風邪を引いたりして体の調子が悪い時には一人でいたいと思う。そばに誰かいて咳をしたりすると心配されて大丈夫かと聞かれる。一人だと心配されるのを心配せず好きなだけ咳ができる。やせ我慢する必要がないので楽だ。
二人だと喜びは倍になり、悲しみは半分になるという。これについてはかねがね疑問に思っている
いろいろ話したいことがあり、友人に聞いてもらおうと思い電話したら、恩師のところに一緒にお礼の拶挨に行こうという。
行けば必ず近況報告をしなければならない。自分はパッとした話もなく気まずいので断った。友人は今日行くので会う暇はなく、しばらく戻らないという。
しばらくして、もうそろそろ帰ったころだろうから、今度こそと思いその友人に誘いの電話をした。開口一番相手は風邪をひいているという。寒風のなか外に引き出すわけにもいかず、すぐさま電話を切るのもなんだから、世間話をしようと思い、挨拶に行った時の様子を聞いてみた。
そうすると行かなかったという。でも今月行くという。その友人はまだ就職先を決めていないと聞いていたので、決まったのかと問うとまだだという。
「挨拶に行ったら、就職先を世話しにもらいに来たと思われるんじゃないか」
「そうだろうね」
「どうするの」
「どこか決まるでしょう」
「風邪お大事にね、それじゃ」
「それじゃ」
その後、少し時間をおいて、電話した。が、電話に出ないし、向こうからもかけ直してこない。心配になったので、しつこく電話したら、電話は無理とメールが来た。
いまだに音信不通にされた理由はわからない。
自分が「どうするの」と聞いたのは、就職先を心配したのではなく、挨拶に行き就職先がまだ決まっていないことがわかったら、相手が心配するだろうから、心配させないようにできるのか、どうするのかと思ってのことだった。こちらの意図が伝わらなかったのはわかったが、このまま話を続けるのも、なんだか友人を追い詰めているような感じになるので今日のところはこれまでと思った。暗い気持のまま電話を終えるのもなんだかいやだったので、明るい声を作って電話を終えたが、多分、気持を害したのだろうと思う。
その後、同期会があったようだが、自分のところには連絡がなかった。自分への連絡係はその友人だったので、親しい友人は無理でも普通の友人になれたらと思うが、なにしろ誤解があったとしても音信不通にされているのでどうしようもない。
大竹しのぶ、名取裕子、陣内孝則が出ていて、普通の市民の女性がひょんなことで選挙に立候補するというドラマがあった。おもしろいと思ったが途中までしか見れなかった。
原作が「誰かが触った」を書いた宮原昭夫だということはわかっていたので、原作の小説を読もうと思ったが、本屋でそれらしい本を見かけないまま、ドラマの続きがずっと気になっていた。ようやく最近図書館で借りて読んだ。
原題は「女たちのまつり」だった。時代の違いに少し違和感を感じたが結構おもしろかった。どうして途中までしか見れなかったのか、その頃何をしていたのだろうと思い、ネットで放送時期を調べたら、人事異動があったことがわかった。なるほど、ドラマどころではなかった。
「目を見て話せ」と言われることがある。実際にやったら、喧嘩を売っていると思われる場合の方が多いと最近気付いた。
用事を済ませて自転車置き場に入ろうとしたら、入口のところで花壇の端に腰かけている一人の初老の男性に気付いた。思わず「こんなところで一人で何をしているんだろう」と思いそちらの方を見たら目があった。目があった瞬間、何事か毒づかれた。何を言ったのか聞き取れなかったが、「おお怖」という感じだ。
また、その人の前を通って出るのがいやで、別の出口を探したがなさそうだ。出るときには目を伏せて通った。今度は通った瞬間、短く息を吐き出すような音だけが聞こえた。肩の力が抜けたという感じだ。
ただ見ただけなのに、とんだ災難だ。路上で好きなところを見て何が悪いのか。理不尽だ。通り魔にあう人もこんな感じかと思った。でも、独り言を言っているだけでは、警察だって取り締まりようがないだろう。
しばらく、自転車で走り、自動車が一台走ってやっとという細い道路に入った。向かい側から自動車が来たが、駐車している自動車があって、通り抜けられないので、脇によってやり過ごした。
邪魔だなぁと思い、自分が他人に迷惑をかけているという自覚がないのかなと思い、運転している人を見た。だれかに見られていることに気づいたら、気付くんじゃないかと思った。そう思ったところで、少し前の出来事を思い出した。そういえば、さっきは「何見てんだよ」と言われたのかもしれない。
小学校の高学年の頃だと思うが、母親に「別に」と返事して怒られたことがあった。
「あんたも、お父さんと同じだね」と言われ、「そういう無関心な態度をノンポリというんだよ」と言われた。なんだか夫婦喧嘩のとばっちりを受けた気がし、「子供にノンポリというなんて」と思った。
「別に」と言ったせいでバッシングを受けている女優さんがいるのを知った時は、「別に」と言うのがそんなにいけないことなのかよくわからなかった。
話は変わるが、友人に電話しても出ないので、何度も電話したら「電話は無理」とメールがきた。何度かメールをやりとりしたが、要領を得ず、「自分と口を聞きたくないようだね、何を怒っているのか」とメールしたら、「別に怒ってませんよ。人にはそれぞれ都合というものがあるから、いつでも思い通りに連絡が取れると思わない方がいいですよ」と忠告された。「やっぱり怒ってるじゃないか」と思い、『別に』と言われるとあまりいい気持ちはしないものだとわかった。
「都合がついたら連絡してくれ、その時、会う気がなくなっていたら、どういう心境の変化か教えて」とメールしたら、「わかりました」と返事がきた。
いまだに連絡がなく、一生連絡がないと思う。向こうは、いったい何をわかったのだろうかと思う。こっちのほうは何もわからないままだ。
「Gメン75歩き」とは、横一列に道路いっぱいに広がって歩き、後ろから来た人が追い抜けない迷惑な歩き方を言う。
秋ヶ瀬緑道を自転車で走っていたら、20代くらいの男の人と女の人が横に並んでジョギングしていた。
ぶつからずに横を通れるか微妙で、後ろについて走っていたら、男性が気付いて右脇を開けて通してくれた。
車道にぶつかり、横断するタイミングをはかっていたら、追い抜いた二人に先に横断されてしまった。
また、追い抜くのが面倒と思ったら、今度は女性の方が男性の方に寄って左側を開けながら走っていく。
今日は朝からよいことをしたと思った。若い二人の距離を縮めてあげることができた。
新聞の連載小説で読んでいる途中で、大学に入学して家を離れたので、途中までしか読めなかった。姉が家政科に移るのは止めたところまで読んだ。
夏休みで家に帰ったらテレビのドラマでやっているのがわかったが、原作で父親が扱っている商品がテレビで放映するのに差し障りがあるので、売春に関係する仕事の内容に変えたらしいとなにかで読んだ記憶がある。その時、原作は臓器売買に関係することだと思っていたが、そのうちちゃんと小説で読もうと思っていたら、今になってしまった。
今、光文社文庫で読んでいるが、解説はテレビドラマにふれているが原作との違いにはふれていない。
この文庫では、医療機関で学生が解剖したり、人体の標本を作ったりするための死体を輸入する仕事になっている。もちろん死体が売買されるされないに関わらず亡くなった人の死体だ。
自分は、売春に関係するより医療用に死体を売買する方が倫理的には問題ないような気がする。自分の感覚がおかしいのか、その当時の事情がよくわからないからか、気になる。
昭和57年発行の角川文庫の解説にこう書いてある。
「実際のドラマ化にあたって、わたしは山田さんに少なからざる御迷惑をおかけしてしまった。
ひとつは、この小説のなかでもっとも衝撃的と思われる、謙作が外国から解剖用死体を輸入するエピソードについてである。エコノミックアニマル化した日本人のノンモラルぶりを鮮やかに象徴化していてみごとという他はない。ところが、このドラマのヘソともいう事件が、番組提供者との了解に達することができず、接待用の女性を東南アジアから招くという、何とも奇妙な迫力を欠く仕掛けに改変せざるをえなかったのであった。」
番組提供者が何を思ったのかはわからないが、変えた後の内容の方が企業イメージを損なわないと思ったのだろう。ただ、これはどっちがモラルに反するかというよりも、どちらがより衝撃的かということの判断だったのかもしれない。少なくとも、解説を書いた人はどちらがモラルに反するかというより、どちらがインパクトが強いかということを考えているように思う。
性的な醜聞は、いわゆる良くある陳腐でお手軽な発想で、解剖用死体の輸入の方が「あっと驚く」という、独創性という点ではすぐれているように思う。いい話ではないので、より衝撃の少ない方を選択したということならスポンサーの気持ちとしてわからなくもない。
ただ、どちらも日本人の嫌がることを貧乏な外国人におカネの力でさせようと言う点で発想が同じだと思う。それで、内容を変えても抽象的に言いたいことは伝えられるということなのだろう。
ただ、最近の従軍慰安婦や風俗業の活用についての某政治家の発言を見ると、性の売り買いについて随分と軽く考えている人が多いようだという印象だ。
何が驚いたかと言えば、従軍慰安婦問題について、言いにくいことをよくぞはっきりと言ってくれたという点で評価する向きがある点だ。普通、いいにくいことをはっきり言ったといって称賛されるのは、強いものに遠慮して正しいことを言わず人権が侵害されるままになっている場合だと思う。ただ今度の場合は、人権に配慮せず、経済的に得になることをはっきり言ってくれたという感じだ。
風俗業の活用については、法律的に許されることを勧めて何が悪いのかという趣旨のようだが、今は事情が変わったが、利息制限法に定められている以上の高率の貸し付けでも法律で許されている方法でなら、遠慮せずにどんどんやりなさいと法的助言するのと同じ話のように感じる。
それでも、世間の人間には、これで結構支持されているのだから本当に不思議だ。とはいえ、こういう人間性について出自がどうのこうのという人間の方が更に下劣だ。一時は、同情して某政治家のことが、悲劇のヒーローにひかれるのと同じ感じで、少し好きになりかけていたくらいだ。
「判官びいき」を辞書で引くと、「弱い者や負けた者に同情する・こと(大衆の気持)。」と出る。某政治家が大衆の気持をつかむのに秀でているという評価は正しいと思う。
エスコルタのCDが図書館に二枚あったので、借りて聞いてみた。デビューアルバムの『愛の流星群』の最初の曲の『月夜の夢』が一番いいなと思う。
メンバー四人のうち誰がどこを歌っているのか気になったので、グループのHPを見てみたら、三人しかいなかった。一人脱退したようだが、いなくなった人が最初からいなかったようなHPは結構多いようだ。
『月夜の夢』のどこが気に入ったかと言うと、一人高音で歌詞なしで歌っているのと同時に他のメンバーが歌詞付きでハモっているところと、一部輪唱と言うか追っかけて歌っているところだ。
どういうわけか嵐の大野智主演ドラマ『魔王』の主題歌の『truth』を思いだした。この間再放送を見て、この曲にはまってユーチューブをお気に入りに入れていたので、改めて見てみた。
大野智が高音で歌詞の最後の音を伸ばしているところに、他のメンバーの歌詞が合わさっている。追っかけて歌うようなところもあり、バイオリンの間奏の曲調といい、結構感じが似ている。
ユーチューブに『月夜の夢』もアップされているが、残念ながら画面がアルバム写真で、誰がどの音を出しているのかまではわからない。
ダークダックスも四人だったなと思い調べてみたら、トップ・テノール、セカンド・テノール、バリトン、バスの組み合わせだった。
エスコルタは、テノール、ミュージック・テノール、ポップス・ボイス、バリトンの組み合わせで、向かって左からこの順に並んでいる。
抜けたのがミュージック・テノールの人で、三人になってからは、テノールの人が中央に立っている。
全員で同じ歌詞でハモっているか、順番に一人づつ歌っている曲は、四人から三人になってからも歌えそうだが、『月夜の夢』は三人でも同じように歌えるのだろうか。高音が二人いないと無理なように思う。コンサートに一度もいったことがないので、三人になってから四人で歌っていたときの曲をどう歌っているのかがわからない。(HPをみて、コンサートのDVD「愛のうた」に「月夜の夢」が入っているのがわかった)
エスコルタを知ったのは、吉武大地さんが与野公園のバラ祭りで歌っているのを聞いたからで、知った時期は、三人になった後になる。すぐさまコンサートに行っていても四人で歌っているのを見るのには間に合わなかった。コンサート代をケチったせいで見損なったわけではなくてよかった。
バラ祭りのとき、吉武さんが歌いながらステージから降りてきて、客席の間の通路で手を上に広げた瞬間、ハイタッチした人がいた。あまりにも絶妙のタイミングで一瞬演出かと思った。
多分、アクシデントだと思うが、吉武さんが全然動じず、歌い続けたのには感心した。
ハイタッチした人に対しては、いい度胸だと思うと同時に運動神経が抜群でうらやましいと思う。