ユースホステル城福寺 |
石見銀山の話 |
ユースホステルの裏山が世界遺産になった |
2008年にユースホステル城福寺は日本ユースホステル協会の活動方向と相容れず ユースホステル運動の創始者リヒャルト・シルマンの志を継承すべく旅する人々の家 ユースハウスとして再出発することになりました。 本頁は城福寺が1966年より続けてきた大森銀山を訪れる人々への案内として作成されています。 |
石見銀山のはなし 島根県の中央部、仁摩と言う町にユースホステルがあります。 このユースホステルから山を越えた所に大森と言う町がありました。 オンボロバスが山道を登り小さな素堀のトンネルを抜けると景色は一変し・・・ 大きな山門を持つお寺や由緒ありげな長屋門、江戸時代のような町並みと寺社だらけの場所でした。 山道を分け入るとそこかしこに間歩と呼ばれる坑口があり、穴の前には冷気がたなびいていました。 その一帯を銀山と呼び蝋燭や懐中電灯で探検に行きました。 町の人以外はユースホステルから遊びに行くホステラーしか歩いていない。 そして僕らは「仁摩のお寺に泊まっている若い人たち」と呼ばれていました。 今、この町が世界遺産、石見銀山とその周辺地域と呼ばれています。 かつてユースホステルのミーティングで、この大森の話や見所案内をしていたのですが激変する環境や観光化にその頃のような案内では対応できなくなっています。 その為にいつの頃からか私達も銀山の話、案内は余りしなくなっていました。 2007年夏に銀山を目指して押し寄せる大量の観光客で町中が溢れ、多くの観光客がその対応に呆れていると言う話を聞いて、せめてユースホステルに泊まる人たちに石見銀山がどういう場所か解ってもらおうとこの文章を作成しました。 石見銀山と呼ばれている所が歴史に現れるのは鎌倉・南北朝くらいからです。 鎌倉時代後期に周防の大内氏が北辰星の託宣で石見の国、仙ノ山に銀の出ること告げられたとなっています。 後に足利氏がこれを攻め取り領有するも露出している銀鉱石を拾い集めるという作業で次第に産出量も減って衰退していきます。 この後に、博多の商人 神谷寿禎が日本海沖を北上する時に銀色に光るの山を見つけ船をこぎ寄せます。 この時、上陸した場所が鞆の浦と伝わっています。 古い時代は露出鉱を掘り下げる工法で仙の山の山頂付近から遺跡が出ています。 大内が衰退するにつれて尼子・大内の銀山争奪戦が激しくなりました。 大内氏の庇護の下に銀山開発を行っていた商人たちで栄えた鞆の浦・古龍も衰退していきます。 大内氏滅亡から後の毛利氏の領有時には温泉津に毛利水軍の本拠地を置き積出港としても機能していました。 関ヶ原の後に徳川家は大森を直轄地とし代官所を置きます。 金山の採掘技術を習得していた甲斐武田家の旧臣、大久保長安が初代の銀山奉行として派遣され採掘量は飛躍的に増大します。 しかし幕末には採掘量も減り明治5年の浜田沖地震のために坑道は壊滅的な被害を受けます。 明治政府と藤田組は近代的な工法を導入して銀山経営を再開をし、枯渇した鉱脈を掘り広げたり最新の設備を導入するも採算は取れず大正期に休山となります。 石見銀山はこのように日本が近代国家に変わって行く時にその使命を終えて、いつの間にか山陰の過疎地として静かに眠っていた場所です。 城福寺がユースホステルを始めた頃、私たちホステラーが大森の町に遊びに行くようになった70年代迄は正に忘れられた場所だったのです。 大森はこの町が世界経済に影響を与えるほどの銀を産し、多くの従事者を養っていた石見銀山だった場所と解る物は殆ど残っていません。 石見銀山は封印された柵の中の世界で、周辺は銀山を支えるための補給基地として栄えていたのです。 この地域は鉱山運営のために食料や資材の補給、鉱山従事者の休息や遊興とそれらの物資輸送業が主な産業だったのです。 銀の輸送自体は江戸期に山越えの尾道ルートに変更され港は温泉津と大浦を除いて衰退していきます。 この消えていった港が鞆が浦であり古龍なのです。そして温泉津も北回船の寄港地として銀山との関わりも変わっていきます。 現在の石見銀山を観光する場合に知っておいてほしいのは、世界遺産に相応しいと判断された鉱山遺跡とは山の中の穴や草むした溝・崖や谷にしか見えない景色なのです。 銀山域に入ると谷の左右に古い石積みが見えるところがあります。 それが石見銀山と周辺と言われる場所です。 あの頃、ヨーロッパから来たホステラーがIWAMIGINって言うのを意味もわからず石見銀山って教えていたのですが、彼らとの会話の中で忘れられない一言が有ります。 なぜ?城福寺に泊まったのか聞いて見ると不思議なことにその人の訪日の目的地が大森だったのです。 銀山に行って来たこのホステラーは不思議がる僕らに何かを伝えようとします。 その言葉が「ココニイタルタメニダイコウカイジダイハアッタ」と訳せたのです。 大阪万国博が終わり世はディスカバージャパンからアンアン・ノンノの旅行ブームへ、それでも大森に観光客なんて僕らホステラー以外はいなかった頃の話です。 2007年夏、数年前からの世界遺産騒ぎはものすごい数の観光客が押し寄せると言う現実を見せつけ、国道9号線の広域道路情報は”銀山周辺渋滞中”という信じられないような文字を掲示していました。 歩けば清々しい山の気を感じながら30分ほどで行ける道をバスに乗るために2時間近く並ぶという信じられない事態。 ものすごい人波は龍源寺間歩と代官所・羅漢寺に町並みにと、その他の場所は今でも閑散としています。 銀山への道を多くの観光客は満員すし詰めのバスの中から眺め、離れた駐車場ではなかなか来ない送迎のバスの順番待ちです。 温泉津でさえ温泉街に車が溢れてお風呂にも入れない。 銀山や温泉津を訪問した観光客が酷いところだって怒りだすしまつです。 そんな中で数組のホステラーに今の石見銀山を見るための予備知識として前出の話をしてコースを教え送り出したのです。 帰った来た彼らは「とても良いところでした」とも「時期を変えて再訪したい」とも言ってくれました。 そおかあ! あんな状態になっていてもヒントをあげればあの場所の良さが解ってもらえるのか。。 普段、良いところだって話していた僕らが現状に呆れ返り諦めていたのですが、ほんの少しの予備知識にヒントで今の銀山でも感動してもらえるのかと驚いています。 いつまでも昔の銀山を懐かしがってばかりいて現状に目を背けていた我々も、今回のようにほんの少しの助言で感動してもらえる人がいるのだったらもっと話しておこうと言う訳で長くなりましたがこの文章を作成しました。 基本的には木村幽玄師の口上を基に私の経験談で纏めてあります。 むかし 博多の商人 神谷寿禎と言う人が日本海を北上するおり・・・と続く あの羅漢寺の坊さんの口上です。 |
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