@ 庚申塔
@ 庚申塔 元禄6年 ( 1693 )
正面 唐破風位牌型庚申塔 ( 130cm )
塔身正面 青面金剛像 3面1面6ぴ 右手@欠落 A三又鉾 B矢
左手@けん索 A輪宝 B弓
日輪飛雲 月輪飛雲 1猿像
右側面碑文 童子像 元禄六癸酉天
真野五良右(衛)門 松原善四郎 鈴木三右(衛)門 宮西作五良 大塚清兵衛 大塚権左(衛)門
左側面 童子像 三月十六日
根本長介 明星治良左(衛)門 青木五郎兵衛 也田源左(衛)門 中村吉左(衛)門 多田金右(衛)門
A 馬頭観音 嘉永6年 ( 1853 )
駒形文字塔 正面 ( 馬面線画 ) 馬頭観世音
左側面碑文 嘉永六□ ( 剥落 年 ) 三月
B 手洗石 明治40年 ( 1907 ) 水鉢
正面碑文 奉納
左側面碑文 明治四十年十一月 願主 新田 錦織源七郎
C 遷宮記念碑 大正六年 ( 1917 ) 自然石
正面碑文 猿田彦神社遷宮記念碑
裏面 大正六年十月一日颱風俄に起こり怒涛天を衝いて来たり、河水膨溢して堤を決し福貴橋畔
の古祠将に害を破らんとす。恐かく何ぞ堪えん。茲において堀口松五郎は其の所有地を割き
これに寄付し、長えに神域となす。同十一月十日社司石原常春、厳かに遷宮の式を行う。
世話人 堀口兼太郎、大野富蔵の二氏、多年一日の如く同心協力し、維持基金、貯蓄の法を
確立し、歳に多きを加うるに至ら〆たる。その志、固ことに没すべからざるものあり、故に金を
きょ醵して碑を建て、その事跡の梗概を後世に伝う。
嗚呼聖沢のおよぶところ誠にこの如くにして信徒の至誠斯に現れ而して赫赫たる神威万世に
輝かん。 大正六年十一月建てる。
(原文の漢字カタカナを現代文にしました。)
畏久裳神農羔心太不止見天
無駄登古方仁仰義眞都良武 川上規矩
D 遷宮記念碑 昭和36年 ( 1961 ) 自然石
正面碑文 猿田彦神社 遷宮記念碑
裏面 往昔以来福貴橋畔に鎮座ましまし明治年間にいたり、世話人堀口兼太郎、大野富蔵の両氏を
始め信徒一同により初めて社屋を造らると、尋で大正六年來襲せる大颶風遇いて損壊し、
改築して現在におよぶ。ただし往昔祭簸祀に、また颱風被災に際し、神域を公に記録せざり
しため間神威の喪失あり、昭和二十年以後国情の大変革に伴い農地の改革、海面百余万坪の
埋め立て、京葉工業地帯造成に因る道路の新設、新川の堀窄二、三度社域を更うるに至る。
氏子町民一同恐かく心痛大なり。幸いに敬神家、市原町長宮吉長門の配慮に依り神域の
代替地として現地十五坪の奉献あり、長えに神慮を安じ奉ることを得たり、茲において氏子町民
相計り猿田彦神社々域築造せん、今委員会を結成し、町民信徒に醵金を要請し、神域を築造
し、華表、玉垣、標石を建造し、神体社屋を遷し奉る。昭和三十六年五月吉日、
社司市川教生氏厳かに遷宮式を行い、碑を建てその史跡の梗概を誌す。
堀口保郎謹選
A馬頭観音
B手洗石
C遷宮記念碑
D遷宮記念碑
手前 日の出山碑 年号不肖 ( 昭和はじめか ) 自然石
正面碑文 日能(の)でやま 角印 2こ
奥 川上孝悌句碑 昭和 6年 (1931) 自然石
正面碑文 川上孝悌
母親に助けられつつ掾に経立ち、遠山里を懐かしく見る
君明治四十五年四月十一日当町に生まる。父規矩、母喜恵その第七子也大正十四年三月郷校を卒業し、進んで東京中学校に学び、後商業科に転
学す。昭和四年三月さらに東京植民貿易語学校に入学せり。五年五月二十五日徴恙に罹り、中秋のころ病い大いに怠りしか、越えて六年一月二十三日病勢俄に革まり遂に起たず生を距てる。十八年九ヶ月、君体躯偉い大年十有六、身長五尺五寸三分、体量二十一貫八百目という、資性温雅、率直、寡言、事に当たるや果敢に屈境せず。而て情素、友誼に厚く物あれば即与え、身毎に一傲毫を有せずとその玲瓏たる精神、その綽綽たる広量は夙に人は愛敬する所なり。同人など君が訃音に接し、洵に愛慕の念に堪えず、故に君が最後に詠じ、且自署したる和歌を石に勒して書室の庭前に建て(1字欠落)千載に伝う。嗚咽誰かこの歌を読んで涙をながさざるも(2、3字欠落)
@白山神社跡地碑
A日枝神社碑
@白山神社跡地碑 平成5年 (1993) 角柱碑
正面碑文 白山神社跡地
裏面 平成五年三月十九日 飯香岡八幡宮に移築
A日枝神社碑 明治18年 (1885) 自然石平石
正面碑文 日枝神社
裏面碑文 明治十有八年酉十一月吉祥日、観音町一同
有志者、鈴木一重、寺島久次郎、中島市太郎、小川倉吉、高山□七
世話人、荒川浅次郎、松田卯之吉、佐倉牛松、鈴木三次郎、
松田岩蔵、米沢利八、石井常五郎、青木亀次郎、山中巳之蔵
三山碑 (八幡1202) 自然石 大正8年 (1919)
正面碑文 羽黒山神社 月山神社 湯殿山神
(日天) 大正八年五月八日
(月天) 大成教敬愛講社 社長 宮原さく 七十三才
台石正面碑文 一金五円高橋ラムネ屋 同三円大塚元右エ門 同二円高橋喜太郎 同和田米蔵 同三好岩吉 同小菅つげ 同能満井原茂 同一円五十銭大塚勘太郎
同一円大和清五郎 同紅谷吉之助 同高田喜エ門 同和田定右エ門 同金親浦吉
同五十銭小川磯吉 同小川久次郎 同中台種吉 同大塚菊次郎 同川瀬忠司 同高山弥助 同今泉源次郎 同田仲所太郎 同和田常次郎 同小野まき 同林菊次郎 同清宮正 同佐野久吉 同稲坂善次郎 同笠川なを 同黒川はつ 同今井ます 同森川きよ 同石橋健次郎 同高田幸三郎 同小川はる 同川瀬三郎 以下省略
敬愛講世話人(敬愛か) 高橋ラムネ屋 大塚元右エ門 高橋喜太郎 大和清五郎
三好岩吉 小菅つげ 紅谷吉之助
力石 3こ 力石 1 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 長さ 65 幅 45 厚さ 22cm 無銘
力石 2 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 長さ 65 幅 45 厚さ 22cm
正面碑文 三拾五〆目 観音町
力石 3 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 長さ 66 幅 36 厚さ 25cm
正面碑文 三拾五〆目 観音丁
社名碑 明治15年 (1940) 自然石 高さ 130 幅 105 厚さ 30cm
台石 高さ 30 幅 104 奥行き 90cm
正面碑文 金刀比羅大神 富士獄大神
旭□(総か) 漁者沐手敬書
裏面 明治十五壬午年八月十七日奉紀
世話人 松田卯之吉 石井常五良 山中巳之蔵 大川吉平 服部音吉 桜井勝五良
松田岩吉 中島豊吉 宮本平次良 古山保三良 杉井長三良
石工 安藤常三郎 大坪邨(村) 佐久間嘉七
力石 4こ 力石 1 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 高さ39+土中 、最大幅 34、 最大厚さ 18cm
無銘
力石 2 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 高さ53+土中 最大幅 43、最大厚さ 25cm
正面碑文 六月二十八日 四十七貫目 力石□□(田か)□(三か)□町善太郎
力石 3 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 高さ82 最大幅 40、最大厚さ 28cm
正面碑文 奉納 八幡宮力石 五拾貫目 江戸霊□(岸か)島 □□(木場か)町
力石 4 年号不詳 (江戸後期か) 玉石 高さ46+土中 最大幅 34、最大厚さ 23cm
無銘
神名碑 明治35年 (1902) 自然石 高さ 72、最大幅 43、 厚さ 11cm
正面碑文 海津見大神
裏面 氏名削除跡 (6人分) 明治三十五年五月八日建立
手水鉢 明治41年 (1908) 高さ 31、幅 60、奥行き 30cm
正面碑文 奉納
左側面 松田 菊地 根本 (名前葉剥落) 木村甚八 白鳥平次郎 白鳥作次郎
木村(名前葉剥落)
右側面 鈴木、石井、 吉田、初芝 (名前葉剥落)
鈴木 、吉田、根本、石井 (名前葉剥落)
@ 馬頭観音 寛政9年 (1769) 櫛型馬頭冠像 正面碑文 寛政九巳天 八月 (剥落)
A 庚申塔兼道標 安永10年 (1781) 山舟型庚申塔 正面 青面金剛像=2目1面6ぴ
右手@宝剣、A三又鉾、B矢、 左手 @裸婦、A輪宝、B弓
日輪飛雲、月輪飛雲、邪鬼、3猿、2童子像
正面碑文 右、東金道、庚、安永十年丑、三月吉日
左、江戸道
台座 風化判読不能
B 子安地蔵 年代不詳 (江戸後期か)
子安地蔵か 碑文=風化判読不能
C 子安地蔵 大正5年 (1916)
正面碑文 判読不能
右側面 大正五年十一月二十四日 森、大塚、荒川、永 (以下剥落)
題目塔兼万霊塔 昭和40年 (1965)
正面碑文 南無妙法蓮華経 供、法界万霊大菩薩□也
八正山三十九世日定(花押)
胴埋塚の由来碑 平成17年 (2005) 自然石 119cm
正面碑文 胴埋塚の由来
戦国時代、桓武平氏の末裔、千葉氏の宗家争いに、馬加(現在の幕張)城主、千葉康胤は一時は勝利を治めるもその後攻められて敗走し、村田川の畔にて自刀し、首は持ち去られその胴は、雁田川の畔に埋めたと言い伝えられその処を胴埋塚と称するようになった。
その後、墓守や土地の人たちが共同墓地として利用するようになり、また水難者、行路病死者など御許不明者も埋葬されるようになった。なお、登記上の名義人は地元利用者の代表者たちがなっている。
平成十七年十月吉日 胴埋塚保存会
胴埋塚供養塔 昭和45年 (1970) 平石 182cm
正面碑文 当胴埋塚基 (墓) 地は年治 (次) 不承 (詳) なれども、市原市八幡宿観音町住民の共同墓地として私ども御先祖様とともに永遠の眠りにつく清浄なる聖地であります。古来、山越吉四郎以下四十七名持ちとして管理されて参りましたが、当市原市八幡町も大工業地帯として発展し、周囲の環境も大形の変革を来し、従来の方法にては維持、管理の点において遺憾ながら欠点が多々あり、このたび私ども墓地使用者同志相謀り、一応境内地を整備し、当墓地開処以来当地に眠る有無両縁法界万霊回向のために、供養を建立し、追善の誠を捧げ、格精霊の燈大菩提を祈念する次第であります。尚本事業達成のため当町内各寺院にご住職のご協力ならびに多大の浄財をご寄付賜りました皆様のご性名を刻し、永く感謝の意を表する次第でございます。
お題目兼万霊塔 天明2年 (1782) 角柱 100cm
正面碑文 南無妙法蓮華経 万霊 右側面 天明二壬寅五月 左側面 惣施人 南北観音町
基段 世話人、新兵衛 八平 治右衛門 与平治 弥平次 七右衛門
出羽三山碑 嘉永6年 (1853) 角柱 76cm
正面碑文 大日如来金剛界像 月山 湯殿山 羽黒山
右側面 吉三良 善五良 紋助: 倉吉 庄左衛門 甚蔵 磯五良 勘助 新五良 次良吉 与吉 辰蔵
弥太良 治三良 勘三良 茂右門 寅市 栄蔵 茂十良 与之助 松五良 辰五良 治兵エ
七蔵 彦太良 元吉 弥五良
左側面 嘉永六丑年十月吉日
延命地蔵菩薩立像 年号不詳 (江戸時代後期か) 101cm
台座碑文 三界 万霊 平等 利益 台石 年号 施主など判読不能 (コンクリート埋め込み)
馬頭観音 年号不詳 (江戸時代後期か) 自然石 60cm
正面碑文 馬頭観世音菩薩 裏面 施主菊地重吉
馬頭観音 年号不詳 (江戸時代後期か) 切妻屋根 正面碑文 馬頭観世音
馬頭観音 年号不詳 (江戸時代後期か) 切妻屋根 正面碑文 風化判読不能
八坂神社 改築記念碑 昭和37年 (1962)
自然石平石
正面碑文 八坂神社改築記念碑
裏面 八坂神社改築記念寄付者氏名
省略
南総学校跡地看板 平成15年 (2003)
解説文 私立南総学校の由来
私立南総学校は市原郡八幡町の川上南洞 (規矩) 先生が明治三十一年四月五日に千葉県皇典講究所分所普通学部として飯香岡八幡宮の敷地内に設立され、その後この地に移転したものである。
同校は地域の有為な青年のため、中学程度三年間の教育を実施し、最盛期には生徒数三百を数え卒業生は約二千五百名に達したが、昭和十九年三月三十一日をもって太平洋戦争の応召による教師補充困難により廃校になったものである。
この間、明治三十四年に飯香岡普通学校、明治四十一年南総学校、昭和二年に南総中学校と改称し、その後廃校後の校舎を継承して昭和二十七年に定時制の県立市原第一高等学校八幡分校が設置されたが、昭和四十年に県立京葉高等学校の設立によって発展的解消をしたものである。
市原市における中等教育草創期の記念地としてこの碑を建立したものである。
平成十五年六月吉日 市原市教育委員会
南総学校跡地碑 昭和60年 (1985)
平石 正面碑文 南総学校跡地
ボーイスカウト千葉連盟の碑 平成15年 (2004)
正面碑文 日本ボーイスカウト千葉連盟結成ゆかりの地
裏面碑文 明治四十一年 (1907) イギリスにおいて創始したボーイスカウト運動は大正十一年(1922) 日本連盟結成に至った。 千葉県においては第二次大戦前、少年団としての存在は認められたが、本格的には戦後、占領軍千葉司令部の働きかけにより、昭和二十三年 (1948)ボーイスカウト結成準備のための研究会が県庁において開かれたのに続いて第二回および、第四回が、また千葉県初の公認指導者会が昭和二十三年 (1948) 十一月二十四日に、第二回も、翌年一月二十五〜二十八日に当地、八幡公民館において開催された。その結果、軍政部より許可が出て船橋市とともに市原第一隊、市原第二隊の誕生を見、千葉県連盟結成に至り、今日市原第一団、上総地区をはじめその発展に連なってきている。本碑を建立し後世に伝えるものである。
平成十五年五月
財団法人ボーイスカウトに本連盟
総コミッショナー
千葉県連盟理事長 鈴木国男記
市原第一団育成会長