雑記帳      

289.宮沢賢治

ふるさと岩手の詩人、童話作家だが

同県人として何度も帰省もしていたが今まで

その記念館に脚を運んだことは無かった

啄木記念館は道沿いにあり何度か見学もしたが

この二年やっと念願叶えることができた。

そしてこの賢治と草野心平、高村光太郎の関係が

智恵子のまち夢くらぶの’2013講座の

年間テーマ「光太郎に影響与えた人々」その

第6回「草野心平と宮沢賢治」、の最終回で

やっと見えた。

一回目は「父光雲と家族」は結納があり欠席

その後は順調に参加してきた。が

全部は書き切れない。今回だけは記しておこうと思う。

同じ詩人だが金子みすゞ、昭和初期の人だが

岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ詩人の矢崎節夫氏により

つい最近1984年昭和59年再発見されてブームとなった

と光太郎研究者の小山弘明氏が言うとおり

どなたかの力添えや協力が無ければ

賢治もこれほど知られること無く終わったかもしれない。

出版した売れない本を草野心平が中国で読み感激し

心平の同人誌に誌を発表したことが大きく

世間に知られることになりやがて心平は賢治の全集まで

刊行する

後の光太郎との付き合いになり

戦後花巻へ行く事になる

光太郎は誌の同じ仲間として

若い心平の才能を見抜き、その後多数の本を

心平は出版することになるが序文を書き

その中で絶賛している

そして同人雑誌「銅鑼、学校、歴程」に経済援助や

誌の寄稿、彫刻の写真の提供など何かと支援し活動を支えた

戦争中、疎開したのは花巻で

斡旋したのは当然心平だったのだろう

いご七年間住むことになるが

裸像の依頼もそんな関係で持ち込まれたこと思う

十和田裸像は17歳の遠足で見たが当時は

大きな彫刻と言うことで裸像に少し恥ずかしさあるはずだが

余りに堂々としている印象が強く残った。

そしてその制作現場に50年後

脚を踏み入れることになるとは

この世の不思議を感じた。そしてもう一度見たいと思ったが

それも実現し何故堂々としていたかも解ったし

光太郎の思いも良く解った。

2013.12.17