、宗弘容先生の子安地蔵頌歌を、この生きた地蔵さんにみる思いがする。だから「皆出て行くもよい」という和尚の真意が、段々わかるようになり、「罪を背負う弱い人間」が、一歩あやまれば、世間の闇は深い。だからこそ子供達は、和尚のふところを大事に思うようになる。和尚が「他を責めず、自分を責める」涙の熱さ、その涙こそ人を救う。

 良寛さんのふる里に、放蕩息子の甥があった。良寛はこの甥に意見をするつもりで帰られた。しかし、意見もせずに家を出ようとする時、その甥が、良寛さんの草履の紐をむすんで呉れた。それを見ていた良寛さんが、熱い涙をポトポト流され、甥の手に落ちた。この無言の意見に、甥の胸は裂け、深く懺悔して、まじめな人間になったという佳話がある。言葉より涙の力である。真の仏者なら、口で説けないものを身で説く。一滴の涙の説法が人を救う。それが「如是経」の本命であろう。「書かざる経」の功徳に違いない。ある日口を開いた和尚の説法がある。信者との対談の一節、

 「この子の行儀が悪うおまんね、といってワッと泣いたら、また泣く、とピシャリとたたく親もある。そんな子を生んだ自分を忘れとる。たたいて良くなるという迷信ほどコワイものはない」

 邪険な心は、イライラ病だから、身勝手なことをいい、暴力までふるう。それは迷信に違いない。そんな迷信から救われるには、仏法を聞いて、親子地蔵さまを拝むがよい。

 宗信和尚が、弟子の犯罪をひとおとも責めず、涙を流して、しっかりと抱かれる。真実の愛というものに違いない。地蔵菩薩を信じる者の、心一杯にあふれ出る涙は真実だからである。

子供らが唄っている、お地蔵さんの歌を、じっくり聞こうではないか。

村のはずれの お地蔵さんは

いつもニコニコ 見てござる

仲よしこよしの じゃんけんぽん

はい石けり縄とび かくれんぼ

元気に遊べと 見てござる それ見てござる

                                               目次へ戻る 

23> 竹と詩人

 宗信和尚が「竹に陽があたっている。その清々しさに感歎する」というている。詩人でも歌人でも俳人でもない、和尚のおのずからの言葉として、見事である。

 五十、六十の男盛りで、少しはフォイルの着きかけた一寺の和尚が、息子に嫁を持たせて隠棲し、お茶だ俳句だ、囲碁だ楽焼だ、と無為徒食しているのがある。宗信和尚は、

 「祥龍寺の家風には、休養はない、死んでも休養はない。世捨て人や仙人のまねごとをする者は一人もおらん。勿体ない話じゃが、無相大師以来、それが宗門の家風じゃ」

 

 詩を吟じ、琴を弾じ、清談にふける仙客という、ひま人が唐宗の時代に沢山いた。彼等は風流を誇り、「白眼にして世上の人を見る」思いあがり者たちで、いわゆる「修竹茂林」の清遊が、何より生き甲斐であった。そして、彼等の多くは観念的な虚無思想家たちで、仏法など分かる連中じゃない。葛敏修という人の詩「竹軒」に、

「わが庵には、ろくでなしの俗物などよせつけんぞ、風流を知らんやからどもは、清楚な竹のことなど分かるまい。わしは、頬杖をついて有声(竹の声)に耳を澄ませながら、山上の雲の去来を眺めているのだ」

 ということを吟じている。こういう人々は、風流という名を借り、松の実や筍でも喰い、水を飲んで仙人のまねごとをするのを誇りにしている。しかし、人間が仙人のまねをしたところで、所詮、しがない人間的奇行にすぎない。

「白眼にして世上の人を見る」という愚者になりようもない仏法者に、霞を吸う仙人のまねごとに、魅力があるならおかしい。「詩作るより、子育てが一大事」という宗信和尚、その無風流ぶりが、むしろ風流を身につけているようだ。翡翠のように青い一竿の竹に、陽のあたっている清々しさに、しばし感歎をもらす和尚、それはたくまざる詩境である。托鉢に出る朝のひと時、破顔微笑する人間宗信の、さわやかな法悦と言えよう。

 

 宗信和尚が、弟子や学生たちに、「おまえたちは、若くて元気だが、未来のある身体を大事にせよ。時には牛肉も魚も喰べよ」というている。なかなかいえん言葉である。大詩人蘇東坡が、「肉なければ、人をして瘠せしむ、竹なければ、人をして俗ならしむ」というた。達人の言葉はさすがに立派だ。竹林の七賢人であろうと、修竹茂林の詩仙たちであろうと、曲水の宴でも催し、詩酒を競い、たらふく肉を喰うて、清談にうつつをぬかしていたとすれば、まことに結構な人々ということになる。蘇東坡はうまいことを言うたなと思う。

 さはさりながら、宗信和尚も山頭火のように、日々行乞の句を吐き散らす、俳禅者であった方がよいようにも思う。行乞の俳禅者、子育て地蔵の俳人宗信さんでも悪くはない。だとすれば大山澄太先生はお目こぼしなく、筆者よりも、とうの昔に、「宗信和尚二十話も百話も」お書きなされたであろう。

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24> 尼僧と男僧

先に宗信和尚と恵聞尼のことを書いたが、「尼僧と男僧」のひとこまの物語として、もう少し具体的に内幕を書き添えよう。

「尼の身故に、大法を汚し、迷惑をかけたことを懺悔する」の遺言をのこして死んだ恵聞尼は、貧しい宝珠庵の住持として、その護持に努めていた。それなのに、保存講の破綻から、庵は廃滅し、刑事問題ともなった。そのため悲嘆の身を大阪の勝田家に引きとられ、黒髪をのばして、嶮しい世路を十年も歩いてきた。これは愚渓禅師が、平野祥福寺に在住中のことである。

愚渓禅師が、昭和二年に六甲の祥龍寺を復興せられてから後に、山内に宝珠閣を建立になった。それだけではない。往時から祥龍寺の山号「興国山」を改めて「宝珠山」とした。このようなことを断行せられた理由は、恵聞尼の宝珠庵廃滅を、禅師自身の責任に帰する、それを償いたいということだといわれている。そして、この宝珠閣に、不憫な恵聞尼を大阪より呼び戻して住まわせた。禅師の大慈悲心からであろうが、尼自身の生涯には、宗内外のきびしい批判の巻き起こることとなったのは、人間世界の難しさである。

恵聞尼が黒髪を再び剃り落とし、懺悔と奉仕の生活に徹していたなら、という世評もうなずけよう。有髪の尼でも仕方ないが、教養の低い尼の胸に、いつしか浅間しい望みが湧いた。尼が大阪在住中に生んだ(という)男の子「恵正」を、宝珠閣にひきとり、やがて龍谷大学を卒業するまでに成人した。

尼はこの恵正を盲愛していた。愚渓禅師の直弟子たる宗信の小僧時代で、彼は恵正の通学十数年の間、尼の命に従って、毎朝靴を磨いたり、叱られたりで、下僕同様にこき使われていた。しかし、恵正は大学卒業後病魔に侵され、不帰の人となった。尼の夢は恵正を祥龍寺の後継者にしたいということであった。尼の執念は強く、大阪の勝田一族より、「宗潤」という者を連れて来たり、花園大学を卒業させたが、当人は「坊主にならん」と出てしまった。尼も三界に流転する人間の悲しさ、恩愛の情断ちがたい無明の凡夫にすぎない。人間すべて不憫な生きものだから、尼のおろかさを笑う資格があるだろうか。是非を言う人、これ是非の人である。

靴を磨いた小僧宗信が、やがて祥龍寺の法席を継ぎ、終戦直後からの聖業が大きく実を結ぶ頃、恵聞尼は、走馬灯のように過ぎた、おのが人生の不如意に眼を開き、深い懺悔の涙を流しながら、夢の生涯を閉じた。宗信和尚が親のごとく仕え、手厚い看病をせられ、末期の水を与えられた仏心には、一点の曇りもない。「男僧」とは、こういうものでありたい。

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25> いのちの花開く

あるとき宗信和尚が「花が微笑している」と言われた。最近和尚の弟子たちが、謝恩と還暦の祝賀会を催したので、筆者の呈した詩の一句に「微笑破顔能く人を潤す」がある。亀井勝一郎先生が、

「微笑ほど美しいものはない。微笑はどこまでも自然でなければならない。本人が全く自覚しないとき、ふと顔に浮かぶのが微笑で、つまり無心のあらわれである。無心の最上のすがたが即ち仏である」(豊頬と微笑)

 と仏像の批評をお書きになっている。しかし、仏像は微笑だけではない。泣き仏や泣き菩薩のあるのが仏像である。それをじっと拝んでいると、泣き顔の奥底から、パッと大慈大悲の微笑が浮かび出てくる。

宗信和尚に感謝の花束を贈った孫達を見て、和尚の頬は涙でいっぱいであった。和尚の泣き顔を見たのは初めてだが、和尚の真面目に触れた。無心の微笑は、無心の泣き顔と一如(ひとつ)だからである。そうでなくては「人を潤す」という力は現れない。無心に泣くも笑うも分別以前のものである。それは一文不知の原点であろう。和尚が無心にニコッと笑うと、弟子達、子供達、信者達も一家の春になる。道元禅師は「一華開いて世界春なり」と申された。無心の世界に吸いこまれたら、皆が疑惑のない笑いの春である。一輪の花開く時、尽十方界の春である。毎田周一先生の「正法眼蔵新抄」では、「正法眼蔵空華」の冒頭に、道元の「一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり」を解説して「一華の道理とは唯一真実法である。それが貫徹するところ、吾れ本(もと)この土に来るや、法を伝えて迷情を救わんがためなりということに帰結する」とある。

 現実に一人の人間も「花ひらく」救いのない、高い教学や宗学の無力さを、しみじみ反省しない宗門や僧侶には、まことに痛い言葉と思う。正法眼蔵随聞記に、

 「学道の人は、後日をまって行道せんと思うことなかれ、ただ今日今時を過さずして、日々時々に励むべきなり」

 と道元は弟子達に、仏法の実践の大事を誡されたというのである。現実の「いのちの世界」を、切実に凝視し、立ち上がれという他にない。紀野一義先生に「いのちの世界」の高書がある。法華経の精要を「いのちの世界」の一語で提起せられた。信解品に面して、「仏のいのちを、今生きているのだということを、しみじみと思わせられるような、出合いをすることが大切である」と申される。薬草喩品においても、「仏のいのちそのものにふれることがないと、いくら如来の教えを聞き、記憶し、修行したいとしても、自分自身がなんであるかを、知ることはできない」と、胸倉を突いたお言葉である。宗信和尚が、弟子達の謝恩会で挨拶なさった言葉に、

 「五濁の世の中に、皆さんは蓮の華となって咲く、二世三世を立派に育て上げる願心を大事にしましょう。それは仏の子のいのちを、大事に思う心にほかにありません」

 と申された。そのことは法華経の眼目、妙法蓮華経の開花結実する、いのちの世界である。釈尊出世の本懐とはこの他にない。

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26> 薊の花

トルストイの晩年作「ハヂ・ムラート」は、コウカサスの勇士の叙事詩小説の中で、薊(あさみ)の驚異的な生活力が描かれている。あざみの花は美しいが「自分の生命を守るために、なんという用心堅固な武装をしていることよ」と感歎している。あざみを「韃靼草」ともいうとある。韃靼人の生活力の強さ、闘う力の強さというように解される。

 ハヂ・ムラートは、人間に従順な、さまざまな花を摘んで、大きな花束を作り、我家に帰る途中、ふと溝の中に真紅の花を咲かせた薊をみつけた、この美しい花、逞しい花に心惹かれ、摘み取りたいと思った。しかし、花の茎は一面の針を立て、とても手のつけようがない。それを無理矢理に摘み取ってはみたが、「茎はすっかりボロボロになり、花は見つけたときと違って、清鮮な美しさはない」と嘆息している。

 薊のように手のつけ難い人間は、世間に幾人もいる。その中で、親のない不幸な子供を養う公認の某所を、かって筆者が訪ねたことがある。六十人ばかりいるということだが、経営者夫妻の人格に、頭の下がる思いがしなかった。対面最初の言葉は「金のかかる割合に、こんな事業は、物心両面の犠牲ばかり多い」といい、「特に荊棘か薊のような、性質の悪い子供にはお手上げですわ」と変な表現をした。そして、「政府の助成金くらいでやれますか。だから、有志の助力を頼み募金に馬力をかけんと、こっちも暮らせません。経営を上手にやらんと、糸賀さんのように、死んでから方々に迷惑かけんならん」と無遠慮に言った。こういう人こそ手のつけられん薊族だなと、筆者はすぐに引き下がった。

 宗信和尚のところに、今春の春までいた神戸大学の学生があった。播州に両親もあるが、和尚のふところが、彼の心のふるさとであった。この学生が、播州に春の花が咲く頃、両親のところへ一時帰った。ところが交通事故のため、儚い一生を閉じた。不運な若人である。母親から直ぐ和尚に電話があり、涙声でいう。

 「息子は交通事故で死にました。息を引きとるまで“和尚さん和尚さん”と、うつつにいうていました。さぞ残念であったのでしょう。今息を引きとったばかりですが、せめて和尚さんの声を、電話で聞かせてやって下さい」

 と、後は涙声で分からない。和尚は早速「わしより先に、なぜ死んだ・・・・」と叫ばれた。

すると、実に不思議、死せる学生の眼から、タラタラと涙が流れた。母親は「和尚さん和尚さん、息子の眼から涙が出ています。息子は仏になれます。こんな不思議はありません。和尚さんの枕経です。ありがとうございます」と。葬式には和尚の朗々たる引導香語が、播州の空に響き、野も山も花盛りであった。

 霊感とか、感応道交をいうと、「カリスマは、禅の本領じゃない」という禅者もあろう。さりながら、お手元の「一華開五葉」の一句で、一人半人の弟子や信徒の心に、花を開く自信があってのことか、否か。

 宗信和尚のふところは、なぜ深く温かいのか、算術を知らぬ無財の布施一行だからである。野の薊の花は無心だが、人間の邪心は手のつけようがない。                
                                      (おわり)


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