<寄稿集> 戸田千之氏の寄稿ページ

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5)
チベット、インドの旅から

戸田千之 (広島経済大学名誉教授)
                                            (2008.02.21)

はじめに

 老いるにつれ、残された時間がいかにも少ないように思われ始める。その思いは急激に高まり、残された旅先への思いも、一段と強くなってきた。

職場を離れたことを機会に、5月はチベット、10月はウズベキスタン、12月はインドへと、足を伸ばした。このうち、チベットとインドへの旅は、いやおうなく仏教について考えるものになった。これを報告したい。

1.チベットへ

 当初、この旅行のねらいは、チベット仏教などにはなかった。ねらいは、青蔵鉄道の特急列車に乗り、一昼夜をかけて、果てもないチベット高原を、心ゆくまで眺めることだった。もちろん、ポタラ宮も見たかったが、それはあくまでも世界遺産の一つとして眼にしたかっただけのことだ。

もともとチベット仏教には胡乱(うろん)なものを感じていた。男女合体の尊像(いわゆる歓喜天)、活仏転生制度など、これらがいかにもいかがわしく思われてならなかった。

1−1.チベットの空から

関空から北京へ飛び、北京から西寧へ飛んだ。西寧から、いよいよあの青蔵鉄道の特急列車に乗る。特急列車の出発時間は21時過ぎだ。それまでの時間つぶしに、西寧市にある青海省博物館を、見学することになった。

もちろん、そこには、通常イメージの仏像や菩薩像も展示されている。だが、それよりも男女合体の歓喜仏や髑髏をまとった憤怒尊のほうが、はるかに多い。それらが、金銅像やタンカ(布絵)のかたちで、展示されている。

 足を大きく開き、その足を絡めて前から抱きつく裸の女尊(明妃)、これを結跏趺坐する菩薩が抱きかかえ、交合しながら女尊の背中で印を結ぶ歓喜仏(歓喜天)がある。歓喜仏のなかには菩薩が舌を出し、女尊の舌と絡めるものもある。

髑髏や人間の生首を数珠のようにつなぎ、それを自らの頭、胸、腰などにまとって突っ立つ多面多臂の憤怒尊、それらは怒りで目を見開き、多数の手で刀や矛などの武器を握り、足で人間などを踏みにじっている。

さらには憤怒尊が裸の女尊をかき抱く歓喜仏までがある。どうやら怒りに燃えつつ交合の喜びを示しているらしい。

 これらの奇妙な展示物を観ているうちに、いつしか「高僧の死後、その肉体から遊離した霊魂が、他人の肉体を借りて再びこの世に生まれてくる」という、例のチベット仏教に固有の『活仏転生』制度までもが思い出され、よけいにうんざりしてきた。

 しかしながら、荒涼とした砂漠と雪をいただく山脈の続くなかを、一昼夜もかけて延々列車で走り抜け、ラサの街で、チベット仏教を信奉する大衆のエネルギーを、目の当たりにすると、チベット仏教に対する自分の先入観が、大きくぐらついてきた。

ラサ市内のジョカン寺、それを囲む八角街、ノルブリンカ(ダライ・ラマの離宮)、これらを、まるで潮でも流れるように、数え切れないほどの大衆が歩いている。延々と尺取虫のように、五体投地を繰り返す群衆がいる。ジョカン寺はもちろん、夏の離宮ノルブリンカでさえ、足の踏み場もないほど信者と観光客でごった返している。その恐ろしい人ごみのなかで、五体投地を繰り返す人々がいる。

これらを実際に目の前で見るのは、はじめてのことだった。TVなどで見かけた印象と実際に見るそれとの違いは、あまりに大きい。

かれらのまとうトルコ石や山珊瑚の青や赤の色、その日焼けして輝く赤銅色の肌、バター茶の匂いのまじったかれらの体臭、バター灯明の煌きと脂ぎった匂い、もうもうと立ちこめる香煙の匂い、マニ車のまわる音とかれらの読呪する低い声、五体投地で手や足が大地をこする音、それらが直接にわたしの五感に迫ってくる。

 わずかの人のものではない。無数の大衆のものだ。その大衆のほとんどが在家信者のように見える。修行僧らしきも者は、ほんのわずかしかいない。老若男女の在家信者が発する色や匂いや音が、すべて塊になって押し寄せてくる。

 さらにまた、ポタラ宮西門辺りでは、この集団行動の一部は、マニ車を回し、大麦を炒ったツァンパを撒きながら、大きな岩石に体を擦りつけ、懸命に祈っている。どうやら患部を擦りつけ、その平癒を祈っているらしい。日本人の多くが、日本の寺社で見せるような照れ笑いなど、かれらの表情にはまったく見えない。真剣そのものの行動だ。

数年前、モンゴルのガンダン寺を訪れたときには、あまりにも観光客が多く、在家信者らしき人の数は少なかった。西寧の青海省博物館にもわれわれ観光客ばかりがいた。そこで見たチベット仏教は、在家信者の熱気からほど遠く、いわば見世物として展示されているものにすぎなかった。

だが、ここラサにあるのは、在家信者の熱気に支えられたチベット仏教だった。大衆の心をつかんでいるチベット仏教だった。

1−2.チベット社会の苦悩

 あの熱気に酔わされたわたしは、帰国後、チベット仏教の概説書を、かなり数多く買い込み、これを片っ端から読んでみた。だが、読めば読むほどわからなくなる。あれほど圧倒されたチベット仏教が、なぜあれだけの迫力を備えているのか、それがさっぱりわからない。

 もちろん「仏教は書物を読むだけではわかるはずがない。修行を通じて学ぶべきだ」という指摘もあろう。だが、現実問題として、わたしがチベットで修行できるはずがないし、また、その気にもまったくなれない。

 あれこれ頭を悩ませているうちに、ふと気づくことがあった。それはチベット社会の苦悩から考え直すことだった。

チベットの一般大衆が抱えている苦悩、その苦悩からの救済を、チベットの一般大衆は仏教に期待しているはずだ。自分たちの苦しみを、なんらかのかたちで救済してくれないような宗教に、一般大衆が帰依するはずがない。チベット仏教を理解するためには、その教義からアプローチするだけでは足らないかもしれない。それよりも、チベット社会に固有の苦悩から迫るほうが、はるかに手っ取り早いのかもしれない––––このように考えたのだった。

考え方を変えて調べ始めると、あの違和感に満ちたチベット仏教が、にわかに共感あるものに思われ始めた。

これを紹介しておこう。

周知のとおり、中国がチベットを武力制圧して以来、すでに半世紀がすぎた。現在もなおその制圧が続き、やむことがない。チベット族はますます圧迫されている。

かつてチベットが独立していたころ、現在のチベット自治区、青海省、さらには四川省のカム地方まで、チベット族が住み着き、ほとんど漢族の姿はなかった。しかしながら、1949年の中国人民軍の駐留以降、これらの地域に漢族の移住が進み、いまではチベット族600万人に対して、漢族は750万人に達しているという。

このような漢族の大量移動のなかで、チベット族への人権侵害が叫ばれて久しい。

米国政府は、2003331日に、米国国務省は、『世界の人権状況の2002年次報告』のなかで、次のような「チベットにおける中国の人権侵害」を指摘した。

その非難は19項目にもわたるが、そのうち、とくに重要と思われるものをリストアップすると、「@裁判官の大半はチベット族であるが、司法に関する教育はほとんど、あるいはまったく受けていない。A政治的権限において、主要な決定を下すのは中国人(漢族)である。B僧院施設が資源を無駄に消尽し、しかもチベット亡命政府から侵入する政治犯の巣窟になっているとみなし、これらの多くを破壊し、厳しく統制している。C罪状を認めない政治犯に、拷問その他の精神的、肉体的虐待を与え続けている。Dダライ・ラマの写真を飾ることも、その生誕際も厳しく禁じられている。E中国政府の開発事業によって著しくチベット族以外の人口が増加した。Fチベット族に対する職業的な差別が著しい。Gチベット大学における教員や学生に占める漢族の比率は、人口比をはるかに上回っている。Hチベット族の子供たちに栄養不良が蔓延している」などが目につく。そして、その報告の最後は、「中国政府の抑圧的な管理によって、チベット族の基本的人権が侵害され、チベット独自の文化、信仰、言語などの資産が損なわれるという危機的状態が生じている」と、締めくくられている。

このような人権侵害もあって、チベット族のかなりの人が、世界銀行などでいう『絶対貧困』レベルの経済生活を送っている。

中国政府の発表によれば、1994年時点で年間の1人当たり純所得(≒年間可処分所得)が『絶対貧困』レベルにあった人々が、22%も存在したという。これは中国政府の公式発表だから、いささか割り引いて考えるなら、おそらく34割もいたのではあるまいか。もちろん、その後のチベット経済は成長しているので、絶対貧困層はかなり減少していると中国政府は報じているが、いまだに、かなりの数のチベット族が貧困にあえいでいることは間違いないところだろう。(ちなみに、国連や世界銀行の『絶対貧困』は、「米国ドルへの換算で、1人当たり11ドル以下の生活、つまり1人当たり年間365ドル以下の生活」であると定義されるので、先進国のホームレスの人々は、絶対貧困状態にまでは陥っていないことになる。)

中国政府にも言い分があろう。だが、この米国が指摘する人権侵害、あるいは上記のチベット族の経済的苦境は、当たらずとも遠からずの事実であろう。その民族的な苦しみを解決するには、どのような方法があるだろうか。

一つには、チベット族が経済力を蓄え、政治的発言権を強大にし、それらの経済的、政治的な力を背景に、民主的に、あるいは武力を用いて、苦悩を解決する道である達成することだろう。だが、いうまでもなく、それらは現在の中国政権のもと、弱体化したチベット族には、まったく不可能なことである。

残された道はなにか。それは、チベット族固有の精神的基盤に頼ることだ。これをもって心の武装を図り、耐え難い貧困や圧政に耐えながら、いつの日か、ダライ・ラマ政権が、チベット高原に復権することを、執拗に夢見ることだろう。そのチベット族固有の精神的基盤になるもの、これこそがチベット仏教であり、その中心であるダライ・ラマその人ではないだろうか。

もちろん、チベット族は、上記のような社会の矛盾だけで苦しんでいるわけではない。当然ながら、個人的な苦悩も数多くかかえてことだろう。しかし、治療費が支払えないから治らない病気のように、個人的苦悩はしばしば社会的苦悩と重なり合う。

したがって、チベット族の苦悩には、平和な日本では想像できないような社会苦が、大きく、深く色を落としているのではではないか。

少なくともわたしには、この社会苦の重さが、チベット仏教のあの迫力になっているように、思われてならない。

1−3.チベット仏教の概要

 個人的な苦悩だけでなく社会的なそれまでもかかえるチベットの民衆、かれらはチベット仏教のなにに、どのような救済を求めているのか。

これについては、いくつかの概説書やインターネット記事などから推定すると、どうやら次のようなものらしい。

T.在家者の宗教行為は、そのほとんどが、苦悩除去と福徳招来を目的にしている。

U.その苦悩除去と福徳招来のためには、身を慎み、読経、五体投地などの宗教行為で善業を積み上げなくてはならない。

V.その積善の行為が仏に通じるとき、仏の偉大な力(神通力)によって、まず自分や家族の過去世の悪業の報いが帳消しにされ、さらには、現世の苦悩除去と福徳招来が実現され、もし、それが現世ではかなわないような場合でも、それらは来世でかならず実現される。

W.積善の行為においては、自分の懸命な積善が、親しい者へも振り向けられ(回向され)、親しい人々の苦悩除去や福徳招来にも、かならず役立つ。したがって、身を慎み、読経、五体投地などの宗教行為をおこなうことは、立派な利他行になる(注1)(2)(3)

 チベットの一般的な仏教信者は、上記T〜Wのような功徳を求めるらしい。僧侶から深遠な仏教哲学を聞かされるよりも、ありがたい経文を読誦してもらったり、霊験あらたかな加持祈祷をしてもらったりするほうを好むようである。(この点は、まったく日本の仏教信者一般と変わるところがない。)

 ちなみに、チベットでは、いまも昔も、僧侶になる最初の修行は、一般民衆の求める法要をおこなえるように、理論よりも読経や儀礼の仕方を覚えることにウェイトが置かれるという。

すなわち、地方僧院における僧侶になるための最初の修行は、まず般若心経、薬師経など、明文化された仏教(顕教)のうち最も一般的な経文をよく暗記し、そのうえで、諸種の作法や護摩の焚き方など、代表的な密教呪術マニュアルを練習によって会得することだとされる。

そして、この最初の修行さえ完了すれば、僧侶は、信者のために法要を営み、その信者から布施を受け取ることができることになるという。

上記の修行システムのなかに、一般信徒の求めているもの、また、それにチベット仏教が応えようとしているもの、それらがかなり明確に見えてくる。

おそらく大多数の一般信者は、僧侶によって、ときおり読経してもらい密教儀礼を施してさえもらえれば、あとはみずからの宗教的行為、つまり読経、マニ車の手回し、五体投地などによって、みずからの仏道を懸命に歩むのだろう。

 このように考えるとき、あの該博で難解至極なチベット仏教(4)も、一般大衆にとっては、おそらく一種の『権威づけ』にすぎないだろう。読経や祈祷の仏教、それがけっして基礎のあやふやなものではなく、理解できないほどに深遠な哲理で、しっかりと支えられている、このように思うだけで、一般信者は満足できるのだろう。

(注1) ツルティム・ケサン、正木晃共著:『チベット仏教』、ちくま新書、2000年、110111頁。

(2) また(D・スネルグローヴ、H・リチャードソン著、奥山直司訳:『チベット文化史』、春秋社、1998年、346頁。

(3) 電通総研・日本リサーチセンター編『神の存在・死後の世界に対する見方(2000年世界55カ国比較)』によれば、来世の存在を信じる人は、それを信じない人よりも、圧倒的に多いようだ。もっとも、チベットが中国に含められているためか、この調査データには、チベット族のものも中国人のものも、残念なことに、調査対象外になっている。

(注4)もちろん、伝統のあるチベット仏教は、民衆レベルにとどまるものではない。

地方僧院のレベルを超えると、一気に出家者向けの本格的な仏教に変わってくる。それは出家者のみを対象にし、一般民衆とはほとんど無縁のものだ。この本格的な修行は、地方の一般僧院ではなく、ラサなどの大僧院でおこなわれることになる。

この大僧院における本格的な修行では、経・律・論の三蔵(いわゆる顕教のすべて)を広範に学ぶようだ。この修行の最後には、合格率が10%前後という厳しい試験が待ち受けており、その試験に合格して、ようやく顕教におけるゲシェという博士号相当の称号を得ることになる。(通常、この段階で30代後半から40代前半の年齢に達するという。)

この試験に不合格であったものは、さらに研修を深めて再試験に挑戦するか、あるいはこれを諦めて地方僧院などの役僧に就くことになる。いっぽう、試験に合格し、顕教ゲシェの資格を得た者だけが、密教の修行を許されることになる。

10倍もの難関を突破し、顕教ゲシェの資格を得たかれらは、大僧院に附属の密教の専門道場に籍を移し、ここで種々の密教修法や密教経典を学ぶことになる。

この密教修行のなかで、まず日本密教などでもおこなわれる生起(しょうき)次第(しだい)という瞑想法を学び、そのあとで、ようやく日本密教には用いられない究境(くきょう)次第(しだい)という瞑想法を学ぶという。

なお、巷間よく噂されるチベット仏教の性的ヨーガは、この究境次第の瞑想法のなかで、ときおり用いられるものらしい。有名なチベット仏教随一の名僧、ツォンカパ(13371419)が出現するまでは、実際に密教寺院に捧げられた下層階級の女性をパートナーにして性的行為を行い、それを修行と称したこともあったらしい。しかし、このツォンカパによって、生身の女性を用いる性的ヨーガは、仏教上の破戒行為として完全に禁止され、観想上でのみ、つまり空想上の女性との間でのみ、これが許されることになったという。

1−4.チベット仏教への共感

 第二次世界大戦のころ、わたしは小学校の低学年だった。

 高松の三越でも、屋上から「鬼畜米英」とか「七生報国」などと大書された大きな布が架けられ、あるときなどは、その催事会場で、血書されたこの手の文字が、多数展示されたことすらあった。敗色濃厚になると、近くの神社などでは、激しく「神風」の到来を祈る姿が見えるようになった。

 祖母は、毎朝、仏壇のまえで、出征した叔父たちの武運長久を懸命に祈り、ときにはいわゆる『お百度参り』もした。

大怪我をして一度は臨死状態に陥り、それ以降、いつも「あの世もこの世も、いっさい、なんにもなかったよ」と話していた祖母だったが、このときだけは、真剣に神仏のご加護を祈っていた。また、レイテ島で叔父が戦死したとわかったあとは、来世でかれと再会することを切望していた。

わたしが祖母自身の言葉を引用し、「あの世はないのじゃあないのかなあ」というと、祖母は、きまって「それとこれとは違うのよ」と答えたものだった。

平和な時代には、異様なものとして退けるが、あの苦難の時代には、「苦しいときの神頼み」は当然のことだった。苦しみから逃れたい願望は、それほどまでに切実だった。

思うに、おそらくチベットのあの無数の老若男女にも、これと同様の思いが渦巻いているのではないか。

民族の誇りを奪われ、絶対貧困に近い貧困で、生存の危機にさいなまれるようなとき、多くの人は、現世の福徳を願い、それがかないそうもないときは、せめて来世の福徳を願うだろう。もし、マニ車を回し、読経し、五体投地することが積善になり、自分や家族への回向になると聴聞するならば、すがりつく思いで、これに励むだろう。

チベットのあの恐ろしい仏像、髑髏を数珠繋ぎにして身に飾る憤怒像、これらは、それを仰ぎ見る民衆にとっては、あるときは、「みずからの心の妄執や欲望を粉砕して善行を重ね、積善の賜物としてこの世とあの世の福徳を得よ」と迫ってくるように思われ、またあるときは、「憐れななんじらに代わり、われこそがその外敵を粉砕せん」と励ましてくれているかのように、思われるのではあるまいか。(たぶん、その外敵の一つに、ときおりは、あの中国政権も加えられるのだろう。)

苦悩にあえぎ、神仏に神通力を求めるようなとき、単に心優しく高徳であるだけのダライ・ラマでは足らない。活仏として来世に転生できるほどの超能力を備えるダライ・ラマ、そのような超人でなくては、けっして救いにはならない。

このように考えると、チベット仏教の呪術性もダライ・ラマの神秘性も、それなりに共感可能な存在に変わっていた。( )

( )部外者が猟奇的に関心をもち、好悪を感じるあの男女合体の尊像、これもよくよく考えれば、一般の民衆にとって、大きな問題にはならない。

一部の人は性器崇拝や男女交接の歓喜仏は、インド起源であると考えているようだ。だが一説によれば、これらはチベット民族の遠祖にあたる古代羌族に固有の信仰であったとされる。(フジタヴァンテ編:『チベット生と死の文化〜曼荼羅の精神世〜』、1994年、東京美術、146頁)われわれ日本人にも、古くは男女双身の道祖神や陰陽石などをあがめる風習があった。

生身の女性を相手にする性行為は、 (13371419)によって厳禁された。しかもチベット僧は、このツォンカパ以降、厳しく妻帯が禁じられ、いまもって僧侶の妻帯はチベットではまったく認められていない。現地ガイドの説明によれば、一般民衆にとっての歓喜仏は、どうやら「夫婦和合」の諭し以上のものではないとのことである。

2.インドへ

 チベット仏教への見方がかなり大きく変わったあと、12月の初め、今度はインドへの旅行に出かけた。

 青蔵鉄道に乗ることが主目的であったチベット旅行とは違って、このインド旅行の目的は、当初からビハール州の仏跡巡りにあった。ただしそれは、遠くブッダ時代を偲びたかっただけのことであり、現在のインドにある仏教に、強い興味のあったわけではない。

コルカタにはベンガル仏教会の本部が、ブッダガヤにはマハーボディー・ソサエティー(大菩提会)の本部があるとは仄聞していたが、とくにそれらに興味があったわけではない。また、アンベードカル(18911956年)が創設したネオ・ブッディズムについても、まったく雑駁な知識しかもち合わせず、特段の関心があったわけでもない。

2−1.インドの空から

今回も関空から出発し、シンガポールを経てコルカタ(カルカッタ)に着いた。コルカタからは汽車とバスを乗り継ぎ、ブッダガヤ(大菩提寺)、グリッドラクータ(霊鷲山)、ヴェヌヴァーナ(竹林精舎)、ガヤーシーサ(象頭山)、セーナー村(スジャータ村)、ナーランダ大学跡、サールナート(鹿野苑)など、主としてビハール州の有名な仏跡を訪れた。

 インド仏教、とくにその原始仏教(初期仏教)、これはわたしの年来の憧れであった。

 仏教書を長年あれこれ読み漁っているうちに、いつしか原始仏教が慕わしく思われるようになったのだ。

魅力の第一は、言葉の平易さにある。

スッタニパータやダンマパダなど、初期仏典の言葉は平易だ。大乗の仏典のように大げさな表現や奇怪な弁証法的論理があまり用いられていない。この平易さが気に入った。

第二に、迷信じみたものが少なく、自然科学的見解とほとんど矛盾なく、理解できることだ。

少なくとも第一結集時代までの原始仏教は、怪力乱神の類を説かない。ジャータカのように、童話的な表現のあるものは、第二結集がまとめられ、その後に仏教が上座部と大衆部に根本分裂したあとの話にすぎない。

第三の魅力は、これが最大の魅力だが、自由裁量の余地の大きいことだった。

たとえば有名な友松圓諦氏や中村元氏など、多くの仏教学の権威は、縁起や四聖諦といった初期仏教の基本教理を文献学的に追究し、それらが厳しく言明できるものでないことを、ずいぶんくわしく論じている。古今東西を通じて無比にも近い碩学ですら明確に断言できないとすれば、だれに遠慮することがあろう。わたしごとき浅学非才の者であろうとも、それなりに自由に考えることも許されるはずではないか。この気楽さこそは、捨てがたい魅力だった。

だが、それほど魅力を感じていた原始仏教も、インドで実際にいくつかの仏跡を巡拝しているうちに、しだいに疑問を覚えるようになってきた。

仏跡巡りの最初はブッダガヤだった。わたしたちが泊まったホテルはあの大塔から1キロメートル程度離れたところにある。早足に歩けば1時間で大塔の回りを散策し、ホテルに帰ってくることもできよう。

だが、ホテルのフロントからドアガラス越しに外を見ると、たくさんの物売りの人々が外で待ち受けている。ドアから顔を出すとみやげ物らしきものを手にして「買ってくれ」、「買ってくれ」と激しくせがまれる。必ずしも危険ではないとは思ったものの、「これを振り切って進むのはたいへんだろう」と思った。

やむなくわたしはホテルの屋上に出て、樹林の上に浮かぶ大塔をカメラに収める。そして、下を見やると、そこはホテルの裏側にあるゴミ捨て場であり、そこに数頭の牛や野犬と一緒に、10歳から5歳くらいまでの子供が、10人近くたむろしている。なかには身障者の子供もいる。かれらはゴミを懸命に漁っていた。

これに似た光景は、霊鷲山にもあった。山頂までは、いわゆる『ビンビサーラ王の道』が続くが、その道の傍らにはやはり物乞いをする子供や身障者が数多く見られた。サールナートやナーランダの仏跡入り口でも同じことだった。

これはショックだった。なるほど、書物やTVなどを通じて、乞食の多いことは知っている。だが、それを実際に眼にすると、その衝撃はじつに大きい。

かれらが少数であれば、手持ちの金品から少しは与えることもできただろう。だが、相手はたいへんな数なのだ。与えればきりのないことになる。やむなく無視して、かれらの群のなかを、無慈悲に歩くことになる。能面のように無表情な顔をし、かれらのなかを突っ切って、やっとの思いで、門と柵で囲まれた仏跡に逃げ込むことになる。

周知のように、いま、インドはBRICsの一員として、急成長している。だが、仏跡の多く存在するビハール州の下層階級の人々は、この成長に乗り遅れており、ますます貧富の差が大きくなるだろう。

このような人を前にして、しかも、かれらを柵の外に隔てて見ているわたしは、いったいなんだろう。

わたし自身の無力さ、偽善性、そのようなわたしが、漠然と親しみを感じてきた原始仏教、それがかれらのなにに役立つというのだろう。かれらに「諸行無常」、「一切皆苦」、「諸法無我」などをどのように説明すればいいのか。「色即是空、空即是色」などを説いたからといって、それがいったいなんの救いになるだろう。そのような彼らに「黙って坐れ」などといって、坐禅を勧めることができるものだろうか。

わたしばかりではない。五体投地を繰り返すチベットの僧・俗、坐禅を組んでいる韓国やタイなどの僧・俗、読経するシンガポールやスリランカや日本の僧・俗、これらは、いったいなんだろう。5月のチベットで、再評価したチベット仏教を含め、柵のなかに保護・隔離されたこれらの人々の仏教が、そのままインドのこの悲惨な民衆の救いになるとは、けっして思われなかった。

 このような疑問に陥っているとき、強く思い出したことは例のアンベードカル博士の唱えた仏教だった。日本人の佐々井秀嶺師が信奉し、現在も命がけで布教しているあの『ネオ・ブッディズム』である。

 アンベードカル著の『ブッダとダンマ』については、何年かまえ、だれかに薦められて購入していた。しかし、そのカースト打破という一点に焦点を絞り込んだ論調には、いささか辟易するものを感じ、読書途中で投げ出していた。そのあやふやな記憶がよみがえってきたのだった。

 ブッダが教えを説いたこのビハール州で、悲惨な人々を眼にしたとき、あのアンベードカルが、なぜ広範な仏教教義のなかから、『差別否定』という一点を、とくに重視したのか、また、その実現のために、なぜあれほど激しく立ち向かったのか、カースト制度そのものはむしろ尊重しようとしたガンジーに、なぜアンベードカルがあれほど激しく対立したのか、これらの疑問が心を駆け巡った。そして、帰国後にこれらをくわしく再考しなくてはならないと、思ったのだった。

2−2.インド社会の苦悩

 インドから帰ってきて、チベット仏教の場合と同じように、インドの社会苦からあれこれと資料を漁り、その後にネオ・ブッディズムについて調べ始めた。

まだまだ多くの疑問点が残るが、それを中間報告しておこう。

 周知のように、現在のインドでは、法律では禁じられているものの、実生活では、カースト制度(ヴァルナ制度)が根強く残っている。

このカースト制度は、無数の世襲的な職種が、相互不可侵の原則のもとに、浄・不浄の感覚で序列化された集合体である。そのようなカースト制度は、ヒンズー教の聖典である『マヌ法典』(紀元12世紀ごろに成立)によって、厳しく権威づけられているようだ。

そこでは、「このカースト制度を社会秩序として守って生きることこそが、ヒンズー教徒として、最高の正しい生き方である」とされ、同時に「前世において、その正しい社会秩序を守らなかった人間の霊魂は、その報いとして、現世における不浄の、つまり下層の階層の人間に転生する」とされる。さらにまた、「もし来世により清浄な上層のカースト(ヴァルナ)への転生を願うのであれば、前世の誤った業への罪滅ぼしとして、従順に現世の不浄な仕事を遂行し、いかなる差別にも耐えなくてはならない」とされる。

下層民、とくにアウトカーストとされる人びと、つまり総人口の25%、約2億5千万人もの人々に許される職業は、主として死体や糞尿などの汚物処理であり、そのうちの女性は、いまもって、デーヴァダシー(ヒンズー寺院へ捧げられた踊り子)として、上層階級の男性相手に売春を強要されることもある。

また、数多くの法律があるにもかかわらず、これらアウトカーストの人びとへの犯罪は、ほとんど処罰されない。アウトカーストへの残虐行為は、1998年の7445件から2002年には33507件へと跳ね上がったが、そのほとんどが無罪になり、有罪にはならない。

ある人権団体の2005年の報告によれば、アウトカーストにおいては、1時間に2人が暴行を受け、毎日3人の女性が強姦され、毎日2人が殺され、毎日2軒の家が焼き討ちにあっている計算になるという。

事実、わたしをコルカタのカーリー寺院に案内してくれた現地ガイドは、声をひそめて「破壊と殺戮の女神であるカーリー神への犠牲は、通常はヤギなどを用いることが多いのですが、いまもって人身御供が最もカーリー神を喜ばせる行為であると信じられており、最近でもそのための殺人が起きているのです」と、話してくれたのだった。

21世紀初頭の国連報告によれば、「世界人口60億人のうち、10億人が絶対貧困層の人々であり、このうちの25%、つまり25千万人がインドに集中しているという。ちなみに、インドのアウトカースト層の人々は約25千万人だから、国連で報告されたインドの絶対貧困層の人口と、かなり大きく重なっているはずだ。(なるほどインドは、BRICsの一員であり、高度成長を遂げつつある。しかしながら、それは猛烈な不均等発展の結果だ。貧富の差はますます激しくなりつつある。)

日本を含め、どの国にも不当な差別がある。しかし、その差別の正当性を、宗教によって、これほど頑強に主張するのは、おそらくインドがその最たるものであろう。またその差別の残酷さ、激しさ、その頻度、さらにそれを受ける人口比率の大きさなど、そのいずれにおいても、インドは群を抜いているだろう。

2−3.ネオ・ブッディズムの概要

 この悲惨な下層階級の人々にも、しだいに権利意識が目覚めている。その権利意識に目覚めた人々の行動には、大きく二つのものがある。

 その一つが、政治活動だ。もう一つがネオ・ブッディズムなども含む宗教活動だ。

まず、政治活動の動きを見ておこう。

チベットなどとは事情がまったく違い、英国支配時代の長かったインドでは、一時は社会主義的経済体制をとっていたにもかかわらず、極端な民主国家になっている。そして、「世界最大の民主国家」という異名までもつにいたっている。

たとえば、議会へ議員を送り込んでいる政党だけでも、1415はある。大きいものにはヒンズー至上主義に近いインド人民党と国民会議派があるが、現在のところ、そのいずれもが過半数からは程遠い。したがって、与党となるためには、小政党との連合や連立が不可欠になる。最近では、大政党のインド人民党、国民会議派、そのいずれもが与党の一角をも占め得ない状態にある。その結果、ジャナタ・ダル、左派共産党、右派共産党、タミル・マーニラ会議、ドラビダ進歩同盟、社会党など、なんと13党が統一戦線を組み、ようやく与党を担当したことさえもあるほどだ。

この点では、インドは、チベットとはまったく事情が異なっている。政治活動の活発なインドでは、カースト制度などの苦悩解決にも、チベットなどとは大きく違って、政治運動が盛んに用いられることになる。

たとえば、アウトカーストの人々には大衆社会党を支持する人が多く、その大衆社会党の党首は、アウトカースト出身の女性でネオ・ブッディストでもあるマヤワティ氏である。そのマヤワティ氏は、インド最大の人口1億66百万を抱えるウッタルプラデシュ州において、20075月には、同州の州首相に4度目の就任を果たした。とくに今回は、大衆社会党が州議会の過半数を占め、マヤワティ氏の発言力は甚大なものになっている。

また、ネール以来の輝かしい伝統を持つ国民会議派は、長らくウッタルプラデシュ州やビハール州で最大の勢力をもっていたが、いまやアウトカーストが推す大衆社会党に圧倒され、第一党などではあり得なくなった。

以上、簡単にアウトカーストの政治活動を概観した。次いで、かれらの宗教活動に触れておこう。

インドのインドたるゆえんは、カースト制度への攻撃を、単に政治活動によるだけでなく、宗教活動も盛んに援用しながら、これを実行していることだ。ネオ・ブッディズムの創設者、アンベードカルがそうであったように、多くのインド人は、簡単には無宗教者にはなれない。(無宗教者を標榜する人々は、総人口のわずか0.1%弱である。)

アウトカーストの政治活動には、権利意識の目覚めが必要になる。その権利意識の目覚めには、カースト制度を支えているヒンズーイズム(ヒンズー教)による呪縛から解放されなくてはならない。

いっぽう、宗教と無縁であり得ないインドでは、ヒンズー教を否定した人々は、それに代替すべき新たな宗教を求めることになる。無宗教者になるわけにはいかない。

ヒンズー教(2001年時点の宗教人口比率は80.5)に代替すべき宗教としては、イスラム教(13.4)、キリスト教(2.3)、シーク教(1.9)、仏教(0.8)、ジャイナ教(同0.4%)、その他ゾロアスター教など(0.6)がある。(すでに述べたように、インドの無宗教者は、わずか0.1%弱にとどまる。)

これらの宗教のなかで、アウトカーストの人々がより選択しやすいものはなにか。

不幸なことに、英国統治の始まった時代(19世紀初頭)以来の伝統をもつキリスト教には、すでにカースト制度の差別が濃厚にもち込まれてしまった。キリスト教徒のうちのアウトカーストは、キリスト教のなかにあっても差別を受け、依然として悲惨なままだといわれている。

いっぽう、シーク教徒の多くは軍人、警察官、裁判官などになっており、かれらは社会的には高位のアウトカーストになっているという。ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒の多くは特段の富裕層になっている。それゆえ、それらの教徒は、まずまずの高さのカースト(たとえば有名なタタ財閥は、ゾロアスター教徒としても有名)に所属しており、最下層のシュードラやアウトカーストの人びとをほとんど受け容れていないようだ。

このように、キリスト教、シーク教、ジャイナ教、ゾロアスター教は、ヒンズー教に対抗しながらも、カースト制度だけは、良くも悪くも受け容れたかたちになっている。その結果、差別に苦しむシュードラやアウトカーストの人びとの向かうべき宗教は、イスラム教と仏教に絞られてくる。

このうち、「アッラーの前の平等」を説くイスラム教には、もともとヒンズー教のシュードラやアウトカーストの人びとが、数多く改宗していた。しかし、インドとパキスタンが分離した際に、有力者の多くがパキスタンに移住してしまった結果、インドに残ったイスラム教徒は、一挙に劣勢に立たされ、とくに北インドでは、アウトカースト以下の扱いになってしまっているといわれる。

残された宗教は、仏教だけだ。幸か不幸か、仏教は1112世紀以降ほとんどインドから消え去り、それが再生したのは、ようやく19世紀末になってのことだった。

当初は上座部仏教(テーラヴァーダ仏教)の影響の強い仏教がよみがえってきた。コルカタに本部を置くベンガル仏教会、ブッダガヤに本部を置くマハーボディー・ソサエティー(大菩提会)などの仏教が、それである。

 これらの伝統的な上座部仏教は、インドの知識階級や上流階級の一部に浸透し、さらに仏跡の復興などを通じて、南方仏教や北方仏教と国際的につながるという点では、大きな功績を残している。だが、インドの一般大衆への浸透という点では、けっして効果をあげていない。それが証拠に、現在のインドに8百万人もいるといわれる仏教徒のうち、これら伝統的な上座部仏教の仏教徒は、わずか15万人程度しかいない。

インドの仏教徒の圧倒的多数は、いわゆるネオ・ブッディズムを信奉するネオ・ブッディストたちだ。そのネオ・ブッディズムは、カースト制度やヒンズー教の影響が少ないだけでなく、再生した上座部仏教とは大きく異なり、ヒンズー教やカースト制度を積極的に糾弾、弾劾する方策を用いている。

この作戦が功を奏し、その後の指導者(そのなかにはいまもインドで活躍中の日本人の佐々井秀嶺師も含まれる)の熱心な布教活動もあって、インド総人口の0.8%8百万人の仏教徒のほとんど全数を、ネオ・ブッディストで埋め尽くすまでになった。

さらに、この統計上に現れる仏教徒のほかに、いわば『隠れネオ・ブッディスト』ともいうべき人々を生み出し、これらの人々まで含めると、ネオ・ブッディストの総数は、一説には1億人に達しているという。(現在のインドでは、アウトカーストやシュードラに属する人には法的保護による若干の経済的権益が保障されており、ネオ・ブッディズムへの改宗によってそれらの権益を失うことを恐れる人々が、この隠れネオ・ブッディストになっているようだ。)

すでに述べたように、インドは長らく英国の統治を受けていたこともあって、「世界最大の民主国家」と称される側面も併せもっている。この手の国では、隠れネオ・ブッディストの投票行動が、政治に及ぼす影響は、けっして小さくはない。

もっとも、社会の下層部に布教の対象を絞り込んだネオ・ブッディズムの戦闘的な戦略は、それなりの効果をあげ得たが、いっぽうではこれに災いされて、「ネオ・ブッディズムは、不浄な人びとの宗教である」と貶められる傾向も出ている。

そのためもあって、最近のネオ・ブッディストたちは、あらゆる宗教に属するアウトカーストの人々が横断的に連帯する『ダリット連帯プログラム』(ダリットとは、破滅させられた人を意味し、アウトカーストの人々を指す言葉)にも加わり、超宗教的な差別撤廃運動を展開している。また、このダリット連帯プログラムによって、アウトカーストの人々のための入学枠、公務員枠、議員枠など、いわゆる留保枠の確保に向け、政治圧力をかけている。

まさに、ネオ・ブッディズムは、きわめて政治的な動きも伴うたくましい仏教なのである。したがって、チベット仏教などとは大きく異なり、この政治的な仏教では、読経や宗教儀礼などのウェイトはかなり小さいようである。

たとえば、ネオ・ブッディストたちが、さながらバイブルのように愛読するアンベードカル(注1)の『ブッダとそのダンマ』は、まことに平易な言葉で書かれている。それは読経すべき対象ではなく、読んで議論し、議論して理論武装を強化するための手段という性格が強い。

アンベードカルが、ブッダの口を借りて、平易な言葉で説いたことは、次のようなことだった。

T.社会的な平等の権利は、アウトカーストももつ。それは生得の権利だ。(ブッダは社会的不平等の是正のために生まれ、そのために死んだ。これがブッダの一生だ。)

U.カースト・ヒンズーの温情にすがらず、科学的な教育を受け科学的な視野を広げ、自由・独立の自尊心と高い倫理を勝ち取れ。(これこそがダンマの精神である。)

V.志を同じくする仲間と強い連帯を保ち、社会改革に取り組め。(これこそがサンギャの精神である。)

2−4.ネオ・ブッディズムへの共感

 もし、インド社会の苦悩を実感しないまま、アンベードカルの前述の主張を読めば、だれしもいささか奇異の念に駆られるだろう。共産主義者などの主張に近いものを感じ、古い仏典のどれとも異なるトーンを感じ、さらにひどく理屈っぽいものを感じるからだ。

 だが、アンベードカルの主張は、共産主義者のそれとは大きく異なる。かれは、労働者階級のなかにも抜き差しならない差別意識があり、共産主義を奉じる労働者の多くが、アウトカーストの差別問題に冷淡であることも知悉していた。それゆえかれは、共産主義者を「政治目的のために労働者を利用する輩」と非難し、かれらとは一線を画していた。

 また、大日如来などの新たなブッダを多数創出し、これをゴータマ・ブッダよりも高く位置づけた大乗仏教経典に比べれば、アンベードカルの主張は、よほどおとなしいものと考えるべきだろう。

 さらにまた、その理屈っぽさも、それが宗教活動の指導だけでなく、政治活動のそれも兼ねていると考えれば、ある程度は納得できるものではないだろうか。

アンベードカルに始まるネオ・ブッディストたちは、わたしが仏跡で見た憐れな子供や身障者を見て、不当な差別に苦しむ自分の苦悩を読み取り、かれらとともに戦うことを決意するのだろう。単に上からなにかを恵むという態度ではなく、理論的なネオ・ブッディズムをもってかれらを教育し、かれら自身の目でこの世界を把握し、みずからの足で立ち上がることを期待しているにちがいない。

もちろん、彼らを叱咤激励するだけでは問題は片づかない。だからこそ、ネオ・ブッディストたちは、アウトカーストたちの票を確保し、アウトカーストの人々に関して、その入学枠、公務員枠、議員枠など、いわゆる留保制度などを、政治的な圧力で勝ち取らなくてはならない。

まさにネオ・ブッディズムは、宗教活動でもあり政治活動でもあるのだ。

思うにわたしは、ずいぶん恵まれて生きてきた。手酷い差別などに泣かされたことがない。社会悪ともいうべきものに、苦しめられた経験がない。他人を犠牲にして多くの安楽を享受してきたが、その逆の経験、つまり他人の安楽のために、自分が犠牲にされるようなことは、ほとんど知らないまま、ぬくぬくと生きてきた。

この脳天気な苦労知らずのせいで、アンベードカルの主張の激しさに、知らず知らずのあいだに、強い違和感を覚えていたにちがいない。

このように反省すると、やっとネオ・ブッディズムの戦闘性に共感を覚え、ネオ・ブッディズムそのものにも、敬愛の気持が生まれたのだった。

( )アンベードカル(ビームラーオ・ラムジー・アンベードカル、18911956年)は、仏教再生の時代、つまり19世紀の末に、アウトカーストの家庭に生まれた。

かれは類まれな秀才であり、その秀才ゆえに開明的な藩王に見込まれ、アウトカーストでありながら、きわめて例外的に高度な教育を受けることができた。そして、その猛烈な努力によって経済学関連の論文で、米国のコロンビア大学と英国のロンドン大学で博士の学位を取得し、その後にイギリスで弁護士資格も取得した。

帰国後も、かれはアウトカース出身を理由に不当に差別され続けたが、それに屈せず、差別撤廃運動などを精力的に指導し、ついには英領インドの時代には労働大臣を務め、独立インド時代には、初代首相ジャワルラール・ネルー(18891964)内閣の法務大臣にまでも昇りつめた。

その後は、独立インドにおける憲法制定を目的に、1947年には憲法起草委員会の委員長として不眠不休の努力を続け、1949年にようやく憲法制定にまでこぎつけている。(そのとき制定された現在のインド国旗は、かれの主張に従って、法輪と4頭の獅子を飾るアショーカ王柱と法輪のデザインになっている。)

アンベードカルは、かなり若いころから、この不当な差別の根源はヒンズー教にあると考えており、1935年には、早くもヒンズー教を捨てると宣言した。だが、その後、22年の長きにわたって、みずからの新しい立場を宣言していない。長らく仏教への傾斜を示しつつも、決して仏教徒になるとは宣言していないのだ。

かれの問題意識は、カースト制度の否定とそれを支えるヒンズー教の否定にあった。これらの否定に最も役立つ思想的立場を、マルキシズムをも含め、数々の思想のなかから、根気よく、かつ慎重に選択していたようである。

そのうえで、仏教における差別廃止、神格性否定、科学的合理性などを高く評価し、1956年になって、ようやく仏教徒になることを宣言した。(ちなみに、かれがヒンズー教の棄教を宣言して以来、すでに22年がすぎていた。)

かれの仏教研究は、いわゆる訓詁学的、文献学的研究ではない。それは下層階級解放を目指す政治的な意図を含む研究であった。そのため、かれの最後の著作『ブッダとそのダンマ』(山際素男訳、光文社新書)にあるブッダの教説には、アンベードカル固有の解釈も数多くあり、これもその後のアンベードカル批判の根拠にされている。

アンベードカルは、1956年の10月に仏教への改宗を、かれの出身であるマハール(アウトカーストの一つ)の人々30万人と、仏教への集団改宗をおこなったあと、その年の12月に、『ブッダとカール・マルクス』の原稿を校正しながら、まるで燃え尽きるように急逝する。享年65歳であった。

3.日本の空の下で

 チベットで見たもの、インドで見たもの、それらの余震は、いまも続いている。あれこれと妄想が尽きない。

 その妄想のいくつかを記し、この駄文を終わらせたい。

 妄想の一つ、それは、日本にも社会的苦悩はあるが、チベットやインドほど無惨なものが少なく、これをつくづくありがたいと思うことだ。

 なるほど日本にも、沖縄県などのように外国の軍隊の駐留に悩む地域がある。あるいは被差別部落の問題も根強く残っている。学校や職場でいじめが起き、うつ病の発症率も異様に高い。また、それらの悩みが、チベットやインドのように、全域を覆うものにはなっていないため、苦しむ者同士の連帯が成り立ちにくく、これが孤立感を生み出すという新たな悩みも生じている。

しかし、これらをもって、日本の社会的苦悩が、チベットやインドのそれよりも大きいとは、だれも考えないだろう。

これは、実にありがたいことだ。

 妄想の二つ目、それは、社会的苦悩、個人的な苦悩を問わず、それらに対する数多くの救済手段が、日本では用意されており、これをつくづくありがたいと思うことだ。

 なるほど年金制度や医療制度などが揺らぎ始め、社会保障全体に不安が生じている。だが、いかにその不備を嘆く人でも、それらが、チベットやインドのそれよりも手薄いとは、だれも考えないだろう。

このありがたさを、いま、わたしは痛感している。

 妄想の三つ目、それは、『葬式仏教』だの『観光仏教』だのと、気楽に非難できることを、つくづく贅沢なことだと、思うことだ。

もし、チベットやインドのように、日本社会全体を強烈な苦悩の暗雲が覆い尽くし、しかもそれへの救済手段が宗教以外に用意できないとすれば、どうなるだろうか。そのときの日本仏教は、チベットやインドのそれらと同様に、きわめて迫力のあるものに変わってくるだろう。

わたしはかなりの仏教ファンであり、今回の旅でチベットやインドの仏教に、強い共感を覚えるようになったが、そうかといって、この手の仏教が熱望されるように不幸な社会は、けっしてうれしくない。

日本社会はずいぶん恵まれている。恵まれているからこそ、われわれは仏教に大きく救済を求めることがない。やむなく日本仏教は、『葬式仏教』や『観光仏教』として存続せざるを得ないのだろう。

その実情をうすうすは知りながら、気楽にこれらを批判し、しかもだれからも、その僭越さを咎められず、仏罰も受けない。

これは実に贅沢なことだと、これまたわたしは、感謝している。

わたしの妄想も、どうやら嫌味な毒を含んできたようだ。

このあたりで、筆を()きたい
                                           以上

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4)死生(ししょう)妄想(もうそう)

                             戸田千之(広島経済大学名誉教授)
                                           (2007.08.01)

1.(えん)なき衆生(しゅじょう)

数カ月まえ、チベットに遊んだ。

さすがにチベットはすばらしい。帰国後あれこれ調べているうちに、チベットにますます惹かれ、現地撮影された映画やドキュメンタリーものなども熱心に観るようになる。

とくに、映画『チベットの女(イシの生涯)』は感動的であった。その最後に出てくる高僧サムチュの言葉には、とくに感動した。

死んだ夫ギャツォに懸命に尽くし、しかも報われることの少なかった農奴出身のイシに、かのじょの初恋の人でもあったサムチュ大僧正が優しく諭す、「あなたはこれまで数々の善行をお積みになったから、かならず来世は、仏様から多くの幸福をいただくことができます。また、あなたのいまの黄金のような美声は、来世にもかならず仏様からいただくにちがいありません」と。

なんという心温まる言葉であろう。なんと慈悲に満ちた教えであろう。これを聴いているうちに、かつてわが子を亡くしながら、「でも、いずれは天国であの子に会うことができると思うと、わたしはそれほど悲しくはないのです」と述べた親しいクリスチャンのことを思い出す。さらには死にゆく人を慰めるキューブラー・ロス(19262004)の「死は次の生に生まれ変わるための脱皮なのです」という言葉までもが思い出された。

この映画を観て、「もし、わたしも、この人々のように、神仏の存在を確信し、死後にも続く霊魂の世界を信じることができれば、さぞかし心豊かに生きることもできるのだろう」と思うこと、しきりであった。

しかしながら、いくらこのような死生観をうらやましく思うとも、残念ながらわたしには、この信念が自分のものにはならない。

いささか偏狭なようだが、わたし自身は「有形の神仏の存在や死後の霊魂の存在を信じる」ことが、どうしてもできない。それらの存在を信じえる人をうらやましくは思っても、かれらと同じ信仰をいだくことができない。「(えん)なき衆生(しゅじょう)()(がた)し」とは、まさにこのことなのだろう。

2.統計的な事実

それにしても、わたしのような『縁なき衆生』の数はどれほどのものなのだろうか。

ひまにまかせてインターネットであれこれ調べるうちに、『神の存在・死後の世界に対する見方(世界55カ国比較)』という記事にでくわした。

これは、電通総研と日本リサーチセンターが編集したデータブックから転載された記事であり、その注記によれば、各国の18歳以上男女1,000サンプル程度の回収を基本とした意識調査の結果だという。サンプル数も少なく、設問方法もよくわからないので、この結果を過度に信用することはできないが、大略の傾向くらいのことは、これでも読み取れるだろう。

この調査結果によると、国によってかなり大きな意識の違いのあることがわかる。

総じて『神の存在』を信じる人は圧倒的に多い。90%以上の人が神の存在を信じている国が、エジプト(100)を筆頭にヨルダン、ナイジェリア、インドネシア、アイルランド、インド、米国など、55か国中の24カ国にもなる。さらに50%以上の人がその存在を信じている国は51カ国にもなり、50%以下の人しかそれを信じていない国はわずかに4カ国、スウェーデン(47)、エストニア(40)、日本(35)、チェコ(34)、ベトナム(18)にすぎない。

いっぽう、『死後の世界の存在』となると、『神の存在』に比べ、それを信じる人はかなり少なくなる。たとえば、50%を中間値とすると、50%以下の人しかその存在を信じないという国が、55か国中の25カ国にもなっているのだ。

日本人の回答結果となると、神については、「存在する」が35.0%、「存在しない」が31.6%、「わからない」が33.4%となっており、死後の世界については、「存在する」が31.6%、「存在しない」が30.5%、「わからない」が37.9%となっている。

日本は、ベトナムやチェコと並んで、神の存在を信じない人の多い国らしいが、死後の世界の存在については、デンマーク、ドイツ、フランスなどと大差がなく、それほど世界的に目だっているわけでもないらしい。また、日本の際立った傾向は、神や死後の世界の存在について、「わからない」とする人の比率が多く、それぞれが特段の世界一になっていることだ。どうやら日本は世界一懐疑論者の多い国らしい。(ちなみに神の存在を「わからない」とする人が10%を超える国は、日本の37.9%をトップに、リトアニア、エストニア、英国、ロシア、スウェーデン、チェコの7カ国にすぎない。)

3.少数派の妄想

前述の調査結果から考えると、縁なき衆生のわたしは、世界的に見ても少数派に属しており、さらに日本国内においても少数派に属しているようだ。

この8月には満の71歳を迎える。このままで推移すると、あっという間に死を迎えてしまうかもしれない。どうやらこのあたりで、自分の死生にかかわる少数派の妄想をまとめておきたいと思いはじめた。

3−1.生態系と情報系への回帰

死生にかかわる妄想の第一は、「自分の死後はもちろん、いまここに生きているうちから、わたしの肉体と精神の作用した結果は、それらが有益なものであるかぎりにおいて、かならずこの地上にある生態系と情報系のなかに、継承され続ける」というものだ。

たとえば、わたしがすでに排出した廃棄物と同様に、わたしの肉体そのものも、いずれは生態系のなかに組み込まれていく。焼却や火葬などよって、二酸化炭素(CO)になるもの、そのまま腐敗するもの、それらはすべて植物の営む炭素同化作用やバクテリアの働きにより、地球上の巨大な食物連鎖、つまり生態系のなかに組み込まれていく。わたしの肉体から生じたものは、それが生態系にとって役立つかぎり、その営みから排除されるはずがない。

いっぽう、わたしの精神活動についても同じようなことが起きる。なるほど精神作用は肉体の死とともに完全に停止するが、わたしが生前に人に伝えた知識や情報は、それが人々の生活に役立つものであるかぎり、かならず人類の情報系のなかで、活用され続けるにちがいない。

たとえば、わたしは両親や先生などから読み書き計算を学んだが、それらの知識を自分の子供や近所の子供に伝えた。それらがかれらにとって有益なものであるかぎり、かならず使われ、またかれらから次の世代に伝えられていくだろう。(ちなみに、大学などで教えた経営学上専門知識などは容易に陳腐化し、今後の情報系からは排除されるだろう。だが、読み書き計算はまったく基礎的なものだから、人類社会が続くかぎり、それが今後の情報系から排除されることはないはずだ。)

わたしの肉体は生態系に、わたしの精神は情報系に、それぞれ雲散霧散していく。そして、それらがそれぞれの系(システム)に有効有益なものであるかぎり、かならず引き継がれていく。(なお、それらの生態系や情報系に無益、あるいは有害な物質や知識・情報などは、それぞれの系からいずれかならず排斥されるはずである。)

その引き継ぎは、わたしの生前の意思や感情とは無関係に、いわば非情的、強行的に営まれる。また、それらは雲散霧散して営まれるがために、どこまでがわたしの肉体や精神の所産であるかは、だれにも判別できない。いわば没個性的、無名的に、それは営まれるにちがいない。

3−2.それなりの安心立命(あんじんりゅうめい)

もちろん死生観の妥当性は、それが「合理的であるかどうか」だけではけっして判断できない。なぜならば、それが「本人の安心につながるかどうか」の問題が残るからだ。

また、この二つの問題を比較すると、後者のほうがはるかに重要であろう。なぜならば、安心立命につながらない死生観など、もともと考えるにも値しないからだ。

したがって、この拙文の冒頭にも述べたごとく、チベット仏教などのように「有形の神仏の存在を信じ、死後の霊魂の存在を信じる」という考えによって安心できるのであれば、その死生観には大きな意味がある。その安心を奪う権利など、だれにもあるはずがない。

ただ、すでに述べたように、縁なき衆生であるわたしには、そのような死生観で安心している人をうらやましく思うものの、それを納得できず、したがってまた、それによっては安心できない状態にある。

 その点、『3−1』の項に述べたわたしの妄想は、いかにも即物的で味も素っ気もないものだが、それであってもなお、少なくともいまのわたしの安心立命には、いささかなりとも役立ってくれている。

そのいささか役立つ理由は、日ごろのわたしの次のような心情に根ざしている。

まず、死後にも霊魂が残るようなことでは、死後にも喜怒哀楽が残ることになるだろう。喜びと楽しみだけがあるのならともかく、怒りや哀しみが残るのはけっしてうれしくはない。あの世から、自分の親しい係累が老病死に襲われるのを、怒りや哀しみの思いでいつまでも眺めているなど、少なくともわたしの日ごろの好みには、まったくあわない。

また、万葉詩人、山上憶良が死の床で詠んだとされる「(おのこ)やも (むな)しかるべき 萬代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立たずして」という歌もよくよく理解できるところではあるが、万代に名が残るはずのないわたしとしては、名前の残らなかった自分を、あの世から口惜しく思い続けるのも、けっしてありがたいことではない。

さらにまた、日ごろ気遣いの足らないわたしは、あの世においても、神仏に心ならずも無礼を働き、いつかかならず罰を与えられるだろう。それを思うと、有形にして意思ある神仏にあの世で待ち受けていただくことなど、あまりうれしくはない。

その点では、すでに述べた「生態系や情報系のなかに雲散霧散してしまう」という考えのほうが、心情的にもよっぽどなじみやすい。どのように悲しいことがあっても、死によっていずれはすべて無縁のものになると思うと、もともと心配性のわたしは妙にほっとするのだ。

事実、十数年もまえ、わたしが舌癌を患い岡山大学歯学部の病棟にいたときにも、この妄想によって少なからず安心していたのだった。

もちろん死は怖かった。だが、それはあくまでも死ぬまでのプロセスが恐ろしく、残された家族の苦労を想像することが怖かったのだ。死んだあとのことが恐ろしかったわけではない。

死んだあとのこととなると、生態系や情報系への雲散霧散した状態しか頭に浮かばず、それを思っては、心慰むものを覚えていた。死ぬまでのプロセスで受ける苦悩も、残された家族の苦労に対する心配も、そのすべてが死後の自分にとっては消え去ると思うと、その一点でのみ、やっと安心できるようだった。

4.照葉樹林のなかで

この雑文をほぼ書き上げたところで、琴平宮(金毘羅宮)に参拝した。

本殿を過ぎ、奥の院に向かう途中で、安東聖空の手になる北原白秋の美しい歌碑を観た。その歌は、慶応義塾大学山岳部のために作詩されたもので、「守れ 権現 夜明けよ 霧よ 山は 命の みそぎ場所」と石に刻まれている。その横長の雄渾な歌碑は、雨上がりの照葉樹林のなかに、ひっそりとたたずんでいた。

死ねば雨にまじりこの照葉樹林のなかにも散っていく。そして無数の生命体の糧になる。もはやそのときには、輪廻転生の世界とやらにつきものの喜びも悲しみも、そのすべてが消えさっている。

わたしのような凡人も、あの天才詩人、北原白秋も、それこそ「倶会一処(くえいっしょ)」になり、巨大な生態系や情報系、つまり生命潮流のなかに存続し続ける。それを思うと、この世の地獄もこの世かぎりのことではないか。けっして死後に続くものではない。そうであるからこそ、この世の苦悩に耐え、「南無(なむ)地獄(じごく)大菩薩(だいぼさつ)」とうそぶく勇気も生まれてくる。

このように妄想すると同時に、ふと古い仏典にあるブッダの「もはや自分は二度と再生しない」という悟りの言葉を思い出していた。

雨上がりの光のなか、椿や楠などの葉が輝いている。

わたしは「縁なき衆生には、これしかないのだ」と、しきりに思っていた。                         

                      以上 2007.08.01


                                                 目次へ戻る
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   森田療法と禅

戸田千之

 今後、3回ほどの連載で、従来からわたしが関心を寄せてきた森田療法と禅の関係について、述べさせていただきたいと思っています。

かなり理屈っぽい記述になりそうなのでそれが恥ずかしく、書こうか書くまいかとさんざん迷っていたのですが、岡田さんからの巧みなお誘いによって、ようやく書き始めたものです。

十分に自分が咀嚼(そしゃく)したものであれば、むずかしい記述になるはずがないのですが、それが不十分なため、われながらいやになるように下手な説明が多く、閉口しています。この連載がおわったあと、数年かけて大幅に書き直し、いつかわたしの孫たちが中学生になったときに読みこなせるような、それこそうんと読みやすいものにしたいと思っています。

 みなさまには、まことに未消化で、目障りなものになるでしょうが、どうかこれをお許しください。遠慮のないご批判、ご叱正をたまわれば幸いです。それらを参考にして、いずれは中学生にもわかってもらえるような、平易なものにいたします。

 今後の連載は、ほぼつぎのようなものを予定しています。

  (第1回) アンダーラインのある表題をクリックして下さい、移動します

1.森田療法への関心

   2.森田療法の概要
       2−1.森田療法開発の経緯
      2−2.森田療法の理論と手法

 (第2回)
        3. 森田療法の考え方 (仏教から眺めた森田療法)


    (第3回)

     4.森田療法から眺めた仏教ないし禅

       3−1.四諦について
         3−2.三法印ないし四法印について
        3−3.禅宗専門僧堂における修行について
        3−4.いくつかの公案について

 (第4回)
     5.森田療法の否定する坐禅

    6.森田療法に取り入れるべき坐禅(ヴィパサーナ禅)

    7.森田療法の現在と今後

2)森田療法と禅(1)

1.森田療法への関心

 若いころから、精神医学や臨床心理学の書物には興味がありました。哲学書や宗教書にくらべ、それらは仮説検証的で、かつ明快であり、わたしが仏教を理解する手立てとして大きくやくだつように思えたからです。

 そのなかで、とくに興味をひかれたのが森田療法にかかわるものでした。
 わたしのばあい、大学院を去るまで長らく禅寺にお世話になりながら、在学時代はまったく禅のなんたるかがわからないままにおわっています。就職後の数年間も禅は不可解な存在のままでしたが、通勤電車のなかの広告で、ふとこの治療法が禅に通じるものの多いことを知りました。それ以来、この森田療法の本をあれこれと読み、ようやく禅や仏教のある側面に強い親しみを感じるようになりました。

まさしくこの療法は仏教、とくに禅に通じるところがあります。同時に、それらの独善的、超論理的な傾向にたいしては、かなり批判的です。この「和して同ぜず」の実証的姿勢が、ともすれば懐疑的になるわたしにとって、ありがたく思われてなりません。

仏教学者や禅僧の手になる書物はあまりに仏教や禅に対して肯定的です。なぜこれだけ多義的で曖昧模糊としたものを無批判に肯定できるのか、それが疑問になってきて、それらを読んでいるとわたしはいらだつものを覚え、「靴を隔てて掻くようなもどかしさ」におちいるのです。

そのようなとき、精神医学や臨床心理学の理論は、とくに森田療法を貫く森田理論は、この隔靴掻痒感を打ち砕くのに、たびたびやくだってくれました。

森田療法–––それは神経症の治療法です。その意味では、特殊な状況の人間だけを問題にするようにも見えます。しかしながら、森田も力説するとおり、神経症的な心理状態は、程度の差こそあれ、生身の人間にはかならずつきまとうものです。重症の神経症は、われわれ平凡人のある種の心理状態を、極端なかたちで体現しているにすぎません。

古くはゴータマ・ブッダ、新しくは親鸞聖人、盤珪禅師、白隠禅師これらの人々も過敏に悩みました。われわれ平凡人の見逃すようなものに苦悩を感じたのです。その苦悩にたいする過敏という点では、重症の神経症患者と通じるところがあるでしょう。したがって、まことに不遜な言い草かもしれませんが、神経症を仮説検証的に追跡することは、これらの偉大な祖師たちの悟りの実態をもかなり明らかにするのではないでしょうか。

この点については、森田自身も大きな自信をもっていたようで、その主著「神経質の本態と療法」には、「精神生活の開眼」という副題がつけられているほどです。

さて、この森田療法から光を当てることによって、仏教、とくに禅という深遠で漠然とした存在が、どのように現代的な様相を示し、生き生きとしたものに見えてきたか–––これについて、前後3回ほどにわたって、わたしの感じるところを述べてみたいと思います。

 

2.森田療法の概要

 森田療法の概要は、つぎのようなものです。(よりくわしくお知りになりたいかたは、白揚社から発刊されている森田療法関連の書物やインターネットの森田療法関連の情報を参考にしてください。)

2−1.森田療法開発の経緯

森田療法は、精神医、森田正馬(まさたけ)博士(1874〜1938年)がほぼ90年も昔、つまり1919(大正8年)ごろに開発した神経症の治療法です。(森田はこの治療法をもって博士号を取得しました。)

この精神療法は、多数の臨床例にもとづき仮説検証的に確立されたものであり、治療開始以降ほぼ1世紀近くたってなお、大学病院や民間病院で採用されています。それは机の上での観念的な思索物や思考遊戯的なものではなく、現場で応用可能な医療手法になっています。

この森田療法では、仏教、とくに禅仏教の言葉が多数引用されています。たとえば禅籍景徳伝燈録の一節「心は萬境(ばんきょう)(したが)って転ず。転ずる(ところ)、実に()(ゆう)なり」や金剛般若経の一節「無所(むしょ)(じゅう)(しん)(住スル所無キ心)」などは、森田療法の根幹部分を示す言葉として、森田によってたびたび引用されています。その点から、森田療法は仏教や禅の応用されたものであると考えられることが多いのです。

しかし、正確なところは森田のいうとおり、西洋医学の視点からその治療法を工夫しているうちに、いつのまにかその工夫が仏教や禅に共通するところの多いものになったというのが、真実のようです。けっして仏教や禅から直接的に生まれたものではありません。㊟1

ちなみに森田自身は円覚寺の釈宗演老師から「父母未生前本来面目」の公案を与えられ、前後3〜4回参禅したが、透関しないままにおわっています。森田は、「自分は禅に関しては門外漢である。たまたま患者に禅の体験者がいたので、その患者の話から自分の治療法にとって便利な言葉を借用したにすぎない」という趣旨のことをたびたび述べており、禅の思想や修行法をそのまま用いたわけではないのです。

森田の治療を受けた当時の患者には、西宮は海清寺のケ州老師(別称、南天棒老師、1839〜1925)に参禅し、百数十の公案を透関した某検事もいました。その患者は「平常(びょうじょう)(しん)()(どう)」の公案を許されながら、臨場恐怖にさいなまれ、どうしても電車に乗ることができない状態におちいっていました。また、名著「出家とその弟子」をあらわし、著名になった倉田百三(1891〜1943年)も、そのご重い強迫神経症をわずらい、平林寺で坐禅などをしたが治癒できないままにおわっていました。かれらも坐禅などでかえって状況を悪化させ、さんざん苦しんだあげく、森田療法によってようやく救われたのです。

当時は、現在とはちがって、参禅する知識層も多く、これらのなかには、自分の苦しむ神経症治療を目的に参禅し、かえってその症状を悪化させた人もかなりいたようです。

このての実用に耐えない()()(ぜん)の患者を治療しているうちに、森田は患者からの耳学問で禅語の多くを知ったようです。同時に、通俗の禅がおちいりやすい危険性と本来の禅がねらう正しい機略のあり方を、しだいに確信するようになったというのです。森田のいうように、「禅と一致するからといっても、禅から出たのではない。神経質の研究から得た多くの心理的原理から、禅語を説明できるようになった」というのは、間違いのない事実のようです。

このような治療法開発のプロセスを経た森田は、仏教学者や禅僧のいうことをけっして妄信しません。それどころか、かえって人を惑わせるだけの大言壮語を吐く野狐禅のたぐいには、懐疑的でシニカルな態度をつらぬいています。かれは自分の治療経験で納得できる範囲でしか、禅をみとめようとはしなかったのです。

しかしながら、別の地点からスタートしたものとはいえ、その到達点では、仏教や禅の健全な部分に共通するところの多いものになりました。また、完成されたこの治療法は、一部の禅宗関係者からの多大の共感もえられて、禅との関係をますます深めることになっています。㊟2、㊟3

2−2.森田療法の理論と手法

つぎに、森田療法の理論と手法を説明しましょう。

 森田正馬によれば、心に不安や苦悩が生じるのはごくごく自然な感情の動きです。その感情の動きは、自然発動のままに放置すれば、いつかは山形の曲線をなし、のぼったものは自然におりて、ついには消え去ってしまいます。

さて、このような苦悩の根底には、精神内における感覚と注意の相互作用、つまり森田の名づけた「精神交互作用」があります。

たとえば、だれしも視野のなかに自分の鼻の先が見えているのですが、もしそれが見えていることにわずかな不快感を覚え、この不快感から人為的に逃避しようとすれば、注意はこのわずかな不快感にかえって固着するようになります。注意が固着すると、まるで拡大鏡でまじまじと眺めるように、ますますその不快感が大きく感じられるようになります。

この不快感の発生→不快感逃避への努力→その努力効果の確認→逃避不能な不快感の確認→いっそう高まる不快感の発生→その不快感逃避へのいっそうの努力–––––この手の繰り返しのなかから注意固着と不快感増大の交互作用が始まります。そして、患者はこの精神交互作用によって自分の心に向って過度に内向し、ついには自己のなかに深く閉じ込められてしまいます。われわれ人間の苦悩を激しくする原因がここにあります。

つまり、心の力で心を制御しようとすると、森田の言葉によれば、「一波をもって一波を消さんと欲すれば、千波万波こもごも起る」、ないし「血で血を洗う」がごとき惨状におちいることになります。この自縄自縛の状態を、森田は禅の繋驢橛(けろけつ)(ロバを繋ぐ杭、転じてとらわれて動きのとれないこと)という言葉で表現します。

森田によれば、尖端恐怖症、高所恐怖症、視線恐怖症、対人恐怖症など、数多くの神経症は、この精神交互作用によって引き起こされるというのです。

では、この精神交互作用という悪循環を、森田療法はどのような方法で断ち切ろうとするのでしょうか。

その基本的な考えは、「心を心で制御しようとする患者の内向きの努力を自然に放棄させ、変転やまない環境の力によって、患者の努力を無理なく外向きのものへと変化させる」ことにあります。

すなわち、「不快感は不快感のまま」、「苦悩は苦悩のまま」、自分の気分を放置して、目前の仕事にとりかかることができるようになれば、その仕事を通じて患者のおかれた外的状況がおのずから変化し、その外的状況の変化に従って、患者の内向きの苦悩も自然に外向きに変化していくでしょう。まさに感覚も感情も、すべては外的状況の変化に従って転変するはずです。(「心は萬境に随って転ず」になり、自然に「無所(むしょ)(じゅう)(しん)」が実現するというわけです。)

しかしながら、現在の不快感や苦悩をそのままにして、目前の仕事にとりかかることは、患者はもちろん健常人にとっても容易なことではありません。いたずらにそれを説得してみても、かえって患者を混乱させるだけになります。

そのもともと困難なことを、森田療法では、どのような方策で患者に実行させようとするのでしょうか。

その方策は、大きく4つの期間にわかれます。

その第1期間は、患者に注意の固着をよりいっそう高めさせ、不快感の極限へと向かわせる「絶対臥褥(がじょく)期間」です。

この第1期間は通常4日から1週間におよびます。この間、患者は薄暗い部屋にただ一人で寝かせられ、気慰めになるようなことはいっさい許されません。(たとえば他人との会話、読書、坐禅、静座法、呼吸法、念仏、祈りなどもすべて禁止されます。)許されるのは食事、排便、洗面、入浴などに限られます。

 この絶対臥褥期間中に「不快感や苦悩から逃れよう」という内向きの努力が限界に達し、その絶望感のなかで、「不快感や苦悩の存続はやむをえない。これを受け容れる以外に方法はない」という、ある種の諦観が生じてきます。この諦観のあとに「なにかをしてみたい」という健全な退屈感が生じます。

この劇的な変化を、森田は仏教でいう「煩悩(ぼんのう)(そく)菩提(ぼだい)」をもじって「煩悩(ぼんのう)(そく)解脱(げだつ)」と称しました。

 鼻端恐怖症の例で考えれば、絶望の果てにも自分の鼻先は視野にあります。それはけっしてこころよい景色ではありません。だが、その不快感から逃げようとする気力が失せてきます。ついで退屈感も高まってきて「なにかをしてみたい」、「なんらかの行動をしてみたい」という外向きの気持が高まってくるのです。

 このような諦観の成立と退屈感の高まりが生じたあと、精神交互作用を破壊する第2の期間に移ります。それは患者の筋肉に負担のない軽作業をおこなわせる「軽作業期間」です。この期間は、患者の様子にもよるが、通常は1〜2週間におよびます。

この期間のねらいは、「気分本位の打破」にあります。

神経症の患者は、気分に振り回されています。気分に左右されて目前の仕事にとりかかることができません。仕事にとりかかれば環境が変わり、環境が変われば心も変わるはずなのですが、気分に振り回され、その仕事に手がつけられません。

絶対臥褥期間を経て、ようやく苦悩への諦観らしきものが芽生え、仕事への意欲が少し高まってきたとしても、患者にはいまだ気分本位の面が色濃く残っているので、ともすればなすべき仕事へのとりかかりが遅れがちになります。いわば水に飛び込む気持にはなって飛び込み台のうえに立ったものの、スタートの号砲が鳴ったあとになってなお、「いま高鳴っている胸の動悸が静まってしまうまで飛び込むのを待とう」と考え、行動開始を一寸伸ばしにしている状態です。せっかくスタート台に立ちながら、「不安は不安のままに水に飛び込む」ことができない状態です。

この気分本位の行動開始パターンを矯正するため、軽作業をおこなうべき時間には、自室内における昼間の休息、口笛、体操、読書その他気分を紛らわせることが、すべて禁止されます。そのうえで、医者の指示に素直に従って、目前の軽作業に少しずつ従事するように指導されるのです。

また、この期間から始まって退院のときまで続くのが「日記指導」です。患者は毎日日記を書き、これを治療者に見てもらって適時指導を受けます。この日記の特徴は、毎日1ページの記事を、自分の実際におこなった仕事ないし行動についてのみ記し、原則として自分の心の動きなどについては書かないことです。気分は気分のまま見捨て、仕事本位、行動本位に生活することが、この日記指導においても強く求められます。

 このようにして、なんとか気分に左右されずに、いやいやながらでも仕事にとりかかることができるようになったあとは、いよいよ第3期間としての筋肉にある程度の負担のかかる「重作業の期間」に移ります。この重作業とは、鋸引き、薪割り、畑仕事、穴掘りなど、いわゆる力仕事を意味しています。この期間も、患者の様子にもよりますが、通常は1〜2週間におよぶようです。

この期間のねらいは、「仕事にたいする価値感情の打破」にあります。

軽作業期間に気分本位の作業開始を打破されたとしても、いまだ患者は作業に従事したあとでの忍耐力や持久力に欠けています。ともすれば「この仕事は自分の対面を傷つける」とか「こんな仕事に意味があるのか」といったたぐいの「価値感情」にさいなまれ、その心理的葛藤から目前の軽作業に容易に疲れてしまうからです。

この軽作業期間中にも残りがちな価値感情を、いささか肉体的にも負担のある作業で打破しようとするのが、この重作業期間です。

この期間に、筋肉負担の大きい重作業をおこなうことによって、患者はしだいに作業中の価値感情にさいなまれなくなります。

こうして作業への忍耐力、持久力が高まったあと、いよいよ最後の「複雑な実際生活期間」へと移ります。これは、治療者側から他律的に指示されている軽作業、重作業を離れ、だれからも指示されない目前の作業に身をゆだねる期間です。いわば退院後の実際生活のための足慣らしの期間にあたります。この期間は、患者の様子にもよりますが、通常は1〜2週間におよぶようです。

この最後の期間になって、ようやく限定的な読書(娯楽、文芸、哲学、宗教などに関する読書を禁じ、実際的、科学的なもののみに限定)と外出(必要な外出に限定)がゆるされます。

(なお、以上は重症患者が入院して治療を受ける場合の説明でしたが、軽症の場合は、通院と日記指導だけで治療を受けるケースも多々あるようです。)

1.この点、1937年(昭和12年)ごろに開発された内観療法とは、かなり成立の経緯において異なっています。この内観療法は、浄土真宗の古い修行法を、敬虔な信者でもあった吉本伊信氏(1916〜1988年)が換骨奪胎して完成したものです。

2.丸山普氏と岩井寛氏(ともに精神医)は、『森田療法と禅』に関する質問紙法による共同調査をおこなっていますが、その結果は、「禅的日本文化と関係あり」と受け取っているものが、禅家グループ、森田療法家グループ、他の精神療法家グループの全体平均で81.6%、「神経質の治癒と禅の開悟に共通性がある」とするものが、同じく全体平均で67.9%であったということです。(高良武久監修、大原健志郎編集『現代の森田療法<理論と実際>』、白揚社、1977年)

このように、禅僧までもふくめ、多くの専門家が仏教、特に禅との関係の深いことをみとめているのです。

 ㊟3.たとえば禅僧でもあった宇佐玄雄は、森田によってみずからの神経症を治療してもらったあと、医学部に進み、林恵鏡老師の支援を受け、京都は東福寺境内の一角に三聖病院という森田療法専門の病院を創設しています。また、鈴木大拙師や森田自身も頻繁にここを訪れ、数多くの禅語を用いて森田療法の真髄を説明し、宇佐玄雄の医療活動を支援しています。(なお、この病院は、現在は宇佐玄雄の子息、宇佐晋一郎医博によって受け継がれ、運営されています。)

                                        (第1回・おわり  2006.07.10)

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3)森田療法と禅(2)

戸田千之

 先回は、森田療法そのものを紹介しました。今回は、『仏教から眺めた森田療法』をまとめておきたいと思います。その作業を終えたあとで、おこがましいことですが、次回は『森田療法から眺めた仏教』という、この小論の結論に向かいたいと考えています。

3. 森田療法の考え方(仏教から眺めた森田療法)

 森田療法のなかにある基本的な考え方を、仏教的な視点から整理してみると、ほぼつぎのようなものになります。

3−1.あくまでも苦悩への対処法であること

森田療法は、多くの精神療法と同じく、苦悩への対処法を説くものです。それは幸福や快適性の増進法を教えるものではありません。この態度は、いっけん片手落ちの議論のようですが、実践的にはきわめて重要なことのように思われます。

世の中には毒矢で射られたように目前の苦しみにあえぐ人が多いのです。それらの人々にとっては、「いかに幸福になるか」、「いかに快適になるか」という問題は、形而上の議論同様にむなしく、それよりも、「いまの苦悩にいかに対処すべきか」のほうが、はるかにたいせつなはずです。

森田療法は、苦悩への対処法を説くものであって、それ以上のものではない––––精神療法、ひいては仏教などを実践的なものとして体得するためには、まずこの事実にしっかりと着目する必要があるように思います。それらを実践的なものとして理解するためには、なによりもまずそれらの目的を鋭く狭く絞り込むことがたいせつだからです。

ちなみに仏教も、とくに古代の原始的な仏教は、この世のなかにはさまざまな快楽があるにもかかわらず、「この世には苦悩が満ち満ちている」という側面だけを聖なる教え(苦聖諦)として説いています。これを「楽の存在を無視する偏ったペシミズムだ」と難じるのは、的外れの議論というものです。

通常われわれはあらゆるものに対処できる万能薬的な教えにひかれがちですが、実際問題として万能薬など存在するはずがありません。なにかを学ぶとき、すくなくとも身近で具体的な問題の解決に役立つものとして、狭く鋭く絞り込んで理解することが、なによりもたいせつでしょう。適用範囲を広げるのは、そのあとのことです。

3−2.苦悩との共存法を説くものであること

 森田療法の説く苦悩への対処法は、苦悩との共存法を説くものであり、それの解消法を説くものではありません。

 われわれの多くは、苦しみにあえぐとき、その苦しみを恐れ嫌い、その早く去ることばかりを求めます。だが、森田療法はその苦しみから逃げ出さず、その苦しみを自らのものとして積極的に受容する方法を説きます。それはわれわれの苦悩を耐えやすくしてくれるものではあっても、けっして消し去ってくれるものではありません。

 森田の『精神交互作用』理論からもわかるように、苦悩は恐れれば恐れるほど、逃げようとすればするほど、ますますはっきりとしたかたちをとって迫ってきます。そうであるからこそ、森田療法では、苦悩は人生につきものであることを説き、その苦悩を拒否することなく、積極的に共存する方法を教えようとするものです。

 しばしば仏教では、三法印ないし四法印の一つである『一切皆苦』や四聖諦の冒頭の『苦諦』を、涅槃(悟り)にいたるまでの凡夫の真理(=俗諦)であるかのような解釈が行われます。しかしながら、森田療法の説くとおり、いかなる聖人であろうとも生きている人間には諸種の複雑な欲求があり、その『生の欲求』の絶えないかぎり、苦悩もまたけっして尽きないことは、いわば自然科学的事実です。(それが証拠に、高弟シャーリープトラの死に際して、ブッダはずいぶん悲しんだと伝えられていますし、また、そのブッダの死には、悟りを開いたはずの阿羅漢たちも大いに泣いたそうではありませんか。)

3−3.逃がれがたい苦悩のみを取り上げること

 森田療法は、苦悩全般を問題にするものではありません。それは「精神交互作用」によって苦悩の悪循環が始まり、その悪循環の結果、自縄自縛の状態に陥ってしまった特殊な苦悩のみを対象にします。

ちなみに苦悩(=不合理感)というものは、黒田正典氏の所説に従えば、「『自己(=自分の自由にできると思う範囲)』と『他者(=その自己を妨げるもの)』が存在する」との攻めあう心理現象ということになり、この自己と他者の相関関係からさまざまな苦悩のレベルが生じてきます。つまり、@自己と他者が軽く狭く接触するだけの段階、A自己と他者が強く広く接触する段階、B自己が他者に包囲されてしまう段階、C自己の内部が他者に侵入されている段階という四つの段階が生じるというのです。(黒田正典:<新版>心の衛生〜苦悩の分析とその解決〜』昭和44年、協同出版、43〜56頁)。

森田療法が問題にする苦悩は、これらの苦悩レベルのうちでは、BからCにかけてのレベルのものではないかと思われます。精神交互作用の悪循環に陥り、にっちもさっちもならない苦悩、いかんともしがたい苦悩、逃げるに逃げられない苦悩、つまり逃れがたい苦悩レベルです。

たとえば、患者にとって先端恐怖という特殊な恐怖は、常に自分を包囲し、自分の心のなかに忍び込んでいる魔物です。この魔物を取り除こうとすれば、周辺を破壊し、さらには自分の心までも破壊しなくてはならず、それができないからこそ患者は激しく苦悶するのです。

この手の神経症を、われわれもけっしてあざ笑うことはできません。愛する家族を不慮の事故で失うようなとき、その悲しみはわれわれの心の奥底に住みつき、生きていること自体がいやになるでしょう。また、いやな上司に苦しむようなとき、上司の顔を見ないですごすことはできず、そうかといってその上司にはどうやっても好感がもてないといったジレンマに陥ります。家庭内の不和、これもいったんその地獄に陥ると、容易なことでは脱することができません。実際問題として、神経症的な悩みは、われわれ健常者の日常に無数に見られる苦悩と、大きく通じています。

森田療法は実践的な指導法です。自分で処置できるような苦悩にまで手を貸すようなものではありません。その原法は『森田神経症』とよばれる限られた苦悩のみを対象にしていました。現代のネオ・モリタ・セラピーでは、境界領域的な無気力症やうつ病、さらには統合失調症のような苦悩までもその対象としていますが、あくまでも逃れがたい深刻な苦悩のみを対象にしています。

仏教も禅も、もし本気で人の救済に向かうのであれば、自分で処置できるような軽度の苦悩にかかずらっていられないはずです。実践者はつねに問題を絞り込み、その絞り込んだ問題に立ち向かわなければ、なにごとも虻蜂取らずの状態に陥るからです。

3−4.苦悩の原因を心理外に求めないこと

 さて、上述の苦悩の多くには、心理や主観の外の出来事、つまり客観的条件が関係しています。たとえば多くの苦悩は、貧困や失業など、当事者の経済的条件にも大きく影響されているでしょう。しかしながら、森田療法ではあえてこれを対策の対象からはずします。

 これらの心理条件以外の客観的条件の改善については、当然ながら政府、企業、学校その他の関与すべきテーマです。いっぽう、政府、企業、学校などではほとんど対処できない心理的条件の改善を手がけるのが、この森田療法です。

 この守備範囲の絞込みについても、古代の原始仏教のあり方が思い起こされます。後代の仏教は鎮護宗教ないし国家宗教になり、政治的な動きをしたこともありますが、少なくとも原始的な仏教は、『心の耕作者』の立場を堅持しました。

 精神療法が実践を第一義に考えるのであれば、自己の専門分野を『心の耕作者』として絞り込み、その守備範囲を徹底的に守るべきでしょう。森田療法もこの考えに立ちます。

また、逃れがたい苦悩に悩む人にとっても、第三者が下手に客観的条件の改善に乗り出せば、かえって事態を複雑化し、苦悩を深刻にさせられる恐れが多大です。もちろん、森田療法でも必要に応じて企業や学校などと横断的な連絡をおこなうこともあるでしょうが、それも当事者にいたずらに混乱をもたらさないよう、十分な配慮が必要になるでしょう。(ちなみにアドラー心理学でも、苦悩の原因を現在の心理条件以外に求めることは、いたずらに患者の悩みを深刻にするだけだと考え、あえてこれを避ける方針がとられます。)

3−5.苦悩の原因を過去に求めないこと

フロイドの精神分析方などでは、患者の苦悩の原因が過去に受けた精神的な傷(トラウマ)を患者に再認識させ、その再認識を通じて苦悩を解消させようとします。いっぽう、森田療法は現在の苦悩を引き起こした過去の原因を直接の対象としてはほとんど取り上げません。

過去の原因は文字どおり過ぎ去った事実であり、それを再認識したからといって、苦悩への対処にとって、大きな効果はありません。したがって、むしろ取り上げるべきは患者の現在の自縄自縛の心理状況そのものであると、森田療法では考えるのです。(これもアドラー心理学の立場に通じる考えです。フロイドと袂をわかったアドラーも、トラウマなどの分析をかえって有害なものとして退けています。)

なお、この過去を問題にしない態度は、禅宗の二祖慧可(えか)大師と三祖僧燦(そうさん)大師の問答を思い出させます。あるとき、慧可大師に僧燦大師が「わたしの難病は過去の罪業によるものであろうと思います。どうかお救いください」というと、慧可大師は「その罪業をここにもってこい。救うてやろう」と答えます。僧燦大師は少し考えて「罪業をここにもってくることはできません」と答えます。それに対して慧可大師は「そなたのために罪業を救うたぞ。あとはよろしく仏法僧の三宝を守れ」と締めくくったというのです。この過去を問題としない態度は、どこか森田療法に通じているようです。

3−6.苦悩原因を苦悩恐怖と自己錯覚に求めること

では、患者の現在の自縄自縛状況はどのようにして生じているのでしょうか。森田は、多くの苦悩がいわゆる『精神交互作用』から成り立っていると主張します。

精神交互作用とは、先回も説明したとおり、自分の苦悩を引き起こす対象に対する恐怖、その恐怖から逃れようと精神操作をおこなうことで、かえって注意がその恐怖の対象に固着し、ますますそれが大きく迫ってくるというものです。別の言葉で説明すれば、これは、@『苦悩に対する恐怖』とA心(精神作用)を心(精神作用)で直接に操作できると思い込む『自己能力への錯覚』の二つから引き起こされる悪循環にほかなりません。

神経症の典型は視線恐怖症、先端恐怖症、赤面恐怖症などのようなものであり、それらはほとんど健常者には無縁のようにも思われています。しかしながら、その実、これらを引き起こす精神交互作用、すなわち『苦悩への恐怖』と『自己能力への錯覚』の悪循環は、健常者にも必ずつきまとうものです。

たとえば、われわれの多くは安寧を願っており、それが脅かされることに恐怖心を抱いています。そして、その安寧を守るため、恐怖に駆られて自分や自分の身近な者を責め続けます。とくに経営者や管理者を経験した人は、自分の能力への過信があり、その過信という錯覚によって無意味に自分を鞭打ち、さらには身近な人々をそれ以上に厳しく鞭打つことになります。

このような苦悩恐怖と自己錯覚は健常者にも色濃く見られる傾向であり、その意味ではほとんどの健常者も十分に神経症的な傾向をもっているのです。つまり、健常者のほとんどが苦悩を忌避し、自我の能力を過信しています。仏教的にいえば、苦聖諦の「苦は尽きない」という宣言を素直には認めず、ましてや無我や非我などは、言葉としてはともかく、ほとんど体験的には実感していないことになります。この点、森田療法は「苦悩が尽きず、われわれの自我の無力さを常に見据えており、その意味では、われわれの常識よりもはるかに仏教的であるといえましょう。

3−7.苦悩恐怖と自己錯覚を戦略的に崩すこと

では、森田はこの精神交互作用、つまり苦悩恐怖と自己錯覚の悪循環をいかにして断ち切ろうとするのでしょうか。

森田療法の見るところでは、この悪循環は患者の心のなかで生じているものであり、それを患者が反省その他の心の働きで直接に制御しようとすれば、それこそ「血で血を洗う」状態に陥り、「一波起きれば千波万波こもごも起きる」ことになります。

したがって、この悪循環を断ち切るには特殊な戦略が必要になります。森田療法では、その戦略として次の三つのものを用意しています。そして、患者の状況に応じて、それら三つのすべてを、あるいはそれらのいくつかを適用することになります。

その戦略の第一が、『絶対臥褥療法』とよばれる戦略です。これは、苦悩恐怖と自己錯覚の悪循環を極限にまで高めるように仕向け、煩悶の極限で突然訪れる『開き直りの解放感』を体験させるものです。悪循環で自縄自縛に陥った患者は有害無益な思考努力を一週間前後も繰り返し、ついには「『心で心を制御しようとする努力』がまったくの徒労である」ことを、体験的に納得するにいたります。ちなみにこの戦略は、臨済禅における公案の指導に通じるところがあるのではないでしょうか。

第二の戦略が、『段階的な作業療法による迂回作戦』です。これは苦悩を直接に軽減させる方法をとらず、苦悩を苦悩のままに打ち捨て、その苦悩を抱えたまま、目的本位に行動することによって、いつしか苦悩を恐れなくさせる方法です。

この目的本位の行動法は次のようなものです。つまり、「いやいやながらでもよいから、そのいやな気分を抱えたまま、『気分処理とは無関係な目的ある作業』への行動を起こし、その行動によって環境の変化を引き起こす。環境の変化さえ起きれば、心は万境に従って変化し、石のように固まった苦悩はしだいに和らいでいく。このようにして、行動によって新しい環境を選択し、その環境の変化によって苦悩などの感情が自然に変化する」ことをねらうものです。

つまり、「心で『直接に』心を制御する」ことを避け、「心で目的ある作業を開始し、目的ある作業で生活環境を変化させ、生活環境の変化で心を制御する」というように、いわば『迂回的に』心を制御するものです。

もちろん、「いやな気分を抱えたまま、行動を起こす」ことも、患者にとってはけっして容易なことではありません。したがって、先回も説明したように、軽作業から重作業へ、さらには複雑な日常的作業へと作業レベルを順次引き上げていき、患者の気分本位の生活をじりじりと目的本位ないし機能本位の生活へと切り替えていくのです。

この心の迂回的な制御法も、禅において、あれこれの『はからい』を戒め、『照顧脚下』を勧めること、()()を重視することなどに、どこか通じるところがあります。

戦略の第三が、『日記指導』です。患者に毎日の作業状況を日記に書いてもらい、それに医師が注意書きをおこなうというものです。そのときどきの気分によって振り回されている患者は、自分の気分に注意を奪われ、作業本来の目的に注意を向けることがきわめて苦手です。かりに草抜きという軽作業を命じられても、「この草抜きで自分の気分が少しは変わるだろうか」、「このような作業は高学歴の自分にはふさわしくない」など、ついつい気分本位の思いに駆られ、「雑草と花とを区別し、夕方までに、これだけの範囲を、正確に効率的に抜く」という草抜き作業本来の目的や機能をついつい忘れがちになります。その結果、患者の日記は、作業の客観的な成果よりも自分の気分の動きが中心の記述に流れやすくなります。医師は患者の気分本位に考える癖を鋭く、かつやさしく指摘し、これを目的本位、機能本位に考えるよう、実際の日常行動において、具体的に指導します。この戦略も、専門僧堂の師家が雲水の日常の起居振る舞いを、ことこまかに指導することに通じています。

3−8.気分転換のための坐禅を否定すること

森田の時代は、夏目漱石の『門』の主人公のように、多くの知識層が坐禅をおこなっていました。森田病院への入院患者にも坐禅をたしなむ人が多くいました。

なるほど坐禅は行為であり行動でもあります。しかしながら、その行動は日常の仕事とは違って、目的のはっきりとしない行動です。(それが証拠に、坐禅では「目的などをもってすわってはならない」とされるのが普通です。)

すでに述べたことからわかるように、神経症の患者は、自分の心の中に自閉し、その自閉した世界で心を心で操作しようとしているのです。この自閉した世界から脱するには、『絶対臥褥療法』のように、とことんまで「心を心で制御する」ことを実行させ、ついにはその無意味さを自ら体得させるか、あるいは逆に、目的のはっきりした日常の仕事(それは「いついつまでに、どれだけの仕事を、どのようにおこなうか」が明確になっています)に向かわせ、「心を心で制御する」有害無益な努力をいつしか忘れさせる以外に、方法がないことになります。

つまり、坐禅をおこなうのであれば、パラドクシカルな表現ですが、気分転換を意図する坐禅などではかえって自縄自縛の地獄に陥ることを、患者自身に自得させる坐禅でなくてはならないことになります。このようなパラドクシカルなねらいの坐禅は、よほど力量のある師家の指導がなければ、望むべくもないことになります。そうであるからこそ、森田療法では坐禅に対しては、ほとんど否定的です。

坐禅の否定––––こればかりは、仏教、とくに禅では困った議論です。この点は次回論じてみたいと思っていますが、今回は、少なくともわたしの陥りがちな坐禅への痛烈な反省点が、どうやらこのあたりにあること、さらにはこの森田療法からの批判に耐える坐禅のあり方を考えざるをえないこと、これだけを述べるにとどめておきます。

3−9.仮説検証的であること

森田療法では治療の目的レベルを「苦悩を苦悩として受容し、日常生活に支障がなくなった状態」と定義し、その治癒率を検証し、公開しています。それによると、その治癒率は60〜70%であるとのことです。神経症の自然治癒率は30%前後といわれていることを考慮すると、その効果はかなり大きいといえましょう。

いっぽう、だれにでも知られている精神分析の効果はどうでしょうか。ロンドン大学の著名な心理学者であったハンス・アイゼンク(1916〜1997年)は「精神分析による神経症の治癒率は30%前後であり、通常の自然治癒率と変わるところがない。精神分析を標榜する論者は、すべからく治癒率の追跡と公開をおこなうべきだ」と強く主張しましたが、これへの回答はいまもってなされていないようです(大原健士郎:『新しい森田療法』、2000年、講談社+α新書、140〜144頁)。

一昨年、ほぼ一年間、わたしもかなりの心理学者や臨床心理士の方々から、現代の多種多様な精神療法の概要を学ぶ機会がありましたが、この場合も、それらの諸説による治癒率の違いなどは、まったく耳にすることができずに終わりました。これでは患者も治療者も、種々の精神療法における優劣が判定できないまま、治療行為がおこなわれていることになります。

ひるがえって仏教や禅なども含める宗教界ではどうでしょうか。「これらは宗教であって、神経症の救済のみをおこなうものではない」という批判が聞こえそうです。しかしながら、それらが神経症を対象外として切り捨てることはできません。「苦しいときの神頼み」というではありませんか。神や仏にすがりつきたいようなとき、その多くは、逃げるに逃げられない苦悩に打ちひしがれているはずです。それらの人々の救済率が、まったく考慮されていないというのは不可思議です。

少なくともこの点だけは、仏教や禅、さらにはキリスト教なども森田療法から学ぶべきことが多大ではないかと思われてなりません。

                       以上 (第2回 2006.09.02
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 1) 特別寄稿 稲葉先生追悼文

        六甲台の青空

                                  戸田千之

 1月8日の午後、家人と放心して食卓の椅子に座っていると、娘が孫を連れてやってきた。
「どうしたの」と聞く。
  「稲葉先生が今朝亡くなられた」と答える。だれもが黙る。

 そのとき、「ああ、おれの時代もついに終わった」という思いが、強くこみ上げてきた。

  六甲台には赤松の林があり、その奥に南向きの研究棟があった。先生の研究室にはじめて伺ったときから、ちょうど50年の歳月が流れている。ゼミへの入門を許され、西宮の海清寺僧堂へ入るように勧められたのが、あのときの、あの研究室だった。

それ以来、経営学の研究開始、仏教の修行開始、大学院への進学、昭和電工への就職、結婚、大倉工業への転進、広島経済大学への兼務、発癌、広島経済大学への転進、これら人生の節目ともいうべき大きな出来事では、すべて稲葉先生に相談し、そのご教示やお世話を受けてきた。

わたしの人生の節目、そこには、すべて先生の姿があった。その姿がついに消えた。それが消えると同時に、年老いたわたし自身の人生も、残す節目はほぼ一つ、すなわち死という一事あるのみだ。
 わたしがずいぶん若いころであったなら、人の死は自分の出来事のようには思わなかっただろう。だが、先生がご長命であったこともあって、弟子であるいまのわたしは、すでに古希(数えの70歳)を迎えている。なんということだろう。これには、まことに不思議な、しみじみとした寂しさがある。人の死を、そのままそっくり自分自身の死に重ねる悲しさがある。

 八王子の天本病院へお見舞いに出向いたのは、昨年の11月19日のことだった。奥様とお嬢様が病院まで足をお運びになると聞いていたから、たいへん恐縮するお見舞いになってしまった。
 入室後、先生からの第一声は、近々発刊されるご著書に対するわたしの校正の労をねぎらわれるものだった。そのあと、「もう1冊ぐらいは書くかもしれない」と、笑いながらお話しになった。そのうち話題は転じ、般若団東支部の活動やそこに寄稿したわたしの旅行記などに関する話にもなる。

困ったことに、お見舞いの当日、わたしは朝から急に咳き込むようになっていた。熱がまったくないので、例年のアレルギー性のものだろうとは思っていたが、万が一にもこれが風邪であればうつしかねないと思うと、気が気でない。話題の途切れるのを待って早く失礼しなくてはならないと思っていた。
 そのようなわたしを見て、さながら遺言を伝えるかのように、先生は「きみは企業時代の経験を活かして、大学ではさぞかし有意義な講義をしたことだろう。だが、余すところ1年になったいま、そろそろ生死(しょうじ)について考えるべきときでもあろうね」と話された。このとき、先生の目はきらきらと輝いていた。

生死の問題、たしかにそれは、いまのわたしの最大のテーマになっている。うかうかすごすことはもはや許されない。そのようなわたしへの時宜を得た頂門の一針が、この先生のお言葉であった。
 病院の玄関を出て、冬の光を浴びながら歩いていると、『生死事大、無常迅速、可惜光陰』の言葉が、ひとしきり胸に迫ってきた。

丸亀に帰ったあと、先生に次のようなお礼の手紙を差し上げた。

          ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

病室でお教えいただいたこと、とくに教育現場から去ったあとになすべきことへのご示唆はありがたいものでした。ついつい一寸伸ばしのかたちでなおざりにしてきた仏教の学習、すなわち生死(しょうじ)の学習、これこそがわたしにとって最後にして最大のものであろうと確信しています。それを恩師から、さながら遺言のようにしみじみとお諭しいただいたことに深い因縁を覚え、感謝しています。

経営学の徒としては、先生の切り開かれた『仏教経営学』をより深く究明すべき立場にあるのでしょうが、わたし自身の現在の心境は、自分自身の日常の運営があまりに不十分であり、まずはここから整理するのがなによりも肝要かと思っています。
 ちなみに、自分自身の日常生活における身勝手さや傲慢さには、われながら度し難いところが多々あります。これをいくぶんでも制御しておかない限り、それこそ家族からは「百の説法、屁一つ」のそしりを受けかねません。
 般若団東日本支部の岡田氏から、仏教に関する寄稿の要請をたびたび受けながら、シルクロード旅行記など、氏の要請からはかなり的外れのエッセーで逃げているのは、自分がまだまだ仏教を論じる資格のないことを痛感しているからです。

自分を鍛えつつ、生涯のテーマとも言うべきものを鋭く絞り込み、それを研究して、先生の弟子としての責めを若干でも果たしたいと願っています。

          ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

六甲台の赤松林、その奥に稲葉先生の研究室があった。その研究室に向かう途中、松の上に広がる青い空を、たびたび仰ぎ見たものだ。

先生には、もはやお目にかかることができない。だが、たぶん、あの青空につながるこの世界を、あの世ならぬこの現世を、風となり雲となりながら、どこかでお笑いになっているにちがいない。
 先生の残してくださった数々の暖かい思い出、これを糧に、わたしも自分の終末期を静かに迎え、あの青空に帰っていきたいと願っている。

  思い出は 

  六甲台の

   赤松の 

  林の上の 

   空のことなど

                            以上 (2006.01.22)
                            
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目 次

1)稲葉先生 追悼文 六甲台の青空 (2006.01.22)

2)森田療法 と 禅 (1) (2006.07.10) 
   1. 森田療法への関心
   2. 森田療法の概要
3)森田療法 と 禅 (2) (2006.09.02)
   3. 森田療法の考え方 (仏教から眺めた森田療法)

4)死生妄想 (2007.08.01)  

5) チベット、インドの旅から(2008.02.21)

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