『大地』2013.3.30-4.8

(一)

 今年は、三十日、三十一日が土日なので、定年で退職する人の最後の日が二十九日になる。

 これに気付いたのは、二十年以上前に一緒に働いていた人から、定年退職の挨拶の電話を受けたからだ。

 ちょうど、ゾラの「大地」(岩波文庫)を読んでいたところで、その中に老夫婦二組の老後があった。

 農民夫婦は、自分で耕せなくなったので、子供三人に土地を生前贈与し、子供一人が二百フランずつ、全部で年に六百フランを親に払う取り決めをする。(上巻四五頁)

 それで、どのような暮らし振りになったかと言えば、

 そこにフーアン爺さんが立っていて、一切れのパンとチーズを食べているところであった。婆さんは腰かけて、所在なげに爺さんを眺めていた。(上巻百九十五頁)

 「うん!腹がへったから食べてるわけじゃない……パンを食べると、気がまぎれるんだよ、暇つぶしになるんだよ」

 ゾラは、これを「深い倦怠や無為の痛苦」と表現している。

 このフーアンの妹夫婦は、娼館を経営し財をなして、やはり引退生活を送っている。

 彼はここで安穏にあらゆる趣味を満足させた。素晴らしい鮎や鰻を川で釣ったり、薔薇や撫子を蒐集して愛育したり、特に小鳥については、さまざまな森の唄い手を一杯にいれた大きな鳥小屋をもうけて、他人手をかりずに自分だけで世話をしていた。愛すべき老夫婦は至上の幸福にひたりながら、そこで一万二千フランの年金をつかっていたが、この幸福は彼等には三十年にもわたる勤労の当然の報酬と思われたのであった。(上巻六六頁)

 農村生活を満喫できるのは、農民以外のようだ。


(二)

 江戸の町は、人間の便や尿が肥料としてお金になったので、汚物まみれになることは避けられたらしい。

 パリでは、人糞が肥料に使われないので、その点では汚かったと書かれたものを読んだことがある。

 どうして、使われなかったのか気になっていた。

 大地を読んで、気付いたことがある。

 「あれほど卑しめられており、田舎でさえ忌わしいものとなっている、人肥を使うようになったのであった。」(上巻百八十一頁)

 「神様がわし等の手にくだすったものは、何だって使っていいんではないかね。それに、畜生の糞の方がきれいだなんて!…いいや、そりゃひがみてえもんだよ。わしんとこの野菜の方が立派にそだつもんで、村の衆が焼餅をやいてるのにちがいないよ、」

 人肥を使うのは、人肉を食べるのとは全然違うので、宗教や論理の問題ではないようだ。それに、肥料として役立たないというわけでもないらしい。

 他人にとやかく言われてもフリマ婆さんが、人肥を使うのは、土地が狭くてたくさんの家畜が飼えず、家畜の糞だけでは必要な量の肥料を手に入れられないかららしい。

 ウールドカンは土地が細分化されて小地主が集約農業をするのを非難し、人肥を使った農業にもふれているが(上巻二百十九頁)、家畜の糞だけで必要量が手に入るかどうかだけの問題かは、これを見ただけではよくわからない。

 どっちにしても、人肥を使う人間をバカにするのは、単なる偏見らしい。 


(三)

 大地を読みながら、リア王の最後はどうだったろうと思う。

 子供のころ、次姉が突然、「どうして、物語の三人きょうだいは、三番目が一番美人で、頭がよくて、やさしくて、勇敢なんだろうね」と言い出した。長姉がすぐに「そんなのおかしいよね」と言い、二人して猛烈に怒っている。

 自分も心の中で知っている話を思い浮かべてみた。確かに末っ子が一番いい子になっている。それで、もしそうでなかったらどんな話になるのだろうかと考えた。「ベルとまもの」なら、ベルが末っ子でなくてもよい。「ブーフーウー」は、微妙だ。題名は覚えていないが、長男が魔物退治に出かけて戻らず、二男が長男を探しに出かけて戻らず、三男が二人を探しに出かけ、魔物を退治して兄二人を連れて家に戻るという話があった。

 これなどは、三男が一番できがよいことにしないと、文字通り話にならない。三度目の正直というものだろう。実際、自分も姉二人のやっていることを見て、勉強することがいろいろある、とは姉たちには言えなかった。

 大地の中のフーアン爺さんの子供三人は、簡単に誰がいいとか悪いとか言えない。


(四)

 物語の舞台はパリの西南の「ボース平原の縁にあたっていて、地味の痩せた土地柄から、貧乏ボースと呼ばれている場所」だ。(上巻七頁)

 ウールドカンは、広い土地を持つ農場主で、様々な新しい農業の方法を試みている。人間の糞尿を肥料として使うことに偏見を持っていたが、考えが変わったようだ。(下巻八頁)

 「パリの下肥(しもごえ)だけで三万ヘクタールの土地を肥やすことができるんだぜ。勘定はちゃんとできている。それをみすみす捨ててしまって、ただほんの一部を乾燥して使っているだけだ。…どうだい、三万ヘクタールだぜ。それをこのボースの平原にぶっかければ、小麦がぞよぞよとほきて来るんだ」

 ジャンは、「それじゃ、船で搬ばなければなりますまい」と返事している。

 ジャンはここに十年いて、普仏戦争が始まった年(千八百七十年)に去っている。

 だいたい江戸時代末から明治にはいったところだろう。ゾラは、まさに江戸でそれをしているということを知っていたのだろうか。


(五)

 ウールドカン氏は、アメリカから安い小麦が入ってきて農業が成り立たなくなるのを恐れている。

 代議士の選挙が近づき、公認候補のロシュフォンテーヌ氏(工場主)が、あいさつ回りに村に来る。

 中巻二百六十三頁

 この二人は、地主と工場主、保護貿易主義者と自由貿易主義者とは、互いにまじまじと顔を見合った。

 「百姓が何を言おうと、労働者を養わなねばならない。」と、ロシュフォンテーヌ氏が言った。

 「先ず百姓が食えるようにして下さいよ」ウールドカン氏がそれに応酬した。

 労働者の食費を下げて賃金を引き下げることで、製造費を下げないと工場がつぶれ、労働者が失業すると言っている。

 この当時の経済循環は次のとおりのようだ。

 「パンを高く売らなけりゃ、フランスの土地は干上がってしまうし、パンを高く売りゃ産業が店じまいをするし。あんた方の方の手間があがれば、道具類や衣類やそのほかあたしの方で入用な百姓の生産品が値上がりになる…ああ、途轍もない泥沼でさ。しまいにゃ出るも退くもできなくなるでしょうよ」

 時代は第二帝政期で、十九世紀後半だから、その後どうなったかは分かっている人は分かっているだろう。

 ただ、もちろん、気になるのは、今日本で言われている経済循環で、労働者の賃金は本当に上がるのか、上がってもそれを上回る物価高なら実質賃金はむしろ下がるのではないかということだ。結局だれが得をするのだろう。

 有権者の声は、

 「われわれの考えることはひとつ切りしかない、つまり政府に充分の力があって、政策を実行出来りゃいいわけです。そうすると、こいつは間違っちゃならないところだが、政府の要求するような代議士を送り込むのが一番なんだ。…あのシャトーダンの旦那(ロシュフォンテーヌ氏)が皇帝の味方だということだけで、もう充分なんでさ」

 結局、力のあるもの、つまり金持ちが得になる世の中になるしかないから、それならなるべく金持ちが利益を上げられるようにして、そのおこぼれをなるべくたくさん貰った方が現実的な知恵だということだろう。 


(六)

 金持ちが尊敬されて、貧乏人が軽蔑されるのはどうしてだろう。

 上巻五十頁

 一家の中ではグランド婆さんが尊敬されもし恐れられてもいたが、それは老年のためではなく、富のためであった。

 彼(フーアン爺さん)は姉(グランド婆さん)の峻厳ぶりや吝嗇(ケチ)や執拗な所有慾や生活慾に、村の誰もと同じような敬意や驚嘆をいだいていた。

 上巻七十一頁

 「とにかく、一万二千フランからの年金をもらうほど貯めこんだ人(フーアン爺さんの妹夫妻のシャルル夫妻、娼館経営をしていた)なら、怠け者でも馬鹿でもないですよ」

 『アリとキリギリス』では、アリはキリギリスを助けない。質素倹約して貯めたお金を贅沢して浪費した人間に分けてあげたくないという気持ちだろう。

 他人ならそれでもよいが、親族の場合はそうもいかない。助けるにしろ助けないにしろ葛藤があり、悩むだろう。

 『大地』のグランド婆さんとビュトー(フーアン爺さんの息子)には迷いはない。といってもお金に対する強い執着心のために心の平安もないように思える。

 ただ、この強い執着心に強い生命力を感じる。なにに対しても執着心がなく、どうでもよいと生きているのは、張り合いがないのではないかと思ってしまう。


(七)

 『カラマーゾフの兄弟』が現代日本の設定で、ドラマ化された。成功しているかどうかは、この小説の主題を何だと考えるか次第だろう。

 下男が殺人を犯したのは、イワンが神を信じず来世を信じず、最後の審判を恐れなければ何でもできるというのを聞いたからだと思っていた。これをキリスト教抜きでどう処理するのか興味があった。もっとも、処罰されるのを恐れなければ何でもできるという前提自体が間違っているように思える。現代日本では、信仰を持っている人や地獄を信じている人は、少数派だと思う。にも関わらず、不治の病で余命いくらと宣告された人が、死刑を恐れず何でもできると思って、殺人を犯したという話は聞いたことがない。 

 誰が殺したのかという推理小説的楽しみ方もある。裁判でどう審理されるのだろうかという法廷劇の要素もある。ただ、この点ではがっかりだ。原作は有罪だが、ドラマはあっさり無罪になっている。

 結局、兄弟愛ともいうのがドラマのテーマのようだ。兄弟愛なら確かに時代や国が違っても共感できる点があるだろう。

 『大地』には、農業問題も政治問題もあるが、親の財産の分配や親の扶養という点でのきょうだいの問題が主たるテーマだと思うと、今の日本を舞台にして再現できそうだ。むしろリアルすぎて、正視できない人も多いだろう。


(八)

 『大地』を現代日本での話にしてみようとした場合、法律上の問題は、配偶者の相続権だろう。

 この小説の中では、土地と家について、配偶者には相続権はない。あるいは、現在のフランスでもそうかもしれない。

 この点は、婚姻届を出していない内縁か、離婚届けが出されていたので、相続ではなく財産分与の問題だとすればよいかもしれない。

 この小説の主人公は、ジャンがマッカール家の人間だとわかったところで(上巻十六頁)、ジャンだとわかるが、それがなければ、フーアン爺さんかビュトーだと考えるのが普通だろう。

 フーアン爺さんと三人の子供、イエス・キリスト(あだ名)、ファンニー(デロンム夫人)、ビュトー(尻曲がりというあだ名で、日本のへそ曲がりと同じ意味らしい)が、公証人のところにいって、親が生きているうちに土地を子供三人に譲渡して分割する。

 ビュトーはいとこのリーズと結婚し、リーズの妹フランソワーズと一緒に、姉妹の親が残した家に住む。

 フランソワーズがジャンと結婚し、家を出ることになったので、姉妹の親が残した財産を分割することにし、姉妹の伯母であり、ビュトーにとっても伯母にあたるグランド婆さんが、間に入って話をまとめる。

 公証人のところで、遺産分割についての書類を作成する際に、フランソワーズの(未成年)後見人であるフーアン爺さんが呼ばれ、後見人の決算がおこなわれる。 

 この場にもグランド婆さんが立ちあっていて、フランソワーズが姉夫妻と一緒に暮らしていた間の女中としての給金を請求する。リーズとビュトーはそれに対抗して、フランソワーズにかかった食費等を言い出す。

 さんざん言い合って、とうとう決着しそうだというときに、ビュトーが、

「シャツも脱げと言うんなら、脱いじまうぞ」と言ったときには、読んでいて笑いだしてしまった。(中巻二百九十五頁)

 しかし、これで終わりではなかった。グランド婆さんが道路建設の際の土地の補償金の分割を言いだしたのだ。

 公証人のところからの帰り道、グランド婆さんは、ジャンにコーヒーを奢らせ、

「とにかく、今日は可笑しかったよ」という。

 読んでいるこちらの方も大いに笑えた。完全に人ごとだから笑えるが、現在の日本でも遺産分割で時間と心をすり減らしている人間はたくさんいるだろう。たとえ親の財産だろうと所詮他人のものだ。ただで貰うのにやっきになる暇があったら、自分で好きなだけ稼げばいいものをと思う。


(九)

 フーアン爺さんは、自分の住んでいる家を売り、娘夫婦の家にいって一緒に暮らす。娘夫婦にとっても一緒に暮らす方が経済的にも楽なので、娘の方から一緒に住むよう勧めている。

 娘とは気が合わず生活習慣も違うので、細かいことで注意される。自分の家ではないので、気兼ねする。娘にネチネチ言われるのがいやになり、ビュトーの家で暮らすことにする。

 ビュトーのフランソワーズに対する態度を見かねて、ビュトーに意見するが、親の権威もなく、体力でも負けているので、息子を従わせることはできない。そこで、イエス・キリストの家で暮らすことにする。

 その後、ビュトーの家に戻り、またその家を出るが、ほかに行くところがないので結局ビュトーの家に戻る。そして、同じ家にいてもビュトーとは一切口をきかない。

@経済的理由で子供の家に同居する

A子供の家は自分の家ではないので気兼ねする

B子供はもう親の言うことは聞かない

C実の親子でも気が合わず、会話もない

 いちいち、物語の具体的な出来事を引用しなくてもよくわかる。自分自身で思い当たることがあるからだ。

 この間、母と話していて、母が「あの家(姉の家)で死にたくない」と言ったときには、恐ろしくて、理由を聞けなかった。

 自分も母と生活習慣が違うことがある。自分はトイレの便器の蓋は閉めない。閉める理由がわからない。閉めたら、中にいやなニオイが残り、次に使う人がそれに気づくんじゃないかと思って嫌だ。子供のころは、汲み取りの和式だったので、当然終わったら蓋をする。今、母を訪ねて姉の家に行くと、郷には郷に従えで、トイレの蓋は閉める。開ける方はセンサーで勝手に開く。母が自分の家に来た時は、自分の習慣に従って、開けたままにしておいてほしいと思うが、そのことには一言も触れない。母の方も閉めるのがマナーだとか注意したりはしない。

 母が帰ってから、自分ならどういう家で死にたいかと考えてみた。答えは、「どんな家であろうと死ぬのはいやだ」になる。母の言ったのも、力点は「あの家で」ではなく「死にたくない」という方だと思う。

 自分自身のためなら、もうそんなにお金は必要ないと思うが、親の面倒をめぐってみにくい争いになるのを避けるためには、充分ではないかもしれないと思う。あるいは、自分の心の平安のためだから、やはり自分のためということになるのかもしれない。

 最後に蛇足だが、トイレットペーパーの端を三角に折る理由が、最初わからなかった。どうやら、そうすると次に使う人が紙を引き出しやすくなるということで、次に使う人のための気遣いでするらしい。自分は、三角に折られていないので、引き出しにくいと感じたことは一度もない。三角に折られているのを見ると、他人の手がベタベタ触った紙で拭きたくないと思う。余計なことをするなと思う。そういうチマチマした有難迷惑をすることを細かい気遣いのできる人というふうに評価する人間とは気が合わないと思う。自分は、自分のことをよく知らない人には、細かいことを気にしないガサツな人間だと思われているかもしれない。実際は神経質で気難しい人間だ。

 コメントに、公衆便所の落書きを見た場合は当然削除する。


(十)

 『彌撒』という言葉がたくさん出てくるが、読み方がわからない。前後の関係でキリスト教の儀式らしいということはわかる。読み終わってから、外国の国名が、音をあわせているだけなのと同じことかと思い、音読してみて『ミサ』と気付いた。それから『たらふく食う』が『鱈腹食う』だとわかり、なるほどという感じだ。

 あとがきを読むと岩波文庫の翻訳は昭和二十一年にされ、翻訳権の関係で昭和二十八年(一九五三年)に発行されたとある。ゾラが亡くなったのが、一九〇二年のようなので、著作権が切れるまで待っていたようだ。

 今、さいたま市の図書館で、ルーゴン・マッカール叢書の訳本が全部読める。中には、二十一世紀に発行されたものもある。全作品がすぐに訳されずに、あまり人気がなさそうだったのは、文体が日本人好みではなかったからだろうか。それでも、忘れられずにいたのは、同じ作者の別の小説も読みたいと思わせるインパクトのある小説があるからだろう。




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