『風流夢譚』2013.3

(1)深沢七郎2013.3.2

 深沢七郎の作品で読もうと思って読めなかったものがあったのを思い出し、探してみた。

 小説は見つからなかったが、事件について書いている本を見つけた。

 その中に引用されているインタビュー記事を読めたのは思わぬ収穫だ。

 朝日ジャーナルの1961年1月29日号に載ったらしい。もちろん襲撃前のことだ。

 「なんたる無礼者ぞ いさぎよく自決して 罪を天下に謝せ 問答無用 一家抹殺を期す 天誅を受けよ」というのもある。うまい文章だ。

 僕はふつうの人が貰えないようなハガキを貰って感動した。恨んでやるとか呪ってやるとか、とても純情だと思う。純情な人のラブレターだ。二十年も前に別れた女の人からもらったラブレターのような気がする。住所が書いてあれば僕は返事を書きたいくらいだ。

 なんとも人を食ったような飄々とした感じだ。読んではいないが、こういう感性が作品に出ていたのだろうと思うが、理解されずに事件が起きたのは残念だ。

 事件後、作者はどうしたのだろうと思ったら、放浪後見沼代用水の近くに住んでいたらしい。これも思わぬ縁だ。


(2)風流夢譚2013.3.2

 人の好奇心は、行動の原動力としては、最強のものではないかと思う。

 簡単に読むことができないと、どんな小説か無性に知りたくなる。

 中央公論1960年12月号でしか読めないと思ったら、『宇宙人の聖書!?』(奥崎謙三/著 サン書店 1976)に「風流夢譚」が全文掲載されていることがわかった。埼玉県立久喜図書館とさいたま市立中央図書館が所蔵している。

 深沢七郎の楢山節考は今でもファンは大勢いるように思う。ただ、全国的には中央公論の雑誌より上記の本を入手する方が困難なように思う。

 困ったことに、なぜこの本が埼玉県立図書館とさいたま市立図書館にあるのか知りたくなった。


(3)人間滅亡の唄2013.3.3

 深沢七郎が、埼玉に住んでいた時は、どんなふうだったのだろうと思ったら、「人間滅亡の唄」にその頃のことが書かれていることがわかった。

 前に買って読んでいるんじゃないかと思ったら、昭和五十三年の五刷の新潮文庫が家にあった。

 内容は全然覚えていない。開いてめくったら線が引かれているのに気づいた。線が引かれているところを拾い読みした。

 埼玉に落ち着く前の札幌でのことだが、

  『「ツマラナイことを言ったものですねえ、クラーク博士は、ココロザシ大ナレなんて、そんなことを言う人は悪魔のような人じゃないですか、普通の社会人になれというならいいけど、それじゃア、全世界の青年がみんな偉くなれと押売りみたいじゃアないですか。そんなこたア出来やしませんよ。そんな、ホカの人を押しのけて、満員電車に乗り込むようなことを』

 実は、この「普通の社会人」になることができなくて悩む人は大勢いる。深沢七郎だって、普通の社会人になるのは無理だったろう。もっとも、それで悩んではいないようだが。「楢山節考」が気にいったのは、「毎日、ちゃんとご飯が食べられるだけで幸せ」という気持ちになれるからだ。ゾラの「居酒屋」も好きだが、同じ理由だ。


(4)風流夢譚2013.3.5

 主人公は自分が起きている間だけ動く腕時計を持っている。腕時計のほかに高級なウエストミンスターの大型置時計があるので不便は感じていない。

 修理のため時計屋に持っていき中をあけると金ぴかだ。時計屋に金製のいい時計だと言われ、これにつり合うバンドをと勧められて高いバンドを買うが、結局修理はできない。

 その後別の時計屋で見てもらったらメッキのインチキ時計とわかる。でも、時計には愛着がある。

 そして、夢を見た晩、自分が夢を見ていた間も時計が動いていたことに気づく。

 作者はユーモア小説を書きたかったらしい。笑えるところは最初の時計のところだけだった。

 「スッテンコロコロ」で笑うのは、小学生の男の子が「ウンコ」と言って笑うのと同じような気がする。

 辞世の句が内容空虚でそれをさももったいぶって解釈するのを笑うのもあまりいい気もちがしない。それにこっちの教養では解説してもらわないと理解できない。

 作者の思想で一番気になったのは主人公が起きている間だけ動く時計だ。そして、この小説は、主人公が夢を見ていた間も時計が動いていたことに気付いたところで終わる。自分は腕時計が動いている、起きているというのが自分が生きていると言う意味に思えた。

 主人公の夢の最後に「夏草やつわものどもの夢のあと」という俳句がでてくる。芭蕉の有名な俳句が念頭にあったのだろう(「の」ではなく「が」だと思うが)。

 永遠の時間の中で一人の人間の一生など一瞬の夢みたいなもので、現実と夢が同じものだとしても現実がそもそも夢だから、その夢の中の夢もやっぱり夢ということになるのだろうか。

 結局、何を言いたいのかよくわからない。


(5)風流夢譚事件2013.3.27

 深沢七郎の小説「風流夢譚」の天皇一家の描き方がヒドイということで、右翼が騒いだので、この小説は左翼思想を支持するものではないという趣旨の評論が出たようだ。

 戦争を書いて戦争の悲惨さを訴えるというのと同じ発想かと思うが、革命を書いて革命の恐怖を表したものだと言いたいらしい。

 「夢」というといろいろな意味に使われる。眠っている間に見る夢は、「不思議の国のアリス」のように、不合理な世界で、場面展開が唐突だ。風流夢譚は眠っている間に見た夢の話だということをしつこいくらいに読者にアピールしている。これでは、本当の革命を書いているとは思えない。本当の革命を書かずに革命の恐怖を伝えようとしていると考えるのはナンセンスだと思う。

 大岡昇平は「群像」昭和三十六年二月号掲載の評論の最後に「深沢七郎の夢みた情景は、まったく根拠がないから、やはり革命の恐怖を描いたものということになる。」と書いている。この記述の前に、成功する革命は市民に恐怖を与えるものではなく、「残酷と流血は主として弾圧される時起る」とあるので、この文章の真意は、深沢七郎は革命の恐怖を描いていると評論した者に対しての皮肉だろう。

 表題が「病んでいるのは誰か」‐常識的文学論(2)−となっており、内容のほとんどが、風流夢譚の文芸評論ではなく風流夢譚について書かれた文芸評論に対する批判だ。風流夢譚についての評論が純粋に文芸評論として書かれたものではなく、右翼の攻撃から深沢七郎を守ろうとして書かれていたのであれば、大岡昇平が怒るのももっともだ。

 大岡昇平は「事件は中央公論編集部が宮内庁に陳謝し、次号に社告を出すことでけりがついている。」と書いているが、現実には、この文章が書かれた後で、右翼の少年に、出版社の社長夫人が大怪我を負わされ、社長宅のお手伝いさんが刺されて亡くなっている。

 この後、深沢七郎は、風流夢譚を完全に封印しているので、何を思ってこれを書いたのかについて書かれたものは少ない。

 「批評」昭和三十六年十一月号掲載の日沼倫太郎の「存在透視力」と浜野茂則の「伝記小説 深沢七郎」をみつけたが、それを読んでもわからないことがある。

 小説は、もともと読者が自分の好きなように読んでもいいものだと思うので、評論家ではない一読者として自由に感想を書いてもよいのだと思う。




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