森章司博士からの特別寄稿


<目次>
  1) 拈華微笑と摩訶迦葉 (2006.02.12)
  2) 般若ということ (2006.05.12)
  3) サンガはどのようなものであったか(2006.08.28)
  4) 釈迦仏教 (2006.12.27)
  5) 大乗仏教は仏説か(2007.07.28)

                        (編集者注記)
                      
         文中で、博士が引用されている”原語”は
                                このHPのフォント不備で文字化けが 
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5)大乗仏教は仏説か

             大乗仏教は仏説

                                   森 章司 (東洋大学名誉教授)

 先の「釈迦仏教」というテーマの文章の中で、『般若経』とか『法華経』『華厳経』あるいは「浄土経典」などの「大乗」を自称する経典は、釈迦牟尼仏が亡くなってから400年から500年ほどたった紀元前後頃に作られたもので、これらの経典の中には釈迦牟尼仏や舎利弗・目連あるいは須菩提などの仏弟子が登場するけれども、それらは歴史上の釈迦牟尼仏や舎利弗・目連などではなく、単に大乗経典の舞台装置として使われているまでのことであって、したがって大乗仏教経典は歴史上の釈迦牟尼仏が説いたものではないというのは今日の仏教学界では誰でも承認している常識であるというようなことを書いた。
 しかしながらもしそうだとすると、大乗仏教は仏教ではないということになってしまう恐れなしとしない。故中村元博士などが編集され、1989年に刊行された『岩波仏教辞典』の「仏教」の項目に、「仏の説いた教え。〈仏教〉の語は現代では広く釈尊を開祖とする宗教の名として、キリスト教、イスラム教と並べて用いられる」と解説されているように、仏教は釈尊を開祖とすると明言されているから、大乗仏教経典が釈尊の名を騙るものにすぎないとすれば、大乗仏教は仏教とは言えないということになってしまうからである。

 ところで、「仏教の開祖は釈尊」という辞書の解説は疑う余地がないのであろうか。

 実は筆者は釈尊自身にはおそらくそういう認識はなかったものと考えている。釈尊は諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたという自覚を持っておられたからである。それを最も象徴的に示すのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という句である。「是諸仏教」という句のパーリ語の原語は‘etaM buddhAna sAsanaM’であって、‘buddhAna ’は‘buddha’の複数形所有格であって、「諸」は「教え」にかかるのではなく「仏」にかかるのである。そこでこれは「七仏通誡偈」とも「諸仏通誡偈」とも呼ばれる。諸々の仏は、それぞれ時代や環境や衆生の機根の異なる世界に生まれられたので、その教えはさまざまなものとなったが、この句だけは共通して説かれたという意味である。

 確かに釈尊は無師独悟されたとされている。釈迦牟尼仏は誰かに教えられて仏になったのではないが、一方では諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたにすぎないという自覚も持たれていたのである。

 もっとも釈尊自身はそうであったとしても、仏弟子たちはやっぱり仏教は釈迦牟尼仏が説きだされた独創的な教えだと考えていたかも知れない。しかしながら仏弟子も『テーラガーター』という仏弟子たちの言葉を集めた経典の中で、「智慧ある者は諸々の仏の教え(buddhAna sAsanaM)に思いを凝らすべし」などと言っているから、やっぱり同じような見解をもっていたといってよいであろう。

 その証拠に仏弟子たちが編集した原始仏教聖典にはブッダの複数形が無数に出てくるし、毘婆尸仏(ヴィパッシン仏)などの具体的な釈尊以前の仏たちの行状に関する伝承が記され、釈尊滅後100年か200年ほどしてインド半島を統一した護教の王として名高いアショーカは、過去の仏の1人であるコーナーガマナ仏の仏塔を修復したという碑銘を残している。そして釈迦牟尼仏の伝記はこれらの過去仏よりもずっとはやい大昔の燃灯仏(ディーパンカラ仏)という仏の時代に、釈尊の前世のスメーダという青年が発心したという事跡から始められるのが常であり、その後のさまざまな仏のもとで修行した結果、釈迦牟尼仏となったとされるのである。

 とはいいながら仏教の歴史は、釈迦牟尼仏の入滅を紀元元年とする紀年法によって記されるのが普通であるから、古くから釈尊が仏教の開祖であるという認識もあったのであろう。例えば『異部宗輪論』(AD.2世紀ころ成立)とか、パーリ語で書かれた『ディーパヴァンサ(島史)』(AD.4世紀末ころ成立)といったものがそうである。もっともこれらは筆者のいう「釈迦仏教」の歴史を書いたものであるから、当然といえば当然といえるかもしれない。

 ところが不思議なことに、大乗仏教経典自身は釈迦牟尼仏に相当こだわっていたようである。大乗経典に釈迦牟尼仏や舎利弗・目連などが登場するのは、大部分の大乗経典は釈迦牟尼仏が仏弟子たちに説いたという設定になっているからである。もっとも大乗経典の本当の主人公は、阿弥陀如来や薬師如来であったり、観世音菩薩や地蔵菩薩であったりするのであるから、釈迦牟尼仏はそれら他の仏や菩薩などの教えをプロンプターよろしく紹介するだけの役割しか与えられていない。確かに『般若経』や『法華経』の主人公は釈迦牟尼仏であるが、しかし同じ釈迦牟尼仏でも『法華経』がわざわざ「久遠実成の釈迦牟尼仏」と断るように、その釈迦牟尼仏は歴史上の釈尊のことではないし、『般若心経』にしてもその主人公は観自在菩薩なのであるから、大乗仏教経典の中の釈迦牟尼仏の位置は推して知るべしである。

 筆者はかつて『仏教的ものの見方』(国書刊行会 平成133月)という本を書いたときに、半分くらいは冗談で大乗仏教経典の特徴を4つ上げたことがある。その4つというのは、@大乗経典は身元不詳、A大乗経典の釈尊はピエロ、B大乗経典は超合理の世界を説く、C大乗経典は自己宣伝する、である。

 大乗経典は結集という仏教教団の代表者が集まって開かれた経典編集会議によって編集されたものではなく、いつどのように制作されたのかよく分からないし、先に述べたように大乗経典の釈迦牟尼仏は舞台廻しの役割しか与えられていないからであり、大乗経典は真言陀羅尼とか加持祈祷、あるいは経典書写などに合理的には説明できにくい霊妙な力を認め、また大地から仏塔がせり上がってくるなど摩訶不思議な世界が描かれるからであり、大乗経典は大変にパフォーマンス上手であって、般若経にとっては般若経が、法華経にとっては法華経が最高の教えであって、小乗経典はおろか他の大乗経典も取るに足りないとされるからである。

 このように大乗仏教の経典は、釈迦仏教の経典とは全く異なる過程を経て生れてきているのであるから、大乗経典が釈迦牟尼仏にこだわらなければならない理由はないのである。そもそも『法華経』は釈迦牟尼仏がこの世に現われる以前の久遠実成の釈迦牟尼仏が説かれていた教えであり、一切は空であるということも三世の諸仏が等しく観察して仏になった教えなのであるから、歴史上の釈迦牟尼仏が登場しなければならない理由はないのである。

 第2回目の「般若ということ」という文章の中で書かせていただいたように、そもそも仏とは「あるがまま」を「あるがまま」に知る智慧を完成した者のことであって、「あるがまま」なる真実というものは、けっして永遠不変の真理をさすのではない。仏教にもし永遠不変の真理があるとすれば、それは「すべてのものは変化し、永遠不変なるものはない」ということである。だから真実は刻一刻と変化する現実そのものであり、この現実を「あるがまま」に知見して説かれる教えも、また変化して当然である。現実が変化するのに、教えが永遠不変のものにしがみついているとすると、それは現実に対応する力を持たないことになる。そこで仏教はたえず経典を制作し続け、その過程として大乗経典も、その後の密教経典も生まれてきたのである。

 聖書やコーランは、絶対唯一の神の言葉を記したものであるから永遠不変である。そこでキリスト教やイスラム教が現実に対応するためには、聖書やコーランの言葉の解釈を変えるしか方法がない。こうして解釈学というものが生まれてきたわけであるが、仏教では新しい経典を制作することによって、現実に対応してきたのである。だから本来なら21世紀の日本には、その現実に即応した新しい経典が生まれるべきなのである。ところがこのよき伝統が中国において失われてしまったので、中国や日本では祖師たちの著作がこれに代わる役割を担うことになった。

 仏教はこういう構造を持っているのであるから、仏は次から次へと生まれてこなければならない。もし仏が生まれてこないなら、仏教が生成躍動する活動をしてないという証拠なのである。そしてこのような考え方は釈迦仏教も大乗仏教も変わらないから、釈迦仏教には過去にたくさんの仏が存在したことが前提になっているし、大乗仏教には同時にたくさんの仏が登場するのである。

 仏教徒であることの最低の条件は「仏」と「法」と「僧」の三宝に帰依することとされる。この三宝帰依は、釈尊成道の直後に仏教信者になったタプッサとバッリカという2人の商人が、「仏」と「法」に帰依したことに淵源があるが、この「仏」は燃灯仏のもとで初発心して諸々の仏のもとで修行して仏になった釈迦牟尼仏であり、「法」はこの仏に必然的に伴っているものなのである。要するに三宝帰依の中の「仏」「法」の二宝は、仏を仏たらしめ、法を法たらしめているところの、諸々の仏に通貫するものや、諸々の仏が悟った真実や諸々の仏が説いた教えなのである。文献によってはこの時すでに「僧」に帰依したとするものもあるけれども、この「僧」とは、「仏」と「法」を自らも体得した聖なる弟子たちの集団を指す。

 このように仏教徒が帰信すべき「仏」や「法」は、そもそも釈迦牟尼仏や釈迦牟尼仏の教えに特化されないのであって、したがって大乗仏教の経典は釈迦牟尼仏にこだわる必要は毛頭なかったのである。

 もっとも大乗仏教経典を制作した者たちも、このような仏教の基本的立場を釈迦牟尼仏によって教えられたという自覚を持っていたのかも知れない。「大乗経典は仏の説いたものであるけれども、数が膨大である上に、小乗仏教徒たちに説いても理解しがたいほど深い教えであるから、結集会議においては報告されなかった」(『大智度論』巻100)というのは、詭弁のように聞こえるけれども、あるいは本当の思いであったのかもしれない。

 また大乗経典の中には、「悪魔が比丘の姿をしてやってきて、私が真の仏法を教えましょう。あなたの聞いている教えは仏法でも仏教でもない、文を飾って合集して作ったものに過ぎないと言った」(『摩訶般若波羅蜜経』巻16)というような、あたかも釈迦仏教の側から、大乗仏教は仏説にあらずというような非難があったと考えられるような記述も存するけれども、しかし現実には、彼らが「小乗仏教」とさげすんでけんかを売った側の「釈迦仏教」からはそういう非難は生じていない。インドでもどこでも釈迦仏教と大乗仏教は仲良く共存していたのである。

 このように、「あるがまま」なる真実を「あるがまま」に知る者が仏であって、仏教とはあなたたちも「あるがまま」を「あるがまま」に知って仏になりなさいという教えなのであるから、ことさら開祖やら創唱者というものを持ちださなければならないものではないのである。いわばこれは単に至極当然の、今流に言えば合理的・科学的な「ものの見方」を示しているだけのことであって、キリスト教やイスラム教はイエスやムハンマドがいなければ成り立たないが、仏教は釈迦牟尼仏がいなくても十分に存在しえるのである。その証拠に日本の仏教ではすでに釈迦は「ほっとけ」になっている。きちんと調べたわけではないが、日本にある数万のお寺のなかで、本尊を釈迦牟尼仏とする寺はおそらく1割にも満たないであろう。

 だから今さら「大乗仏教は仏説か」などというピンボケの主題を立てて論じることもないのである。仏教というものはそもそもはとてつもなく大きくて、おおらかで自然で、ぼんやりしたもであって、はたして宗教といってよいのかという基本的な疑問すら存するのであるから、創唱宗教の一つなどと定義して、仏教の開祖は釈尊などというと、どこか間違った方向に導かれてしまうような気がしてならない。
                                         以上 2007.7.28

                               <目次>へ戻る
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4)釈迦仏教

      釈 迦 仏 教
                  森 章司(東洋大学教授)

 「釈迦仏教」ということばは、最近になって筆者が使い始めたものであって、あまり一般的な用語ではない。『広辞苑』にも出てこないし、各種の仏教辞典をひいてもみあたらない。

 今まで、「小乗仏教」とか、「原始仏教」あるいは「初期仏教」、もしくは「南方仏教」「上座仏教」「部派仏教」などと呼ばれてきた仏教をいうのであるが、これらは正確にその内容を表していないと考えて使い始めたのである。

 「小乗仏教」というのは「大乗仏教」に対する言葉で、「優れた教え」に対する「劣った教え」を意味するから、すでに価値判断が含まれた言葉である。それも「大乗仏教」の側から一方的に投げつけられた、罵詈雑言にあたる言葉であるから、何らかの合理的・客観的な根拠を有するというのでもない。だから自らが信じる教えを「小乗」と呼ぶことなどありえない。以前は無反省にこの言葉を使ってきたが、このごろでは「小乗」という言葉は差別用語として、使ってはならないという認識が定着している。

 その代わりに「原始仏教」とか「初期仏教」という言葉がよく使われるようになった。「原始」とか「初期」はふつうには、仏教の根源とか、始まってまもないころの仏教という意味に理解されるであろう。

 大乗仏教は紀元前後くらいに、『般若経』とか『法華経』『華厳経』あるいは「浄土経典」などの「大乗」を自称する経典が制作されて始まった。

いわゆる小乗は、これらがそれ以前にあった仏教を賎称したものであって、そういう意味では「原始仏教」とか「初期仏教」と呼ばれるのにも一理はあるのであるが、しかしこの呼称は、これらは大乗仏教が起こることによって滅びてしまったという印象を与える。しかし実はそれ以降にも存続していたのであって、インドではむしろこちらの方が優勢であった。

 例えば孫悟空や猪八戒・沙悟浄などの化け物を弟子として、天竺に仏教の聖典を取りに行った三蔵法師のモデルになった玄奘三藏(600664)が書き記した『大唐西域記』によれば、行われていた国の数も出家修行者の数もいわゆる小乗仏教の方が多い。
筆者の集計によれば、

      国数  出家修行者数

  大乗  30国    97,630

  小乗  55国   110,430

となる。

 だから「原始仏教」「初期仏教」は、大乗仏教が起こるまでの仏教を指し示すものなら問題はないのであるが、それでは後の13世紀初めに、インドにおいて仏教が滅亡するまで存続したこの系統の仏教を何と呼べばよいかという問題が生じる。

 そこで「上座仏教」とか「南方仏教」、あるいは「部派仏教」という比較的新しい呼び名が生まれた。

 「上座仏教」「南方仏教」は現在スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどで行われている仏教の呼び名(ちなみにヴェトナムの仏教は大乗仏教系である)で確かに現代までをカバーすることができる。

しかしこれでは、例えば日本の奈良時代に行われた、この系統の仏教に属する「倶舎宗」とか「律宗」などの仏教を含ませることはできない。

 「部派仏教」というのは、この系統の仏教は後に18とか20の学派に分かれたので、これによる命名である。18とか20の学派はより根源に遡れば、上座部と大衆部に行きつくのであるが、南方に伝わった学派は上座部系に属し、俗に南方上座部と呼ばれるから、「上座仏教」とか「南方仏教」と呼ばれるのである。「倶舎宗」は説一切有部と経量部という、これも上座部系に属する2つの学派の長所を取って執筆された『倶舎論』という書物を拠り所にする宗派であるから、「部派仏教」と呼べばこれも含みうることになる。

 ところが「部派仏教」という呼び名でも含まれえない部分が残る。前述した上座部と大衆部は、釈迦牟尼仏が亡くなって100年ほどして、それまでは一つであった教団が2つに分裂したことによって生まれたものである。

 「原始仏教」という言葉は多くはこの部派分裂が起きるまでの、釈尊の教えが仏弟子たちによって一つのものとして伝えられていた時代の仏教を指すのであって、「部派仏教」はそれ以降の仏教しか意味しえないわけである。「原始仏教」は仏教の大元の教えという意味なのであるから、これを含みえない呼称は、大きな欠陥を持っているといわなければならない。

 このように考えると、確かに「小乗仏教」という言葉は、「大乗仏教」に対する言葉として、時代的にも地域的にもすべてを網羅する大変便利な言葉である。

だから近代に至るまではごく普通に使われてきたわけであるが、いかんせん偏見に満ちた言葉であるから、現代ではこの言葉を使うわけにはいかない。もしスリランカやタイのお坊さんが、自分たちの信じている教えを「小乗仏教」と呼ばれたら、大いに心証を害するであろう。とはいいながら、「原始仏教」「初期仏教」、もしくは「南方仏教」「上座仏教」「部派仏教」は、上記のように帯に短し襷に長しであって、今まで「小乗仏教」に代わる適当な言葉がなかった。そこで止むを得ず筆者は「釈迦仏教」という造語を使うことにしたのである。

 この仏教の最大の特徴は、紀元前500年頃にインドに実在した釈迦牟尼仏の教えを信奉するということにある。

『般若経』にも『法華経』にも、大乗仏教の経典のほとんどには釈迦牟尼仏が登場するが、しかし大乗仏教経典の釈迦牟尼仏はいわばピエロ役であって、主役の阿弥陀仏とか毘盧遮那仏などの教えを代弁するだけである。『法華経』のように主人公は釈迦牟尼仏であったとしても、それは歴史上の釈迦牟尼仏ではなく、久遠実成の釈迦牟尼仏をいう。

 またこれらの経典には舎利弗や目連などの仏弟子が登場し、王舎城の竹林精舎や舎衛城の祇園精舎などの精舎、あるいは霊鷲山とかガンジス河といったインドの自然環境が登場する。しかしながらそれらは歴史上の舎利弗・目連や竹林精舎・祇園精舎ではなく、単に舞台設定として借りられているまでのことである。

 要するに大乗仏教は、歴史上の釈迦牟尼仏の説いた教えではない、別の新しい教えを説こうとしているのであって、大乗仏教の側からいわせれば、それは今までの歴史上の釈迦牟尼仏が説いた教えより、よりすぐれたより深い教えであるということになる。

 上記のような理由で、筆者は「小乗仏教」とか「上座仏教」、「部派仏教」などと呼ばれてきた仏教を「釈迦仏教」と呼ぶのであり、これはなかなかよきではないかと悦に入っているというわけである。

 ところで日本の近世から近代にかけて仏教の歴史学的研究が進むと、大乗仏教は「仏説」といえないのではないかという大きな課題に直面することになった。それは上記を読んでいただければ容易に理解されうるであろう。もちろん現在では大乗仏教経典も「仏説」であると考えられ、疑いを持たれることはないが、一方では『般若経』などの大乗経典が歴史上の釈迦牟尼仏が説いたものではないというのも事実であって、この矛盾を合理的に説明することはなかなかに難しい。

 次の機会をいただければ、これを筆者がどのように考えているかを書かせていただこう。

                                        以上  2006.12.27)

                               <目次>へ戻る
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3)サンガはどのようなものであったか(2006.08.28)

     サンガはどのようなものであったか

                       森 章司(東洋大学教授)

 サンガは、古代の仏典が書き記されているサンスクリット語やパーリ語では‘saMgha’と綴られる。中国では「僧伽」と音写され、これが略されて「僧」という言葉になった。「僧」は今では一人ひとりのお坊さんを表す言葉となっているが、もともとはお坊さんの集団を意味した。現代語にあてると「教団」ということになる。要するに「般若団」の「団」にあたる。

 もともとは仏教が生まれた紀元前5世紀ころにあった共和体制の国や、商工業者のギルドを表す言葉であった。仏教の開祖の釈尊が生まれた釈迦国も共和体制の国であったので、出家者の集団の運営規則もそれにならって作られ、その集団もサンガと呼ばれることになった。共和体制の国や商工業者のギルドには、専制君主的な指導者はおらず、その組織は合議によって運営されていたので、一般的には仏教教団も非常に民主的な組織であったと考えられている。

 ところがこのサンガのことはあまりよく知られていないし、実はまだあまりよく分かっていない。仏典によるサンガの定義は、「界として結界されたある一定の地域の中に住する、布薩や自恣その他の羯磨を共に行う4人以上の比丘、あるいは比丘尼の集団」である。

 「界」というのはインド語の‘sImA’(シーマー)で、これはやくざの世界で使う「シマ」の語源であると考えられている。まさしく「縄張り」を意味する。例えば東京都の新宿区を「4人以上の比丘、あるいは比丘尼の集団」が‘sImA’として結界すると、それがサンガの基礎になる。

 「布薩(ふさつ)」と「自恣(じじ)」は、このサンガを単位に行われる定例行事で、「布薩」は毎月2回、満月と新月の日に行われ、「自恣」は416日から715日までの雨季の三ヶ月間にわたって行われる「雨安居(夏安居ともいう)」の最後の日に行われる。二つとも界の中にすむ比丘や比丘尼が戒律に悖ることがなかったかどうかを確認する会のことであるが、布薩は「告白」が原則であるに対し、自恣は「告発」を原則とすることが異なる。要するに自分で罪を自白するか、他人から罪を指摘してもらうかの違いである。

 インドにはその習慣はなかったが、おそらく中央アジアかあるいは中国において始まった盂蘭盆会(お盆)は、この自恣の日にあたる。一般にお盆は715日か、815日に行われ、これは新暦と旧暦の違いと考えられているが、ほんとうは自恣を715日に行う場合と、815日に行う場合との2種類があったことによるのではないかと思われる。インドの雨季は地域によって異なるので、416日から715日までの前安居と、516日から815日までの後安居の2種類があったからである。

 「羯磨(かつま、こんま)」というのは「布薩」も「自恣」も含むサンガとして行う行事の一切をいい、例えば「結界」をすることも、罪を犯した比丘あるいは比丘尼を処罰するのも、あるいはひとりの成人に達した男子を比丘としてサンガの一員に迎えるかどうかを審議することも、すべて「羯磨」である。この「羯磨」は「界」に住むすべての出家者が出席しなければ成立しない。そしてその議決要件は全員一致である。もし誰か一人でも反対すれば、その議案は成立しない。

 「4人以上の比丘、あるいは比丘尼の集団」というのは、このサンガが成立する最低限度の人数であって、平均するとだいたい15人前後の出家者からなっていたのではないかと考えられる。一人の大和尚の下に34人の弟子がおり、この34人を和尚にしてそれぞれまた34人の弟子がいるという感じである。しかし大きな寺院では、その構成員が100人を超えるような場合もあった。また比丘と比丘尼は一緒に住むことが許されないから、比丘サンガと比丘尼サンガは別ということになる。しかし比丘尼サンガは比丘サンガに従属する形でしか存在しえない。そこで比丘尼が住むお寺は、比丘の住むお寺の鐘の音が聞こえるくらいの近くに作られた。

 このようなことが記されているのが「律蔵」という文献である。「律蔵」は「経蔵」と「論蔵」とならぶ「三蔵」の一つであるが、日本の仏教は戒律が無きに等しくなってしまっているので、日本の仏教界では伝統的にこの研究が立ち後れていた。だから不正確な知識が横行しているし、いまだ分からないことも多い。

 例えばいま書いたものが「サンガ」であるとすると、これを「教団」と現代語で表現することは正しいだろうか。「教団」といえば、大はヴァチカンの教皇が全世界の教会を統括するカトリック教団をイメージするだろうし、身近なところでは曹洞宗とか浄土真宗本願寺派という宗派を思い浮かべるであろう。しかし先程の定義からは、せいぜい福井県の永平寺で修行している雲水たちからなる集団であって、「教団」というものはイメージできない。

 また、サンガには全員が平等な資格で参加して、少数意見が最大限度に尊重される議決方法を取るから、非常に民主的な組織であったと考えられている。しかしながら常に全員一致を要求されるような組織は現実的に存在しうるであろうか。人が34人集まれば、なかなか話がまとまらないのが常であるから、それが15人もの、あるいは100人もの大集団になればなおさらである。

 ということで、今私のもっているサンガのイメージは次のようなものである。

 仏教には今風の「教団」というような概念は存在しなかった。それは別に不思議なことではなく、ヒンドゥー教でもイスラーム教でも、そういうものは存在したことはない。いわば精神的な紐帯によって繋がっているだけの話である。

 お釈迦さんが亡くなったときに、主立った弟子たち500人が王舎城というところに集まって、お釈迦さんの教えをまとめる会議を行った。これは「結集(けつじゅう)」と呼ばれている。要するに「お釈迦さんの教えとはどういうものであったか」ということを議題にした羯磨を行ったわけである。これは今流にいう「仏教教団」としての行事で、したがって全仏教徒を拘束する効力を持っていたように考えられているが、実はそうでもないらしい。

 プラーナという仏弟子があった。これも500人の弟子たちを引き連れて別のところを旅行してしたので、この会議のことを知らなかった。そこでこの会議に出席した比丘たちが、会議で決めたことを受けてほしいと言うと、彼は「それはよいことをしました。しかしながら私は自分がお釈迦さんから直接受けた教えを奉じていきましょう」と言って、これを受け入れなかったとされている。

 仏教学界ではサンガには「現前サンガ」と「四方サンガ」という二つの概念があって、「現前サンガ」が先程の定義に見られるサンガで、「四方サンガ」が仏教教団に相当するという感じで受けとられている。しかし実はパーリ語という言葉で書かれた律蔵には「現前サンガ」という熟語も、「四方サンガ」という熟語も存在しないし、だからいかなる『パーリ語辞典』にもこの見出し語はない。見出し語がないどころか、複合語としても上がっていない。だからサンガは、「界として結界されたある一定の地域の中に住する、布薩や自恣その他の羯磨を共に行う4人以上の比丘、あるいは比丘尼の集団」という定義があるのみのようである。

 したがって結集も、「王舎城を界とする500人からなるサンガが、お釈迦さんの教えとはどういうものかという議題で羯磨を行った」ということになる。もちろんこの会議に出席した者は、この決議事項に従わなければならないが、この会に出席していない私たちは、必ずしもそれに絶対服従をしなければならないということはない。それを尊重するかしないかは、私たちの信念に委ねられているということである。このとき編集されたとされる仏教の聖典が、397年のカルタゴ会議によって編集されたキリスト教の「聖書」のように、唯一絶対のものとしての権威を持たないのはこういうところに由来する。

 そしてこの結集は以前にこの欄に書かせていただいた摩訶迦葉という人が主宰した。その時にも書いたように、摩訶迦葉はお釈迦さんから「半座」を分けられたほどの人であるから、仏弟子たちの中でも特別の人であった。この会議は終始この人のペースで進められ、むしろ否やを言えない空気にあった。

 しかし普通の場合のサンガは和尚とその弟子たちから成り立っていて、弟子たちは和尚の言うことに逆らえない立場にあった。全員賛成というのは、民主的な手続きに見えて、実は指導者の意見に自由に反対ができない、したがって和合を乱れさせないための装置であったものと考えられる。

 このサンガに争いごとが起こったときには、多数決で決択をつけることになっていた。しかしこの多数決は民主的に構成員の意志を決定するシステムではなく、あくまでも紛争を解決する方法であったから、指導者の思う方向で多数意見が形成されるように、根回し・談合を行うことが義務づけられていたし、どのような投票形態を取るかも指導者に委ねられていて、指導者のみは誰が賛成票を投じたか、反対票を投じたかを知りうる立場にあった。

 例えば年配の比丘たちが指導者の意見に賛成で、若い比丘たちが反対の場合は、公開の席で投票が行われた。若い比丘が年配の比丘の目を気兼ねして、反対票を投じにくくするためである。もし逆に若い比丘たちが賛成で、年配の比丘たちが反対の場合は、誰がどの票を投じるか分からないように、別室において行われた。しかしこの場合も指導者が投票用紙を受けとるので、反対者を説得することができた。できたというより、それは指導者たる者の義務であったから、もしその義務を果たさないで紛争を解決できなかったら、指導者は罪になった。

 ちなみに、この投票用紙にあたるものは「籌(ちゅう)」と呼ばれる竹べらで、白かあるいは黒に塗られていた。ちょうど今の日本の国会議員が投票する白い板、青い板と同じようなものである。そしてこの多数決が、民主的な議決方法でなかった最大の証拠は、投票の結果が指導者の意に沿わない場合は、その議決を反古にして、もう一度やり直さなければならないことになっていたということである。やり直す場合には、隣のサンガから賛成票を投じてくれる比丘をスカウトしてきて、多数派工作をしたうえで再投票をしたのである。

 比丘・比丘尼たちの集団は究極的な悟りの境地を獲得するために修行する集団であって、新しい建設的な事業を展開するための組織ではない。何よりも平穏無事に運営されることが第一目標であった。また釈尊時代の仏教のサンガは出家集団であって、生活の資具のすべてを世俗社会の寄進にたよっていた。だからサンガのいざこざは、この寄進の道を危うくすることにつながった。「和をもって貴しとなす」がサンガの至上命題であったが、それにはこういう背景があったのである。

 サンガがこういう特殊な集団であったことを念頭におけば、そのイメージは今まで考えられてきたのとは、相当に違うものになるのではなかろうか。

                                        以上  (2006.08.28

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2)般若ということ (2006.05.12)


         
 般若ということ

                           森 章司(東洋大学教授)

 仏教は自覚の宗教で、キリスト教などの一神教は救済の宗教といわれる。

 救済の宗教では知恵というものは全知全能の神の専有物で、神こそが真理である。私たちには知恵はなく、私たちは真理を知ることができない。「神の御子」と呼ばれるような特殊な能力を持った者のみが、特殊な状態になってはじめて知りうる。

 しかし仏教では私たちが真理を知って、私たちが「仏」になる。‘buddha’というのは、インドの古代語で「知る」「目覚める」を意味する‘budh’という動詞の過去分詞であるから、「知った人」「目覚めた人」という意味である。

 「般若」ということばもこれと密接に係わる。

 仏教では「真理」を表すのに、多くは「真実」「真如」「如実」といったことばを用いる。漢語の「諦」ということばも真理を表す。「明らかであること」「明らかにする」という意味である。

 これらのもとのインドの古代語(サンスクリット語)は‘bhUta’とか‘satya’とか、あるいは‘tathatA’といったことばである。

 ‘bhUta’は‘bhU’という英語で言えばbe動詞に相当する「ある」「存在する」という意の動詞の過去分詞であり、‘satya’は‘as’というもう一つのbe動詞の現在分詞であるから、これらのそのままの意味は「存在しているもの」を意味する。筆者はこれを「あるがまま」と訳すことにしている。

 また‘tathatA’は‘tad’という「それ」とか「これ」を意味する指示代名詞から作られた抽象名詞であるから、「それがそれとしてあること」という意味となろうか。仏の異称である「如来」のもとのことばは‘tathAgata’であって、‘tathA’という語と‘Agata’という語がくっついてできたことばである。‘tathA’は先の‘tad’という指示代名詞から作られたことばで「如」にあたり、‘gata’は英語ではgoに相当する「行く」という意の動詞の‘gam’の過去分詞であり、‘A’は向こうからこちらの方へという意を表す接頭語であるから「来た」という意味になり、そこで「如来」と漢訳されたのである。要するに「真如からやって来た者」という意である。

 仏教がいう真理は、以上のようなことばの成り立ちからわかるように、現象の背後にある直接私たちの目で見ることができない神秘的なもの、あるいは世界や宇宙の秩序・法則といったものではなく、むしろ「それ」「これ」と指し示すことができる、目の前にある具体的な「現象」そのものを意味するのである。だから「真理」はおろか、「真如」「真実」というよりは、むしろ「事実」といったほうが分かりやすい。

 だから初期仏教では私たちが生まれたら老い、死んでいかなければならないということを「苦諦」、その原因となっているのは貪欲とか怒りといった煩悩であるということを「集諦」といい、「苦しんでいるという真実」「煩悩に狂わされているという真実」というのである。大乗仏教では「世俗諦」ということばも生まれたが、これは「現実のあるがままがそのまま真実である」という意味である。

 確かに仏教にも現象の背後にある宇宙の秩序・法則といった、いわば「真理」を表すことばもないではない。それは「ダルマ(dharma)」という語である。このダルマという語は、「保つ」「保持する」という意の‘dhR’という動詞からできた名詞で、仏教では現象を成り立たせている縁起の法則をさすが、実はこの法則によって成り立っている現象そのものもまた「ダルマ」というのである。よく知られたことばである「諸法無我」のなかの「法」がこれであって、初期仏教ではこれは、「一切のものが因果関係によって成り立っている以上、それを私たちが自由自在にコントロールすることはできない」という意になる。

 初期仏教の教えは、このような目の前にある「煩悩に狂わされて」「いつかは死ななければならない」「どうしようもない」現実を、「あるがまま」に知りなさいと教えるのであって、これを知ることをスリランカに伝わった仏教ではパーリ語で‘yathAbhUtaM pajAnAti’と表現する。‘yathA’は関係代名詞の‘yad’からできたことばで「〜のように」の意であり、‘bhUta’は真実であるから「真実を真実として」という意になる。そして‘pajAnAti’は、サンスクリット語では‘prajJA’、パーリ語では‘paJJA’の動詞の3人称単数形であるから、「事実を事実」として「知る」ということになる。

 言うまでもなくこの‘prajJA’‘paJJA’が、中国において「般若」と音写されたのである。

 「般若」というのは、上記のように真実を真実として「知る」ことを意味する。もう少し大仰に言えば「真理を知る」ということになるが、仏教のいう真理はむしろ前述したように目の前にある現象のことであって、けっして「善」「美」「聖」なる価値に直結するようなものではない。

 「般若」ということばは、「般若経」という大乗仏教の経典に象徴されるようになった。「般若経」は「色即是空」ということばで有名であるが、これは「一切のものは縁起によって成り立っているのであるから実体がない」ということを表す。初期仏教の教えは私たちの生き方を教えることに重点が置かれたが、大乗仏教は「無我」をより哲学的に発展させて「空」という概念を作り上げたのである。

 しかし「色即是空」ということばは誤解を生じやすいことばである。実はこの後に、「空即是色、受想行識亦復如是」ということばが続くことを忘れてはならない。「色即是空」というのは縁起という法則としてのダルマを表しているといえるであろうが、しかしこの法則によって現れているものは、目の前にある物質や、苦しい悲しいといった感情などの現象としてのダルマであって、これが「空即是色」と表されるのである。

 むしろわれわれは現実を「あるがまま」に見るというところから出発し、これを徹底すべきであって、これが達せられたときに、現実の底に貫き通る真理が自ずからに明らかになるのでなければならない。

 これが「般若」というものであり、「見性成仏」というのはこういうことである。

                        以上  森章司  (2006.05.12)

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1)拈華微笑と摩訶迦葉 (2006..02.12)


        
           
拈華微笑と摩訶迦葉

                                  森 章司(東洋大学教授)

 釈迦牟尼仏が霊鷲山におられたときのこと。梵天というインドの最高神がお釈迦様に法を説いて下さいと金色の波羅の花を捧げると、座に上られた仏はその花を拈じて聴衆に示された。100万の人天にその意を解する者はなく、ただぼう然とするばかりであったが、摩訶迦葉のみが破顔微笑した。仏は「吾に正法眼藏涅槃妙心実相無相あり、摩訶迦葉にこれを付嘱する」と、法を摩訶迦葉に伝えられた。この花は一般に蓮華とされているが、ここでは「波羅の花」とされている。

 これは拈華微笑(ねんげみしょう)と称される禅では有名な話である。今は中国の宋時代(1188年)に、禅の宗要を知らしめるために智昭が編集した『人天眼目』に記されているものを紹介した。しかしインドでできた古い経典にはこの話はないから、おそらく中国において作られた話である。確かに摩訶迦葉は仏から法を付嘱されたという話があり、また梵天に法を説くことを慫慂されたので仏は法を説かれたという話も残っているから、それらをもとに脚色されたのであろう。

 この逸話から禅では、摩訶迦葉は仏の法・禅の心を伝えられた仏弟子の中でも特別の人物としてたてまつられている。

 摩訶迦葉はパーリ語でマハーカッサパ、サンスクリット語でマハーカーシュヤパという。カッサパ、カーシュヤパはその姓で、マハーは「大」という意味である。迦葉という姓の仏弟子が外にもいるので、これらと区別するために「大」がつけられたものである。そこで摩訶迦葉は「大迦葉」とも訳される。

 摩訶迦葉はマガダ国の王舎城の近郊の富裕なバラモンの家に生まれた。マガダというのはガンジス河の中流の、ガンジス河とデカン高原に挟まれた地域にあった。今のビハール州の南半分に相当する。ガンジス河周辺はヒンドスタン平野とよばれるが、北のヒマラヤ山脈と、南のデカン高原から流れでる土砂が堆積して形成されたところで、まさにお盆の底のように真っ平らなところであるが、その首都であった王舎城近辺はデカン高原に近いので、いくつかの山がある。瀬戸内海に浮かぶ島々のようなものであって、拈華微笑の舞台になっている霊鷲山もその一つである。この山は『法華経』や『無量寿経』の舞台となっているところで、仏教では名高い山である。

 摩訶迦葉は20歳くらいになったころに、バッダーという娘と結婚した。子供ができると、町の近くの静かなアーシュラマに庵を造って妻と二人で隠居生活に入った。現在もヒンドゥー教の修行者が集まる聖地をアーシュラマというが、それである。摩訶迦葉が30歳くらいの時のことであったと思われる。30歳の隠居は少しばかり早すぎるが、彼らは早くから出家したいという気持ちがあったので、子供の養育は里親に任せて、自分たちは隠居所からその成育を見守ったのである。その期間はおよそ12年間であった。

 子供が一人前になったことを見届けると摩訶迦葉は妻とも別れて、隠遁の生活に入った。その頃からバラモン社会では、四住期という一生を四期に分ける生活階梯が形成されはじめていて、アーシュラマの生活を「林住期」と言い、その後の隠遁生活を「遊行期」「比丘期」などという。仏教の修行者のことも「比丘」というが、このころはバラモン教も仏教もあまり区別はなかったのである。この遊行期の生活は、衣は糞掃衣、食は乞食(托鉢)、住は樹下坐が原則で、摩訶迦葉は後に仏の弟子になってからもこの生活を続けた。いわゆる頭陀行で、十大弟子の中で摩訶迦葉が「頭陀行第一」と讚えられる所以はここにある。

 ゴータマ・シッダッタもちょうどこのころ出家して、マガダ国にやって来て同じような修行をした。後に摩訶迦葉に「あなたが先に出家したんでしたっけ、私が先でしたっけ」と話しかけ、昔のことを振り返っておられるから、おそらくこのころに摩訶迦葉に会って肝胆相照らす仲になり、もしどちらかが先に悟りを開いたら、互いに師となり弟子になりあおうと約束した。シッダッタは29歳で出家したから、摩訶迦葉は10数歳の年長ということになる。

 ゴータマ・シッダッタは6年と10ヶ月の苦行の後に菩提樹下で悟りを開いて釈迦牟尼仏となった。釈迦というのはゴータ家が所属した種族の名で、牟尼は聖者を意味する。悟りをえたけれども仏は初めは布教に心を動かされなかった。そもそも仏教は自覚の宗教で、福音を伝えなければ救いはないという教えではないからである。そこで天上に住んでいる梵天が仏に法を説いて下さいと説得したので、はじめて仏は重い腰を上げられたという伝説が生まれた。先の拈華微笑に登場する梵天は、この説話を下敷きにしているものと考えられる。だから仏教教団は、それほど一気にインド社会に広まったわけではなかった。仏が釈迦族の聖者と呼ばれるように、当時のインド社会ではせいぜいが釈迦族の宗教というくらいの認識でしかなかった。仏教がインド社会に認知されるようになったのは、成道から十数年を経過してのちに、マガダ国王の信認を得てからのことである。

 だから摩訶迦葉もシッダッタが仏になったということをしばらくの間は知らなかった。むしろ摩訶迦葉の消息を先に知ったのは仏の方で、そこで仏の方からわざわざ会いに行って久しぶりの再会を果たした。さっそく摩訶迦葉は「あなたが師、私が弟子」と宣言して仏の弟子となった。もちろんこのような形で弟子になったのは摩訶迦葉一人であって、他にはない。

 そのころには仏教の修行者たちはサンガを形成して、寺院の中で集団生活をするようになっていた。しかし摩訶迦葉はこのような生活にはなじめず、相変わらず隠遁生活を続けた。だから摩訶迦葉は一般の修行者たちにはあまり知られることがなかった。あるとき髪の毛をぼうぼうにして、ぼろぼろの衣服を着、それこそ乞食のような格好をして現れたので、比丘たちは馬鹿にした。仏は摩訶迦葉が特別の存在であることを知らせるために、坐っていた坐具の半分を空けて、ここにお坐りなさいと誘い、「あなたが先に出家したんでしたっけ、私が先でしたっけ」と語りかけたのはこのときのことである。摩訶迦葉はもちろん「私は弟子ですから」と遠慮したが、仏はびっくりしている仏弟子たちに、摩訶迦葉が自分と等しい境地に達していることを説かれた。『法華経』にも仏が仏に「半座を分かつ」シーンがあるが、「半座を分かつ」ということは、それだけで二人の者が同等の位にあることを象徴的に示すのである。

 摩訶迦葉は、こういういわば苦行者タイプの修行者であったから、新しい聞法タイプの修行者とはソリが合わなかった。聞法タイプの修行者の代表は「多聞第一」の阿難で、しかも阿難は女性の出家を仏に勧めたということで、摩訶迦葉の意にそわないところがあったのかも知れない。摩訶迦葉は阿難を「このヒヨッコめ」と罵倒したので、阿難は「頭に白いものが混じったものをヒヨッコとは何事か」と食ってかかるという場面もあった。代わりに阿難シンパであったトゥッラナンダー比丘尼が、摩訶迦葉に「外道くずれめ」と言い返したとされている。

 仏は満80歳の誕生日をヴェーサーリーという町の郊外にあった竹林村で迎えられた。ヴェーサーリーはマガダの王舎城とはガンジス河を挟んで北にあるヴァッジ国の首都であった。ヴァッジ国は今のビハール州の北半分に相当する。いつもは大勢の比丘たちと一緒に、このような大都会で夏安居(雨安居ともいう)を過ごされるのであるが、その年は飢饉であったので、5人6人という小さなグループに分かれて雨期を過ごしていた。仏はそのときに死に至るような病にかかられたが、精神力で回復され、雨期が明けるとクシナーラーに向けて出発された。侍者の阿難は仏の死期の近いことを覚って、その時王舎城にいた摩訶迦葉に使者を送り、急ぎクシナーラーに赴くように要請した。阿難と摩訶迦葉の間には確執があったのであるが、何はとりあえず摩訶迦葉には知らせないという気持ちもあったのであろう。

 しかし王舎城からクシナーラーは、ヴェーサーリーからの道のりのおよそ倍の距離があり、しかも摩訶迦葉もすでに90歳を越えていたので、ついに仏の入滅には間に合わなかった。仏の葬儀は摩訶迦葉の到着を待って執行された。

 その葬儀の場で、集まった主だった仏弟子たちに摩訶迦葉は、仏の教えの記憶が生々しいうちに、それを互いに確認しあおうじゃないかと提案して、次の年の雨安居の時期にそれが実施された。こうして仏の教えが今の私たちにも伝えられた。これを「結集」という。このころにはまだ教えを文字にする習慣はなかったので、仏の教えを口に唱えて、うんそれで間違いないと確認しあったのである。

 摩訶迦葉に仏の法が付嘱されたという伝説が生じたのは、こうした史実に基づくのであろう。また摩訶迦葉の人となりを考えると、拈華微笑が中国で作られた伝説であるとしても、あながち荒唐無稽な話とはいえない。

 以上は、私が書いた「摩訶迦葉の研究」(『原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究』9 2004.5 中央学術研究所)という論文を要約したものである。これは本澤綱夫さんとの共著で、本澤さんは私の弟子ではあるが、年齢は私よりも3歳の年長である。東大在学中に坐禅を始めて、今でもときどき参禅されている。そのような因縁があったからであろう、定年退職されて仏教学の勉強を始められ、私の弟子となった。

                                            以上 (2006.02.12)

                                       <目次>へ戻る

 ご参考:
  <森章司博士は、東洋大学文学部教授、原始仏教研究の権威>
     著書:「初期仏教教団の運営理念と実際」(国書刊行会)
         「仏教的ものの見方 −ー仏教の原点を探るーー」(同)ほか 
   東洋大学森ゼミのHPアドレスを付記します。
             http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/     (岡田記)

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