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オホーツクより
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| 子どもが 3歳なかば まだ暑い埼玉を私たち3人は離れようとしていた 北海道の兄が倒れた 心臓からの脳梗塞だった 主人が北海道へお見舞いに行ったきり しばらくは 普通に暮らしていた 足の不自由な父 左半身不随の兄 それでもしばらくは 兄は仕事も続けていたし 車の運転は今もする 母ひとりあれこれ心配しながら頑張っていた 主人は何も言わなかった 言い出したのは私のほうだった 「帰らなくていいの」「帰っていいのか」 聞き返した 「いいよ」と 私は言った 私が 母のそばに行っても 病人が増えるだけ ただ 二人きりの兄弟の弟がそばに居てあげたら たった一人の孫の笑顔が見られたら それだけでも なにか違うのでは と 思った パーキンソン病を知っている人は 「北海道」というだけで よく行ったねーと言う 寒さを苦手とする病気だからだ 寒いと固まりが強くなり よけいに動きにくくなる 確かに 寒くなるころ 症状が進む気がする 布団が重くなるのも苦手だ でも 私は 岩手出身 雪も降る パーキンソン病の人だっている 治ることのない 病気をもった私を 嫁として受け入れてくれた人たちへの 気持ちが そう答えてた この年の初め 1月2日 正月 午後3時ごろ 実家の母から電話があった 「蟹があるから かにすきをしたいけど 何入れたらいい」 という まったくいつもと変わらない口調 明るさでした あれこれはなして 電話を切った その 2 3時間後 悲しみは突然やってきました 父からの電話 「おかーさんが倒れた あぶないかも知れない 覚悟しておけ」 というのです 自分の耳を 疑いました 真っ白になった頭で一生懸命 父の言葉を繰り返していた その日は 主人はいなく 父の妹の叔母といとこが わたしといっしょに お正月をしようと 我が家に来てくれていました 叔母に励まされ(半分しかられ亡くなった訳じゃないと)なだめられ ホッとするまもなく 父からの電話 「ダメだった 藤木さん帰ってきてからでいいから ・ ・ ・ 」多くを語らなかった 母が倒れたとき 私が結婚を決め母のそばから旅立ったとき 何度となく この日が来ることは 心のかなで覚悟していたつもりだった 主人をまたずに 母の妹の叔母と(ステンドの)朝一番の新幹線に飛びのった 座敷にお行儀よく寝かせられた母は 無言のまま私を待っていた 私は 浴衣の胸元に手を入れた 豊満だった母の胸は なだらかになっていたが 私には母のぬくもりを感じた気がした 次の日 主人が駆けつけたころ 母はきれいに叔母たちに化粧をしてもらい 御棺に寝かされていた 赤く紅をさした母の口は 少し開いて微笑をうかべたかのようだった 今思い浮かべても きれいな笑顔の母との 最後のお別れだった その後 独りになった父を想い 千葉の成田空港でコックをしていた 弟家族が岩手に帰って来てくれた
弟の妻として 付いて来てくれた妹にも 感謝でいっぱいだ 左半身不随の母と 難病の病気を持った小姑の居る長男の所へ そうそう結婚を考えるものではない まだ二人が付き合ってたころ 入院をしていた私のそばで 弟が言った 「お前 姉貴の面倒も お前が見るんだぞ」と 私のほうが 驚いた 彼女はいやな顔もせず 私の着替えを手伝ってくれた 出かけるときは いつも私も誘ってくれた 二人だけで出かけたいだろうに 私も その言葉に甘え 気のきかない小姑は ついていった そのときの嬉しかったことは 北海道へ来てからの気持にプラスになっている 弟の結婚式には 薬を増やして着物を着た 後でビデオを見て驚いた 座ってる私は不随運動がでて 勝手に体が動いていた 薬を多く飲んだいたせいだ 誰も気づかなかったと思う そのときの スナップ写真を見て父が言った 「写真で見れば 普通の人と変わらないのになー」 いろんな思いの入った言葉だ たった一人の弟の結婚式は無事終えた そういえば弟が こんなことを言ったことがありました 自分たちに初めて 子どもが出来たとき 「おれ おじちゃんって呼ばれること無いんだなあ」と しみじみ自分に言い聞かせるように 私たちは おじちゃん 叔母ちゃんが多く よく遊んでもらい 大切な存在でした その時は 私もそう思ってましたから 申し訳ない こればっかりはしかたないよ・・・と 明るく笑い飛ばしていた 今では 弟は4人の父 (私は 北海道の叔母ちゃん」 うちの子が生れ 今では 弟も 「岩手のおじちゃん」に 成りました 結婚したときも 子どもが生れたときも来てくれ 本当に喜んでくれました 妹は 岩手に住むと決まったとき 「おねーさんも いてくれればよかったけど 結婚したから良かったんだよね」とも 言ってくれました 慣れない岩手の暮らしにもめげずに 実家を守っていてくれ 妹にも 感謝でいっぱいです
平成10年9月7日 新潟港から 本州を離れ 北海道へと旅立った 船内に 足を踏み入れたとたん 私の目から涙が溢れ出した なにが そんなに悲しかったのか 自分が言い出したことなのに その時も 埼玉の叔母は友達を連れ レンタカーの運転をして 北海道へ付いてきてくれました 大好きな 叔母ちゃんと和磨
北海道生活は 旭川から始まりました 結婚前には 一度きてみたかった憧れの地 北海道 よく 病気で 体がきつく心の中が狭く感じるようなとき あー あの北海道のひろーーいところを見て 大きく深呼吸したら 体がらーくーーになるだろうな そんなことを思ったりもしました その北海道に住むなんて・・・ すみ始めた頃は 何を見ても 涙 涙でした 青空に 突き刺すように伸びたポプラ ズーと見てみたかったのに パッチワークのごとく 色とりどりに織り成す大地 富良野の「北の国から」撮影現場 自分が選んだ場所なのに・・・ 主人は サラリーマンをしていた お弁当は 夜中の3時ごろ 寝れずに飲むパーキンソン病の薬が効いてから こっそり起きて作っていた 初めてのマンション暮らし 心のどこかに ぽっかり穴が開いた思い出の地 木工作家を夢見てた主人は ある朝 新聞広告で「木工指導員募集」を目にしました それも 実家のある紋別地区 オホーツク海の近くでです 下見をし 近くに神経内科の入っている病院はあるか 引っ越すたびに調べてくれていました それも 安心して ここまで付いて来た 一つでしょうか 2日間の試験を受け 運良く採用となり 木工作家の夢にちかずいたのです
平成11年3月23日 半年で旭川の生活をやめ ここ北海道で1 2の小さい村 西興部村(にしおこっぺむら)の住民となった 村についた日 その足で車を30分走らせた そこは まだかすかに流氷の姿を残す オホーツク海だった 大きい流氷は ただの氷と言うより雪山に近いが 光をとうした流氷は コバルトブルーに姿を変える ステンドグラスのガラスのようだった 和磨も 村の保育所に入り お友達が出来た と同時に 私にもお母さん友達が出来た 一人のお母さんが言った 「和磨がいたからこうして お母さんたちとも知り合えたんだよ 良かったじゃない」と 子育てにぶつかっていたときのことだ
明るい お母さんたちに囲まれ 支えられ 教えられ 村の生活が楽しくなっていった 行事には出来るだけ参加してきた 最初は心配ごとでしかないが 終われば楽しい思い出になっていた 村民が 口をそろえて言う「この村いい村だよーーー」と 確かに良くしてくれる 声もかけてくれる 子どもも村全体に育ててもらっている 病気友達も出来 私生活のことも 病気のことも 心配してくれ悩みを聞いてくれる 私は本当に 恵まれている 主人の実家までは 1時間半 だいぶ近くなった まだ 引っ越して間がない 5月の2日 北海道の父が亡くなった 私たちが そばで暮らし始めたのを見定めたかのように 父は 旭川に越してきてからは 一日おきのように病院から 電話をくれた 「康一は」 「仕事いってるよ」 「なら いいんだ」 いつも 仕事に行っている事を確認し 安心したように さっさと電話を切った 定職につかず 芸術家を夢見ていた 息子への確認だったのだろうか 父がなくなり 母と兄の二人暮しになった
ステンドグラスを教えてくれた 叔母もこの村で一ヶ月療養して行った 直腸がんだった おなかの横に 袋を下げ 以前より疲れやすく ステンドグラスを 教えてくれていたころとは 少し違っていた 自然の好きなおばも村がお気に入りの場所だった 「幸せになれてよかったねー 」 「私が埼玉へ連れて行ったからだよね」口癖のように言っていた 「いい所だから 毎年来るね」「また行くからね」「絶対また行くからね」 「さっちゃんの村にみんなで行くから」 何度も何度も 命の支えの目標のように言っていた 叔母でさえ ガンには勝てなかった 平成13年11月20日 52歳の若さで この世を去った 自然が好きで 生き物が好きで 人を集めては にぎやかなことをして 本当は淋しがりや 自分の生き方を通した人だった
この村に来てから 毎年 主人の仕事の木工教室の一環として ステンド教室を開いてる 指導者はなんとこの私なのだ 人に教えられるほど上手ではないが 基本はしっかり 叔母が教えてくれたから できることと 亡き叔母が 私の中で又大きくなる 上手に切れないガラスも参加者の笑顔に助けられ 回を重ねている 普段も 体調と気が向いたとき 作っている 小さいものは 主人の働いている施設森の美術館「木夢」の 売店にも置いてもらっている 大きい物などは 村の文化祭などにも展示させてもらって たくさんの人にも 見てもらっている 叔母に ステンドグラスを教えてもらっていなかったら この村でこの時間を何をして過ごしていただろうか この村に来てから いろんなことに参加させてもらっている おやつ作り 小枝の人形 手作り絵本も参加した 間に合わないで 周りの人の手を借りながらの参加です 病気のことを 知っている人も多いから成り立っている 主人も 私も病気のことは隠さない むしろ 病気なんだと話す方が親しくなりやすいような気がする 病気のことを聞き 避ける人はいない 人間の(人と人との間)に居るのが好きな私は
自分を解ってもらうには まずは 病気なのだ 「バーキンソン病って知っている?」から 始まる 18歳のときから 病気に悩まされ 苦しんできたから 自分のことをわかって欲しいから 隠そうにも 薬が切れれば パーキンソン病特有の体勢 動きになってしまう それを不思議な目で見られるほうが悲しい なってしまったものは どうにもならない 薬でも動ける時間があるということは 幸せなことだと 思えるようにもなりました
20数年が過ぎ 今の自分は決して不幸ではなく むしろ幸せだと思えるのは 自由に動けることありがたさや たくさんの人に出会 出会った人のやさしさに支えられ感謝し 自分の手で作ることの楽しさをしり 笑い怒り悩み涙しそしていつかまた笑っていられる それが生きていることだと パーキンソン病の 苦しみがあったから 解ったことかもしれないと だから あえて このホームページの題を 「パーキンソン病からの贈り物」にした きっと パーキンソン病に悩み苦しんでる人は 「なにが 贈り物だ」 と 怒られるかもしれません 私がこう思えるまでの 20数年間 長かった これからだって 何が起こるかわかりません 幸せと思える 今を残しておきたかったのです 命のある限り 私は パーキンソン病とともに 別れと出会いを繰り返しながら 老いてく不安と 生きることの大変さを感じながら 今を生きている もう一言 このホームページを作ろうと思えたのも この西興部村の住人になったからだと
私を知ってる人は パソコンで・・・と言っただけで エーッと 驚く そして たくさんのパーキンソン病で頑張っている 仲間も知り会うことが出来ました いろんな生き方を知りました 頑張って会いたい 会いに行こうという気持が生まれ 行動範囲が 広がりました 知らなかった情報も 教えていただきました たくさんの仲間がいること 同じような苦労があったこと私より大変だった人 何かに悩んだとき 励まし励まされてみんな頑張っています 私は 今まで 若年性パーキンソン病の人とあまり会った記憶がありません 今では 同じ病気でなければわからないことを「うんうん そうだよねー」と 聞いてくれるだけで どんなに安らぐか 生きていることに勇気を与えてくれます 「五月さんて 明るくて楽しい方ね」 私にとって いぢはんの嬉しい言葉 私の話で 笑ってくれれば 自己満足の世界だ だからついつい しゃべりすぎてしまう そして 時々 落ち込み 涙する これが私 パーキンソン病 藤木五月なのです 今の自分を受け止めて ちょっと 肩の力を抜いて 自分らしく 生きていきましょう
ほどほどに さつき 平成15年3月
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