旅遊之窓1


ヤングネットワーク・ウイング九州2002に参加して

                                               宮崎県団 班長 長友久美子
 
 2002年6月、県内一次研修で団員と初めて会った日、私の胸は緊張と期待で高鳴っていたことを、きっとみなさんは気づかなかったでしょう。
参加を願っていたヤングネットワーク・ウイング九州に班長として内定した喜びと数ヶ月後には感動を分かち合えるであろう若い仲間との出会いにワクワクしたことを、今も鮮明に憶えています。
 本研修では韓国・中国でたくさんの方のお世話になり、多くの貴重な体験をさせていただきました。まず、ソウルではホストファミリーに温かくもてなされ、「のればん」(カラオケ)にも連れて行ってもらいました。楽しく歌い踊る様は異国にいるとは思えないほどでした。日本語の楽曲があることは聞いて知っていましたが、ハングル語でフリ仮名がふってあることに驚くと同時に納得、感激しました。
韓国青年とのクリーンアップ活動では、ゴミが少ないのを良いことに、ひたすらしゃべりました。彼女が日本に留学していた時のこと、韓国・日本の芸能界のこと、食べ物のことなどなど。帰国後届いた葉書には「日本人のイメージが変わりました。おかげで日本人と話す事に自信をもつことができました」と綴ってありました。やった!
下和村 次に、北京では「万里の長城」に。あまりの急な上り坂にひるんだものの,「若い者にはまけられん」と班長の名誉にかけて挑みました。みんながいなかったら絶対やめていたと思います。共に汗を流して得た達成感は最高のものでした。また少しみんなが近くなった気がしました。
フレンドリーウオーキングの際、私たちが昼食に食べたいと言った物を、自分(中国青年)が嫌いだという理由で断られたのは残念でしたが、そんなことからも自分の意思をはっきり言える中国人を見ることができたように思います。
 西安は訪問地の中で一番暑かったのですが、気持ちも熱くなる出会いがありました。下和村での熱烈歓迎会、テーブルいっぱいの手作り料理、満月の月明かりだけで向かった公衆シャワー、木槌で割ってくれた胡桃の香ばしさ、ホストファミリーと一緒に歌った日本語と中国語の「幸せなら手をたたこう」「北国の春」,そして「祝ニイ生日快楽」(ハッピー・バースデイ・トゥユー)。音楽は言葉や国境を越えて、気持ちをひとつにしてくれることを実感しました。

テーマ別研修(現代農業開発区)では、思いがけず通訳までさせていただき、「中国語を勉強していて良かった。もっと勉強しよう!」と強く感じました。
 なお、言葉をはじめ、水や食べ物、風呂・トイレなど生活・文化が違う国でのホームステイ、中国・韓国青年たちとの交流は、団員によっては言いたい事が伝わらないもどかしさや不甲斐なさを感じたり、いら立ちや戸惑いもあったと思います。そんな時、一生懸命身振り手振りで伝えようとしていた自分の姿があったり、日本ではあたりまえだと思っていたことが国が違うとあたりまえではないのだと気付いたときに、この研修で求めていた“何か”と出会えたのではないでしょうか。
八達嶺男坂
 佐賀での団員交流会では、バタバタと本番を迎えましたが、宮崎県団の出し物、踊り「フリーダム」は、県団がひとつになった瞬間でした。忙しい時間をやりくりして、真夏の蒸し暑い体育館で共に汗を流して練習した成果を花開かせることができました。
 班長としては、知力・体力ともに私より優れている団員の中で、はじめは気負いもありました。しかし、「コーディネーターでありアドバイザーに徹すること」「団員の自主性を尊重し伸び伸びと活動させること」「自分も楽しむこと」という目標は、自分なりに達成できたと思います。(自画自賛)
 最後になりましたが、同行された県職員のみなさん、九州青年の会のOB・OGの方々,そしてこの研修の機会を与えてくださった全ての方に心から御礼申し上げます。
ヤングネットワーク・ウイング九州事業が、いつまでも若者の出会いの場であり、すばらしい研修の場であることを願っています。



           中国(旧満州)の旅  
                                            宮崎市 永野明徳 

7月14日(日) 〜大連からコロウ島へ〜

 福岡空港を4時発の中国国際航空で一路大連へ。予定通り夕方6時に大連空港に到着。空港から一歩外へ出るとむっとする暑さ。日中は38度程度だったとのこと。
 空港では、現地ガイドと宮崎市の職員で自治体国際化協会北京事務所の本村さんが待ち受けていた。本村さんはこの後、北京までずっと我らと行動を共にしてくれた。

 夕食後の7時過ぎ、マイクロバスで高速道路を一路コロウ島へ。予定では十時にはホテル着のはずだ。ところが高速道路は至る所で大々的な工事中で満足に走れない状態で、ホテルに到着したのは深夜の二時過ぎであった。
  途中、立ち寄ったトイレは、もうびっくり仰天。その汚さは何とも言いようがないほどだ。ただ、先にも後にもこれほど汚いトイレはここだけであった。
 驚いたのは、深夜の到着にもかかわらずホテルにコロウ島市の職員が我々を待ち受けて歓迎してくれたことである

7月15日(月) 〜コロウ島視察・見学〜

 朝早く起きて食事を取り、7時にはタクシーで戦後の引き揚げ港である、コロウ島の港へ向かう。港が一望できる高台の公園に案内され、共にこの港からの引き揚げ者である母と日高さんが眼下に見える大きな港を見つめるが当時の面影は全くなく、大変な様変わりだそうだ。 敗戦の年の9月に日本へ引き揚げた当時は、まさに鄙びた漁村という感じだったそうだ。
 
  9時にホテル出発。コロウ島市庁舎に張副市長を表敬訪問。次いで、郊外にある石油精製工場の視察。広大な敷地を持つ工場で、至るところ大小のパイプが張り巡らされていた。原油はハルピン北方の油田からパイプラインで送られてくるのだという。その延長はおどろくなかれ4000キロ。
 この後、興城市にある「古城」を見学。城は1キロ四方ほどの面積を、高さ5メートル程の石の城壁で囲んであり、中央に城郭が、要所にはいくつかの城門が残されていた。明日からお祭りが始まるとのことで、中央の城郭から4方に延びる4本の大通りには、多くの赤い提灯が数多く下げられていた。通りの両側は商店が軒を狭しと立ち並び、多くの人々で賑わっていた。
古城の楼閣 「古城」から4キロほどの渤海に面した海水浴場近くのレストランで昼食。コロウ島市、興城市の招宴である。豪華である。アワビの刺身まである。「カンペイ」の声が何度も部屋中に響く。
 
  昼食の後は再びホテル近くに帰り、「実験小学校」の訪問視察である。バスが校門に到着するやびっくり。玄関前の広場の右手には、この学校の生徒50人ほどのブラスバンドが歓迎の曲を演奏。左手には生徒のお母さんや教職員達が、やはり50人ほど並んで拍手で我々を歓迎。熱烈歓迎に胸が熱くなる。
  教室での絵、書、バイオリン、民族楽器の演奏などの授業風景を案内される。絵にしろ、楽器にしろ、どの生徒もたいしたものだと感心する。聞くところによると実験小学校の名の通り他の小学校とは異なり、子どもの頃から個性を伸ばす教育に取り組んでいるとのことである。教師達も北京で特別に指導方法を習得しているとのこと。
  講堂では生徒達が自分の得意とする楽器演奏、独唱、合唱、ダンス、太極拳など次々に披露。驚くほどの出来映えに時間の経つのも忘れ、感動もした。

7月16日(火) 〜コロウ島から沈陽へ〜

 朝9時にホテルを出発。高速道路の工事もなく、見渡す限り果てしなく広がるトウモロコシ畑の中を走り続け、予定通り沈陽に到着。
 沈陽は遼寧省の省都で、東北地方の経済の中心地。人口は685万人。2300年の歴史を持つ古都でもある。清王朝二代はここに居を構える。現在は高層ビルの建ち並ぶ大都会。満州時代の名は奉天。

 まずは、北陵公園へ。清王朝二代目皇帝ホンタイジ夫妻の陵墓が公園となっている。何カ所もの城門と石垣もさることながら、面積の広大さに唖然。大きな円墳の陵墓は、まだ未発掘で、保護のためコンクリートが張られていた。公園の出口で、年老いた乞食が観光客に小銭をせびっていたのが印象的であった。

 次に、9.18記念館。ここは1931年9月18日 、この記念館の横を走る当時の満州鉄道の線路を関東軍が自ら爆破し、これを中国軍の仕業であるとして関東軍は中国軍を攻撃。世に言う満州事変の勃発である。 関東軍は僅か5ヶ月で満州全域を占領、翌年には満州国を建国している。中国はこの満州事変を忘れることなく後世に伝えるためにこの記念館を建立したのだという。
 記念館の中には関東軍の残虐行為の写真が数多く展示されている。日本人として何か心苦しく、胸が痛む。

7月17日(水) 〜沈陽から長春へ〜

 ホテル近くで毎朝、朝市が開かれると聞いていたので散歩がてら行ってみることにした。朝市は大きな道路の両側に、リヤカーや自転車などに果物や野菜、色とりどりの花が並べられており、リヤカーの荷台一杯に見事なブドウをのせている人もいた。

 今日は沈陽北駅を朝8時10分の電車で長春に向かう予定。多くの人でごったがえす駅に着き、発車時間を待つことに。ところが、発車時刻を相当過ぎても乗車案内がない。随分時間が経ってから貨物電車の脱線事故が発生し復旧の見込みが立たないということが分かった。。
 それでは、長春行きのバスでということになり、バスセンターに行くがチケットは既に売り切れており、結局マイクロバスをチャーターすることに。
 やっとの事で沈陽を出発したのが10時20分。それにしても、中国の電車に乗りたかった。こんな時によりによって脱線事故とは。
 
 長春での表敬訪問の相手は、吉林省の最高幹部で2時半までしか時間がとれないとのこと。会場に到着したのは2時20分。豪華な部屋で緒嶋団長と向こうのトップがあいさつ。アクシデントのため到着が遅れたが、僅か10分でも表敬ができて幸いだった。
 その後すぐに部屋を移しての吉林省の招宴昼食会。豪華な部屋に豪華な料理。勿論中華料理だがこんな豪華なのは後にも先にもこれが初めてであった。テーブルの中央にはカボチャで鳥をかたどった見事な飾り物が置かれていた。料理も最高においしかった。
北陵公園
 
 食事の後は長春市内観光へ。長春市は人口274万人。吉林省の省都。自動車産業、映画、大学の街として知られている。別名北国春城ともいわれるそうだ。1932年3月1日、満州国が建国されると、その首都となり当時は「新京」と呼ばれた。道路も広く、緑も多いし綺麗な街だが、最近は開発のスピードが早く2週間もすれば街並みが変わるという話だった。

7月18日(木) 〜長春から北京へ〜

 8時半にホテルを発ち、当時の満州国皇帝宮殿の見学に向かう。映画「ラストエンペラー」でも有名になった溥儀の住居である。こちらでは「偽満州国、偽皇宮」といい観光名所になっているようである。 広大な敷地に、いくつもの棟があり、まさに宮殿である。溥儀や婦人達の部屋、執務室など数多くの部屋があり見学できるようになっている。大きな防空壕まで用意されていた。
 この後、長春映画製作所の見学。ここは旧満州映画があった場所だそうで、当時の建物が今も一部残っている。若き日の森重久弥もここで映画に出演していたそうだ。最近では、「大地の子」「ラストエンペラー」の撮影も行われたということである。

 午後、長春空港から北京へ向かい、午後4時頃に到着。北京空港は驚くほどの広大な空港だ。早速バスに乗り、天安門広場の見学に出かける。数々の歴史的な舞台となった、広場を皆でそぞろ歩く。夕暮れ時ではあるが大勢の人でいっぱいである。空にはいろんな種類のたこが舞っている。人混みに混じりたこを売り歩く人たちが何人もいた。
 夕食を済ませ、バスに乗り込もうとするや男女2〜3人の物売りが「しぇんえん」「しぇんえん」と激しく迫ってくる。帽子とかハンカチの類のようだ。全員がバスに乗り込んでもハンカチの固まりを「しぇんえん」と言いながら投げ込む。ガイドさんが拾い上げて返しても、また投げ込む。彼らも必死だがガイドさんも手慣れたもので落ち着いてバスに投げ込まれたハンカチを拾い集めては突き返し、ドアを閉めた。ガイドさんの顔にちょっと悲しげな表情を感じたのは気のせいだったか。

7月19日(金) 〜紫禁城・万里の長城〜

 最初の見学地はホテル近くの紫禁城。紫禁城は故宮ともいわれ、明と清の2代の皇宮。
1406年〜1420年かけて造営され現在は世界遺産。南北960m、東西760m、面積は皇居の3.3倍。最後の皇帝が薄儀。入場料は外国人が55元。
 天安門広場側の大きな門から入場する。門の大きさに驚く。中国でも夏休みのため子供達の姿も多く見られる。また、日本人の観光客も結構多い。広大な城内を歩く。いくつもの宮殿がこれでもかというほど続く。ゆっくりみるとすれば1日ではとても足りないだろう。
 紫禁城を後にし、高速道路を約1時間ほど走り万里の長城に。途中すごい大雨になった。視界も悪くなり、あっという間に道路に水があふれ川のようになった。長城見学が危ぶまれたが、昼食後にはすっかり雨は上がっていた。
 駐車場から坂道を5分ほど登った所に、長城の入り口がある。左手側が男坂と呼ばれ上り坂がきつい。右手側は女坂で少し緩やかな登りで、こちらの方が観光客が断然多い。女坂を登ることにする。
 山というか峰の稜線に石の城壁が延々と続く。上部の幅5mほどの石畳の通路を歩く。両側の腰ほどの高さの壁には矢を射るための間口が等間隔に開けてある。途中には屋根付きの要塞みたいな建物もある。登り口からおよそ300m程の上り坂にある、のろし台をめざし登って行く。急勾配の場所では途中何度か休みながら。写真やテレビで何度もみた風景だが実際見るとやはりすごい。見渡す遙か彼方の山の上にも延々と続いている。すごいものを造ったものだ。
 遠く故郷を離れ長城を造った当時の人々、警備に当たった人達、侵入してくる騎馬族と戦った兵士達、どんな気持ちだったろうか。多くの犠牲者も出たことと思う。
 万里の長城は、春秋戦国時代から諸侯により各地に築かれ、紀元前221年中国を統一した秦の始皇帝がこれらを連結、さらに西方へ延長したもので中国里では1万2700華里(約6350km:1華里=0.5km)から万里の名が付く。シンボル的な部分は約2700km.宮崎東京間が直線で1000kmからしてやはりすごい。
 月から見える地上の唯一の建造物。世界遺産の筆頭格。
 我らが見学したのは長城のほんの一部で、北京から手軽にゆける「八達嶺」というところ。入場料36元(540円)。料金所のある、関城(関所)付近の城壁は高さ7.5m幅4〜4.5m、110m毎に望楼兼のろし台。この内部は兵の詰め所。上部の通路は騎馬五列、兵士10列が通行可能。通路の幅は騎馬戦車が通行可能だが、その急勾配からして実際は不可能だろう。
 
 次に、長城からバスで30分ほどのところにある「明の十三陵」に行く。ここには明の時代の皇帝13人の陵墓だ。長い階段を地下に下りる。かまぼこ形の巨大な空間が隣接して2つ広がる。全て石造り。天井も。名の通りまさに地下宮殿だ。
 観光客が多く連なって順に見学してゆく。祭壇らしきところには観光客が多くの紙幣を投げている。長城といい、この地下宮殿といい中国人のやることは桁違いだ。
 この明の十三陵は北京の北44kmの所にあり、明時代(1409〜1686年:276年間)の16人の皇帝の内13人が葬られている巨大陵墓。13の陵墓の内、開放されているのは「長陵」「定陵」「昭陵」「参道」の4陵墓。長陵が、最大規模。定陵の地下宮殿は発掘され復元されている。我らが見たのはこの「定陵」。

 再び北京市内に帰り、中華の夕食。今夜が中国最後の夜。北京ダックを特注してあり丸焼きのダックを盆の上にのせて見せてくれた。皮だけを食べるのだという。
 餃子の皮にダックの皮を数個のせ、黒い特注のソースを塗り、少しの野菜を加えてくるりと巻いて食べる。美味というより珍味か。
 流暢な日本語を話すウエイトレスが食事の終わりかけに、なんとか石で造られた酒器セットを健康にも良いから是非買えと勧める。数万円のものを安くするという。しつこいと思うほど。やれやれまたかと思う。結局、今回も緒嶋団長が1セット買われた。(買わされた?)

7日目(最終日)7月20日(土) 〜北京から日本へ〜

 今日は北京空港を朝8時30分発の飛行機で福岡に帰る日だ。ホテルでは5時過ぎに朝食をとり、6時10分にはホテルを出た。本村さんも見送りに来ていた。
 空港での出国手続き中、前田さんにハプニングがあったという。出国管理官が前田さんの航空券をチェック中、誤って機械の間に落としてしまいなかなか取り出せず、出発時間が迫ってきたので再発行をと言うと、所管が違うので不可と言う。前田さん、もうこの飛行機には乗れないとあきらめかけたときに、ようやく出されほっとしたとのこと。
 旅の間、大小いろんなハプニングがあったがこれが最後のハプニングとなった。
長いようで、短い旅は終わった。すばらしい人達との恵まれた旅だった。         終わり 

 

エッセイトップへ