八幡宿寺々
満徳寺歴代住職の墓
覚源上人  寛永11年  宝篋印塔 2m

権大僧都頼貞不生位  寛永13年 変形宝篋印塔 1.5m

為貞宥上人菩提也  寛永18年 五輪塔 1.5m

権大僧都法印頼覚和尚位  承応3年 宝篋印塔 1.8m

権大僧都覚不正位 延宝元年 五輪塔 1.2m

伝燈大阿じゃ梨法印貞雄和尚位 元禄14年 
                        大日如来像 1m

権大僧都勧覚  正徳5年 卵塔 0.4m

贈法印源香  享保8年 大日如来像 1m

大阿権大僧都法印永栓本生位 生国下総関宿 
               満徳寺一代享保10年 くし型0.5m                         

               以下省略
伝 足利義明、夫人の墓
御墓堂由来碑
小弓公方足利氏系図
伝 足利義明の墓  中世15世紀はじめか  五輪塔 総高157cm

伝 足利義明夫人の墓  中世15世紀はじめか  五輪塔 総高138cm
足利尊氏
義詮 
基氏
(鎌倉公方)
(室町将軍)
氏満
満兼
持氏
成氏
政氏
(古河公方)
高基
晴氏
義明 (小弓公方)
伝足利義明夫妻五輪塔碑 平成12年 (2000)

正面碑文  御墓堂の五輪塔
        本塔は室町時代造立の供養塔です。小弓公方足利義明夫妻の墓石といわれており市原
        の中世文化を伝える貴重な文化財です。
小弓公方足利氏系図
御墓堂由来碑  平成12年(2000)

正面碑文  御墓堂の由来   
        八幡公方足利義明 (小弓公方) は天文7年(1538) 第1次国府台合戦で北条軍に敗れ戦死、遺骸は家臣にによっていったん小弓御所 (千葉市中央区生実町) に運ばれ、小弓御所で自刃した夫人の遺骸とともに八幡の霊応寺 (八幡宮の別当寺で御朱印地150、のちに満徳寺が寺格を受ける) の境内に葬られ、やがて五輪塔が建てられ家臣は墓のそばに御堂を建て夫妻の像を祀り、その冥福を祈ったことから、このあたりを御墓堂と呼んだという。

                                 改葬移転 (省略)
                                     平成十二年三月十九日
                                          真言宗豊山派地福山満福寺
 
満徳寺
御墓堂墓地
妙長寺
日蓮上人像
御題目塔・日蓮大菩薩塔
日蓮大菩薩碑
立正大師碑
御題目塔  文化12年 (1815)  角柱 163cm

角柱正面解読  南無妙法蓮華経
左側面  八正山妙長寺
右側面  北島氏先祖累代
裏側面  文化十二亥歳、四月上浣八、隆文院日瑞花押
日蓮大菩薩塔  貞享元年 (1684)  四方唐破風位牌型  289cm

  塔身正面解読  南無日蓮大菩薩  開山延命院日行聖御作  石体読経宗祖大菩薩安置
  左側面  維持安永九庚子年奉備五百遠忌御報恩射徳也
         修達院妙蓮日行、修得院浄蓮日敬、覚夢院明到日理信女
         当山十七法名日定代、建立当村南町、堀田吉兵衛
  右側面  貞享元甲子天冬十月追福霊
         奉唱満玄題一万部結千五百人員
         再興主、江戸鎌倉河岸、菊地平兵衛建、法号入九十七人、勧進主秋田亦兵衛
  裏面    奉、唱玄題三千部、誦自我偈一万巻
         奉備五百遠忌御者也、無縁法界万霊、法号、真如宗演日□、真月妙満日定
         江戸八丁堀今泉覚左衛門、同神田三河町喜野都母、同神田本堂建立講中、
         同神田小柳町木村七良兵衛妻

日蓮上人像  寛文4年  (1664)   日蓮上人坐像  51cm

背面解読  「風化判読不能」 十七 「風化判読不能」 菩提也
        寛文四甲辰
 
      右手に笏を、左手には巻子を持ち頭巾をかぶり結跏趺坐の像である。

[房総の石仏百選]  町田茂氏筆  この稿は町田氏のご好意により全文掲載しております。

 妙長寺本堂左手の小さなお堂の中に、石造日蓮上人坐像が祀られている。あまり大きな像ではないが、一見尼僧のようなお姿にも見られ、おだやかなお顔と慈悲深い眼差しは、人にやさしく語りかけるようである。右手に笏を、左手には巻子を持ち、頭巾を被り結跏趺坐の像である。像の背面には寛文四辰(1664)の文字が読み取れる。他に人名のような文字も彫られているが、残念ながら判読することが出来ない。

 この石像は、門前にある貞享元甲子天十月(1684)建立の大きな塔に、「南無日蓮大菩薩 開山延命院日行聖人御作 石體讀經宗祖大菩薩安置」とあり、その存在は以前から知られていたが、長い間行方不明であった。それを先代の住職が昭和十一年頃本堂下の土中より掘り出されたものと聞く。

 『千葉県市原郡誌』によれば妙長寺は、宝暦十三年(1763)十二月五日の夜、失火により堂宇をすべて消失したとある。したがってその時に日蓮上人の石像も焼土の下となったのではないかと想像される。出土を記念して作られた版画には、石像の日蓮上人の図柄が描かれ、「土中出現石體日蓮大菩薩」とある。

 日蓮上人は貞応元年(1222)安房郡東条郡小湊に生まれ、十二歳で清澄山にの上った。その後鎌倉・比叡山・高野山などで修行し、建長五年(1253)清澄山に帰った。そして清澄山の行場にこもり、練行満願の日に旭の森の一角に立ち、「南無妙法蓮華経」と唱え、法華宗が誕生したという。このように千葉県は、日蓮上人ゆかりの土地であるが、日蓮上人の石像は妙長寺以外には見られないようである。
日蓮大菩薩碑   明治14年 (1881)  自然石 112cm

  正面解読  南無日蓮大菩薩、為六百御恩忌報謝
  裏面     明治十四年十一月造立
          施主六十三歳□、安藤常三郎、長男同源太郎、次男同市造
          当山三十五世正学院日□□
立正大師碑  昭和6年 (1931)  自然石  133cm

  正面解読  立正大師、為宗祖日蓮大菩薩、六百五十遠忌報恩  
手水鉢  年代不詳  角型

     角面解読  □(系か) 溢、盈 (えい)、滾滾 (こんこん)、甘泉

本堂再建記念碑  平成6年 (1994)  平石

   正面解読  本堂再建記念碑
           日蓮大聖人立教開宗第七百五十年記念事業
           八正山妙長寺新本堂建立浄財喜捨芳名
           落慶平成六年五月吉日、第四十世慈定院日久代    以下省略
手水鉢
本堂再建記念碑
八幡満徳寺
八幡1086
霊光寺道標 明治36年

角柱 109cm
正面碑文
 新四国八十八ケ所移し
 姉ヶ崎町字椎津山谷
 これより南の方へ三里姉ヶ崎  よりおよそ三十町南に入る

左側面 
 道路修理に昭和三十七年十一月三日当境内移建 満徳寺 大島賢昭
右側面 
 明治三十六年四月建之
南無遍照金剛碑兼巡拝塔 
 天明4年 (1784)
     角柱 103cm

正面碑文 南無遍照金剛

左面 移讃州崇徳天皇寺
    七十九番満徳寺


右面 とき天明四年龍集甲辰
    三月二十一日

裏面 願主 現住法印暎光
御墓堂句碑 昭和6年
  自然石 98cm

正面碑文 
 寿蔵碑 天名地鎮庵
      秀信宗匠行額


松風のこぼれて涼し御墓堂
屯忌堂 子雀 七十七
不動明王立像 寛文6年 (1666)

舟型 高さ164、幅62、厚さ35cm

台座正面碑文 法印宥清上人
 為御菩提也寛文六丙午年
  七月二十二日 敬白
一石六地蔵  延享3年 (1746)  石幢型 153cm

基壇正面碑文  奉造立供養六地蔵尊像 願主御墓堂浄観
           延享三丙寅十月吉日
左側面  浜本観音講中十一人、観化念仏、善男善女
       同志念仏講中、浜本善男、同所若衆、南新田善男女
       片町南善男、観音講中、倉町善女人
右側面   自他法界平等普利 導師阿遮梨法印広運
裏面    頓如浄眞信士 心光貞信女 清誉浄観法師
       宝暦五亥三月二日
宝篋印塔  享保11年 (1726)  角柱宝塔 232cm

塔身正面碑文
 経云況有衆人或 見塔形或聞鐸声、或聞其名ヌ当其影罪障悉減所、
 求如意現世安、隠後生極楽矣

左側面 享保十一丙午 三月二十四日

右側面 願主 権大僧都法印永運 現住宥珍

裏面   願以此功徳 普及於一切、我等興衆生、皆共成仏道
地蔵菩薩立像 

    万治3年 (1660)

正面 奉新造立、地蔵菩薩為円□
    端(か)童子也
 ときに万治三年庚子
          五月十八日


      聖観音像か=年代不詳
       聖観音坐像か 無名

本堂記念碑 平成17年
角板石 正面碑文 本堂再建碑
江戸時代後期の満徳寺境内図

              飯香岡八幡宮文書

現在は右側三分の二ほどの面積になっています。
稱念寺
                  千葉氏ゆかり、大巌寺念仏道場として創建    
            八幡の500年を見守った稱念寺の歴史と文化財


稱念寺の創建は中世後期で不詳だが、「市原郡誌」は天正3年(1534)4月としている。
布施英俊住職によれば開山(創始者)は、西誉上人で、勧請開山(開基)を安誉上人虎角大和尚という。下総千葉 (中央区) の大巌寺の第2世であった虎角上人が荒廃寺に 「念仏道場」を
創建、以来500年 「口称念仏」の、法灯を受け継いでいる。

山門 昭和57年 (1982) 再建  切妻屋根薬医門形式  一間一戸袖塀   扁額銘=龍燈山
      昭和57年 12月吉辰、高宮光□謹書 (印)
お題目塔  昭和60年 (1985)
      角柱   高さ 198、幅 43、 奥行き 37cm
      上台石 高さ 41、幅 65、 奥行き 37cm
      中台石 高さ 14、幅 85、 奥行き 79cm
      下台石 高さ 8、 幅 116、奥行き 111cm
    
正面碑文  南無阿弥陀仏  忍誉  (花押)
   
右側面
   虎角上人荒廃寺を復興し念仏の道場を創設して中興一世となるに及び幕府直轄治外法権の特別寺として明治に至る。寺領、境外地、参道、総門、地蔵堂、観音堂、経蔵、鐘楼堂、土蔵、書院、庫裏、付属棟、間口10間、奥行き8間の本堂等その結構は盛大を極めたるも、明治26年、続いて28年浜本町より出火の類焼にあい、本尊仏を無事に移し奉るのみにて鐘楼堂を残して一切を灰塵に帰し、民家を移築、仮堂のまま第二次世界大戦に至る。たまたま開宗800年の佳き年を迎えて檀信力を結集しようやくにここに堂宇の完成を遂げ宗祖の恩徳に報い奉る。

左側面  浄土宗龍燈山 大巌寺二世虎角上人創設念仏道場  光明院稱念寺
お題目塔兼万霊塔  嘉永4年  (1851)

宝珠   高さ 43、 幅 18、奥行き 20cm          高さ 23、 幅 61、奥行き 42cm
角柱塔身  高さ 108、幅 61、 奥行き 26cm  上台石  高さ 23、 幅 61、 奥行き 42cm
下台石  高さ 29、 幅 87、 奥行き 58cm   石垣    高さ 54、 幅 119、奥行き 88cm

塔身正面碑文    
南無阿弥陀仏 祐天 ( 花押)   増上寺前大僧正

右側面  大巌寺第二世 虎角上人草創道場

左側面  法界万霊塔

裏面    嘉永四天三月造立 龍燈山稱念寺  上台石裏面  当村南町 石工 安藤佐平治

山門右手前にある。 大きく「南無阿弥陀仏」を記した位牌型石塔は経塔 (六字名号塔) :兼万霊 (ばんりょう)塔という。 丸みのある独特の六字名号は、増上寺大僧正・祐天の書で、万霊はこの世のすべての霊を宿らせて回向するという意味があるという。
地蔵堂 大正13年 ( 1924 ) 再建
      石造  高さ 233、幅 200、 奥行き 200cm
      左側面 銅板銘   善光寺団参人名

地蔵菩薩像   明暦2年 ( 1656 )
   地蔵菩薩立像  高さ 153、 幅 40、奥行き 30cm
               錫杖、宝珠
    上台座  高さ 29、 幅 50、 奥行き 47cm
    下台座  高さ 12、 幅 60、 奥行き 60cm  
   
江戸時代の石像物は5基、中でも山門左手の地蔵堂深くに鎮座する地蔵菩薩立像が注目される。台石が2段、左手に宝珠、右手に錫杖を保持、柔和な顔立ちはあの世でさまよう衆生を救済するという。長い年月、八幡のひとたちの心の支えであったことを窺わせる。像は高さ153cmを計る。背中一面の碑文は経文や造立年月、趣旨、寄進者名を刻むが、多年風雨に晒されて文字も風化し、加えて像と堂との間隔が最小10cmにすぎない。限られた条件下で拓本は難しかったが、建立は明暦2年 (1655) 3月、「光明遍照、十万世界、念仏衆生、摂取不捨」の観無量寿経偈 (げ)文、江戸小船町念仏講衆、上総八幡、生実大巌寺第9世、森誉歴天上人、千日施行の菩提などを刻んでいる。

                                         
                                        左から  聖観世音菩薩像   明暦元年 ( 1655 )
                                            聖観世音立像 高さ 22、幅 48、奥行 48cm 
                                            台座  高さ 22、 幅 48、 奥行き 48cm
                                            正面碑文  稱誉讃貞信士 明暦元未十一月十三日
                                                
                                            阿弥陀如来像  元禄10年 ( 1697 )
                                          阿弥陀如来立像  高さ 129、 幅 30、 奥行き 25cm
                                            上蓮華座     高さ 25、 幅 58、 奥行き 58cm
                                            下蓮華座     高さ 27、 幅 56、 奥行き 56cm
                                            台石        高さ 74、 幅 75、 奥行き 74cm
                                        台座正面銘文   元禄十丑天 十月十五日
                                     講中三十三人 浜本町 念仏一蓮託 講外五人 女講中二十六人 
                                     右側面  幻了童子 逆修 陽室妙信女 元禄十丁丑十月十一日
                                            
                                     聖観世音菩薩像  元禄5年  ( 1692 )
                                     舟形聖観世音菩薩立像  高さ 127、幅 52、 奥行き 31cm        台石 高さ 31、 幅 46、 奥行き 48cm
正面銘文 惣名妙頓 浜本町念仏講両町逆修菩提のためなり  元禄五壬申年十月十五日 了心 法春
       山木町二人 はもと丁十人 よこ町八人 中町二人 ご処八人 倉丁十九人 妙久 法行五十人
台石右側面  西村氏 墓 彦 『埋め字』 ( 逆さ=転用 )
一石六地蔵  元禄6年 ( 1693 )
六地蔵は死後六道の世界で迷える亡者を救済するという。 台石、蓮華座の上高さ70p、屋根部分を欠落している。6面それぞれに合掌したり、薬こ、宝珠、ばん、数珠などを保持した地蔵尊菩薩立像が彫られ、銘文は元禄6年の建立日と2字法名、童子、童女名を刻んでいる。

六面石幢六地蔵   高さ 90、 幅 32、 奥行き 32cm 屋根欠落か
蓮華座  高さ 24、 幅 50、 奥行き 50cm 台石 高さ 16、 幅 58、 奥行き 56cm
第1面 正面 銘文 (合掌) 元禄六癸西暦二月二十四日 了心 住誉代 法春
第2面 ( 右回り ) (薬こ) 蓮誉 一曳、映徹、本誓、妙誓、寂春、周香、妙栄□
第3面  大誉、新光、心誉、妙清、緑寿、妙誓、本誓、妙雲、
第4面 延命地蔵  ( 錫杖、宝珠 ) 妙善、吉法童子、浄栄童子、夏貞童女
第5面 ( ばん ) 妙月、妙雲、主哲、梅雲、妙貞
第6面 ( 数珠 ) 幻泡、 栄夏、妙香、単寿、法茂、妙元

中世五輪塔群  室町後期か

無縁塔前の小型五輪塔、宝篋印塔群はおよそ50基をかぞえる。無銘だが年代は室町中後期、僧侶か武士の供養塔であろうか。このころすでに墓碑を立てるだけの権力と経済力を持ち合わせた人たちが存在したことを示して興味深い。八幡の起源や町域形成の歴史を考える上でも重要な遺跡といえる。
山門  鐘楼 再建記念碑  昭和57年  ( 1982 )
平石 高さ 125、 幅 184、 厚さ 16cm
中台 高さ 33、 幅 31、 奥行き 46cm×2
台石 高さ 77、 幅 268、 奥行き 174cm
正面銘文  山門 鐘楼 再建記念碑 

そもそも龍燈山光明院稱念寺は大巌寺第二世安誉虎角上人の草創になる浄土宗の名刹として本堂、観音堂、地蔵堂その他諸堂宇を備え、永く檀信徒と共に宗祖法然上人の遺教を守り、口称念仏の法灯を継いでいたが、明治年代に至り度重なる火災に見舞われ、本尊阿弥陀如来、聖観世音菩薩の両尊像と鐘楼堂を残しその他の堂宇および宝物類ことごとく焼失した。その後仮堂を建立して両尊像を安置し法会を勤め
てきたが、その間唯一残った鐘楼も永い歳月の風雪に耐え兼ねて倒壊の危にさらされたので修理復興を図ったが、時正に戦時下であったため実現できず心ならずも再建の日を念じ解体保存するにとどめた。しかるにその間戦禍はますます激化し、梵鐘は他の金属類と共に太平洋戦争遂行のため供出された。戦後平和の到来により檀信徒の浄財および汗の奉仕によって現在の本堂が建立され、山門ならびに鐘楼の再建の機運高まり、ここに高祖善導大師千三百年大遠忌、宗祖法然上人御降誕八百五十年を記念して広く檀信徒に浄財を仰ぎ、両楼の完成をみるに至った。
よつて広大なる仏恩と結縁檀信徒各位の厚志に感謝し、左の聖碑を掲げる次第である。
                                               昭和五十七年十二月吉辰 恭誉真教敬白
鐘楼   昭和57年 ( 1982 )

梵鐘銘文  南無阿弥陀仏

上総国市原市八幡 龍燈山稱念寺 第三十世忍誉代
昭和五十五年高祖善導大師一千三百年御遠忌
昭和五十五年宗祖法然上人御降誕八百五十年記念
                 高岡市鋳物師 老子次右衛門
為菅野家累代諸霊報恩謝徳
芳光院殿澄聚楽妙泉清大姉霊
為普明院殿光誉儀範作清大居士霊
徳照院殿明誉澄月安善浄大姉霊
子孫長久福恵増上大菩提