第4章 オーパーツ

 次は、オーパーツをもっと掘り下げて見てみよう、僕がもっとも注目するオーパーツは、南米の「カミソリも通らない石組み」と、バールベックの2000トンの巨石である。それを中心に、オーパーツを詳しく説明していこう。
 
 インカは、ペルーのアンデス山脈一帯に発展した種族であった。
 ペルーの首都はクスコであるが、クスコはスペイン侵略の際に元からあった巨石遺跡の土台の上に建てられた町である。


 この石組みは、あまりにも精工で他の巨石の石組みと同じく、剃刀も通らないほどぴたりと作られている。この土台はかなり堅固で、ペルーに大地震が来たとき、上の現代の工法で作られた建物は倒壊し、壊れたのだが、下の土台は傷一つつかなかったほどである。その耐震性の秘密は、精巧な石組に加えて、石と石に互いに凸凹をつけ、それを剃刀も通らない精度で密着させているところにある。このような精度は、小さな石なら当時の道具でも可能なのであるが、100トンもある巨大な石となってくると現代の技術でも難しい。
 物の本には、これらの遺跡は、西暦700年から1500年までのインカ時代にその多くが作られたと言われている、しかし、最近ではその事を疑問視する声が多い。

 クスコ郊外にサクサイワマン遺跡と呼ばれる遺跡がある。この遺跡は最大で200トン前後の巨石が使われており、これを標高2500メートルのこの高さまでもってくるのは人力では計算上無理といわれている。素材となる石もこの近くでは産出されない。


 
正統派学者によればこのサクサイワマン遺跡は、西暦700から1500年にかけて栄えたインカ帝国時代に作られた物であると言われていた。
 しかし、全部がそうだというわけではない。
 ガルシラーソの「インカに関する公式報告」を読むと、歴史上の、あるインカの王がサクサイワマンの古代城塞を建設した先駆者の業績に挑戦しようとしたらしい。
 この挑戦は、巨大な岩を一つだけ数キロはなれたところから運び、城塞に追加しようとした物だと言う。
 「二万人以上のインディオ達が、山を越えて急激な丘を上り下りしてこの石を引っ張った。ところが、ある断崖に差し掛かったところで、石が人々の手を離れて落下し3000人もの人を押しつぶした (ガルシラーソ著 インカに関する公式報告)」
 これが本当だとすれば、正統派学者が唱えるサクサイワンの巨石遺跡をすべて第10代目トゥパック・ユパンキが作ったとするとおかしくなってくる。
 ガルシラーソの記述によれば、先駆者の業績に挑戦しようとした王というのは、11代目から最後の13代目までのうちの誰かと言う事になる。
 しかし、この三代の王の在位期間は短く、三代を合わせてもわずか40年ほどしかない。たかが一個の巨石を運ぶだけで、何千人もの死者を出したのが事実であるとすれば、わずか数十年の内に巨石運搬の技術がインカからすっかり消えてしまったと言う事である。 このような事は常識では考えられない、仮にその間にインカに何かがあり、王国が縮小したとしても、代々のインカの王は、先代の血統を受け継いだ物達である。当然国家的な事業を遂行する上で、重要性の高い土木の技術は代々受け継がれていくはずである。
 しかし、ガルシラーソの記述は、わずか40年の内にその技術がすっかり消えうせてしまったと言う事を表している。
 建造者をそれ以前の王にもとめたとしても、それまでの王は力が弱く、11代目になるまではそのような大規模な建造をするような力を持った王はいなかった。
 そこから、これらの巨石の多くはプレ(前)インカに作られたものであると言われて来ているのだ。
 遺跡の巨石は、大きな物と小さくて粗雑な物の2種類に分かれている。これはつまりそれ以前に作られた巨石遺跡建物の土台などを利用し、後のインカ人やスペイン人、ペルー人がその上に住居を建てたのであろうと考えられる。つまり土台はプレインカ産、上の建造物はインカ産、という感じなのだ。
 
 インカにはおかしな用水路遺跡があるという。カハマルカは、インカ最後の皇帝アタワルパがピサロに処刑された場所であるが、当の灌漑用水路は、その奥地に入った山懐にある。
 この用水路の異様さは、固い岩盤がまるで豆腐のように切断され、水路のほとんどの部分が直線、直角、垂直角、水平面から構成されているという点だ。

 特にトンネル部分に関しては、出入り口が極端に狭く、幅30センチ以下、深さも50センチ以下であり、横断面が正確な長方形である。場所によっては、100メートルも続くトンネルもあり、幅が20センチしかないのに深さが2メートルに及ぶ個所もある。これでは人が入って作業するのは困難であるし、中で直角に折れ曲がっている穴もあり、手作業でこれをなしたとは考えにくい。歴史学的にも工事不可能な灌漑設備と言われているのだ。
 いったいどのような技術で、岩盤を切っていったのであろうか、1986年米国ミネソタ州のセント・クラウド州立大地球科学部教授のアイヴォン・ワトキンズ博士は、既存の諸説を否定して、超高熱加熱説を発表している。
 これは、多くのインカで見つかった切石の表面に、鉱物成分と結晶構造の変容が発見された事から発表された仮説である。インカ時代には多くの黄金があったので、黄金を使って大きな反射鏡を作って、太陽熱で石を溶かしていたのではないかというのだ。
 上記の説はちょっと正統派学者に対しての当てつけに近いが、鉱物成分と結晶構造の変容はインカの切り石は高熱を出す何かによって切られていたという事を示している。もちろんそのころ使われていた石槌など、成型のための道具を使って石を切ったくらいの摩擦熱では、結晶構造にそこまでの変化は起こらない。いったいプレインカにはどのような切石の技術があったというのだろうか。
 プレインカに残っている高度な技術は、巨石に関する技術だけではない、注目すべきなのは優れた農業技術である。
 ティワナコは、インカの介入がなくプレインカ最古の文明発祥の地とされる神殿遺跡でペルーとボリビア国境の、チチカカ湖南部の標高4000メートルの場所にある。やはり最大230トンの巨石がふんだんに使われており、使われている安山岩や玄武岩の産出場は100キロ離れた谷底だという。

 その周辺で1970年頃に発見された少なくとも3000以上前の奇妙な耕作方式の畑跡を、幾何学的に整った見事な灌漑用水路跡ともども、復元しジャガイモを5年間育ててみたところ、なんと通常の5倍から10倍の収穫高を生んだという。
 この古代農法は、粘土・砂利・普通土などを5層重ねて、一本が幅4メートルから10メートル、長さ10から100メートル、高さ90センチほどの台地状に盛り上げた畑の本体と、同じ幅の運河とを交互に並べた単純なもの。肥料には運河の底のコケなどを取って使用するだけなのであるが、旱魃や洪水にもびくともせず、運河の保温効果で高地特有の寒冷害も避けられるという。
 これは現在のハイテク農業を上回っており、帯広畜産大学の中野益男教授によって1993年4月から北海道で大々的にアンデス耕方の農業が始まった。
 この計画の推進者、中野益男教授によれば、この農法は現在の化学肥料農業よりも数倍の効果があり、費用も少なくてすむし、寒冷が心配される北海道ではとても利用価値のある耕法として賞賛している。
 現在でも「水、土、太陽を重要視した微生物コントロール農法」と題されて中野氏のレポートの各所にも見られる。
 2003年の今でも、プレインカの古代農法は北海道で生き続けているようだ。
 ペルーには切り石の技術、巨石運搬および農業においてもプレインカ時代の高度な文明の跡が残されていたのである。

 次は、バールベックにある1200トンの巨石の話だ。

 レバノンの首都ベイルートから東へ70キロの小都市バールベックには、カエサルが作ったと言われるユピテル(ジュピター)、バッカス(マーキュリー)、ウェヌス(ヴィーナス)の3つの神殿があるが、これはその側に置かれている「南方の石」といわれている物だ。
 材質は石灰岩で長さ4.3メートル、幅4.6メートル、長さ21.4メートル、重さ1200トン以上計算上は1万8千人の人員を動員すれば動かすことは可能であるが、ロープの配分や人員の配置に無理があり、人力では動かす事は不可能である。
 それを動かしたのは、有史以前に存在した古代セム族という謎の民族であるとされている。と言うのは、ここで一番大きなユピテル神殿は、記録よれば以前からあった古代セム族の神殿の基盤の上に建設していたのである。
 その昔からあった神殿の基盤部は基壇石(ボディアム)と言われているが、そこには重さ650トン以上の石が3つ使われており、他の石も100トン以上ある大物ばかりだ。古代で建築に使われた一枚岩としてはその650トンの3つ石が世界最大である。(サクサイワマンの最大の石は200トンだが、高地に運ぶのが理論上無理である) この巨石を切り出したと思われる石切り場から、ユピテル神殿との中間当たりに、問題の巨石は置かれていた。
 いったい彼ら古代人はどのような方法でこの石を動かしたのだろうか。ここまで2キロほど動かして断念した模様であるが。切り場からここまで動かしてきたことが脅威なのである。
 計算上この石を動かすには、1万8000人の人員を使えば、動かすことはできると言うが、ロープの強度と人員の配置の問題で、短い距離でも動かすことは不可能という結論になっているのだ。
 ちなみに現在の最大吊り上げ可能重量はロケット専用運搬車両の1,265tが最大だ。
ただ何か大掛かりな仕掛けを作れば小さなビルくらいなら動かせることは可能なのであるが、吊り上げ重量としては現在の最大の運搬クレーンで、やっと運べるという事である。

 人力でこれを運ぶ大変さを考えるとすれば、この実験が参考になる。これは私が学校の授業でやったことなのであるが、フラフープを5人から10人で持ち、それを平行に下に下げたり上に上げたりするとする。これは一見簡単そうに見える、息を合わせてみんなでいっせいに下げようとするが、なんと他の人に引っ張られてなかなか下に下がらないのだ、これには僕もびっくりしたものである。
 まあみんなでがんばってなんとか下がるようになったのであるが、たかが10人足らずの作業でひとつのフラフープを下げるのがこれほど難しいのである。1万人を超えるともはや、ビクとも動かないのではないだろうか。ただし、何らかの仕掛けを作ってやれば、フラフープは簡単に降りていくのであるが、石切り場は回りが岩なので何らかの跡が残ってしまう。
しかし、周りにはそのような形跡はもちろん残されていない。
 いったいどうやってこの石をここまで運んだのであろうか。先ほど言ったユピテル神殿の基底部に使われた、650トン前後の石も運搬方法もまた、どうやってここに積まれたのかが不明である。この石は、地面より8メートルほどの位置に積まれているのであるが、100トンをこえると砂の斜路(スロープ)で引き上げるのは無理で、砂が崩れてしまう、何かで補強して載せたと考えればいいが、そのような大掛かりな斜路を作ったあともないし、第一ここは元々丘になっており斜路を作るには不向きだ。重ければ重いほど斜面をなだらかにする必要があるので、8メートルとはいえかなり長い斜路が必要となるのである。
 第一これにも1万人弱の人手がいるため、1200トンと比べれば労力は減るが、ロープや人手の配分の点でこちらも不可能である。つまりこの石の2倍の重さの「南方の石」は、これの2倍無理なわけである。

 この場所は、メソポタミア神話によれば、神々が天に上る場所であったといわれていた。ゼカリア・シッチンは、その記述からここはつまり古代のロケットの発着場だったのではないかと述べている。
 ロケットとはまた飛躍的な発送であると思われようが、オーパーツにはロケットのような物を題材にしたと思われているものが数点ある。

 上図は、マヤ文明のパレンケの遺跡から見つかった石棺に書かれた、ロケットに乗った王の絵である。この石棺の中身も、ロケットの形をしており、死んだ王を乗り物で宇宙へ送るための作りだと歴史学的にも考えられている。この胎児のように丸まった姿勢は、大気圏離脱時にかかる重力にもっとも耐えやすい姿勢である事が専門家によって指摘されており、乗り手は操縦桿のようなものを握っているのがわかる。

上図は、トルコの古代ロケット模型である。トルコのトゥスパ遺跡から出土したこの遺物は、年代測定の結果約3000年前のものであることが判明した。中央のコップピットのような場所には、首の欠けてしまったパイロットが宇宙服のような服を着て、ひざを抱えるようにして座っている。

上図はインカの黄金シャトルである、これはコロンビアで多数発見されている黄金製の動物模型図の一種だ。この遺物にはじめに目をつけたのは、アメリカ動物学者の故アイヴァン・サンダーソン氏である。(彼はオーパーツの名づけ親でもある。)
サンダーソン氏は、この模型図がどの動物にも似てないことを指摘した。そしてそれぞれの翼の形態が航空力学的に非常に理にかなっていることが専門家によって証明されたのである。
 ニューヨーク航空研究所のアーサー・ポイスリー博士と、ベル式ヘリコプターの設計者アーサー・ヤングの見解としては、
「前緑の直線的なデルタ翼はとても動物の翼とは考えられない。垂直に立った尾翼も航空機独特の物だ。ただし、最初の印象どおりジェット機とするならば、エンジンのイチはコックピット前方の機首ではなく、後方の胴体部に搭載されないと、機体のバランスが取れないだろう。」と言う。
 世界最初のロケットパイロットの一人として知られるジャック・A・ウールリッチじは、さらに突っ込んだ分析をしている。
 「デルタ翼と胴体の先細りの形から判断して、もしコックピットに透明ガラスがはめ込まれていることが前提とすれば、この物体の推進機関は明らかに低速のプロペラ式ではなく、ジェット機かロケット式、あるいはそれ以上の未知のエンジンでなければならない。超音速コンコルドの形状を見ればわかるように、このタイプのデルタ翼機であれば、急角度の上昇と急速度の飛行・離着陸など、高性能を発揮できるだろう。」


 しかし、この黄金ジェットは、上図の魚、現地に生息するゴールデンプレコと言う生物に似ているという説もある。たしかに形態的に似ているのであるが、私としては黄金シャトルの首の部分のへっこみ・補助翼である2枚目の翼・背びれが無い・尾翼の形態の違いと、下図のように尾びれに古代ヘブライ語のBにあたる文字に似た記号が書かれている事から、この意見に異を唱えている。

上図インドネシアジャワ島のスク寺院にある高さ2メートルのレリーフである。上部には太陽・月などが彫られている。

上図は、北米のインディアンに伝わる共通の遺物「レイブンズ・ラトル」である。 伝説ではカラスは神の乗り物で、インディアンたちの前に着陸したと伝えられている。

上図は、インドの経典にたびたび出て来る空飛ぶ戦車ヴィマーナの模型である。実際のヴィマーナの形態は、下図のようであったとされている。


 ヴィマーナの中は、「年中快適な気温を保っており、思うのと同じ速さでどこへでも行くことができた」と「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」などで紹介されている。インドの航空機は、今でヴィマーナと敬称で呼ばれているのは、古代の航空機ヴィマーナにちなんだ物である。インド人にとってはそれは常識であると言うから驚きだ。実際行った事のある人に聞いてみればそのことがよくわかる。

 果たしてこれらの作り手は、古代に実際ロケットを目撃したのであろうか。