『婚約者』2013.5

(1)

 ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』のなかにサンチョ・パンサの名前と並んでドン・アボンティオの名前があがっている。

 ドン・アボンティオが何者か調べたら、マンゾーニの『婚約者』の登場人物だとわかった。イタリアでは、誰もが知っている有名な作品らしい。それほど面白い小説を今まで読んだことがないどころか、その存在さえも知らなかった。

 岩波文庫版で読んでみた。確かに非常におもしろい。河出文庫版もあり、両方の解説などを見ると日本ではあまり知られていなくて、自分が特にうかつだったわけではないらしい。

 岩波文庫の奥付けを見ると1949年初版発行、1973年改訳で、訳者はフェデリコ・バルバロと尾方寿恵となっている。最初に解説とマンゾーニの序文がある。サンチョ・パンサと並べられるくらいだから、おもしろいはずだという先入観念がなければ、序文の出だしのところで読むのを止めただろうと思う。河出文庫では序文をカットして、簡単に内容に触れている。それに、岩波文庫にはない挿絵つきだ。

 河出文庫の解説を見ると、岩波文庫の訳をけなしているが、そんなことはないと思う。たまたま岩波文庫の方を先に借りたので、そちらの方から読み始め、第一巻を読み終わったところで、河出書房の方を借り、続きをどちらで読むか考えたが、岩波文庫の方で読み進めることにした。あるいは、1973年に改訳しているので、改訳前のことを言っているのかもしれない。初版を読んでいないのでなんとも言えないが、「他人のことはほっとけ」と思う。といいながら、今、自分も余計なことを書いている。


(2)

 物語は、1628年に始まる。書かれたのは、約200年後だ。そのため、この小説は歴史小説と言われている。歴史小説といわれると歴史上の実在の重要人物を主人公としていると思ってしまう。ところが、題名の婚約者の二人は無名の庶民だ。むしろ、時代小説といった方がイメージとして近い。でも時代小説といってもかえって誤解させるかもしれない。自分は山本周五郎と藤沢周平が好きで文庫本もいくらか持っているが、時代小説でくくってしまうとかなり作風の違う人とも同じグループになってしまう。

 どういった小説か、岩波文庫の解説から抜粋するとこうなる。(上巻4頁)

 「預言者のような彼の声は、ユーモアと、人間の弱さに対する同情ある皮肉のうちに、あらゆる社会階級と地位とを鞭打つ。また深い心理描写をもって人生と思想との無数の矛盾を指摘する。それは、長い人生体験を通じてなおも人間そのものに期待する老人が、時々は腹立ちながらも、安らかな憧れと信仰にみちた声で語るのを聞く思いがする。」

 マンゾーニはカトリック信者なので、この小説はカトリックの宣伝小説じゃないかと敬遠されたのかもしれない。ただ、宗教の教えは、人生を楽にする長年の生活の知恵と一致するところが多いと思う。


(3)

 マンゾーニの文体はどうか。

 岩波文庫上巻解説4頁によると

 「マンゾーニ的な味わいと称せられる繊細なユーモアとやさしい皮肉な味」とある。

 また、解説で引用されているパピニ著『イタリア人の写生』から孫引きすると(20頁)

 「美しい文章のリズムや会話」となる。

 小説の出だしは物語の舞台になっている地域の描写で、その中に最初の皮肉がでてくる。(河出文庫には地図が載っている)

 「ここには城もあったので、司令官を泊まらせる光栄もあったが、同時に村の女たちに警戒心も教えねばならなかった。スペイン兵は、夫や父親の背中を棒でこづいたり、娘を追いかけたり、夏の終りごろになると、ぶどう収穫の労を軽くしてやろうという親切からかどうかしらないが、ぶどう畑の中をうろつきまわった。」

 ここで『くすっ』と来た人は、多分最後まで読むのではないかと思う。ただ、出だしの風景の描写や『婚約者』という題名から美しい恋の物語でも期待した人は、すぐにがっかりしたと思う。そんなところも日本で、はやらなかった理由のひとつじゃないかと思う。

 河出文庫の訳の方が説明の言葉が多くて文意がつかみやすい。地図や挿絵も理解を助けてくれる。登場人物一覧もある。ただ、岩波文庫の訳の方が余計な言葉をそぎ落としたようなきびきびとしたリズムを感じる。岩波文庫の方で読み続けることにしたのは、この文章の流れが気にいったからだ。


(4)

 レンツォとルチアの結婚式の前日、ドン・ロドリイゴが主任司祭のドン・アボンディオを脅して結婚を妨害する。その後、ドン・ロドリイゴが手下にルチアを誘拐させようとしたが失敗し、ルチアはキリストフォロ神父の計らいで女子修道院にかくまわれる。レンツォは男子修道院に隠れようとしたが、ミラノ市で飢饉のためパン屋を襲う暴動にまきこまれ、扇動者として見せしめのため処刑されそうになるところを逃げ出して、いとこの所に行く。ドン・ロドリイゴはインノミナト(実在の人物のようで名前は伏せられている)に、ルチアを女子修道院から連れ出すように頼む。インノミナトは承諾し、ルチアを誘拐し、自分の城に連れてくるが、ドン・ロドリイゴにルチアを引き渡す前に、ルチアとフェデリゴ・ボロメオ枢機卿によって改心する。フェデリゴ・ボロメオ枢機卿は、ドン・アボンディオ司祭にインノミナトと一緒に行き、インノミナトの城からルチアを連れてくるように言う。

 最初このようにドン・アボンディオ、ルチア、レンツォが窮地に落ちるのは、判事、警察がちゃんと仕事をしないからで、まともな法治国家では起こり得ないことだと思った。

 でも、二人の男がドン・アボンディオに「結婚させてはならん!」「おれたちの主人で、あの偉いドン・ロドリイゴ様が、愛情をこめて、あんたによろしくとさ」と言っただけで、警察は何ができるだろうか。

 作者のマンゾーニの母親の父親は、『犯罪と刑罰』を書いたベッカリーアだということだが、この本に書いてあるとおりにやったとしても、というか、このとおりにした方が打つ手がないだろう。

 現在は結婚制度が変わったので、全く同じ状況は考えられないが、暴力団やストーカーに目を付けられた場合のことを考えると似た状況は考えられるだろう。

 ストーカーにしても、処罰しても永久に刑務所に閉じ込めておけるわけでもないし、警察に24時間死ぬまで警護してもらえるわけでもない。

 結局、所在をくらまして逃げるという解決法になる。もっとも、ルチアとレンツォの場合はそれで解決するとして、ドン・アボンディオの場合は、また別の問題だ。自分は特に慾もなく平和に暮らしたいだけなのに、そうさせてはくれない人間がいる状況とも考えられる。こっちはけんかする気がなくても、ほうっといてくれない人間がいる。国際問題から子供のいじめまでいろいろだ。


(5)

 ドン・アボンディオと家政婦のペルペトアの会話(岩波文庫上巻一章64頁)

ペルペトア「・・・つまりあなたの事件を大司教様(フェデリゴ・ボロメオ枢機卿)に手紙で知らせて・・・」

ドン・アボンディオ「・・・あわれなわしの背中に弾がぶちこまれたら、大司教様がそれを抜いてくれるというのか!」

ペルペトア「いえいえ、弾はあめ玉みたいにばらまきませんよ。それに、犬は吠えるたびに噛み付くわけでもなし。私が見たところでは、時と場合によって言いたいことを言ってのける人や、やるべきことをやる人は、いつでも尊敬されていますよ。それなのにあなたは、一度も言いたいことを言わないから、失礼ながら皆に小便を・・・ひっかけられるようになったんで・・・」

ドン・アボンディオ「いいかげんにしろ」

ペルペトア「もうよしますよ。でも、世間の人は、いつも小便をひっかけられる人には・・・」

 ドン・アボンディオは面倒事を避けようとする態度によって、逆に面倒事を呼び寄せたことになる。とはいえ、ここで責められるべきなのは、ドン・アボンディオではなくてドン・ロドリイゴなのは明らかだ。ただ、ドン・アボンディオはそもそも、どうして司祭になったのかという疑問は生じる。とはいえ、その職業がどういう人間を求めているかを考えずに、単なる生活費稼ぎの手段としか思わずに職業選択をするという問題はまた別の問題だ。


(六)

 ドン・アボンディアがインノミナトの城からルチアを連れ帰った後のフェデリゴ枢機卿との会話(岩波文庫下巻26章9頁から)

フェデリゴ「・・・なぜあなたは、悪のその妨害を、あなたの司教であるこの私に知らせようとしなかったのですか?」

ドン・アボンディオ(心の中で)「ペルペトア(家政婦)の意見と同じだ」

フェデリゴ「・・・あなたを安全に守る場所と方法を、私が知らないとでも思ったのですか?あの向こう見ずな暴君も、策謀が外にもれ、私の耳に入り、そして私があなたを守ろうとして立ったと知ったら、そう簡単に手出しできなかったでしょう。人間は自分の手におえないのに何かやると約束することもあるし、実行する勇気がないのに人を脅すこともある。悪は自分の力の上だけでなく、人の恐怖心と盲信の上にも立っているのだと知らなかったのですか?」

ドン・アボンディオ(心の中で)「うむ、ペルペトアもそう言った」

 質問の形をとっているが、答えを求めているのではないことは明らかだ。ただ、単なる脅しかどうか、自分の命を賭けるということになると、少しの危険も冒す気にならないのは、わかる。殺されてから殺した人間が罰せられても、殺された人間にとっては何の役にもたたないし、怒りに我を忘れるというのも真理だ。

 ただ、ドン・アボンディオよ、少しは勇気を出せ、と思う。いったん目を付けられたら運を天に任せるしかないとしても、普段もっと勇気をだしていたら(付け込まれるような弱みをみせなければ)、そもそも目を付けられる危険も減っただろうと思う。


(七)

 ドン・ロドリイゴがルチア誘拐に失敗した日の翌日、ドン・ロドリイゴのところに、いとこのアッティリオ伯爵が訪ねてきた。アッティリオは計画失敗にキリストフォロ神父が関係しているんじゃないかとドン・ロドリイゴに聞く。キリストフォロ神父がルチアの件でドン・ロドリイゴと話をしたときの状況が、アッティリオに知らされたあとの二人の会話。(岩波文庫上巻11章287頁から)

アッティリオ「へえ、よく辛抱したな。そして、無傷で帰したのか!」

ドン・ロドリイゴ「馬鹿を言うな、イタリア中のカプチンを、敵にまわせと言うのか」

アッティリオ「おれだったら、その時、この世の中に、あの無鉄砲野郎以外のカプチンがいるなんて忘れたろうよ。慎重にと言ったって、一人のカプチン相手に、腹いせをする方法ぐらい、いくらもあろうじゃないか。全身を撫でてやれば、手足ぐらい、危険なしに棒でたたけるぜ。まあいい、あいつはそれ相当の罰をのがれたわけだが、おれが代りにそいつをやってやろう。我々のような身分の者に話し方があるのを教えてやろう」

ドン・ロドリイゴ「これ以上まずいことをしないでくれよ」

アッティリオ「一度ぐらい、おれを信用しろ、おれは友人として親戚としてお前さんを助けるつもりさ」

 枢機卿とカトリック修道会と貴族の力関係がよくわからない。どっちにしても、自分の利害得失を冷静に判断できて、その判断結果に従う相手にしか脅しが効かないのは確かだ。それに脅す方が脅される方の価値観を理解していないとだめだろう。

 ところで、このドン・ロドリイゴはどれほどの貴族なのか。38章(岩波文庫下巻261頁)を読むとドン・ロドリイゴが住んでいた城に世襲相続人の○○侯爵がはいったことで、ドン・ロドリイゴが死んだことがわかるので、ドン・ロドリイゴは侯爵だったのだろう。ちなみにアッティリオはペストでドン・ロドリイゴより先に死んでいる。(岩波文庫下巻33章147頁)

 自分は伯爵で、いとこは侯爵で城も領地も持っているというときに(伯爵も持っているのかもしれないが、侯爵のものを上回るとも思えない)、そのいとこに対してどんな気持ちを持つのだろう。どういう順番で死ぬとアッティリオが侯爵になれるのかわからないが、自分は人が悪いので、アッティリオはいとこに何か含むところがあったのじゃないかとさえ思う。


(八)

 ドン・アボンディオがインノミナトと共にルチアを迎えに行く途中の独り言(岩波文庫中巻23章248頁)

ドン・ロドリイゴに対して「・・ちょっと考えてみろ、この世で一ばん幸せな人間にもなれるのに!何の不足があるのか、金はあるし、若いし、ちやほやされているし・・・お前は気楽に生きるのがいやなのか。他人にも自分にも災難を持っていかないと気がすまないのか。食ったり飲んだりの仕事ぐらいできるはずなのに、それをしないんだ、女どもをいじめる仕事をやりたいという・・・この世で一ばん気狂いじみた、はれんちな、厄介な仕事なのにな。馬車で天国に行けるのに、びっこをひいて地獄に行きたいらしい。」

 今自分が持っているものを粗末にして、持っていないものを欲しがって不幸になる人間は多い。とはいっても、手に入れるまでが、あるいは達成するまでが楽しいというのも確かだ。実際に経験するより、あれこれ想像する方が楽しいというのは不思議だ。現実は楽しいことにもなにかしら楽しくないことが付いて回るが、空想しているときは楽しいことしか考えないからかもしれない。

 試験勉強中はあれもこれもしたいと思っていたのに、試験が終わるとたいしてしたくもない、むしろつまらなく思えるというのにも似ている気がする。いざ、自由にできるとなると、あんまりしたくなくなるのは、試験勉強中は試験勉強と比べると、それほど楽しいことではなくても、楽しいことのように思えるからかもしれない。定年退職した人はどうしているのだろうと思う。まず空腹にならないとおいしく食べられないように、それでお金が稼げなくても、まず仕事をしないと趣味が楽しめないように感じる。趣味を仕事にした人はどんな感じなんだろうと思う。どうやって、気晴らしをしているんだろう。


(九)

 ドン・アボンディオの独り言。(岩波文庫中巻23章249頁)

インノミナトに対して「この男は、今まで悪事で世間を騒がせて、今は改心といって(本当かな)また世間をさわがせる。その改心の証拠立てに、わしまで相伴させられる・・・おもしろくもない!人をさわがせるより他にすることがないのか。わしのように、一生善人で生きるために、特にこれと言って必要なものはないというのに!・・・改心するのにも大さわぎする。後悔というのは、良い心さえあれば、他人に厄介をかけたり大げさに飾り立てたりしないでも、静かに自分の家でできるのだ。」

 慾はなく 決していからず みんなにでくのぼーとよばれ ほめられもせず くにもされず

 うっかりするとドン・アボンディオは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」のような人間かと思ってしまうところだ。

 ドン・アボンディオは悲しいくらい凡人なのだ。(岩波文庫上巻1章58頁)

「いつも強い者の前で我慢し、譲歩しながら、呑み込んだ大きな塊を吐き出す機会がなかったら、病気になってしまったことだろう。しかし彼のまわりには、絶対に悪いことのできない人々も居たので、彼はそういう人々に向かって、抑えていた毒気を吐き出していた。そして、少々のわがままや不条理なこともやってみたい望みがあったとしたら、彼はそういう人々にはけ口を向けるのだった。」

 他人から受ける害悪を元から断つのが無理でも、せめて自分のところで食い止めて悪の流れを止めたらどうかと思うが、防波堤だって無限に高くできるわけではない。

 外国の有名な小説が日本に紹介されたときに、多くの小説が子供向けに書き変えられた。ただ、この「婚約者」は子供向けではないと思われたんじゃないだろうか。日本であまり有名にならなかった理由もこんなところにあるように思う。


(十)

 ドン・アボンディオ(主任司祭)の独り言(岩波文庫中巻23章240頁)

フェデリゴ枢機卿に対して「まるで奇跡でも見たように、腕をひろげて、″愛する友よ、友よ愛する″とやかましいことだ・・・この男(インノミナト)の言うことを何でもはいはいと聞いて、あの城にまで人を送る、こっちにやれ早く、あっちにそれ急げと、人の手や足を勝手に使いまくる・・・わしらの仲間では、そういうのをおっちょこちょいと言うのだ。そして何の保証もせずに、こんな男の手に、気の毒な主任司祭を渡すのか!まるで人の命をじゃんけんできめるようなもんだ。」

 出世をしようという野心もなく、なぁなぁで仕事をしていこうとする部下と野心満々の上司が組み合わさるとこんな感じかもしれない。そうかといって、部下に気を遣いすぎると、なんでも自分でしなければならなくなるし、部下に慕われて頑張って仕事をしてもらえるようになるどころか、舐められて手抜きされたり、動かなくなる場合の方が多いだろう。

 他人を無理に自分の思う通りにさせたり、させられたりするのに嫌気がさしたら世捨て人になるしかないのかもしれない。今風に言えば「ひきこもり」というらしい。




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