出産                            

 

  結婚前に 岩手の先生に赤ちゃんのことを聞きました

 入院当初から お世話になっている 担当医は

  「五月ちゃんのことを考えれば 無理して 大変な想いする事ないと思うよ」

 と言ってくれた   ホッとして

  納得しての結婚生活だった

  そんな ある日 「本当にダメなのか」 突然の言葉

 「なぜ 今になって」声にならなかった

  体中 初めて不安になる 

  考え悩み 涙した 重い時間がつづいた

  そして もう一度  埼玉で通院していた

 埼玉医大の主治医に 聞いてみた  

 何ヶ月か過ぎ 先生の口から「大丈夫ですよ」と答えが出た         

  嬉しいはずの言葉が 私の中でズーッと思っていた心配を大きくした    

  好きな人が欲しいと言っている赤ちゃん でも 自分の体さえ自由にならないのに 

 後ろに転びやすいのに10ヶ月の間赤ちゃんを 守りきれるだろうか

 体中不安だった その 不安をかき消してくれた人がいた

  叔母の友達で 当時ガンで 埼玉医大に入院してた岩田さんと言う女性だった       

 闘病生活の彼女の病室に行き 先生の話してくれたことを伝え泣いた         

 彼女は優しく そして力強くこういった   

 「なにがそんなに 悲しいの 先生が大丈夫だ と言ったんでしょ 

 だったら大丈夫よ ご主人こんなに嬉しそうじゃない

 だったら さっちゃんも よかったねって笑顔で言ってあげればいいじゃない」と

  主人も言った   「守るものが出来て 強くなれた  

 きっと 五月も守るものが出来たら 今より強くなれると思う」 

 かたくなになっていた私の何かが開いたような気がした 

 私たちは 赤ちゃんを産むことに決めた

                      

 数日後 病気のことと出産に耐えられるか              

 薬は 赤ちゃんに影響はないか  

 妊娠して病気が悪化しないのか

  不安はたくさんあった

  産婦人科を訪ねた   

 あえて 埼玉医大ではなく 歩いて10分ぐらいの所の産婦人科に決めた

 大きい病院より 何かあったときに近いほうが安心ということで     

 そこは パーキンソン病のお産は初めてのようだったが 

  年配の先生がこころよく私の出産をサポートしてくれることになった           

 最初に言った言葉が「薬止められませんか」だった                  

 必死で 飲まないとどうなるのかを説明してた 

 当時飲んでいたパーロデルが 母乳に影響があるということで

 母乳を飲ませないで ミルクで育てていくことで 出産ということになった

 新しい命を宿すまで そう時間はかからなかった                  

 33歳  夏

 その夜 花火を見に行った 浮き足立ったのか 転んだ

 一気に不安になる 病院へ行った                       

  「赤ちゃんの 心音がはっきりするまでは・・・・」とはっきりした答えは 聞けなかった             

  自分を責めた やっぱり私には無理  守りきれない

  でも途中で 止めることなど出来ない 不安でも 守るしかないのです 母として

  次の診察で 先生は にこやかに「だいじょふですよ」といって 

   命になったばかりの心音を聞かせてくれたて

   その小さな心臓の音は

  ちょっと鈍く「がんばれ がんばれ」と時をきざんでる様だった         

  命の強さを知った この子の生命力の強さを信じることにした

  不安は増えていた          

  薬を飲み続けると言う不安と 転んで胎児に何かあったら・・・

    

 予定日は 3月末                                    

 もちろん 妊娠については反対もあった 

 一番近くにいたステンドグラスを教えてくれた 叔母だ

  一番体調の変化 薬の変化を知っていたからだ

  私たちが 決めた後は            

 やっぱり 支えになり力になってくれた                    

  妊娠中 一番いやな思いをしたのは おしっこの事でした                 

 月をますごとに おなかの赤ちゃんが大きくなるたび 立っただけで  尿意がある

 出てしまうこともたびたびだった                            

 恥ずかしさとどうにも成らない悩みに メソメソしている私に 

 主人は「しかたないベー」と 別段 いやなことではないかのように言う

 その言葉は 悩んでる私を 穏やかにした

  順調だった 心音を聞き どう見ても赤ちゃんに見えない 

  胎児の写真をもらいの 病院通いだった                         

  帰って その写真をファイルに貼り付け 体調も書いた               

  1 2度 たった10分足らずの道のりを 体調が悪く 体のこわばりが強くなってきて  

  前にも後ろにもいけずジッと塀によりかかって 薬がきくのを待ったことがあった   

 汗ばかり出る                                   

  出来るだけ 薬が効いてから家を出るようにしたのに

  それからは 「産婦人科には男なんか」という主人の休みの 

 土曜日の診察にした                 

 薄暗い家の中にいると落ち込むからと言って 

  叔母はたびたび 以前のように連れ出してくれた            

 以前と変わりなく 叔母と車でかけた 

 買い物 イベント カラオケ 気がまぎれた                

   思いがけず つわりはないまま9ヶ月を向かえ

 診察に行くと「赤ちゃんがだいぶ下がってきているからこのまま 入院しなさい」と言われ 

  それから1週間 ただでも動きにくいのに点滴を24時間しっぱなしで

 その時は来た      

 一ヶ月早い  2月26日 夜中に破水 痛みに耐えながら朝を向かえ           

  平成7年2月26日午前9時59分 命は誕生し

 重2462グラム 身長46センチの   男の子でした                      

 その日はもうすぐ 3月と言うのに雪が降っていました

 部屋に戻った私に 助産婦さんが「良かったねー 出産のときに薬が効いてて 」

  と 声をかけてくれた   

  陣痛の痛みの中 薬の効いてくれる 時間ばかり考えていた        

  赤ちゃんの体重が 2500グラムにわずか足り無いといわれ

 2週間保育器に入り ガラスケースの中の我が子が痛々しく見えた

  産後の肥立ちがいいということで私は一週間で退院し         

 緊張いっぱいの母成り立て 

 ミルクをノマセル練習に 病院に通いました                    

 母乳を飲ませられない私は ミルクの作り方 飲ませ方 なれない抱っこでコチコチ

 他のお母さんが持って歩く哺乳瓶の本当に黄色い初乳をみて

  「 自分にはあれがない あかちゃんに飲ませて上げられないんだ」と思ったら 

  涙が出て仕方がありませんでした                 

  退院と同時に 引越しを決めていました

 借家ではありましたが 一軒家で 赤ちゃんが泣いても平気ということもあり

 知り合いが 家を買い引っ越したのと 入れ替わりに入居しました

 実は そこの前の住人は 「病気だから 結婚しなきゃ・・・」と言った彼女夫婦でした

  隣は 畑いじりの大好きな 40過ぎた独身のおまわりさんでした

 このおまわりさんにも 野菜をもらったり 子どもをかわいがってもらったり

  引越し先でも 良くしてもらいました

  退院の日も なぜか雪でした

 東京の叔母が退院とともに 泊まってくれた 

 父方の叔母で 以前保母をしてたので 心強かったです              

  数日後 北海道の母が 手伝いに来た 

 主人の「うちの親はいいから」                         

 と言って 報告だけで挨拶にも行かないまま結婚していた

 今思えばいいわけないのだが              

 後は 何度か電話で話しただけ 会ったといえば 

  兄が心臓を悪くして 倒れたときに初めて北海道に行ったきり・・・

 初めての北海道は ゴールデンウィークと言うのに 雪が積もり  

 その中をこいのぼりが泳ぎ 木々の間から 雪に負けじと水芭蕉が顔を覗かせていた             

  その時に 兄のお見舞いがすみ 埼玉に帰ろうとしてる私たちを見送り

  玄関まで出てきてくれた母は 挨拶をしようとしていた私より先に

  「苦労させると思うけど この子を よろしくお願いします」と 言った

 手を突き深々と頭を下げてくれたのだ

 私が挨拶を 言う前に・・・ 驚きだった  嬉しい言葉だった                 

 私も言わなきゃ 思う気持で 「・・・・・」涙でことばににらなった

 その母が 夜行で初孫の世話をしに来てくれたのだ

 遠い北海道から                    

 母は埼玉に居る間 私が気を使わないように気を使ってくれた

  私の作ったものは「あー おいしかった」と言ってくれ

 午後になると「私も横になるから

 あんたも 横なってやすみなさい」と言ってくれた 

 いまだにそうしてくれる 言葉を飾らない正直な人だから それが 又嬉しい

  数日 私の声が出なくなったこともあった

   風邪なのか 緊張していたのか いまだにわからない 

  私はおしゃべりが好きで コミニュケーションが言葉である

  何日声が出なかったか そう長くは無かったと思う

 声が出るようになり もうすぐ 北海道へかえる日もちかずいていた            

  埼玉で母と私をちかずけてくれたもの 

  それは春を告げる 菜の花だった    

 ある日の 夕方 母が見えない 買い物かと思っていたら

 しばらくして 両手に菜の花を抱えるようにして持って帰って来た   

 「線路のとこの菜の花でしょ おいしそうだったもの」と 私は言った           

 母は笑顔になった                                  

 「知ってたかい あんまり おいしそうだから もらってきた 誰も取らないもの」

 「誰かいた?」「いやー 勝手にもらってきたんだ」   二人で笑った 

 その時から 母の笑顔が大好きになった 

 いまだに母の笑顔が見たくて おしゃべりに花が咲く                  

 今でも菜の花を見ると 「あの時の菜の花 おいしかったねー」 

 どちらとも無く口から出る

 母が帰って 布オムツを紙オムツにした

 布オムツは  一回のおしっこで お布団までしみてしまう

 その点 紙オムツは 何度か放って置いてもへいき

 取り替えてあげられない時間のある私には 強い見方でした

  「和磨」と命名したミルクでこんなにまんまる

  子どもの名前は 「和磨」以前彼が 木工の夢を托して工房を置いていた   

 東京の村 桧原村の「数馬の里」からもらった                    

 子どもが生れると同時に数馬の里の工房を引き払った 

  決して辞めたわけではなく場所を変えた

 引っ越した借家の横の土地に工房を建てていいと 大家さんが言ってくれたからだ

  が 彼の桧原への思いは良く知っていた             

  その想いを生れてきた子どもに 伝えて欲しいと私が思いついた

 主人は かずまという漢字数種類を選んで 病室に飛び込んできた 

 その中から 「人の和の中にいて 自分を磨いて欲しい」という 願いから 決めた

         おっちゃんこが上手になりました

 たくさんの人にかわいがられ たくさんの人に助けられ

 それでもそのときが一番大変と悩みながら今日を迎えている 

 首が据わるか据わらないかのうちに 買い物に出かけなければならないときは

 決まって 父さんのおなかのとこに 抱っこ紐で 抱っこ状態

 主人のおなかが邪魔で 和磨が時々 まっかな顔をして伸びをする 

 すると 驚いよそのおばさんたちが 

  「あらー 赤ちゃんいたのー 」と覗き込む

  何の拍子に後ろへひっくり返るか解らない 私は

 実家の母に「必ず 後ろに転ぶから 絶対 おんぶすなよ」といわれてた         

  3ヶ月でヘルニアの手術をし 「看護婦が面倒見るから おかあさん いいですよ」

   暑い埼玉 バケツが僕のプール

 と言われたのに 日中だけでもと入院中 

 ナースセンターの 廊下の長いすに ただただ座っていた

 薬が切れても 薬が効いて動けるときも・・・・時間が解決してくれた

  3度おでこに傷をつけ(2度 救急車にも乗った)

 この時は 主人のほうがあわてていた 

  はっきり言葉が言えなかったり 保育所を嫌がったり  

 子育てで悩むのはいつまで続くのかと思いながら                 

  同じ言葉を繰り返しながら 子育ての真っ最中

  7年前に亡くなった母を思い出す             

 同じことを確かに 母も言っていた

 「さつき お前と同じだよ」と 見えない母がわたしの後ろでささやく      

 この子にも 目に見えないたくさんの贈り物も もらっているんですよね

  母の教えは正しかったと思いながら また叱っている自分がいる         

 親の気持は親にならないと解らない よく言ったものです               

 「守るものが出来ると強く慣れる」 違った意味 強くなったかもしれませんね

  この病気は 本当は 穏やかが一番 

  イライラカッカッしていると 固まりが強くなり転ぶ回数も多くなるのです                   

  わかっているのですが 難しいですね 

 私自身 短気なものですから これは薬がないと医師に言われました

  親はいくつになっても 子どもを心配し続けるでしょう

  そして 当たり前のように 子どもを当てにしている自分がいる 助けてもらっている

    家族の中で 一番わがままで 自分勝手なのは 私かもしれない        

 おなかに 命をもらったときから 目に見えない大切な物を知ることが出来た

 気づかずにとうり過ぎてしまったことも 泣いたことも笑ったことも悩んだことも

 母として あなたに会えて あなたに教えられた   そして

  まだまた゛これからも・・・・・あなたの親だから 

                          生きている限り                            

  

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