『河岸に生きる人びと』他 2014.4〜7

(1)大山

 『河岸に生きる人びと』で、寛政四年(1792)、境河岸で船持81人が河岸問屋を訴えた事件を読んだ。

 大山の石尊様に参詣する客の争奪戦が背景にあったらしい。大山といえば、旧中山道から少し入ったところにある庚申塔の側面にこの文字が刻まれていたのを思い出した。

 訴状は関宿藩の役所に提出された。境河岸は利根川と江戸川が分かれるところの利根川の左岸にある。


(2)夜船

 『河岸に生きる人びと』を読むと、境河岸から江戸まで乗合夜船が出ていたことがわかる。

 境河岸の対岸の関宿河岸でも乗合夜船を出すが、正式な許可を受けていないので、度々船を出した人間が処罰されている。

 利根川と江戸川の分流地点の河岸どおしの争いだけかと思っていたら、思わぬところから攻撃を受ける。

 文化七年(1810)、日光道中の千住宿から、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋までの七ヶ宿が、境河岸の両問屋および向下河岸(関宿河岸は三つの河岸から成り、そのうちの一つ)の勘兵衛を幕府道中奉行に訴え出た。

 結果、境河岸の主張の方が認められたようだ。

 今年の正月に、柴又に行き、江戸川の矢切りの渡しを見ていたら、川岸に災害時に船を着岸させるところがあった。今、船も見直されているようだ。


(3)伊能忠敬

 『河岸に生きる人びと』の副題は「利根川水運の社会史」となっている。歴史上の有名人は出てこないと思っていたら、伊能忠敬が出てきた。

 幕府が河岸を公認し、河岸問屋から運上金を払わせようとする。伊能忠敬のいた佐原は、運上金の支払いを避けるため、佐原に河岸はなく問屋はいないと幕府に回答する。すると役人から、今後は隣河岸問屋の送状で運送するようにと言われる。

 それでは困るということで、やっぱり河岸問屋はいると答えたら証拠を出せと言われ、伊能忠敬が自宅の蔵を調べると、三代前の当主が整理した記録が出てきた。その記録のおかげで佐原河岸が幕府に認められることになった。

 その記録は隠居後の約五年の間になされたもので、伊能忠敬は隠居後でも大事業ができるという驚きと衝撃を受ける。

 伊能忠敬の測量が隠居後の仕事だとは知っていたが、こういう逸話があるのは知らなかった。佐原の人だということも知らず、なんとなく水戸と関係がある気がしていた。水戸黄門からの連想だと思う。


(4)利根運河

 『河岸に生きる人びと』を読むと、境河岸は旅客運送だけでなく貨物運送でも競争にさらされている。

 鬼怒川を下ってきた荷物は、鬼怒川の途中で陸路に切り替え、境河岸に運び、そこで船に積み直して江戸川を下って江戸に運ぶ。この陸路を境通りと言う。

 これに対抗して、鬼怒川で利根川まで船で運び、利根川から江戸川まで陸路をとり、江戸川の中流で船に積み直して江戸まで運ぶという運搬方法が出てくる。この方法だと境通りより陸路を短くすることができるという利点がある。どの地点で利根川から江戸川まで運ぶかでも競争があった。

 境通りの宿場は、新ルートの禁止を代官所に願い出たが、訴えの根拠としては、境通りが奥州・日光道中の脇往還になっていて、一般荷物輸送の利益で役儀を勤めているが、利益が出なくなれば、それができなくなるというものだ。訴訟では、新ルートの負けだったが、新ルートの輸送は止まらなかったようだ。

 明治になって、利根川と江戸川をつなぐ運河ができた。

 小樽運河は知っていたが、利根運河の事は初めて知った。


(5)天保水滸伝

   利根川の河岸の話と言うと『天保水滸伝』ということになるらしい。平手造酒の名前は知っていたが、それはNHKのドラマ「天下堂々」の登場人物だったからだ。

 山口瞳が書いた『巷説天保水滸伝』を読んだ。これは、有名な二人の人物が大人になり出会って、争いを始めるところで終わっている。

 河岸には宿場と同様に賭場があり、その賭場の縄張り争いの話が『天保水滸伝』ということになるらしい。

 残念ながら、天保水滸伝の話では、利根川や江戸川を船で行き来して生きていた人の生活の様子はわからない。


(6)利根川高瀬舟

   渡辺貢二、『利根川高瀬舟』、利根川高瀬舟に実際に乗っていた人から直接話を聞いている。

 昭和五十年代なら、まだ明治三十年代生まれの人に話を聞くことができた。見沼代用水路に昭和五年まで船が行き来していたのを知ったときは、自分の母親が昭和五年生まれなので、自分が地元出身なら、子供のころに祖父母からどんな様子だったか話を聞けたのに残念だと思ったのを思い出した。

 利根川の高瀬舟は薄い板で作られ一言で言うと「華奢な船」ということになるようだ。どうしてかというと水深が浅いところを通るので、なるべく沈まないように軽くするのだそうだ。

 水深が浅いので櫂を使えず、水底の障害物に気を付けなければならないので、帆を使える場所も限られる。そこで竿で水底を押して動かすので、船を走らせるのではなく「歩かせる」という言い方になる。

 国の方針が抵水対策から高水対策に変わり河川法が制定されたというのを読んでも今までピンとこなかった。船の交通のためには一定の水量を維持しなければならないので、抵水(渇水)になる場合の対策が必要になるが、洪水被害対策の場合は、水量が増量する場合、つまり水位が高くなる場合の対策が必要になってくるという意味だとわかり、ようやくピンときた。

 自分の子供のころは、既に船の交通を考える必要がなくなった時期で、河川対策といったら川の水が溢れて被害がでないようにすることしかないと自分でも気がつかずに思い込んでいたようだ。


(7)木下(きおろし)街道

     山本忠良、『利根川と木下河岸』に鮮魚を銚子から江戸に運ぶルートがでている。

 銚子から利根川を船で遡り、木下河岸から陸路で行徳まで運ぶ。夏の場合は生簀にいれて境河岸経由で船で運んだようだ。

 木下から行徳に運ぶよりも布佐から松戸を目指すルートの方が優勢だったらしい。今の千葉県観光マップを見ると、県道59号線に木下街道と書かれている。こちらが昔の「行徳みち」になるらしい。

 本には、「松戸みち」沿いの庚申塔が紹介されている。見に行きたいが、この本の記述だけでは探し出すのは大変そうだ。

 最近の観光ガイドは、ほとんど飲食店ガイドのようなものなので、歴史的なことも少し書いてほしいように思う。

 今あるがままのものを見るだけでは、多分どこの県道を歩いてもたいして違いはなさそうに思う。


(8)田山花袋

   田山花袋の書いた「東京とその近郊」を読んだ。東京の近郊を東西南北に分けてその特徴を書いている。

 西は武蔵野だ。武蔵野は荒川と多摩川に挟まれた地域だ。今でも川沿いに整備された緑道を歩くとその雰囲気を味わえるように感じる。

 東は川が特徴だ。川が多いのは今も変わっていないが、白帆はもう見られない。田山花袋が知っているのは、汽車と蒸気船と高瀬舟が同時に存在する時代だ。

 田山花袋は、こう書いている。

 白帆は東郊の特色だ。荒川にも中川にも墨田川にもある。しかし小利根ほど白帆の多いところはなかった。

 『どうだ!あの帆!』

 『川がすべて帆だ』

 『皆な上流に登って行くんだね』

 『とにかく奇観だ』

 汽車の窓からこんなことを言ったことがあったのを私は覚えている。

―略―

 この川を往来する汽船通運丸のことも此処に書きたいと思う。

 田山花袋の書いている小利根は江戸川のことだ。花袋の『布団』は読んだことはないが、この「東京とその近郊」はおもしろかった。




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