成長 その一
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2004年1月20日 早いもので結婚して10年になる。 和磨も2月が過ぎやっと9歳になった。4月から4年生になった。
北海道の小さな村に来て 主人の仕事も落ち着いたと感じたのは この村で和磨が入学式を迎えられたときだった。 なぜか安堵感のような ホッとした気持で保健士の前で泣いてしまった。 結婚してから仕事を 材木や エンジニア 電気関係 そして、今の木工指導員それも40前ぎりぎりで地方公務員になったのだから棚からぼた餅状態だが こういうことが価値観に入らないひとなのだ。 「仕事は四季を体で感じながらするのがいい」と言ってみたり 歯科技師の人と知合う 「あの仕事は家出できて自分なりのペースで出来るからいい」と・・・・何度 夢と現実の宙に浮いたような言葉をきいてきだろう。 夢を持ちキラキラ眼と白い歯を輝かせて話す彼に同じ思いを重ねられたのは子供が生まれるまで。 母となっては今の生活、現実を守る女になっていた。村に来て2年間臨時として働き無事 村の職員になった。そして 結婚して初めてボーナスを頂く生活になった。相変わらず 見たり聞いたりした職業に心動き(あれがいいこれがいい」と相変わらず口にするがこちらも年月が増した分 聞流したり 交わし方も上手になったかも。 毎日家の中に居る事の多い私は、自分が見えていても 子どもは目の届かない場所で何をしているかわからない事が時々、恐怖感を招く。 でも 友だち 近所の人 村の人 どの子が誰の子か分かる村だから こうして気ままな体を持ちながら子育て 生活が出来ているのだと思う。 土日休みになり、友だちのうちでお昼ごはんをご馳走になり(それも 一時期当たり前のように)馴れ合いになって 兄弟げんかのように喧嘩したり 同級生が泊まりに来たり知らない土地で1人っ子として育った和磨にはありがたい環境だと思っています。(和磨ではなく私がなのかも知れない) 大勢の叔父叔母 いとこに囲まれて暮らした私とは違い、兄弟まして この北海道には親戚も、いとこも居ない。人間関係の ありがたみが分からない自己中心的な人間にはなって欲しくない。 特に男の子は女の子と違い話しても聞いているようで何を考えているやら会話にならない。自分の世界のような物を持っている。だから困る。怒鳴ってばかりはいけないと話して言い聞かせているつもりでも 聞いているのか聞こうとしないのか こっちがただただ言葉を並べているようなときもある。体が 動かない分 言葉で説明しようとする。 これが私の場合 輪をかけて早口なので 子供にすれば理解をする前に 機関銃の如く出てくる言葉が分からなくなる。話していると次から次と、言いたいことが湧き出してくる。これも、いけないと分かっている。 「人が話しているときは 話している人の眼を見て聞きなさい」というと 確かに眼はこっちを見ているがトロンとしていて気持がない。 「分かったら返事をしなさい 。」というと とりあえず返事はする。口先だけの返事だから 治らない。 同じことを何度も言われ、お互いいら立つ。私の声も大きくなる。 終いには 私が主人に怒られる。私がそばに居てかまうから いけないと ほっとけば一人ですると言う。 母親はそうは行かないと思う。 子供をとうして学校 世間とつながっている。子供の生活がそのまま母親に跳ね返ってくる。 自分が子供の頃も 親が「お前のためを思って怒っているんだ」といてっいたが、 その頃から「最初は私のためかもしれないが感情が入れば止められなくなって怒ってる」と思っていた。 親になり確信した。と共に 親は(私)は自分を守るために必死で怒っている。 責任と言う火の粉を出来るだけ浴びないように。 こんな事思っている親は 私だけだろうか。 だから 勉強なんて出来なくていい 人様に迷惑をかけない道徳のあるルールの守れる子であれば と 思って来たが親の思いとはウラハラ 解っているのかいないのか・・・・。 春になり 自転車を乗り回す頃になると決まって 学校の先生に「この間和磨がねー」と 始まる。皆より 自転車に乗れるようになるのが遅かったのに のれるようになったら、 とにかくスピード 立ちコギが多く カーブは大回り 落ち着きがないから左右の確認大雑把。 まず 基本の自転車は左側を走るということが分かっていない。 それには理由があった。和磨は左利きで小学校へ入ってから字を書くときは右 お絵かきなどは左でもよし(お習字 そろばんで苦労しますよ)という 先生のアドバイスも あり字を書くときだけ右手にしたものの 本人は複雑に成ったらしい。そのせいか 思っていることと違う言葉が出たりすることもある。うまく頭で文章をつなげれなかったり 手に持っているのを忘れ落っことしたり 利き手とは関係ないかもしれないが右脳 左脳で働きが違うと聞き そんなことも原因かなーと 思ったこともありました。 他におでこ3回 後頭部1回なぜか怪我をするのは頭ばかり 言葉がはっきりしない 「とうたん かあたん」 「めなげ(めがね)」そんなときも どっか打ち所が悪かったのかなー とか 私が飲んでいた薬の影響か 今になればたいしたことでもないことをくよくよ悩んだことがまだまだあります。 和磨は 私に似て泣き虫です。 気持が分からなくもないのですが「男の子だろう」という思いもあります。よく 物をなくしてはべそをかき それでて物を大切にしない。授業中泣いたと聞くと 私のほうが腹が立って仕方がありませんでした。 それが 4年生の家庭訪問のとき始めての男の先生の担任になり「できなかったりすると よく泣くんですけど男なんだからビシッとやってください」というと 「えっ 和磨君がですか。ぼく まだ泣いたとこみたことありませんよ」と先生がいった。「ほんとですか」 思ったより大きい声に 自分が驚いていた。嬉しかった。 小学一年生になり毎年悩んだことがありました。 北海道らしいといえばそうなんですが スキー教室 それも この村は森林公園に小さなスキー場があるので、スキー教室は決まって 夜6時30分ごろから始まり8時30分頃に終るのです。指導してくれる人たちが村のお父さんたちだからです。 よそのお宅は当たり前のように車でスキーを積んで子供を乗せ送っていき 終る少し前に迎えに行ってまっていました。 学校のほうでも 夜道は危険で不審者もいることがあるので 帰りだけでも お迎えにきてください。と言われていたのにもかかわらず主人は「迎えは過保護だ昔は・・・・」と言い 休みで家にいたとしても迎えには行ってくれませんでした。 それでも一年生のときは 夕方になるとご飯をたべ スキー靴を履き自分と背丈の同じようなスキーを持ち(最初だけ)引きずりながら通っていました。 スキーの検定も受けたり級も貰っていたのですが 帰りも一人で帰ったり友達のうちの車に乗せてもらったりして何とか通いましたが 乗せてもらうと私のほう「主人がうちに居るのに・・・」と考えるようになり それを主人に話すと「誰かが送っていくって言ったら 父さんが歩いて帰ってこいといってたからって一人で歩いて帰って来い」 とまで言いました。 その頃、友だちの保健士に「さつきちゃん 友だちだから きついことだけど はっきり言うよ。和磨かわいそうだよ、あんたたち夫婦はいいけど その中に和磨が入っていない。あのこ一生懸命SOS出しているよ。もっと誉めて抱きしめてあげて」 夫婦2人でこの話を聞きました。 普通にそのつど壁にぶつかり誰かに愚痴り周りの誰もがしていることと 変わりなく育ててきたつもりだった。ショックだった。言われて見ると その頃 何気なく夫婦が話していても そこに背をむけ遊んでいる和磨がいた。自分でも何かを感じていた おばが住んでいた頃のおばーちゃんの原宿 巣鴨地蔵尊 感じていながら すごく落ち込みました。 事あるごとに涙が出てきて まるで 私は母親らしいことをしてこなかったようにさえ思えてきた。小さい子を連れている親子を見るだけで涙が溢れ出してきた。「あんなふうに私は和磨を抱っこしたことなかったのだろうか。」今までの自分のしてきたことが、皆 意味のないことのようにさえ思えてきて 涙だけがあふれてくる。私のほうが押しつぶされそうなくらいだった。 今になって振り返ると もちろん抱きしめもしたし主人もかわいがっていた。和磨の写真をいつも持ち歩いていた。 ただ 和磨が物心つき 自分の記憶の中を思い出すようになった頃から 父さんとの休みが合わなくなった。 そして、私もオンオフがはっきりしていた。 いすに座っている私のひざに抱っこしてくる和磨の重さが異常に太ももに痛みを感じさせた。誉める事も苦手に思うことがあったのも事実で「大げさに誉めてやりなさい」と先生がたに言われたこともあったが それも出来ずにいた。保健士に言われてから、自分なりに誉めるように気をつけて 誉めるようにした。スキンシップも取りなさいと言われ抱っこしようともした。 それでも なんとなく「いまさら」なのだ。「今 抱きしめてあげないと中学の反抗期に大変な思いをするよ。そんな家族 何件も見てきた」そうも友だちの保健士は付け加えて言った。 努力とあきらめを何度となく繰り返した。 2年生のスキー教室には夜8時過ぎに 出来るだけ私が歩いて迎えに行った。 肌に刺さるような空気と凍りつくような白い息 一本の丸太のように体は中心へとしがみつく 転ばないように凍りかかった雪の道を私の方が泣きたい気持を押さえ一歩一歩前へと足を運ぶ。真っ白い雪に紺色の夜景そこに照らし出されたオレンジ色のスキー場 終わりに近づくと 和磨は私の姿を探し始める。 履いていたスキーをはずしかたずけ始める。寒さに手袋のついた手も思うように動かず もたつきながら後始末する。 近くの同級生のこの家にスキーだけ置いてもらい二人であるき出す。 車の音と共に「さつきちゃーん乗って行くかい。」声をかけてくれるおかあさん。「せっかくだけど親子水入らず歩いて帰るわー」「気をつけてかえんなよー」車が遠ざかる。 和磨が「なんでー乗せてもらえばいいのにー」残念そうに私を見る。「一回乗せてもらうと いっつも和磨 誰か来ないかなー 乗せてってくれないかなーって思うでしょ。 それがね、かーさんイヤなの。」そう言い聞かせ、また ふたりで歩き出す。確かに、それもあったが寒さに長く居ると いつもよりまして、からだの自由が利きにくくなり車の乗り降りも結講辛くなる。それだったら歩いた方が・・・と思うんです。 帰りは、つま先歩きになり無理に止まれば逆に転んでしまうので せっかく迎えに行っても 疲れてダラダラ歩いている和磨を振り向きも出来ず、早足のまま玄関のドアに体当たりのようにたどり着く。 大きなため息とあんどの白い息を吐き出すのです。めったに口喧嘩のしない私たち夫婦の揉め事は、決まって 送り迎えのことでした。「昔は・・・・」という主人に「むかしと今は違う 和磨は今を生きている。」と言う私。 初めて、価値観の違いが出る。 3年生のスキー教室、とうとう和磨は夜の練習には参加しなかった。 和磨の成長を感じたのが3年生の秋の学芸会のとき。 そのころ以前から言われていた肝臓の数値が上がり、いつもの病院ではなく市立病院へ検査入院をした。思ったより心配がなく薬を続けることで3日で退院。が 退院前後精神的な動揺があり私の体調が不安定に成っていた。 その頃から よく転んでいたがとうとうやってしまった。 風呂場で転んで背中でガラスを割ったのだ。スッポンポンで転んだわりには怪我が少なかったのが不思議なくらいだったが、様子を見に来た主人が風呂場から 私の手を引いて出してくれた。が、「さつき かたずけておけー」の一言。いつもの様に当たり前のように。とりあえず口にする言葉である。本気でないにしても たった今 転んでガラスを割って その場にやっと立っているわたしには背中のすり傷より悲しいショックな言葉だった。 その場に立っている事さえ苦痛になりスッポンポンのまま這うようにして寝室まで行き、多少血のついている背中に布団をかけ うつぶせのまま枕にしがみつき泣いた。もちろん本気で私にかたずけろと言っていない事も分かっている。でも今は聞流したり 軽くあしらったりそんな余裕など心の何処にもない。 そうしている間に、ヤッパリ割れたガラスは主人がかたずけてくれた。「だったらわざわざあんな事を言わなくてもいいのに。」と思うが、そこが主人なのだ。今までも似たようなことは多々あった。 解っているのだが・・。 次の日、来てくれたガラス屋さんに「ウチのは病気で転び易いので割れにくいものをいれてください」と話していた。大きな二枚ガラスが入っていたはずのドア。下だけがスッポリ抜けているドアをはずし持っていき、帰ってきたドアを見てビックリ。 そこには銀色に輝くアルミ板が見事に入っていました。駄目押しの一言「奥さん 今度は絶対割れないから」「はい ありがとうございます」と言いつつ「誰がそんなの割れるか。」と思っていました。 その頃 悲しい出来事もあり 心の不安が大きくなり外に出ることさえ恐く感じていた。 このころだ、学芸会があったのは・・・明らかに和磨の成長を感じた。劇では 大きく口を開けセリフを言ったり 合奏では 首を動かし間違えないようにリズムをとる姿は、去年の和磨とは違っていた。和磨の一生懸命が伝わってきた。なんだかジーンとしてきた。 そして私が一番嬉しかったのが私がトイレに立ったときだ。 いつものように担任の先生が用意してくれたトイレに近い場所のイスから立ち上がり 後にカメラをかまえているお父さんたちの邪魔にならないように 出来るだけ中腰で 幕の下をくく゛り不安を抱きながら何とかトイレにたどり着き、人に迷惑をかけることもなくトイレから戻ると いつから見ていたのか和磨が体育館のドアの向こうの幕の下を少しだけ上げ 小さな声で「かーさんトイレ大丈夫だった。」と聞いてくれた。「うん」「よかったね」そういうと和磨は幕を静かに下ろした。この短い会話が私の心に響いた。 あの子は私がトイレに行くときからズーーと気にしていてくれたのかと思うとまた 涙が・・・・。 去年はとうとう花柄の杖も買った。 きっかけはパーキンソン病女性だけの集い「弥生会」での話しで「転ばないためでなく転ぶことを解ってもらう為に・・・・・・」と 「私もよく転ぶのよ」という方と話が盛り上がり 「杖もオシャレな花柄のがあるのよ。折りたたみとか。」「そうよね せっかくだから外に出たくなるようなオシャレな杖よね。」2人の話はまるでお気に入りのワンピースでも探すように会話は弾んでいた。 帰ってきてから パソコンで「花柄の杖」「オシャレなステッキ」など何度も何度も検索しました。何度見ても一万円前後 私が気に入ったのは「苺の柄の折りたたみ」1万3千円もする。主人は 「どうせ買うなら気に入ったの買えばいい」といってくれたが ケチで文無しで暮らしをしてきた独身時代が長かっただけに そんな贅沢は自分に合わなかった。 早々と花柄の杖を買ったと彼女からメールが届いた。 握りのトコまで 花柄がついた豪華な杖だ。どうも私らしくない。 繰り返し繰り返し 検索をし続けた。 何日かかったろう・・・見つけた。 とうとう見つけた。それも安く 私らしい柄 折りたたみではないが車での移動の多い私には関係ない。それに鈴らんの柄と書いてある。誕生花 5月確かすずらん。私のための杖じゃん。 即購入 来た杖は「すずらん」には見えず どう見ても 紫色のスミレなのだが それはそれで気に入っている。 これを持ち歩くのに戸惑いがあった。 この年で杖をついていると 逆に目立つこともある。この病気は杖が苦手という人も多い。私の杖は(転ばぬ・・・・のではなく 転んだときの・・・・)杖なのだ。 最初 杖をつくことに和磨が嫌がるのではとも思ったが「かーさん杖持った」と言ってくれるのは和磨だった。 さすが生まれたときか 母はパーキンソン病 だから 私は学校行事にもこの杖を持っていく。 それでも歩き方がおかしくなるが ジーッと見る子も居る。 が「おばさん大丈夫」と声をかけてくれる子も居る。 今はまだ 親と言うだけでこちらの言い分を押し付けた形で子育てが成り立つが いつの日か和磨には和磨の言い分があり何度もぶつかり合いながら 成長していくのだと思う。 思うようにいかないのが子育てで それでも正しいと信じていることを親は伝え続けなければ行けない。自分がそうして親に育てられたように。 今の生き方が 間違っていないと自信をもてるから。それなのに和磨のことでは体の反応が早い。大きい音 叱ってる時 不安なとき 決まって転ぶ。情けないほど。まだまだ小学4年生 親も子も これからが正念場
中学へとつづく
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