★★★ 植村美芳子 CD販売のご案内

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植村美芳子プロフィール
4歳よりバレエ、5歳よりピアノを習い始める。大学在学中にジャズを歌い始め、銀座サイセリヤの新人ヴォーカルオーディションで1位を獲得、ピアニスト山川浩一氏に師事。卒業後、ジミー原田とオールドボーイズのボーカルとして活躍。その後ソロになり、山川氏のプロデュースとJunior Mance Quartetのサポートを得て、デビューアルバム「Just Squeeze Me」を録音。山川スクールでヴォイストレーナーとしても活躍。

2001年8月渡米、Effie Jansenに師事。
2007年12月にファーストアルバムでの共演者Houston Personのプロデュースにより録音、アルバムタイトル「The Way We Were」として2011年3月に発売。

     
■CD
Just Squeeze Me
(Junior Mance (piano) 他)
  The Way We Were
(Houston Person (tenor sax)他)


瀬川昌久先生の「The Way We Were」のライナーノーツより

アメリカでボーカルを勉強中の植村美芳子が、長年師と仰いだ故山川浩一氏に棒げるアルバムを完成した。

山川浩一氏は、ジャズビアニストとして活躍する傍ら、ジャズボーカルに関する該博な知識と経験を有し、自らの弾き語りのアルバムを出して好評を博した程で、多くのボーカリストの弟子を養成したことでも知られている。

中でも植村美芳子は早くから山川氏の教えを受け、既に1992年に山川氏のアレンジにより、ジュニア・マンス(P)グループの伴奏を得て、第一作アルバム「Just Squeeze Me」を録音した。

その後彼女は一念発起して2001年にアメリカに渡り、英語の勉強からやり直して、歌唱についての研鑚を積み重ねた。

その間、時々帰国して山川氏と次作レコーディングの曲目や共演者についての教えを受けた結果、2007年12月に本作アルバムをレコーディングすることに至った。

ところが、それまで元気だった山川氏が急な病いにみまわれ、喜美子夫人始め弟子たちの必死の看病も赦なく2007年9月5日に天国に召されてしまった。

美芳子も急遠帰国したり多忙な時を過ごしたが、今回漸くミキシングも完了して第2作アルバム発売に至ったわけである。


《本作アルバム制作について》
収録10曲はすべて所詮トーチソングの部類に属するが、山川氏の意向で先ず15曲位を選び、その中からプロデューサーのヒューストン・パーソンと相談して10由にしぼった。


「トーチソング」(Torch Song)という言葉は、アメリカのスタンダード歌曲についてよく使用されるが、ギネスのジャズブックによれば、「スローバラード」で、「片思いの恋(Unrequited Love)」を歌ったもの。torchは松明のことだから、to carry the torchは「報われない、或いは捨てられた恋の記憶や悲しみを身にまとうという意味だ。
トーチソングを最高にうまく歌つたのはビリー・ホリディだ、というのが通説になつている。トーチソングを歌いこなすには、その微妙な歌詞を十分に理解していないと十分に表現できない。

山川氏は、早くからスタンダード・ジャズの歌詞の意味を研究して、歌手のみならず、プレイヤーも歌詞に副ったプレイが必要なことを力説していた。同じスタンダードでも、All of Me や On the Sunny Side of the Street のように、明るく元気一杯に歌えばよい曲は歌い易いが、トーチ・ソングでは、歌曲の解釈上の技術が試される。
山川氏は愛弟子の美芳子にその能力を期待して、トーチ・ソング集を課したのに違いない。

本アルバムの美芳子の歌唱は、流石にに在米期間中の研鑽の甲斐あつて、見違える程の上達を示している。

美芳子は渡米して間もなく、第一作レコーディングにテナーサックス奏者として参加したヒューストン・バーソンにジャズ勉強の指導を受け、彼から歌手エッタ・ジョーンズを紹介された。エッタは、バディ・ジョンソンやアール・ハインズのグループで歌っていたリズム&ブルース系の歌手だが、1960年の"Don't Go To Strangers"がミリオンヒツトとなり、以降ジャズ歌手として高く評価され、70年にはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズと来日した。ビリー・ホリデイのブルース色をさらに強めた情感溢れる唱法で70年代以降ヒューストンとのコンビで長く活動した。

エッタは美芳子に非常に親切に接してくれ、多忙な中を自分のギグに連れて行っていろいろ歌の話をしてくれたりもした。エッタは、01年10月病没してしまったが、上記60年のエッタの録音をサポートしたビアニストのリチャード・ワイアンズがヒューストンと共に今回美芳子の録音に参加してくれた、という事実は、エッタとの縁があったればこそ、であろう。

因みに、レコーディングの参加パーソネルは、次の4人となった。
Houston Person(ts) Richard Wyands(p) John Webber(b) Lewis Nash(ds)


ヒューストンは、 1934年サウス・キャロライナ生まれで、ジーン・アモンズの流れをくむテナー奏者。

リチャードは、1928年カリフォルニア州生まれで、エラやカーメン・マクレー、チャールズ・ミンガス(b)と共演し、ケニー・バレル(g)の片腕的存在と目される。

ルイス・ナッシュは1958年アリゾナ州フェニックス生まれで、殆どの著名ミュージシャンと共演歴のある逸材ドラマーで日本でも有名。

ジョン・ウェバーは、一番若く65年セントルイス生まれだが、ルー・ドナルドソンやジミー・コブ、エリック・アレキサンダーらと共演歴のある実力派である。

ヒューストンは、奇しくも故山川浩一氏と同年生まれで、92年以降親交を深め、本アルバムも実質的には山川=パーソン共同プロデユースといって良く、山川氏の発病の報に接して、帰国する美芳子に託して、自身の“Personalize"と題するCDに『早く元気になって』というメッセージを添えて山川氏宛届けてきた。

最近は、日本の歌手がアメリカで著名ミユージシャンの共演を得てレコーディングする例が多いが、本アルバムのように、長年の信頼関係に基づいて、心の通った暖かみのあるサウンドに仕上がった例は他に見られない。

録音は、07年12月6日、Van Gelderスタジオで行われ、かねて山川氏が唱導していた通り、殆どすべての曲が始めのワンテイクで採用された。収録全10曲、同じトーチ・ソングでもそれぞれ歌詞の意味する感情は多岐に亘る。美芳子は完璧な発音と発生に基づいて、伸びのある声質を曲により多様に変化させて曲調を見事に表現していく。声量も豊かになり、pとfのコントラストや間の取り方が一層の効果を上げている。

1.The Way We Were 1973年の同名映画主題歌としてマーヴィン・ハムリッシュ作曲、バーブラ・ストライサンドの歌で大ヒットした邦題「追憶」の美しいメロディーで始まる。美芳子はアメリカで勉強した発音と発声の成果をフルに発揮して、情感を込めて切々と歌い切る。呼応するバックのpとtsがムードいっばいのソロを取り、美芳子は高音のコロラトゥーラでラストを華やかにしめくくる。

2.Yesterdays 1933年オットー・ハーバックの詞とジェローム・カーンの曲になるスタンダード。初めの16小節をtsとのデュオで歌った後、ミディアムテンポでスウィングしていく。tsとpの軽快なソロのあと、リズムにのって力強くエンディングヘ。ビリー・ホリデイ名昌を想起させる。

3.Left Alone ビリー・ホリデイの詞をマル・ウォルドロンが作曲した有名な曲だが、師の山川浩一氏が角川映画10周年記念作「キャパレー」でビアノを弾きマリーンが歌った縁がある。pソロのあと、bが淋しいムードのソロをとる。

4.Don't Go To Strangers 美芳子が大きな影響を受けたエッタ・ジョーンズが1960年Prestigeに吹き込んだアルバムのタイトル曲で、ベストセラーになったヒット曲。そのアルバムのビアニストがリチャード・ワイアンズだったから、彼にとっては50年前を思い出し乍らの伴奏だったに違いない。bとtsソロをはさんで、美芳子はしっとりと訴えるように歌いかける。この曲日本では殆ど歌われていないが、イーディ・ゴーメのヒット曲でもあり、サラ・ヴォーンやルーファス&チャカ・カーンも歌っている。

5.These Foolish Things 1936年英国のミユージカル主題曲として作られた味のあるバラードで、アメリカでもヒットし、ベニー・グッドマン六重奏団の演奏などのレコードが出て日本でも愛好された。美芳子は「本来ならバラードで歌われるべき曲でしょうが、どういう訳かこの曲を聴くと昔見たフランス映画「舞踏会の手帳」を思い出すので、私には経験のない事ですが、ミュージシャン達に「ハイスクール時代のブロムを思出だして」と頼んでダンステンポにしてみました」と述懐している。日本で終戦後のダンスバ―ティー華やかなりし頃は、ゲイ・セブテットなどが必ず前奏したなつかしいメロディーだ。美芳子はヴァースからじっくりと歌い、インテンポになってtsソロをはさんで心地良さそうに歌う。

6.Some Other Spring ビリー・ホリデイが何回も歌っているアーサー・ヘルツォーグの作品。彼はビリーと親しく、God Bless The Childをビリーと共作したことで知らている。いつか来るであろう恋への期待を歌った曲で、エラもベイシー楽団と歌つている。

7.Let A Song Go Out Of My Heart(歌を忘れて) 1938年デューク・エリントンがジョニー・ホッジスのアルトサックスソロのフィーチャードナンバーとして書いた曲で、エリントン楽団の唄物レコーディングはなかったが、AABA型式32小節の親しみ易いメロディーなので、ベニー・グッドマン楽団が早速マーサ・ティルトンの歌でレコーディングしてヒットチャートの首位になった。続いてミルドレッド・ベイリーやコニー・ボスウェルが歌い、後年エリントンの歌手だったアル・ヒブラーがリバイバルさせた。歌いこなすには相当の技巧を要する曲だが、山川浩一氏が早くから着目して美芳子に教えていたので、今実現したことを喜んでおられるに違いない。中間にdsソロが入る。

8.I'll Be Around 1942年映画「ジョー・ルイス物語」の主題歌として、アレック・ワイルダーが書いてビリー・ホリデイが歌つて評判になった。「あなたの今の彼(彼女)がいなくなるまで私は待っています」という何とも悲痛な唄だ。山川浩一氏が早くからレパートリーに人れて、コード進行などを教えてくれた。アレック・ワイルダーは日本では知る人も少ないがアメリカでは非常に著名で権威のある作曲家で、沢山の佳曲を書いており流石に山川氏の眼には敬服する。美芳子も感情こめて切なげに語りかけ、同感するtsソロがより添う。

9.Day Dream デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンが共作して、1940年にジョニー・ホッジスのコンボが初演した。AABA32小節のナンバー。これも山川浩一氏から教えを受けた曲の一つ。ヴァースからじっくりと歌い出いだし、tsソロをはさんでゆっくりとサビから繰り返してしめる。

10. Body And Soul 1930年ジョニー・グリーンが英国出身の大女優ガードルード・ローレンスの伴走者だった時彼女のために書いた曲がヒットして大スタンダードになった。これもヴァースから歌い、ゆっくりと1コーラスでしめくくる。
(2010-7-4記 瀬川昌久)


■動画
Something Cool
http://www.youtube.com/watch?v=QQYFas0zL-s
Dream A Little Dream Of Me
http://www.youtube.com/watch?v=Ou0xPqrgVAw
Body and Soul
http://www.youtube.com/watch?v=vrhBIPPlLT8
The Way We Were
http://www.youtube.com/watch?v=Wj7XiQyw3CU




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