飯香岡八幡宮
路代の作品
こちらも見てくださいね
石灯籠 承応4年 (1655)
六角型春日灯籠 総高 225 p
* 竿正面銘文
奉寄進 八幡宮 御宝前 石灯籠
生国者 (は) 和州宗智郡
住処 (所) 上総国八幡村
杉井甚七郎 内 徳兵衛
為現世安穏 後世善処也
承応四乙未歴二月吉日
手水鉢 寛文2年 ( 1662 )
正面碑文 (丸に龍) 御宝前 神主伊賀守
裏面 上総国市原郡八幡住各十三人
梅田猪兵衛 和田彦兵衛 田中五良七
石川七良エ門 中村九良兵衛 田中長助
植草三良兵衛 伊藤甚左エ門 宮田甚兵衛
松原羽エ門 奥野兵左衛門 宮田理兵衛
寛文二壬寅歴九月吉日
* 左台石正面銘文 = 世話人
観音町 虎市 喜兵衛、 右面 天保十二辛丑年秋七月朔日
浜本町 万右エ門 卯之助、
仲 町 増兵衛 新次郎片町 与吉
南 町 甚松 松之助、
南新田 市五郎 虎吉
五所村 七五郎 幸吉 金蔵
市原村 茂平次 与右エ門
* 左台石正面 = 石 願主 南町 丸屋伊兵衛
* 扁額 = 上り龍 下り龍
八幡宮 ( 裏面銘文の有無は不明 )
1の鳥居= 天保12年 ( 1841=昭和45年他再建 ) 両部鳥居 ( 権現鳥居 )
石灯籠 元禄4年 ( 1691 )
春日灯籠 総高 230 p
* 竿正面銘文
奉寄進 石灯籠一基 元禄四年辛未九月二十五日
杉井三左衛門常政
1の鳥居をくぐるとすぐ右側に手前が、「参道敷石設置記念碑」隣が「御影敷石寄付者」の石碑がたっています。
参道敷石記念碑 大正4年 ( 1915 )
自然石 高さ 155p
正面碑文 花崗石敷設寄付者芳名
姓名枚数高により同数以呂波 ( いろは )順
一 七十枚東海村海保 ・ 桑田民太郎
一 十枚浜田清次郎 同 藤田泰三 同 海水浴旅館 仙巴館
一 七枚渡辺理七郎 同 中島清 太郎
同 桑田熊吉 同 丸太吉 以下省略
御影敷石寄付者 大正2年 ( 1913 )
櫛型平石 高さ 167p
正面碑文 みかげしき石のきふしゃ
南洞刻 姓名 以呂波順
三十五枚 鈴木卓爾 三十枚 丸山茂吉 二十五枚 市川石三
同 小川倉吉 同 川上生生堂 同寺島久次郎 同 木口辰五郎
同 鈴木一重 二十枚 今井欽七 同 小倉由太郎 同 田山留吉
同 株式会社第九十六銀行八幡支店 十七枚 石井徳太郎
十五枚 市川才次郎 以下省略
社司 石原常春 氏子総代人 市川石三 寺島久次郎 鈴木卓爾
大正二年九月十五日 安藤研年けい字
御影敷石寄付者
参道敷石記念碑
水盤舎木製棟札 慶応2年 ( 1866 )
正面上部墨書
天下泰平 三元三行
奉再建講浄□(□+水) 舎諸災皆除護所
御武運長久□(女+欠) 加持 慶応寅二年八月
両行司 山下左近正源庸吉
神主 市川伊賀供亮藤信明
同 市川大和正藤常忠
総社家中
裏面 判読不能 (一部がみえる)
正面 こま犬 右側 大正六年 ( 1917 )
獅子あ像 86p
あ像碑文 彫刻 根本吉輝
上台石 奉
下台石 海苔業者総代 大正四年度 氏名省略
正面 こま犬 左側 大正六年 ( 1917 )
安山岩獅子うん像 84p
うん像碑文 彫刻 堀口弥吉 安藤硯年
上台石 献
下台石 海苔業者連名 氏名省略
教育委員会史跡看板 昭和54年
重要文化財 飯香岡八幡宮本殿一棟 昭和29年9月17日指定
千葉県指定有文化財 飯香岡八幡宮拝殿一棟 昭和41年5月20日指定
社伝によれば白鳳4年に創立されたといわれ、上総国分寺附近に鎮守され
国府の崇敬もあつかったといわれています。
誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀り、関東における八幡信仰の聖地として、
千葉氏をはじめ一般庶民の畏敬を集めて今日に至っています。
本殿は正面3間、側面2間の身舎に入母屋造りの屋根がのり、その正面3間に
梁間1間通りの向拝が付き、周辺に廻縁がめぐらされています。
様式的には和様を主体とする神社建築です。(加筆=室町中期)
拝殿は正面5間、側面3間、屋根は本殿と同じく入母屋造りで、正面中央に千鳥破風をつけ三花縣魚(みつばなけぎょ)
をさげ、向拝中央は軒唐破風となっています。 妻破風には、三花かぶら縣魚をつけています。
造立年代は棟札や各部の様式手法から元禄4年(1697)頃であることが確認されています。
このような神社建築を権現造りといいます。
注意事項省略
昭和54年3月 千葉県教育委員会 市原市教育委員会
拝殿玉垣 明治44年 ( 1911 )
右側正面から左へ
@魚がし講 (裏側) 魚市場、総栄、総春 (親柱)
A浅草区茅町 精行社
B浅草区尾町 木下吉之助
C浅草区尾町 木下吉之助
D浅草区尾町 木下道太郎 本郷区湯島天神町 木下徳三
以下省略
拝殿左壁面絵馬 大正8年 (1919)
中央額解読
飯ケ岡八幡宮
世話人
須田町 通新石町 乗物町 岩本六
かじ一丁
発起人 藤森善太郎
外枠大正八年九月の収め 櫛明書
右1段目枠
@柏屋 A美土四 B紺三 C連雀町
Eかじ二 F新きじ G□関
H三河四 I新連清 J瀬戸物町
以下省略
拝殿擬宝珠 慶応3年 (1867)
銅製擬宝珠 (4こ)
慶応三丁卯年 八月吉祥日 神主 市川伊賀亮藤信明
八幡宮宝前 行司 山下左近正源常吉
上総国市原庄 八幡郷 同 市川大和正藤常忠
42当町紹介者 いろは順 石橋甚蔵 石渡熊雄 岩田万右衛門 堀口兼太郎 外木栄太郎 中略
明治四十四年五月二十五日起工 同じき八月三十日ここに成ると告さる この石垣は氏子総代人 寺島久次郎
市川石三 鈴木卓爾の三氏とはかり 四十三年十二月内務大臣の許可を請け東京市内の講員ならびに信徒の
篤きみこころになりたるものなりけり この寄付の募集は□工のことに至るまで 不尚すべてその任にありたるをもて
慷慨(こうがい)を石に勒(ろく)して芳名を千歳に伝うもなん
社司 石原常春 読みて誌す
,年代不詳 (大正ころか)
国府総社 鉄道会員捧献
神殿内木彫こま犬一対 貞享3年 ( 1686 )
金彩色獅子あ像 右側 高さ 94p
金彩色獅子うん像 左側 高さ 98p
台座 銘文
貞享三丙寅季五月吉日
上総国市原郡八幡郷 田中佐助拝 寄進 願主
勢州安濃郡津八幡町 川口助兵衛
往還側鳥居周辺
高札 年代不詳 (昭和戦後か)
高札文 1.車馬乗り入ること
1.魚鳥を捕ること
1.竹木を伐ること
右 境内において禁ずる
飯香岡八幡宮
石灯籠一対 明治41年 ( 1850 )
春日方型石灯籠 総高 259p
右側竿正面碑文 奉 日露戦役
右側基壇 観音町 発起人 青年部 発起主任
青年部頭取 佐倉卯之吉 山中子之吉
永田徳次郎
明治四十一年一月
左側竿正面碑文 納 凱旋記念
左側基壇 観音町 発起人 青年部 青年部頭取
吉野藤左久 土屋伊(2字欠落)
宇田川源(1字欠落)
明治四十一年一月
庚申塔兼道標 安永2年 ( 1773 ) 山伏角柱文字塔
正面碑文 青面金剛尊 ( 日月飛雲 1猿 にわとり )
右側面 左かさもりへの道 右たかくらへのみち 願主 喜兵衛 治兵衛 源七 甚助 森右エ門
左側面 左 江戸への道 安永二巳十月吉日 喜八 長兵衛 門左門 又左門
石灯籠 明治43年 ( 1910 )
春日灯籠 ( 高さ およそ 2メートル )
右側 正面 碑文 奉
左側 納 明治 四十三年八月□□
(吉日か)
道祖神 享和3年 ( 1803 )
切り妻石祠 ( 高さ50 幅35 奥行き20cm
正面碑文 道祖神
右側面 享和三亥十二月吉日
左側面 願主 善了
林文暁伝碑 安政2年 ( 1855 )
此君 ( しくん ) 林文暁 翁伝碑
翁、姓は岸本、名は信成、字祐助、文暁はその号なり。竹を愛して此君、林と称し、
狂歌を嗜て有磯、浜人と号す。越中富山の城主佐々蔵助成政の胤なり。
天正中、成政、豊公のために城を奪わる。時に一人の幼子は母とともに魚津
の浄徳寺に養われ、人となりて遂に岸本氏を冒し、滑川神鹿の農と
なれりという。その後数世を経て、与兵衛君なるものに至り新川郡東岩瀬に
居を移して男二人を生む。長はすなわち翁にして次は襲うて与兵衛と称す。
翁とし甫(はじ)めて十歳、東武に出て伯父岸本太郎左衛門に養われ、長じて書法を
蓮池堂に受け、俳諧を玄武翁に学びて皆その奥妙(おうみょう)を究め変化縦横、人をして
驚嘆せしむ。江戸にありて十有余年にして郷に帰栖し、月に吟じ花に嘯て(うそぶ)きて
人生の利達をしらず、超然として仙境の人のごとし、その後京摂に漫遊すること
五か年、文化四丁卯年再び東国に来る。この時大野錦羅子翁の高風を慕い、
南総八幡の郷に招じて翰(かん)墨をもって子弟に教授す。人その恭謙方正の徳に服し、風流
温籍なるを歓びて門に入り業を受ける者三百余人の多きに及べり、嗚呼また感心
なりというべし。一妻一男皆先に没す。翁蔬(そ)食、水飲楽しむ處(ところ)を更(あらた)めず、懐を
丘壑(がく)に寨(とりで)と情を謡曲に託して清貧に安んずること二十余年、天保十五季(年)
甲辰の四月二日病を得て終に没す。八幡郷に住すること三十八年、齢八十二、遠近
識も残らずも聞く者慨惜し(がいせき)せざるはなし、また翁の徳の薫るところをみるに足れり。門人その教
育を受ける者、翁の隠操の高きを慕いて後世に朽ちざらしめんと浴す。因ってその平生の
梗概一、二を録し、石に勒(ろく)してここに建てるもまた、ただその鴻恩(こうおん)の万一
に報ぜんとするに過ぎざるのみ。
ほととぎす 啼き入る山の月寂し
維時(ときに)安政二乙卯四月、発願主、丸出雲正藤原邦貞これを誌
(しる)す
法眼菫斎正祐書 宮亀年鐫 (きざむ)
天名地鎮庵句碑 昭和6年 (1931)
自然石句碑
正面碑文 天名地鎮庵宗匠俳句碑
従三位勲二等折原巳一郎額、昭和庚午歳、秀真誠筆
息災て 古希の美空や はつ鴉
知雪翁俳句の碑 明治40年 (1907)
自然石句碑
正面銘文 知雪翁俳句の碑
名月や あさなき鳥もおきている
七十七歳 月洲庵千葉県知事正五位勲三等石原健三額
安硯年せん字
句碑 安政2年 (1855)
自然石
正面銘文 長四郎 一徳
お神楽の ひょうしに昇る 初日かな
安政二年乙卯年正月 法眼□□□書 宮亀年刻
漁業組合記念碑 昭和35年 (1960)
平石 正面碑文 記念碑
千葉県議会議長 菅野儀作せん額
明治三十五年十二月 宮吉長五郎氏ほか九名の発起人により八幡五所浦漁業組合が設立され 爾来組合員はよくその伝統を継承して漁業の振興発展に努力しついに組合員七百七十九名享有 漁業権面積百六十四万坪 その生産額は海苔 魚介を主として年間一億数千万円を誇るに至ったが、昭和三十二年十月郷土の発展のため県の提唱した京葉工業地帯、市原地区造成に協力、全漁場の埋め立てに同意し、ここに父祖伝来の漁業権を放棄することになり、組合もまた五十八年にわたる伝統と歴史を閉じ、昭和三十四年七月三十一日をもって解散することとなった。
よつてここに幾世代にわたる操業の安全と農漁の神徳に感謝し境内に神楽殿を建立、奉納し、もって組合解散の記念とする。
(原文は漢字カナ文字)
八幡五所漁業組合組合長 鈴木敬介撰文 市原市長宮吉長門書
右側面 歴代組合長 裏面 漁業権 工場用地造成計画図
川上南洞銅像 昭和11年 (1936) 30年 (1955) 再建
正面銘文 南洞川上規先生
銅像移転の詞
南洞先生の銅像は昭和十一年十一月南総中学校々友会ならびに有志の発起人により同校々庭に建設されたのであるが、大東亜戦争中に供出されたのである。同校は戦時中廃校となり、終戦後市原地方事務所庁舎となり、昭和二十五年八幡町長菅野儀作氏が市原郡町村会の協力をえて再建されたのである。
その後地方事務所は移転し、県立市原一高八幡分校が設置され校庭が狭溢になったので最初建設当時の校友会八幡支部々員が相はかり、南総中学校の発祥地でもある飯香岡八幡宮の境内に移転したのである。 (原文は漢字カナ文字)
昭和三十年十一月、南総中学校々友会八幡支部
裏面
川上南洞先生銅像記 (本文省略)
昭和十一年丙子六月藤崎由之助謹撰
菅野儀作銅像 昭和58年 (1993)
正面銘文 菅野儀作の像
菅野儀作先生は明治四十年六月一日、市原郡八幡町に生まれた。千葉県立千葉中学校三年終了の後実家の米穀商に従事、かたわら町の青年団団長、警防団副団長として活躍し人望を集めた。昭和二十二年四月無投票で公選初代八幡町長に当選、以後県議会議員五期、参議院議員三期と連続当選、この間、県議会議長、自由民主党千葉県連幹事長、北海道開発政務次官、参議院外務委員長、自由民主党総務などの要職を歴任、また千葉県神社総代会会長など十指に余る会長職を兼務し、三十五年の長きにわたり県政、国政に尽瘁した。とくに第二次世界大戦で荒廃した郷土の復興に心血を注ぎ、京葉工業地帯造成、新国際空港建設の二大事業を軸に産業、交通、教育、環境、福祉とあらゆる施策を通じ近代化を協力に推進、千葉県発展の基礎を築いた。
先生は「政治は奉公」を信念とする至誠の人で金鉄の信義、清廉潔白、上下を隔てぬ温かい義理人情など名利に活淡とした天性とともに万人から慕われ、しかも果断、実行、よく人を率い、千葉県政界の主柱と仰がれた。惜しくも昭和五十六年一月二十五日、参議院議員在任中七十三才で病滅したが功績により正四位に叙せられ勲二等旭日重光章を授与された。先生は敗戦の混乱期、天が郷土に与えた偉材であり、千葉県恩人である。ここに郷党朋友相集い先生を偲んで銅像を建立、その遺徳を永遠に伝えんとするものである。
神楽殿
旧観音町側石橋 天保5年 (1834)
飯香岡八幡宮境内と濱本町との境の川にこの石橋は架かっていました。
写真上がその現在地です。ここにもかつては鳥居があったそうですが、今はありません。この画像からは奥のほうの鳥居が分かりにくいかもしれませんが、正面中央に鳥居が見られます。
下の画像が橋の欄干でしたが、今は道幅を広げるために邪魔になり、境内の社務所前に置かれています。
正面碑文=寄付
観音町、一金□□(二両か) 松田喜右衛門 一同寺島庄五郎、以下省略
裏面碑文 世話人 濱本町 鈴木興平次 永野善五郎 岩田万右衛門 木邑善助 宍倉仁助 鈴木勘助
木村久兵衛 白鳥久八 白鳥長兵衛
観音町 斉藤岩次郎 植草久五郎 赤石喜八
仲町 鈴木太七 □埜金治郎 片町 原田与兵衛 南町 大野権平 □屋□□エ門
南新田 紺屋久治郎 □(霊か) 厳島東湊町 銀治郎 亀治郎
片方の欄干は風化判読不能箇所多し 半分は散逸 文化五年戌辰六月
日露戦役記念碑 本殿裏 明治38年 (1905) 自然石 173cm
正面碑文 日露戦役記念碑 元帥公爵山県有朋書
裏面 野城(やしろ)静君碑
参謀次長陸軍中将従四位勲二等二級福島安正せん刻
明治三十八年三月十日わが軍奉天城を陥れる。翌十一日三窪の大追激戦に近衛歩兵第四連隊第二中隊一等卒野城静君、敵弾を頭部に受けて命を国事に致し享年二十有八、君は千葉県市原郡八幡町の人野城欣一郎氏の第二子なり。二歳のとき父を喪い母りよ子の訓育を受けて人となる。初め郷里の小学校に入りついで漢学を輔車学舎に修め、後上京して攻玉社に学べり、資性聡明にして篤厚に事を処すること敏活にして周密なりき、病の故をもって学業を廃せし後は家兄の久吉氏を助けて外には新聞の事業を経営し、内には家計の細故を整理し母に仕えては孝敬の道至らざる所なかりき、日露開戦の後召されて近衛隊に入るや人に語りて曰く、余すでに一身をもって君国に捧ぐ、丈夫の本懐何者にこれをいかん。ただ憾(うら)むらくは兄弟力を協( )せて存養を完(まっと)うする能わざるを古人の忠孝、安全を難んせしも故あるかなと臨終の際義友に属して家兄に伝えしめんたるものまたこの語(ことば)に外ならざりきという。ああ老母、家兄が君の死を悼むの念はさらに一層切なるものあらん。しかれども君が幸いに昿古(こうこ)の大戦に参加し一死ついに国家に殉ぜり。その忠勇、壮烈は家門の誉れとなすべく母、兄の面目を施(し)くべく祖考泉下の名をも掲ぐるものというべし。されば君は実に忠考の二道を全うせるものにあらずや、忠臣は孝子の門より出ずという話は君においてますますその実なるを見るなり。今より後君が郷りょの人の日露戦役を語るの日にはまた必ず君が功業を語らん。君の功業を語るものは必ず君が孝悌の遺烈に感奮せん。君が屍は奉天原上に草むすとも君が名は長(とこし)えに郷国の輝きぬべきなり。
明治三十八年三月十日
東京帝国大学文化大学教授従五位文学博士 芳賀矢一撰
内親王家御用掛御歌所勤務寄人従五位勲六等 阪 正臣書
安藤硯年 せん字
佐々木高行歌碑 明治24年 (1891) 自然石 192cm
正面碑文 神か□□千歳を祭る
ちちの木のかみをたのまぬ人なかりけり 高行
常宮、周宮御養育主任兼枢密顧問官正三位勲一等伯爵
佐々木高行公寄当社自詠自筆の歌
明治二十四年八月十五日 圀府義胤謹記 安硯年さん字
源建通御影山歌碑 明治33年 (1900) 自然石 230cm
正面碑文 従一位勲一等源朝臣建通八十六齢
御影山 神のめてにし飯香岡
むかしをかけく世に匂いけり 安硯年刻字
裏面 賛成者 いろは順
一段 市川石三 石原常春 市川邦道 石井作次郎 今井源蔵 今井伊之助 伊藤八太郎 岩田長吉 市川平吉
東条良平 時田清次郎 小川倉吉 小倉長蔵 小田治頭
二段 和田重雄 川上規矩 加藤久太郎 川上房吉 米沢兼次郎 永野善五郎 中島清次郎 村田市平 村田勢喜
海上信兼 井上定次郎 国吉清作 野城友蔵 山下武平 山越栄吉 松井万次郎
三段 丸山貫一郎 松田隆 福島定平 寺島久次郎 浅野清蔵 天羽常貞 早乙女若次 斎賀文太 木口粂五郎
木村兼太郎 木口辰三郎 宮吉長五郎 宮原嘉之松 広瀬徳治 鈴木卓爾 鈴木一重
明治三十三年八月十五日 発起人 市川俊太郎
藤原季満歌碑 明治24年 (1891) 自然石 210cm 自然石台 高さ100、幅122、奥行き65cm
正面碑文 巳歳往古白鳳四年この国この神社を創り仰せられし時、季満卿勅使に渡らせたまい自ら銀杏樹を植えて
詠を詠いし歌なり
君がためけふ植えそえし銀杏樹
いく世経んとも神宿るらむ
明治二十四年八月十五日 落合直亮謹書
根 敬曹鐫(せん)字
裏面 建碑人
上総国市原郡八幡町、日曜和歌会員
上総八幡 萩原昇吉 同石原常春 同川上規矩 同市川邦道
上総菊間天羽常貞 薩州鹿児島□都香質 肥後熊本帆足正久 上総茂原武田音三郎
上総一松狩野保胤 上総市原山越栄吉 上総島野和田重雄 上総藪斉藤藤吉
三河岡崎山田□ 上総八幡島田則裕 上総姉崎□上信□ 上総八幡丸曹司
上総島野三橋正容 同戸鴇田重□ 上総牛久中山□□
万葉宗匠句碑 年号不詳 自然石 65センチメートル
正面碑文 □五庵万葉宗匠句 七十翁 万葉
見わたせば 花たたずむは さくらかな
陸軍騎兵大佐従五位勲三等五級 山本米太郎
安藤硯年篆
忠霊塔 昭和30年 (1955) 角柱 およそ200p
正面碑文 忠霊塔 鵜沢□(徳か) 明書
忠霊塔正面明治天皇歌碑 昭和52年 (1977)
正面碑文 明治天皇御製
身をすてて いさををたてし人のなは
国の誉れと共にのこさむ
硯年謹書
忠霊塔裏石段上銘板
正面碑文 常在此不滅
合祀者氏名
日清戦争 佐久間吉次郎
日露戦争 清水三之助 菅崎仁助 鎗田広治 鈴木善作
日支事変 小出政次 宇田川戸身功 宇田川邦治 白鳥常吉 宮田幸吉 錦織勝次郎 石川郁雄 中村金吉
東条三郎 鎗田□次 野城錦吾
大東亜戦争 省略
裏面銘板 今次大戦に散華し一死もって国家に殉じた英霊を慰め、その遺徳を顕彰するは八幡町郷友会結成の
主目的であったので、結成以来忠霊塔の建設を計画して参ったところ、町内有識者間に建設の機運が昂まって
きたので郷友会に忠霊塔建設委員を設け実行に着手した。
建設に要する総経費は一百万円とし、この資金については八幡五所漁業組合員の厚意により浅蜊四百樽が提供され、
郷友会会員延べ四百三名の勤労奉仕で採集し、この売上代金三十二万余円を基金とし、さらに八幡町よりの補助金
三十万円と残額三十八万円を一般篤志家から賛助寄付を仰ぐことにした。 (以下省略)