私の中の小さな

          社会人

 

  高校生生活 最後の18歳後半 発病の私ではあるが今になって思えば その以前からおかしいと思い当たる所もあった。

がとりあえず 高校を卒業して 盛岡市内のホテルへ就職をした。高等学校の勉強+調理の勉強も3年間で教えてもらえる学校でした。

お昼ごはんも 生徒が作った食事を先生と一緒に食堂で食べました。

ボランテアも積極的にしていて 何度か参加していました。

そのこともあり病気になったときは「何で 私が」という裏切られたような悲しみに包まれた思いもしました。                                                           

  県庁 県民会館 岩手医大に囲まれたいたホテルの調理場へ就職した私は 家庭的な職場で社会人の一歩を踏み出していました。

泊り客の朝夕の食事を作るため住み込みで朝5時ごろから午前11時ごろまで 中休みがあり午後4時から夜の10時ごろまで お客の入り具合で時間は変わってくる。    

朝起きがけ10分15分は普通に動けたので キャベツの千切りも軽やかでしたが あっという間に手の感触は重くなり 自分の体なのに自分の言うことを聞いてくれない パッと動いてくれないもどかしさを感じながらの仕事でした。

   面接をして 就職がきまったときは日中の空いてる時間に 岩手公園へ行って子供たちを集めて紙芝居を読んであげたい などと 小さな夢を持っていましたが それも重い体と一緒に心の底へ沈んでしまいました

 お客様の食事が終わりお膳が下がってくると泊り客の多い日などは食器洗いのおばあちゃん一人では間に合わなくなり 私たちも洗って手伝うのだが これが苦手。2人の先輩はクルクル踊るような速さで食器を洗っていく そこ行くとわたしは 早くと思えば思うほど体に力が入りこわばるばかりで汗だけが流れだす。       

それでも 家庭的な職場が救いで てきぱき動けなかったが まだ仕事中立って入れなかったとか 転ぶことはなかったと思います。

今思えば 何が一番つらかっただろう。そうそう どう頑張っても大根の桂むきは苦手だった。

  県庁のうしろにあったホテルで 喫茶店もしていました。

お昼時はここのスパゲティーを食べに 満席状態になるので ホテルが暇なときは喫茶店の方の手伝いもしました。                           私が働いてた頃の喫茶店   

まずは席番号を覚え 何種類ものメニューと値段を覚え  銀の丸いおぼんを手のひらで支え オーダーのものをのせ 片手で支え 軽やかにテーブルに持って行くのですが これがP病には なんとも困難である。

コーヒーを運べば タッポタッポゆれてカップからこぼてる。何個もお盆に載せていっても順番にテーブルにおいているうちに手のスナップが弱い私はおぼんの上に残った物がしだいに手の傾きに合わせて滑り落ち 自分でも驚くような音と共にマスターが駆け寄ってくる。最初は「怪我しなかったか。

さっちゃん手のスナップ弱いから 少し自分の方に傾けて持つようにすれば大丈夫だから」とアドバイスもしてくれていたが何度となくそんな失敗を繰り返しては注意を受け あやまり 励まされ なだめられ 何とか仕事をしてきた。

一番緊張したのが 成人式だ。県民会館の近かったその喫茶店は 毎年 この成人式に気合を入れて待っていた。

そんな大事な日に私に助っ人の任命が来た。助っ人になるのだろうか。

 朝から「絶対 着物にこぼすな」と 念に念を入れられ まずは店の掃除からはじまる。緊張の面持ちでいつもと変わらない時間が過ぎていく そして その時が来た。

一組の晴れ着の着た女性たちがドアを開けてはいってきた。

「いらっしゃぃませ」気合が入り いつもより やや声が大きくなっている。

その後は 式の終った若者が 晴れ着と共に 喫茶店になだれ込んで来た。

 こことばかりに 着飾った女性たちと化粧の臭い その花の臭いにまとわりつく蜂のようににぎやかな音と共に男たちが入ってくる。

勝手に イスを動かし何番テーブルが何人か 誰が何処かの解らない状態の上 こんなときに限って みんなバラバラの注文をする それもそれ パフェとかクリームあんみつとか 重いものばかり (お皿の上にカミナップキンをおき その上に大きめのグラスにあふれんばかりの アイスクリームと果物 これをおぼんに3つは乗せる 大人に認められた若者の笑顔が鬼のように見えてくる。この日は 緊張と腕に力を入れすぎて 次の日の筋肉痛は痛かったが大失敗はまぬがれた

 でもあった。

そのお皿に乗せたフルーツパフェをお客様の目の前のテーブルに見事にひっくり返し皿だけが私の右手にあり 見事に グラスの足が上を向いたまま クリームに埋もれていたことが 心の中で「テーブルでよかったー」とつぶやいていた。その時は さすがに怒られた。

パフェの失敗は 何とかこれっきりでしたが 一日のうち 灰皿 水の入ったグラス コーヒーワンセットを壊しまくったこともあった。食器だけに終らない。

オリジナルスパゲティー メニュー一つしかないが人気があり スパゲティーが足りなくなり ホテルの厨房で茹でて持っていくことも たびたびあった。

 茹でたての スパゲティーをざるごと 店のカウンター手前でひっくり返し 客に気づかれないように カウンターの中にいた人がモップでスパゲティーを引きずりいれたこともあった。

 夜とか休みの日は 岩手大学の学生などがアルバイトに来ていて いろんな人との知らない世界の話も聞けた。初めてパチンコ屋さんへ連れて行ってもらったのも この人たちでした。                                  

仕事をしながら やはり体の変化は気にせずにはいられなかった。盛岡市の県庁所在地ともあり 職場の周りには 大きい病院が多く 仕事も日中空きの時間も長かったので 初めて診察を受けてみた。その頃 まだ神経内科は無く内科にまわされた。   

検査と何度かの通院をしたが 結局 解らなかった。

 住み込みで働いて一年半 

 ホテルを建て直しビジネスホテルにすることになり 新しくなったら また働かせてもらえることになっていた。 

それまでの間 社長は私に 本屋さんの仕事をお世話してくれたが 私の中で本屋の仕事を想像したときに 私の手の動きでは出来ないことが多い気がして断りました。今思えば 気持ちの方が臆病になっていたような気がします。

親もホテルが新しくなる頃までに体調が改善されたら また使っていただけるようお願いして 一年半の短い社会人生活が終りました。

 それでも この長い難病生活の中で たった一年半の社会人生活ではありましたが 何かに生き詰まり落ち込んだとき 「わたしはまた゛幸せな方 高校にも行ったし 仕事もして社員旅行とかも経験した。

とりあえず 人並みの経験はした」 何度と無く そう思うことで自分を励ましてきた。一つ上の先輩は 盛岡市内に嫁ぎ ビジネスホテルなった新しいホテル内の喫茶店の方へ今も手伝いにパートとして働いている。

電話をすると 20歳の頃と変わらぬ声で「あっ さっちゃん」年月を感じさせないかわいらしい声で私を励まし勇気付けてくれる。

先輩の嫁ぎ先のお母さんも電話で話してよくしてくださる。遠く離れてしまったが 先輩から私の中の小さな職場の雰囲気が今も伝わってくる。                    

人間一度は 親元から離れて暮らすことも 子供にとっても親にとっても お互いに思いやったり ありがたさが離れて暮らすことで再確認になると思います。

子供も自立のむずかしさ社会の厳しさ 責任が身につくのではないでしょう。

私の場合 家族的な職場でしたので 言うほどの社会の厳しさ 職場の苦労はしてきてはいないかもしれませんが一年半でも 社会人として働いたと言うことは私の中の財産です。

 一度病気を治すため 親のそばに帰ったわたしは パーキンソン病と解る26歳までの間 整体 神仏までいろんな物にしがみつきました。

お札を飲んだこともあります 。

それはそれで 自分の中の気持ちと体との格闘でもありました。   

 その頃は 私より 親の方が必死でした

そんな中 私が22歳のとき 母は脳梗塞で突然倒れたのでした。      

それからは 社会人として 私が仕事を持ち職場復帰することはありませんでした。 

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