旅 遊 之 窓 2
                  万里の長城で初日の出
                                宮崎市恒久 河野 博
 今年の正月は万里の長城で初日の出を迎えました。
天候に恵まれ、7時40分頃、初日が稜線から出てくると、どよめきが起こりました。
 当然のことながら日本人だけの早朝の八達嶺です。
しかし寒かったです。 気温はー15℃。私のデジカメももう一つのカメラも機能不全となり、同行の皆さんもビデオカメラが作動しないなどのトラブルが多発し、余りの低音にハイテク機器もダウンでした。
 12月30日に福岡空港から、上海経由で北京に向かいましたが、上海は40年振り大雪で、空港で約2時間足止め後の出発となり、その直後に空港は閉鎖となったそうで、際どいところでした。
 12月31日、大晦日は少し早起きして天安門広場まで、散歩しようと妻と二人、勇んで出かけましたが、気温はー5〜6℃、隣の貴賓楼まで行かずあわてて引き返しました。
初日の出の長城
 その日は終日市内観光でしたが、この寒さでは朔風吹きすさぶ長城はもっと大変だろうと、王府井の同仁堂でマスクを買って行ったのが大正解でした。
 元日は、4時50分モーニングコール、5時40分に出発しバス車内での朝食でしたが食欲はありません。
 長城に到着しても未だ暗い中をしばらく休憩所で待機し、7時頃に少し明るくなってきた長城へ上りました。
 初日の出は余りの寒さに、腕をめくって時計を見る余裕とてなく、転んだら起き上がれないほど、厚着重ね着、そして、ホッカイロも前後に装着していても、周囲の風景を楽しむこともできず、集合時間より早めに休憩所へ引き返しました。
 全員がそろったところで、記念撮影の為、再び休憩所から長城側の撮影ポイントへと告げられ、一部、防寒着装備を解いたところでもあり、ブーイングが挙がりました。
人民大会堂モンゴルの間にて
 カメラマンが2〜3回シャッターを切り、そのままの体制で注文を取っていましたが 「買いますから早くして!」と思わず叫んだ人もいました。
 北京市内は、2008年北京オリンピックに向けて再開発中とのことですが、そのような現場には行きあたりませんでした。10年前と比べて車の多いことは驚きで、幅100mの長安街も相当の渋滞です。その為、風のない日はスモッグがひどくまるで霧が出ているのかと思うほどでした。宿泊は老舗の北京飯店で、ホテルで迷子になりました。中国土産は叔母から頼まれた喉のくすり、枇杷膏 伯父には萬金油を同仁堂で買って帰りましたが、旅行社のカメラマンが撮影したアルバムもビデオも良い記念となりました。
 中国は三度目でしたが、広い国土と様々な文化、そして、悠久の歴史に興味は尽きず、今後も行きたいと思っています。今回訪れた所は、故宮博物院、天安門広場、天壇公園、定陵、雍和園、人民大会堂、王府井、全じ徳などでした。雍和宮で一行とはぐれ、言葉が通じず、非常にあわてました。中国語の勉強の必要を痛感したところです。
天壇公園にて
2004年8月葫芦島市を訪問  〜宮崎市・葫芦島市友好都市締結〜 宮崎市  倉迫一朝  
                                     
1945年8月時 牡丹江市円明小学校3年
 かつて満洲からの日本人引揚港だった中国の葫芦島市と私が住む宮崎市とが今年5月16日に友好都市盟約を結びました。
 宮崎市と葫芦島市とは、平成11年から中学生の相互派遣や訪問団の相互交流などの活動を続けてきましたが、一昨年11月に宮崎市の津村市長が葫芦島市を訪問し、調印にむけて準備を進み、宮崎市の市制80周年記念式典に合わせて、今年5月16日に調印式が宮崎市で行なわれました。調印式には、葫芦島市からの張竟強市長代理ら訪問団をはじめ、両市関係者約300人が出席しました。
 一昨年、葫芦島市と友好都市になる予定というニュースを最初に聞いた時は一瞬耳を疑う思いでした。しかもそのあとすぐに、そのニュースを伝える放送局のスタッフをはじめ、若くも無い年輩の有識者を含めて、友人知人、周辺のほとんどの人が、「葫芦島」という地名も「コロ島からの日本人引揚げ」という日本の現代史上の大きな出来事について全く何も知らないという現実に直面して愕然!・・・ 明治維新から日清・日露・大東亜戦争とつづく日本『近代』苦難の歴史。日本敗戦から現代の中東、イラク問題へとつづく世界史的『近代』を理解するためにも、満洲というあの土地での歴史的出来事を抜きにしてはありえない。そう思いそう信じる私にとっては、まさに茫然、ひとり天を仰ぐ思いでした。
引き揚げ埠頭だった岸壁
葫芦島港の引揚埠頭だった岸壁
 9年前、1996年5月、「牡丹江へ友好と慰霊の旅」をした帰り、妻と二人、北京から往復、葫芦島を訪ねてみました。しかし、その時は葫芦島の港は中国海軍の軍港で港の周辺一帯は外国人はもとよりガイドたち現地の一般民間人も立ち入り禁止区域。港の見える丘というのがあるというので行ってみましたが、生憎のスモッグで見えず終いでした。
 しかし、今回、友好都市締結後、宮崎から市職員や市議会議員を含めた初の公式民間訪問団が葫芦島へ行く、旧港へも立ち寄る予定だというので、それならばと、妻と二人、そのメンバーに加えてもらうことにしました。
 団の日程は8月8日〜14日、福岡・北京経由での葫芦島入りとなっていましたが、私の方は、私自身の仕事の都合から、別動隊という形にし、8月8日〜12日、福岡・瀋陽経由での錦州・葫芦島を訪問、本隊の訪問団が葫芦島に滞在する9日夜から11日朝のその間だけ本隊に合流し、行動を共にしました。
 崩れ果てた旧港の跡地には、歴史的な引揚げを記念する真新しい石碑が建っていました。
一昨年2003年建立されたということです。碑の表には、この地から引揚船に乗った日本人1050000(105万)の数字、裏面には中国語でその事実を記した文が刻まれ、その下方には当時の引揚港の写真も付されています。
「日本人引き上げの地」碑
 その夜、夕食を共にした葫芦島市人民政府の副市長・杜公驥さんの話では、最近では、日本の北海道から82歳になる佐々木さんという老婦人が家族と訪ねて来こられ、涙涙で帰って行かれたということでした。
 私にとっての葫芦島は、引揚港であると同時に、錦州市に住んでいた昭和15〜16年の5歳の頃に、父に連れられ、母と二つ上の姉と一緒に葫芦島〈当時は壺蘆島〉へ行き、大陸生まれのため初めて見る海に驚き、そこで初めて海水浴をしたところです。
 「オイ坊主!(坊主とは私のことです)、この海は日本までつながっているんだぞ。」
今もなお私の耳に残る父の言葉です。その時いっしょに訪れた「山海関」の「万里の長城・第一関」と共に、「コロ島」は、引揚げ以前すでに幼児時代の私の心に残る地名になっていました。
九門口長城
 葫芦島の歴史は、大連港や南満洲鉄道等の歴史に並立する形の南満州開発の拠点プランとして登場します。葫芦島の港の地一帯は張学良の土地となっていて、反対側、半島の南には、「張学良築港紀念碑」も建っています。
 現在の葫芦島市は、市政府のある「龍港区」と呼ばれる市区を中心に、錦州市と境を接する「南票区」、「連山区」、その南の明代古城を有する「興城市」、西の「建昌県」、更に中国河北省に隣接する「綏中県」の三区二県一市で構成されています。
 建市(市の誕生)1989年(平成元年)。面積1万415平方キロ。人口270万。
東西南北に城門を構え、明代の城郭都市の姿を今もそっくりの形で残す興城は必見の地ですし、宮崎市訪問団本隊と別れて翌日(11日)、妻と二人、ガイドと一緒に高速道をとばして訪れた綏中県内の、唯一河を横断して連なる万里の長城「九門口水上長城」は、隣接する河北省の渤海に突き出る山海関の長城と共に、『満洲と中国の歴史を語る者は必ずその地に立って長城の内外を見なければならない地点に当たる』と言って良いように思います。2002年世界文化遺産に認定。
 錦州1泊、葫芦島2泊、瀋陽1泊、4泊5日の短い速成手作り旅行でしたが、第二の大連をめざした張学良らの夢が今まさに花開いた葫芦島大発展の現状を目の当たりにする旅となりました。
 この夏は、葫芦島市と宮崎市との中学高校生同志の相互訪問も行なわれました。世は確実に 未来へと進行しています。             (2005年1月 記)
広報誌「みやざき」

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