| パーキンソン病との出会い |
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昭和35年 5月22日 岩手県の南部富士の岩手山の見える 西根町に生れる 高校生までは ちょっと体が大きいだけで ごく普通の女の子だった パーキンソン病 今でこそ テレビなど報道番組で 取り上げることもあり 名前ぐらいは 聞いたことがある人もいると思うが 20数年前 私が体の異変を感じた頃 パーキンソン病の人に会ったことはなく病名を聞いたことさえなかった
もうすぐ 高校生活も終わろうとしていた青春真っ只中の18歳のとき 駅のホームでならんでいて 支えがないと立っているのが辛い 体が重く感じ 細かいことが思うように出来なくなる かといって 何処が痛いとか 確かなものがなく おかしいと思いつつも 就職し1年半仕事をした その間にも 手仕事が思うように進まず 動作の鈍さもましていった 不思議なことに 起き掛けはそのころで20分ぐらいは 何の違和感もなく 普通に動けていたが その時間も 短くなっていく 病院で診察を受けてみた
その頃は まだ神経内科は無く パーキンソン病も50歳前後の病気ということで 診断は付かなかった
仕事もやめ 家で家事手伝いをしていた 私のような 症状の人を見たことのない両親も苦しんでいたに違いない 時にして 残酷なこを言った 「働きたくないからだろう」 「高校のときにしたボランティアの 子どもたちの真似をしてるのか」 障害者のボランティアに 何度か参加したことがあった 泣いた 良かれと思ってしていたことなのに 悲しかった 今思えば 精神的にも 不安定だったのだろう 明るい性格の反面 あのころからよく泣くようになった いまだに 泣き虫は治っていない 思っている言葉が出ず涙が出る 針灸 整体 霊能 霊媒 いろんなことをした 気休めにしかならなかったが 父は必死だった 理由も無く うごけなくなる娘 なんとか 年頃のわが娘を 元の体に戻してやりたいと・・・ 別の病院にも行って見た その時付いた病名 「不安神経過敏症」 確かに 不安になりやすく そうなると体のこわばりが強くなった さも とってつけたような病名だった 家庭医学 書を調べてみた 載っていた 納得は出来なかった
そんなある日 母が倒れた 私の病気を苦にしてのことた゛ 脳梗塞で 左半身不随の体になった 母 42歳のとき 今 私自身同じ42歳 どんなに 辛く悔しかっただろう 母も そして父も 父は 仕事が終わってから 1時間かけて 母のいる病院へ通った どんなに 遅くなっても 意識の戻った母は その父の来るのをいつも待っていた 入退院を繰りかえし 私も何ヶ月か 泊りがけで母に付いた そのころは まだ転ぶことも少なく リハビリの病院でもあり 同年代の先生も多く 学校の延長のような楽しみもあった 私自身診察を受けながら 母についていた いい付き添いではなかったが 母との思い出の一つとなった 器用な母は 手先のこまい仕事でも片手で器用にこなした 二人とも 自由にならい体をもてあまし けんかもした 泣きながら 叩きあったことさえある ひどい娘だと 自分でも思う 20代 普通なら 仕事 恋愛 おしゃれ 旅行 楽しいことがいっぱいの頃である 病気でなかったら 何をしていただろう と いまでも思う 26歳のとき 母の妹の埼玉に住んでいた叔母が こっちにいい病院があると言って 連れて行ってくれた 東京の高島平の病院だった そこの 医師が 私の体の状態に気づき 岩手の人なら 岩手医大神経内科に良い教授がいるから 一度見てもらいなさい と言ってくれた 岩手医大は 以前 診察を受けて 「不安神経過敏症」と言われた病院だ その時は 医大には まだ神経内科がなかった その年の初秋 入院 それまで 経験したことのない検査が続いた どのくらいの月日がたったころだろう 難病指定の パーキンソン病と 診断 その時の事を知っている友達が「まるで 罪を犯して 刑務所に入ってきた人の ように 顔に表情が無く暗かった」 と 言った
「難病」 原因不明の治らない病気 いやな言葉だ でも私は違った 今までと違って ちゃんと検査をしてついた確かな病名 研究されていると聞いただけでも 気持が楽になった 自分だけじゃない そんな気持もあった 入院中 それまで飲んでいた 薬を体から 全部なくしてからでないと パーキンソン病の薬は 出せないということで2週間薬を飲まなかった しだいに私は寝たきりになっていった 起き上がることも出来ず 一人でトイレにも行けず 箸も握れなかった 看護婦さんが ホォークに包帯を巻いて 握りやすいように作ってくれた 握っても口まで運べず 涙と食べなくてもいいという気持ちが出てくる そんな私をいつも 同じ お部屋の人たちが助けてくれた ナースコールを押してもすぐ来られない看護婦さんの代わりに 私の手を引いてトイレへ連れて行ってくれ パジャマを下ろして 便座に座らせてくれ 「終わったら 看護婦さん 呼んでね」 と言ってくれた隣のベットの患者さん 箸が思うようにならず食べるのを止めると おにぎりにしてくれた そのおにぎりさえ 力加減がわからず 口に入れる前にくずれる 食べさせてもらった 私の下着までも 当たり前のように 洗濯してくれた19歳の女性 そのときから私は 自分の周りには悪い人はいない と 感謝することを覚えた 生きることの 強さを教えられた 難しいことだけど・・・ 病室も 明るくなっていた みんなで歌を歌ったこともある 看護婦さんも怒らなかった トイレに行くのに 看護婦さんに手を引かれても足が出ないとき 看護婦さんがリズムを取るように 歌いながら手を引いてくれたこともある
そんなある日 忙しいといって なかなか来られなかった父が見舞いに来てくれた 天井を見たまま 起き上がれない私に みかんをむいてくれた 一ふさ 一ふさ丁寧に小分けして 寝たままの私の胸元へ置いた 私は 油の切れたロボットのように ぎこちなく みかんに手を伸ばした 意識の中では みかんをとろうとしているのに たった一ふさのみかんがつかめない 父は驚いていた 入院しているのに 日に日に大木のように 動かなくなるからだ・・・・・ 泣くことさえ疲れる気がしていた それでも涙が溢れ出す 寝たきりは 薬に頼らない 現実の自分の姿だった 自分の行く末を見た気がする
数日後 パーキンソン病の薬を飲んだ うそのようだった 魔法とはこういう感じなのだろうか 体が軽くなった 何も考えなくても自由に体が動いてくれる 懐かしい気さえした これが私の体 その時思った 「普通の人たちは 当たり前すぎて この動けることの喜びはわからないだろうなー」 気持まで変わった気がした 体中で生きているって感じがみなぎってきた 動くことを考えなくても 当たり前のように体が動くことの喜び 何て体が軽くなるんだろう 気持まで明るく前向きになった 薬が効いてくると したいことが自然に頭に浮かぶようだった 動くことが たのしかった
その後 病院へ来てくれた父に この手で赤いりんごの皮をクルクルと ちょっと 自慢げにむいてみせた 涙でりんごがぼやけていた
いつも思う 命より薬が大切と 本当に薬なしでは生きられない 実際 薬があっても 24時間効いていない 効いてる時間に やることをやってしまう いつ 薬が切れるかわからないから 5分 10分の差が 動と無動に左右される 小さい子と遊んでて 薬が切れて動けなくなったときは いつもこう言っていた 「さっちゃん(私) お地蔵さんになったから ね」と言って ジッとしていた 「お地蔵さん?」「お地蔵さんみたいに固まって動けなくなったから・・・」と パーキンソン病と知り 難病と知り 落ち込み 薬と出会い 生きるための時間を コントロールできるようになって やっと 落ち着いてくる 今の自分 動けない時間と動ける時間 転びやすい自分 薬が効きすぎて 勝手に 足が動いたりもする この効き過ぎを避けるために 薬を1/4 とか1/6とかで 飲むときもある 食事 体調 同じに飲んでもうまくいくときと いかないときがある 動けるときに用事を済ませる できること できないことを 全部を受け入れて パーキンソン病の自分 無視できない 自分の姿なのだ そう思わなければ この病気は 苦痛以外の何者でもない
3ヶ月入院 12月もなかば過ぎ 病院の片隅に クリスマスツリーが飾られていた 数日後 薬の調節をしたあと クリスマスイブに 退院した 私は 日本で 知っているだけで 数人しかいない 10代発症の 「若年性パーキンソン病」患者の一人となった |