カッパドキア

カッパドキアで見つかった
巨大地下都市イエラルトウ・シェヒル

 カッパドキアはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原中部に、200平方キロにわたって広がる広大な荒れ地のことである。地元の言葉で、「落ちたところ(!)」と言うこの地に、1900年初頭、地下に広がる広大な地下都市が発見された。
 この地下都市、始めは単なる自然の洞窟であろうと思われていたのだが、トルコの考古学者ヒクメット・ギュルチャイとマホメット・アコクが1965年始めて政府の援助の元に調査に乗り出したとき、彼らはそこに想像を絶する巨大な地下都市を見た。
 彼らが調査したのは取り合えず3つの地下都市だったのだが、最大の物ではなんと地下8階建て(一説では地下20階)の構造をもっており、当時ここに住んでいた人口は推定で
1万5千人をくだらないと言う。
 これらの地下都市は、地下都市として考えられる限りの完全な施設を持っていたのである。
 この推定人口1万5千人のカイマクル地下都市についての調査報告書の一部を見てみると、

 「まず、最重要な通気孔(エア・コンディショナー)が、都市の中央部を地下70mにある地下水脈まで垂直に貫いている。そして、その通気孔の上端には、多分見張り台を備え付けたと思われる跡が残っていた。各階層は階段または傾斜した通路で互いに繋がり、通路と部屋との境目の所々には、輪状の石碑(図C)が備え付けられていた。
この輪状の石は内部の石で作られたのではなく、外で作られて竪穴の通気孔からおろされた物であった
 井戸もあった。共同炊事場もいくつかあった。共同炊事場には、汚水処理設備の溝と、煙を通気孔の方に導くベンティレーション(換気装置)とがそなえつけられており、そのかたわらには岩塩を粉砕するためと見られる石盤もおかれていた。
 また、燃料や証明器具の油を貯蔵するためと見られる部屋や、家畜を飼育するための部屋、その飼料を作るサイロなどの跡もあった。寝室や仕事場は言うに及ばない。それどころか、ワインを醸造する部屋や、できあがったワインを貯蔵する壷を備え付ける場所まできちんと設けられていたのである。」(埋もれた秘境カッパドキア 著立田洋司 より)


 各部の役割については、付いていた跡からの想像が大部分であるが、それにしても驚くべき遺構である。
 この調査の他には、同じ1965年に行われた調査では、推定収容人口
6000人のデリンクユ地下都市、あまりにも深すぎて推定人口の特定も無理であったギョズテジン地下都市があった。
 カイマクル地下都市とデリンクユ地下都市は、互いに9キロ以上に渡り、トンネルで繋がっている(図B)、この長さは、日本の1962年まで日本最長であった清水トンネル(9072メートル)に匹敵する。
 その後、さらに収容人口が
六万人と推定されるオズコナーク地下都市が発見され、マヴルージャンと言うところにも地下都市が存在する事が、明らかになった。
 この調査でわかっているだけでも
合計8万5千人の人がここで暮らしていた事になる、さらにカッパドキアには現地住民の話では無数の地下都市がまだまだ他にも存在し、地下都市は約450個あるとみられ、数十万人の人が暮らしていたという事になる。しかし、地下なだけに調査が難しく調査がなかなか進んでいないのが現状らしい。
 しかし、この地下都市からは、今のところこのような基本機構の他は何の遺物も出土していないのである。つまり、生活を思わす物、例えば物を貯蔵する壷・服・収納タンス・食器・ゴミなどだ。他には、埋葬の跡が見られるもののそこを掘ってもなにも出てこない。(最近は少しづつみつかっているらしく先史時代から使われてたのではないかと言う説も出ている)
 どうやらここに住んでいた人達は、皆
何らかの理由があって、自らの痕跡を残さないように逃走してしまったのである、いったいなぜそんな事をする必要があったのであろうか。

考古学的新見解

 以前はこの地下都市は、地上にあるAD3世紀頃ローマ帝国の迫害に追われたキリスト教徒達によって作られたと考えられていた。 
 上の図は、本で取り上げられていた地下都市の報告書に見られる地上の洞窟寺院(ギョレメにある)との類似した部分だ。図AからDはどこが似ているのかよくわからないが図EとFは確かに似ている、ギョレメの洞窟遺跡からはキリスト教徒の壁画などが多数見つかっており、これはキリスト教徒が使っていたのは確かである。
 上で紹介したカイマクルやデリンユク、ギョズデジンの地下都市はギョレメから少しはなれたところにある。
 地上の洞窟と地下の都市の違いは、地上の物にはキリスト教徒による生活の跡があり、キリスト教徒が書いたとわかる宗教壁画が礼拝堂にあるのに対して、地下都市には生活を思わせる物だけではなく、一つの宗教壁画も残っていなかったと言う点である。
第一そのころローマの迫害を逃れたキリスト教徒は1万人にも満たなかった、そしてAD200年から続いていたキリスト教徒弾圧はAD313年にミラノ勅令にて終わりを告げる。そこからは特に地下に逃げる必要も無くなったわけである。
 ここには、キリスト教徒を助ける者もいなかったし、もし何とか地下都市を作り上げても、そこに住むべき人がいないと言う事になってしまうのである。
下の地下都市もキリスト教徒が作ったとするのはある意味暴挙であったが、他に可能性が無いので発見当時はそういわれていた。
 比較図を見てもわかるとおり、図Eより明らかに図Fの方が明らかに大きく精巧な作りをしている、もし地下の方もキリスト教徒が作ったとしたら、上の建築はもっと精工で頑丈な作りにしたのではないだろうか、
逃げ場ばかり大きくし最も重要な地上の洞窟修道院教会は手抜きと言うのは、キリスト教徒の性格から考えて明らかにおかしい。 
 紀元前5世紀の歴史家クセノフォンが、小アジア遠征記「アノ・バシス」に残した文献によると、11万人が住む東アナトリアの地下都市を訪ねてと言う題目で、紹介しているのでそれ以前から存在していたことは間違いないといわれている。

カッパドキアがある現地トルコの、鉄を作った民族ヒッタイト(紀元前1700年〜紀元前1200年)が地下都市を使っていたと言う説もある、初期のヒッタイト古王国時代にはカッパドキア近くのカマン・カレホユックには相当な数の人口を養うだけの食物貯蔵庫が発見されている。これは半地下製の3階建てになっており、現地の人口をはるかに超える分の食物が蓄えられたと見られている。
これが地下都市の食料を支えたのではないか。
ヒッタイトでは馬を貴重とし、鉄で作った戦車を馬に引かせていたが、大量の馬を養うための場所も地下都市から見つかっている。
ヒッタイトにはアリンナと呼ばれる太陽神が住む場所があった。この場所は、少し離れたアラジャホユックと言う場所であったが、太陽神はもしかしたらこの地下都市を拠点としていたのではないか。
インドの経典マハーバーラタ第一章には、蛇の一族ナーガ一族(蛇のような肌を持つ一族?)が住む地下宮殿に入り込み、命からがら逃げ出してくる話が出てくるが。「ナーガ一族」=「太陽神の一族」と考えると面白いかもしれない。

中国の秦の時代(BC708年〜BC208年)の文献にも、初代皇帝が地下宮廷を作った話があるが水脈を3つほど掘り下げたところまで作りこまれた深い地下宮殿であったそうだ。もしかしたらこれはヒッタイトが引き上げた後の地下都市を発見し、手直しした物ではないか。
ただ、この地下宮殿は書物によると侵入者を拒むべく弩弓の罠がいっぱい仕掛けられているらしく、発見されても・・。

参考文献 アナトリア発掘記 著大村幸弘2004年
     カッパドキア 著大村幸弘2001年
       カッパドキア 著立田洋司1998年
      
 カッパドキア 著荻野矢慶 東方出版2006年

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