『村上春樹』2014.6〜7

(1)多崎つくる

 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、これまで、村上春樹の小説を読んだことがなかったが、あまりの評判にどんなものか一度読んでみようと思った。

 去年(平成23年4月)に図書館に予約して今年の6月に順番がきた。その間にもう新作が出たらしい。

 読みやすく、それなりにおもしろい。推理小説やミステリーでなくても謎を提示して、その謎に対する興味で読者をつなぎとめることは、普通の小説でもよくあることだ。

 主人公(つくる)は自宅で、遊びに来た友人(灰田)の語る不思議な内容の話を聞き、話が長くなって午前一時に寝た(友人は泊った)。

 96頁「その夜、いくつかの奇妙なことが起こった。」その後、場面が変わり112頁に続きが語られる。

 「暗闇の中ではっと目を覚ました。」「身体全体が動かなくなっている。」「身体に力を入れようと思っても、それができない。意識と筋肉がひとつに繋がらないのだ。」「自分以外の誰かが室内にいることが気配でわかる。」「誰かが闇の中に潜んで、彼の姿を見つめている。」「それが灰田であることがつくるにはなぜかわかった。」

 それって金縛りでしょ、と思い、がっかりする。奇妙でもなんでもない。

 113頁、「本物の灰田は、その現実の肉体は、隣室のソファの上でぐっすり眠っており、ここにいるのはそこから離脱してやってきた灰田の分身のようなものなのではないか。そういう気がした。」

 100パーセント断言するが、灰田は現実に主人公の部屋に入ってもいないし、灰田の分身のようなものもきていない。

 よく金縛りを経験する人間にとっては、奇妙にも感じないし、分身うんぬんは、たわごとでしかない。


(2)ドリー

 『多崎つくる』を読んだ後、おもしろいのかつまらないのかよくわからず、他の人はどんなことを感じたのだろうと検索してみた。

 アマゾンで感想を読んだら、その感想がすごくおもしろく、たくさんの人が同様におもしろいと思ったようだ。それで、ドリー著『村上春樹いじり』という本が出版され、驚いたことにさいたま市図書館に二冊入っていた。

 映画の予告を見て、その予告シーンくらいのが他にもたくさんある、あるいはもっとすごいことがあると期待して、結局予告のシーンがその映画のマックスで、他のシーンはそれよりおとなしく、期待しすぎて却ってがっかりすることがある。

 本は春樹のデビュー作から順番に感想が書かれていて、最新の作品について書かれたもの以外は、本を出すために改めて読んで書きおろしたものらしい。

 本を読むとアマゾンで読んだものよりは、かなりおとなしい。だんだん眠くなってきたところで、107頁で声を出して笑ってしまった。これを読めただけでこの本を読んだかいがあった。ここの部分は『ノルウェイの森』について書かれたもので、やっぱり『ノルウェイの森』か、と思ってしまった。

 登場人物が互いに相手を傷つけたのではないかと堂々巡りの会話を続けていて「いいかげんにしろ、顔を洗って出直してこい」という気分になるらしい。

 これが「もう・・だんだんイライラしてきますよ。コミュニケーションなんて傷つけあいじゃないですか!!!本来は!そこからスタートですよ!こんなガラスのハートをペロペロ舐め合ってるようじゃ、心もそりゃ脆くなるよ!!!一回、2ちゃんで叩かれて、ハートを鍛えたほうがいいねこいつらは!」と表現されている。

 理由も言わずに突然音信不通になるのは、『多崎つくる』に始まったことではなく『ノルウェイの森』から既にそうらしい。これは、自分が相手にきついことを言って傷つけたり、逆にきついことを言われて自分が傷つくのを避けたいためらしい。

 何にもわからず音信不通にされる方がよほど傷つく。理由も言わずに音信不通になった相手は自分のために最後に一回傷つくことを我慢する親切心すらも持ってくれなかったのだなぁと思う。


(3)佐々木マキと村上春樹

 図書館の新書コーナーに置いてある本の表紙の絵を一目見て、自分が持っている絵本『やっぱりおおかみ』の主人公のオオカミと同じ絵だと気づいた。

 本の題名が『佐々木マキ』で、その絵本の作者について書かれた本だとわかり、読んでみることにした。

 本を読み、佐々木マキが村上春樹の本の表紙の絵も書いていると知り驚く。村上春樹が佐々木マキの絵を望んだとのこと。これで、村上春樹に対する評価が変わった。

 本を読むと、村上春樹が文章を書き、佐々木マキが挿絵を担当して、『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』をつくり、『ふしぎな図書館』は、『カンガルー日和』に入っている『図書館奇譚』に手を入れたものだとわかった。

 『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』と『カンガルー日和』を借り、村上春樹にとって羊男とは何なのかと思い、『羊をめぐる冒険』も一緒に借りた。


(4)佐々木マキと村上春樹A

 『カンガルー日和』には挿絵があり、一連の村上春樹の長編の表紙と同じ雰囲気の絵になっている。

 絵本作家ではなく、イラストレーターが書いたような絵だ。絵を見ただけでは、『やっぱりおおかみ』を書いたのと同じ人間とは想像もつかない。

 最初の短編『カンガルー日和』と最後の『図書館奇譚』を読んだだけだが、挿絵を見て、それから感じる自分のイメージを楽しんだ方がいいように思う。

 作者もあとがきで「お気に入られなかったところは佐々木マキさんの素敵な絵をじっと眺めて、それで許してください。」と書いている。

 AとBは気が合って、BとCは気が合っても、AとCが気が合うとは限らない、そんな感じだ。

 『やっぱりおおかみ』は大人になってから本屋でみかけて買った本だが、気にいったのは、おおかみが「け」というところ。

 村上春樹の小説で、主人公が「け」というようなものがあるのか期待したが、ちょっと違うようだ。村上春樹の主人公が孤独でちょっとクールで、日本の小説にありがちな貧乏くさく妙にじめじめとしたところがないのは、いいのだが、「け」から感じる力強さがないように思う。そして、どこか精神を病んでいるような、病気までいかない、その一歩手前のような人間が決まって出てくるが、それも、また自己主張が弱く他人に遠慮しすぎで気がめいるだけだ。


(5)佐々木マキと村上春樹B

 『図書館奇譚』を読んでいたら、「とても深くてうす暗い地下室で、ドアを開けたらそのままブラジルにでも出てしまいそうな気がする。」という文章に出会った。(文庫版201頁)

 「ブラジルの人、聞こえますか?」は、笑えるが、春樹のこの文章に笑いは感じない。なんだか残念な人のような気がする。多分マジで書いたのだと思う。こういう文章表現が出てくるところが、村上春樹の評価を難しくさせるのだと思う。

 『ふしぎな図書館』の羊男の絵と『羊男のクリスマス』の羊男の絵は、同じ絵だ。文章も『ふしぎな図書館』は『図書館奇譚』を子供向けに手直ししたという感じだ。

 『ふしぎな図書館』の方は、「ぼくはあきらめて階段をおりた。長い階段だった。そのままブラジルまでとどきそうな階段だった。」(22頁)となっている。

 主人公は図書館の地下で老人に会い、老人に連れられて更に下に降りて羊男に会う。

 『図書館奇譚』では、最初に地下に降りて、ドアを開けるところでブラジルの表現が使われ(川端康成の『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」からの連想だろうか?)、『ふしぎな図書館』では、老人に連れられ更に下に降りる階段でブラジルの表現が使われている。『図書館奇譚』で、この階段のところは「僕はあきらめて階段を下りつづけた。おそろしく長い階段だった。まるでインカの井戸みたいだ。」と表現されている。

 なぜ、深い井戸ではなく、「インカの井戸」なのだろうか?オシャレなカタカナで普通の人は「それ知らないだろう?」という言葉で修飾されているのが村上春樹の文体だ。そして、どこか有名な文学を真似たように感じられるところがある。

 


書斎へ戻る