『獲物の分け前』2013.7

 ゾラ作『獲物の分け前』、ルーゴン=マッカール叢書の二十巻中の第二巻。

 2004年発行、ちくま文庫の76頁に「・・・じっとしてられないのさ。脚に水銀でもはいってるんだろ」とある。

 この水銀の使い方は、日本語にはないと思う。翻訳する場合に、なるべく忠実に原文通り訳すか、訳した文章が例えば日本語に訳す場合は、日本語としておかしくないように訳す、そのためには意訳を超えて、新たな文章表現として創作に近くなるのも辞さないという、二通りの考え方があるらしい。

 日本人が日本語で書いたような文章に翻訳する立場で、この文章を訳す場合は、単に「じっとしていない」と書くだけでなく、それを揶揄する日本語として一般に使われている言い回しを考えなければならず、ちょっと難しい。

 この「水銀」の使い方に初めて気付いたのは、マンゾーニ作『婚約者』に使われているのを読んだときだ。この小説は、イタリア人が日本語に訳した他に日本人も訳している。その訳した日本人の方は、「日本語としておかしくないように訳す、それには日本語が母語になる人が訳す方がよい」という考えのようだが、やはり水銀の言葉は使っている。

 気になり始めると、今まで、読み流していて気付かなかっただけなのか、続けて「水銀」を使っている文章を見つけた。

 デュマ作、『ダルタニャン物語』第8巻25頁「ぼくの手は水銀のように一瞬たりともじっとしていなかった。」

 こうまで重なると、作者独特の言い回しではなく、フランス、イタリアで一般的に使われているのかと思う。

 血の代わりに水銀が流れているイメージなのだろうか?日本でも血の代わりに別な物が流れている言い回し自体はあると思う。ただ、『婚約者』では、「心の中に水銀を持っていて・・・自分だけで動きまわっていればいいのに世界中の人間も踊らせようとする」と書き同じ人物に対して「おっちょこちょい」と書いている。体の中に水銀があって、その水銀がその人間を飛び跳ねさせているというイメージのようだ。

 翻訳で読む利点は、翻訳した時の日本語で読めることだと思う。その点では、江戸時代に書かれたものは当然として、明治に口語で書かれた小説も、日本人が原語で読むのは読みづらくなっていて、日本人の作品でも日本語に翻訳してほしい感じだ。『ドン・キホーテ』もスペイン人が原文でしか読めないとすると日本人以上に読む人が減ってくるだろうと思う。日本語も時代とともに変わる。翻訳時において日本語としておかしくなくても、今読むと古めかしい言い回しで陳腐に感じられることもある。それに、外国語直訳の日本語を読みつけると、案外外国語直訳でも日本語として違和感がなくなってくるのかもしれない。




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