『子どもだけの町』2013.6

(1)

 子供の時に、姉が学校の図書館から借りてきて読み終わったのを借りて読んだ。読んだとは言っても姉が返却する前に読み終わらなかった。

 最後が気になっていたので、今、市の図書館から借りて読んでみた。多分、読んでいない部分は、海賊を名乗っていた子供たち三人の裁判の部分だと思う。

 かしらのオスカルに対する判決は、追放刑になっている。これが極刑だ。

 326頁「人間にあたえられる罰のうちでいちばんおもい罰は、社会から追放されることだと、ぼくはおもう。」 

 西洋のかなり古い時代の追放刑について、話を聞く機会があった。追放刑にあった人間は、ほとんどが森の中で獣に食われるか餓死したらしい。実質死刑だ。ただ、中には別の人間社会のところまで逃げて、そこに受け入れられて生き延びた者もいたらしい。

 三銃士の第三部で、フーケは追放刑を宣告されるが、国王が恩赦で追放刑より軽い終身禁固刑にする。この点は史実と一致するらしい。

 ダルタニャン物語11巻363頁「あのかたには牢獄が一種の恩赦だということがおわかりにならないのです。高等法院が自分を追放したのは、無罪放免を意味するし、追放すなわち釈放であると高言していられる始末ですからね。」もちろん、国王の本心は許したのではなく、「実質死刑にしてやろう」ということだろう。

 『子どもだけの町』のあとがきを読んで、『カイウスはばかだ』と同じ作者だとわかった。


(2)

 裁判官たちの相談

 325頁「とじこめても、あの三人には、あまり効果はあるまい。あの連中は、一日じゅうなにもしないでいる。それなのに、ぼくらは、連中に食べものをはこばなきゃならないんだ。」

 死刑制度について、話されているのを聞くと、遺族感情と誤判の可能性が中心だと思う。代替案の終身禁固について考えると、自由の可能性が全くない終身禁固の方が死刑よりもっと非人道的ではないかということは、書かれたものをみたことがある。でも、極悪犯罪者を終身監視して養っていくために国(国民)が負担する費用については、少なくとも「死刑制度の利点」として公に話されることはない。ぜひ、この点についてH氏に発言してもらいたい。これもまた、大方の人間が思っていても、はっきりとは口に出せないことのひとつだろう。とはいっても、費用の点については、当然国の側のしかるべき部署では、きちんと検討されていることだろうし、国民に知らせるべきことだろう。ただ、いい方に気をつけないと発言した人間の人間性が問題にされるようなことだと思う。


(3)

 328頁「ベンチにならんでいた子たちも、いささかがっかりしていた。ぼくらが海賊の指導者たちをたっぷりなぐりとばすだろうと、みんなはおもいこんでいたのだ。」

 世間の報復感情を満足させたらいいというものでもないだろう。その場の流れにまかせたら、いわゆる血祭りにされただろう。本当に全員の声なのか、一部の声の大きい者の声かわからないことも多い。

 副官二人はじゃがいもの皮むきの刑だ。

 「でもさ、ジャガイモの皮むきなんて、ちっともひどい仕事じゃないわよ!」と、最前列で、ふとったミンナ=ピュッツが声をはりあげる。

 「ジャガイモの皮むきなら、とてもひどい罰さ!」と、ずっと上のほうの男の子がどなる。

 裁判にかけられないその他大勢の海賊は、319頁で「海賊たちをためしに一日だけ防衛隊に編入しようと、満場一致できまっ」ていた。十代前半の男の子が、他の子が戦争のまねごとをしているのに、自分はポツンと女の子に交じってジャガイモの皮をむいていたら、そりゃいやだろうと思う。男の子じゃないので、本当のところはよくはわからないが。

 かしらも判決の内容が彼を手ひどく打ちのめしたということで、減刑されてジャガイモの皮むきに変えられた。

 そして、330頁で「もしきみが、これからはよくなると約束するなら、ぼくは、いずれきみを防衛隊の幹部に採用するよ!」と言われる。

 海賊が全滅したなら、もう防衛隊なんていらないんじゃないかと思う。敵のいない防衛隊はそれこそただの戦争ごっこでしかないし、ぶらぶらしていて誰かに食べさせてもらっているだけのことだろう。

 ただ、そういったことを考える暇もなく、判決言い渡し後の和解直後に親たちが帰ってきたのがわかる。


(4)

 トーマスは、(判決内容を)話しつづけられなくなった。とつぜん、オスカルは、胸もはりさけそうに泣きじゃくり、大声で泣きわめきながら、被告席につっぷしたのだ。オスカルは頭を両手のあいだにうずめ、肩をふるわせた。「いやだ、いやだ、いやだ!」と、泣き声が聞こえた。(329頁)

 現在日本の刑事裁判では、被告人が反省していると情状がよくなり刑も軽くなる。執行猶予がつくかどうか、無期懲役か死刑かの違いは、前者は実質無罪か有罪か、後者は文字通りの意味で生きるか死ぬかの違いだから、反省しているということで情状がよくなるかどうかは、重大な問題だ。

 どうして、反省していると刑を軽くできるのか。仮に反省していないとすれば、また、同じ事を繰り返してしまうだろう。刑罰に将来の犯罪発生を防ぐためという社会防衛の意味が含まれているなら、刑罰を受けさせる前に反省している場合は、将来の犯罪発生の防止という意味での刑罰の分はあらかじめ少なくしてもよいだろう。

 刑罰が怖くてもう同じことはしないということでも、将来の犯罪発生を防ぐ意味はある。オスカルは本当に自分のしたことが悪いことだと思って反省しているのか疑問だが、もう同じことをしようという気持ちを失くしたのは確からしいから、刑を軽くしたのは正解だろう。裁判で刑罰を科すといったって、他人を酷い目にあわせるのに変わりはないわけで、やる方もそういう酷いことをしないで済むのにこしたことはない。被害者の気持ちとしても、ずっと恨み続けるより、許せる気持ちになれた方が楽だろうと思う。

 今日本の刑事裁判では、被害者に公の場にでてきて他人の死を願うようなことを言わせているが(自発的にやっているのかもしれないが、制度が言わせているのだと思う。強制されていないからいいということではないと思う)、被害者に対して自分自身の気持ちを傷つけるような、倫理的に見て褒められるようなことではない行為をする機会を与えることが、本当に被害者保護になっているのだろうかと思う。例えば小学校の道徳の授業で他人の死を願うことについて、どういうふうに教えるつもりなのだろう。




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