『別所沼公園』

JP埼京線の中浦和駅南側を東西に県道さいたま東村山線が通っている。別所沼公園の南端はこの県道に接している。駅から公園までは歩いても数分ほどだろう。公園の北側から県道方向に向けて撮影した。

水面が青いが、これは晴天であったため、空の青さを映したからだろう。実際は、少し暗めの緑色である。

秋の紅葉の時期は、水面に映る樹の幹と葉の色を合わせて錦絵のような美しさである。

沼のぐるりには、木の杭が打ち込まれている。

住居の縁側のように沼の縁に沿って木の橋が巡らされているところもある。南東に小さな池があり、ここに架かる橋は本来の水の上を越す橋だ。

ウナギのかば焼きが名物で、キャラクターもある。

別所沼公園から武蔵浦和駅までは、「花と緑の散歩道」がとおっており、歩道の両側に桜の樹が植えられている。

西の方向には、秋ヶ瀬緑道があり、荒川方面へと通じる。北の方向には、常盤緑道があり北浦和駅方面に出る。

<2011.10記>


「花と緑の散歩道」につながる歩道橋の下から、公園に入って行くと、左手に小さな池があり、池の中央に像がある。

さらに中に入って行くと小さな小屋がある。

案内板を見ると、ヒアシンスハウスという名らしい。ベットと机と椅子とローソク立て、長机と長椅子と腰掛けがあるらしい。中に入ってみたかったが、気おくれがして外から眺めるだけにした。それにしても、かなり不躾に窓からのぞき見てしまった。家に帰って、無性に部屋の模様替えがしたくなった。

紅葉している。水に映っている方が、綺麗に見えるような気がする。

大木が多い中、やさしげな木立もあると心惹かれた。

横を小川が流れ、ここはここで、また違う一つの空間だ。

木の間から水面に日が反射したキラキラが見えた瞬間、ちょっと気持ちが弾んだ。ちょうど遊びに来ていた幼稚園児が「海だ」と一声あげて駆け寄ろうとした途端、木の根にけつまづいて転んだ。先生に「先生がそっち行ったらダメっていったでしょ。・・・」と怒られていた。自分も危なかったと思う。

*****

常盤緑道を出て、別所沼会館の横を別所沼公園に入って行ったところ。背の高い樹木に囲まれると空気が変わったと感じる。

左手の方に遊具のある広場がある。

魚の口の開け方がなんともユーモラスである。

ただ、どうやって遊ぶのかよくわからない。口に腰かけるのか、物を置いてテーブルがわりにして、ままごとか。多分あれは、上に乗って遊ぶのだが、口を閉じていると落ちそうになるから開けているんじゃなかろうか。

2012年春、撤去されて別の遊具が設置された。この場所に行っても、もう見ることはできない。


見渡せば、象もいる。

どうも、目の下に隈ができているようで、天を仰いでいるところとあいまって、「もう口から子供を出すのは、うんざりだぁ」とでも思っているように見えてしまう。

遊具のある広場を抜けると別所沼が見える。

普通だったら、車道に面したマンションを見ても、「マンションか」としか思わないだろう。ただ、沼に影が映る洋館と思うと詩的になる。日本で、沼のほとりに建つ洋館などめったに見ることがなく、同じものでも見あきているものと非日常では、全然印象が違う。ポーの「アッシャー家の崩壊」を連想する。

同じ機会に連続して撮っている。逆光かどうかでこんなに印象が変わる。

沼の右手に回って、水の流れを超えたところ。

案内板では、芝山となっている。写真左手に若干小高くなっているところがある。

石が配置されている広場を通った向こう側の奥。

写真の右側に映っているのは、屋根付き多目的広場である。

奥に立っている像は、風の神の像である。メキシコの神であり、メキシコ州から埼玉県に贈られたものらしい。

最初、人間の男性だと思ったので、鼻の下の極端な誇張に、非常に違和感を覚えた。ただ、威厳も感じられたので、勝手に裸の王様と名付けていた。それで、案内板を見たのに、家に帰ったら、風の王と記憶違いをしていた。バカボンのパパが下唇を突き出して鼻毛を吹いているようだとブログに書いてしまったのは、失敗だ。

神とは違うかもしれないが、天狗も鼻が異常に誇張されている。外国人が見たらどう思うのか、興味深い。そういえば、口がとんがっているところは、むしろ烏天狗を連想させる。河童を連想する人もいるらしい。鼻の上だけ見れば、結構ハンサムである。

南に進むと、ヒアシンスハウスがある。今回は、中に入ってみた。

ハウスは長方形で、北東の角に少し突き出ているところがあり、そこの用途が何か気になっていた。開けて見せてもらったら、手洗いがあった。ただ、設計者の構想では、トイレではないかとのこと。納得である。ベット脇の机の後ろは、観音開きの物入れが、作りつけになっていた。


(2011.11追記)


大戸中通りの東側一本横の通りから、風の神がある広場の横の細い道を通って、別所沼に入れることに気付いた。

沼の周りの木は、すっかり赤くなっていた。

流れを越して、別所沼の北側奥の西側にある遊歩道に入る。

遊歩道を南に進む。

(2011.12追記)


イチョウの葉もほとんど落ち、空がよく見える。

木々の間を通して、屋根に尖塔のある建物が見える。『湖畔のアトリエ』なら、ヘルマン・ヘッセの小説の題名。現実は公衆トイレである。

冬の風景には、清澄という言葉が似合う。

木の下に落ちた葉が積もっている。光線の加減か地面が赤い。

木立の間に道が通っている。道の先にも木立が見える。

*****

朝、カーテンを開けたら、雪で道路が白かった。昨夜は、雨音がしていたが、途中で雪に変わったのだろう。

午後になっても、これだけ雪が残っていることは、そうはない。

木にも体温があるのだろうか。木の周りの雪が溶けていた。

こんもりした葉の上には、雪が残っている。

泥まみれの雪だるまを見かけたが、子供だって、寒いのだろう。

(2012.1追記)


別所沼会館の庭の梅である。

盆栽が並べられている小道の奥から眺める。

広場の向かい側にある石碑の横にも咲いていた。

(2012.3追記)


他の大木に負けない桜もあれば、

まだ小さいしだれ桜もある。

(2012.4追記)


あちこちで藤の花を見かけるようになった。別所沼公園でも見られるのではないかと思い行ってみた。

折よく花が咲いているところに行き合わせた。。

*****

睡蓮と蓮の違いを調べたら葉に切れ込みがあり花が水面で咲くのが睡蓮で、葉に切れ込みがなく水面の上に茎が伸びるのが蓮とのこと。確かにモネの睡蓮の絵では葉も花も水面に浮かんでいる。そうするとこれは睡蓮ということになる。

睡蓮があるのは、南東の小さい池だけである。キショウブが咲いているのも一か所だけのようだ。

一週間ほどして、睡蓮の花が増えているかと思い来てみたら、むしろ花が葉の影になって目立たない。密集しているためか、葉が上に伸びて水面から少し浮いている。モネの絵のようにはいかない。

アヤメがまだ咲いていた。

*****

公園管理者のHPを見ると沼の周りに植えられている落葉高木はメタセコイアとラクウショウとのこと。ラクウショウの案内板を見かけた。落羽松もヌマスギもそのものずばりな感じで覚えやすい。

これが呼吸根だろう。特に場所を分けて植えているわけではなさそうだ。

沼のぐるりにも並木にも呼吸根がある木を見かけたけれど全部が全部というわけでもない。

本で調べると葉の特徴が異なる。観察すると一方の葉の方が大振りな感じで、羽根状に生えた葉の塊が同じ場所から対になって出ている(対生)。本で調べたメタセコイアの特徴と一致した。呼吸根も出ていない。

そうするとこちらがラクウショウの葉ということになる。呼吸根を出さないラクウショウもあるようだ。

(2012.5追記)


別所沼公園の南東の角の交差点で信号待ちをしながら右手の方を見たら、向こうの奥の方で高い木々の間の階段を渡って行く人が見え、非日常の不思議な感じがした。

更に後ろを見たら、橋と橋の間の通路の両側のアベリアの枝の赤と花の白が華やぎを添え、植え込みの影の中のアジサイの青が鮮やかで、別の世界のようだ。

(2012.7追記)


落ち葉が地面につもり赤い絨毯のようだ。歩くと足元が柔らかくふかふかだ。広い葉と違いカサカサ言わずにしっとりしている。体ごとすっぽり埋まったら暖かそうだ。子供のころ、本の中の「干し草の寝床」に憧れたのを思い出した。

(2012.12追記)


使い終わった後もとっておいた便箋の表紙の詩を何気なく読んだら、立原道造の詩だと気付いた。もう30年以上も前に絵が気に入って買ったものだ。別所沼公園のヒアシンスハウスで巡り合ったのも何かの縁だろう。

詩の題は「さびしき野辺」という。だれかが私のそばにいたらさびしくないだろうと思ったら、続きがあった。

ああ しかし と

なぜ私は いふのだろう

そのひとは だれでもいい と


いま だれかが とほく

私の名を 呼んでゐる……ああ しかし

私は答へない おまへ だれでもないひとに

これは、著作権のことを考えなくても全文は載せられなかったろうと思う。誰でもよくはない相手に送り、その相手には答えてほしいのだから。著作権の方は現時点では作者没後50年以上経つので検索すると全文読むことができる。

どこの会社で作った便箋か検索したら「たれぱんだ」や「リラックマ」を作った会社だった。こちらも自分の趣味にあう。ただ、もう同じ便箋は作っていないようだ。

(2013.2追記)


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