早川正昭 (作曲・指揮) 略歴 

1934年、東京郊外の市川市に生まれる。幼少の頃より楽才を顕し、6歳で最初の作品を書いた。戦時中、広島市に住んでいたが、原爆の前年に市川市に戻ったので、被爆は免れた。

12歳の時平井康三郎氏に作曲を習ったが、東京大学に進学、在学中の作品「管弦楽のための三楽章」が認められたことがきっかけで、卒業と同時に東京芸術大学作曲科に入学、作曲を長谷川良夫氏、指揮法を渡邊暁雄氏に師事した。それまでに、オーケストラのすべての楽器をマスターして本番を経験したことがあり、オーケストレーションと、オーケストラ指導には定評がある。芸大在学中からホルン奏者としてプロのオーケストラでトップを吹くなど演奏家としても活躍していたが、卒業後、若手の弦楽奏者達と1961年に東京ヴィヴァルディ合奏団を創立、常任指揮者となる。

1964年に東京文化会館にて自作品のみによる演奏会を開く。1966年東京大学管弦楽団の指揮者として、ヨーロッパ演奏旅行に参加し、「マリンバ協奏曲」など自作品を含むプログラムを指揮し、「オーケストラの音色作りはすでに巨匠級である。」と新聞評に書かれた。

1971,1973,1977年には東京ヴィヴァルディ合奏団のヨーロッパ公演を実現し、原爆犠牲者に捧げる自作品「レクイエム・シャーンティ」などを含むプログラムを指揮、新聞評に「レクイエム・シャーンティのヨーロッパ初演は、この10年間で第一級の音楽的事件である。このような状況を表すことのできるジャンルは音楽しかない。」と評されるなど、感激的な大成功を収め、自作品以外の演奏に関しても「泡立つようなアレグロ、グルックの宗教性を持ったアンダンテ。これが本当のモーツァルトである。」などと絶賛され、作曲家、指揮者として、国際的に認められた。その後も、客演指揮者として、ドイツ、アメリカ、ロシア、スイスなどから度々招かれ、自作品を含むプログラムを指揮している。

ヴィヴァルディに関する訳書やLP.CDなども出版されており、作品のいくつかは外国で出版されていて、むしろ外国で多く演奏されている。また、東宝映画「父ちゃんのポーが聞こえる」など映画音楽もいくつか担当している。

1978年から1年間、文化庁在外研究員として、ドイツ、オーストリアに派遣され、主に古典舞踏(メヌエットやパヴァーヌなどバロック・ルネッサンス時代の踊り)を研究した。

 新ヴィヴァルディ合奏団の常任指揮者を務めた他、東京都交響楽団、新日フィル交響楽団など各オーケストラに客演、ランパル、バウマンなど世界的なソリストとも共演している。アマチュアオーケストラにも理解があり、母校の東大オーケストラを50年以上指揮し、その演奏水準を高めたことで、東京大学管弦楽団名誉指揮者に任ぜられている。広島大学名誉教授。

 

新ヴィヴァルディ合奏団

弦楽合奏の美しさを沢山の人に聞いてもらいたいという目的で1979年に東京ヴィヴァルディ合奏団のトップメンバーを中心に結成された。レパートリーはバロック音楽だけでなく、モーツァルトを得意とし、管楽器を加えて戴冠ミサやレクイエムの伴奏をすることもある。その上、日本人の作品をはじめ、現代音楽の紹介にも力を注いでおり、ストラヴィンスキー「ミューズの神を率いるアポロ」、ショスタコーヴィッチ「室内交響曲」、シェーンベルク「浄夜」、バルトーク「嬉遊曲」、早川正昭「レクイエム・シャーンティ」等も演奏している。

それだけではなく、早川の作編曲したバロック風「日本の四季」や日本民謡、ポピュラーナンバー等が、弦楽合奏の良さを、老若男女を問わず多くの人々に知ってもらうという目的のために用意されており、硬軟いずれのプログラムでも常に最高の演奏で対応できる強みからも、この種の団体の中で、最高の人気を得ている。

メンバーの殆どがグァルネリ等の1600〜1800年代にイタリアで作られた名器を用いており、これだけ良い楽器が揃っている合奏団は世界でも珍しい。そして、それらを駆使した美しい音色と緻密なアンサンブルが断然他を圧しており、出版されたレコードやCDも各誌で推薦盤になるなど非常な好評で、今後も日本の室内合奏団の主導的地位を占めつつ、クラシック・ファンの拡大に大きな貢献をするものと期待されている。