『クリスティ文庫』2014.1〜4

(一)

早川書房から、全102巻の「クリスティー文庫」が出ている。

作品が分類されて順序良く並べられているので、ミス・マープルものを順番に読んだ後で、ポアロものを順番に読む。

子供の頃、長姉が推理小説に熱中し、かなりの冊数を読んだ後で、「犯人がすぐわかるので、つまらなくなった。一番犯人らしくないと思うのが犯人だ。」と言った。それを聞いて、犯人を当ててみようとしたが、当てることはできなかった。

今、読んでみても、一番犯人らしくない人物という方法では、やっぱり犯人はわからない。ただ、単純に考えて、誰が一番容易にそれをする機会があったかを考えると、犯人がわかる話が多いのに気付いた。

そうやって犯人が誰かが早い段階でわかると、最大の謎は「動機は、なにか」になる。

動機で一番多いのは「金(遺産)」だ。犯人が誰かという謎が簡単にわかる話ほど「動機」がわかりにくいように思う。

金の次に多い動機が「口封じ」のように思う。被害者に対する「愛」というものもある。これは「独占欲」とも言える。犯人が身勝手である点では同じように思う。

被害者の「身から出たさび」と思える数少ない作品もあり、そういうのは、読んだ後でも、あれこれ考える。


(二)

クリスティ文庫のポアロの長編は34作ある。

ポアロは私立探偵を引退後、旅行したようで、旅先で殺人事件に遭遇する。

旅行の次に、食べることが楽しみになったようだ。24作目『マギンティ夫人は死んだ』で、一日に三回しか食べられないことを嘆く。

次にクロスワードパズルに手を染め、29作目『複数の時計』では、ミステリー作品を読み、未発表の原稿まで手に入れて読む。

引退後の最大の敵は「退屈」のようだ。引退後、庭作りを趣味にする人は多いようで、ポアロも手を染めてみたが、趣味にあわなかったようだ。花なら買えばよいと話す。

ミス・マープルの方は、年をとってリューマチのせいで庭作りはできなくなってしまった。長編8作目『鏡は横にひび割れて』では、年のせいで編み目が良く見えず、簡単なものしか編めなくなったと嘆く。でも、その後も編み物は続けていて、編み物の手を休めて、眼鏡を外す記述があるので、目の方は老眼で良く見えなくなっただけらしい。老眼鏡をかけることで解決したようだ。リューマチはなおらないようだが、体力が衰えてもそれとうまく折り合いをつけ11作目の『復讐の女神』では、バス旅行に参加している。もともと仕事はしていないので、年をとって引退後に退屈するということはないようだ。


(三)

29作目『複数の時計』を読むとイギリスの昼食は午後一時からが普通らしい。

387頁「もうすでに英国の伝統によって昼の食事の時間として認められている、一時か、一時まぢかだったのだから。」

冒頭で登場人物が午後2時35分に勤務先に戻ってくる。お昼休みで外に出て5分遅刻で戻ってきたらしい。後でわかるが、昼休みは二交代制で、12:30〜13:30の早番と13:30〜14:30の遅番になっている。

お昼ごはんは世界共通に正午からが普通だと思っていたので、2時35分に戻ってきて5分しか遅刻していないとは、随分長い昼休みかと思ったら、日本とあまり変わらない1時間の昼休みだった。


(四)

ポアロ31作目『ハロウィーン・パーティ』の192頁に以下の会話がある。

ポアロ「いまじゃ、誰も縛り首にされるときまってなんかいないよ。もうこの国では縛り首にはしないんだから」

ミランダ「でも、ほかの国では縛り首にするのね。街んなかで縛り首にするのよ。新聞で読んだわ」

ポアロ「ほう。そんなことをするのは、いいことと思う?わるいことと思う?」

ミランダは12歳の少女で、答えは質問に対する答えになっていない。

解説を読むとこの作品は1969年に刊行されたとある。ネットで検索すると1969年にイギリスで地域は限られるが死刑廃止法案が成立したようだ。ミランダという名前を使っているのも時流によるものかもしれない。

「そんなこと」が、「公開処刑」を指すのなら、返事を躊躇する人はいないだろう。

24作目『マギンティ夫人は死んだ』では、絞首刑にされようとする青年が無実であることがポアロの活躍でわかり、青年の命は救われる。

21作目『五匹の子豚』では、無期懲役になり、獄中で亡くなった女性の娘の依頼により、その女性が殺したのではないことをポアロが明らかにする。原則死刑になるところを酌量すべき点が多く減刑されて無期懲役になったようだ。

作品を読むと、死刑制度が廃止されるまでは、一人殺すと原則死刑ということで、日本の場合より簡単に死刑が宣告されていたという印象だ。死刑制度が廃止されたのは、その前にいかにもやりすぎだという感覚があったからかもしれない。日本でも今の厳罰傾向の向こう側に死刑制度廃止があるのかもしれない。


(五)

30作目『第三の女』の冒頭。ポアロは探偵作家の分析に関する本を書き上げ、休息中。そして、いつまでものんびりくつろいでいるわけにはいかず、次の仕事にとりかからねばならないと思いながら次の仕事の腹案がなかった。本を書くのにも飽きたらしい。

31作目、32作目、次に何をするのか期待していたが、殺人事件の解明以外の私生活はわからない。

作者も引退後にやることの種がつきたのかもしれない。それに、報酬を得るということを考えなければ、謎の解明の仕事をやめる必要もなく、無理に他の事に生きがいを見つける必要もないということかもしれない。

自分の職業を言う時に、それで生計をたてていることが必要なのだろうか。簡単な言葉ほどその意味を説明するのが難しかったりする。職業ってなんだろうか、意外と難しい。失業中のサラリーマンは自分を無職というだろうが、注文が入らない自営業、あるいは、充分な報酬が得られない仕事をしている専門職は、無職とは名乗らないだろう。専業主婦も職業欄に無職と書く人もいるだろうが、主婦と書く人も多いと思う。


(六)

ポアロの几帳面さが事件解決に役立つ場合がある。

『ブラック・コーヒー』で、ポアロが部屋の中の物の位置を直す、一度ならず二度も、それを見たヘイスティングズが「やめてくださいよ。くだらないものの置き場をやたら直すのは・・」と言う。(242P)

そこで、ポアロは犯人が盗んだものをどこに隠したかに気付く。どうして二度も直すことになったのか。それは、誰かがそれに触ったから。

『マギンティ夫人は死んだ』で、ポアロはゲストハウスの女主人が乱雑にしていた引き出しを整理する。おかげで、その引き出しから出てきた証拠の写真がポアロが引き出しを整理した後で犯人が入れたものだとわかる。

ポアロの極度の几帳面さについての記述は、たいていの場合はユーモアで終わる。

ただ、ユーモアで気持ちに余裕を持たせることは、落ちついて頭を秩序正しく働かせるのに役立つ。

自分は、落ち着いてちゃんと考えようとするときには心の中で「おちつけ」と自分に向かって言う。そして続けて「もちつけ」と言う。心の中で餅をつくと、落ち着いて考えられる。


(七)

 自分がやっている机の中の整理方法は、引き出しの中に小箱を入れ、その小箱の中に物を入れるというものだ。

 もちろん、一つの箱の中には同じ種類の物を入れる。何をどの箱に入れるか、意外と難しいことがある。例えば、「イ」と「ロ」の両方の性質を持つ物を「イ」の性質をもつ物を集めた箱に入れるか、それとも「ロ」の性質を持つ物を集めた箱に入れるか、それとも箱を分けずに一緒にするか。

 整理整頓とは、いかに分類するかという問題だと思う。  引き出しの中に無駄なスペースをつくらないために、四角の箱を使っている。

 

 ポアロは、物事は秩序正しく考えるべきと話し、極端に几帳面だ。曲線を嫌い四角いものが好きだ。卵型の頭を持ちながら、四角いゆで卵を望み、従僕に四角いホットケーキを作らせる。ここまでくると、読者の笑いを狙っているとしか思えない。

 ただ、ポアロの変人ぶりを、毎回同じように書いたのでは読者も食傷気味になる。シリーズ最後の方では、ゴビイという情報屋の変わった習性についての記載の方が楽しみになる。

 どこが変わっているか、第30作目『第三の女』で「彼はだれに対しても面と向かって話しかけることはな」いと説明されている。この彼の習性でユーモアたっぷりの文章が書けるところがクリスティのすごいところだと思う。彼の登場シーンを読むために、もう一度読んでもいいと思う。ただ、残念なことにほかのどの作品に登場したか、よく覚えていない。登場人物のリストに載っているのは、32作目の『象は忘れない』だけのようだ。もっと有名になってもいい人物だと思う。

       
(八)

 ポアロは、ベルギー人だが、そうと知らない人には見た目で外国人と判断されフランス人と思われる。どういうところで、そう思われるのか特に説明はない。言葉で説明できないことなのか、読者にとっては説明不要のことと作者が思ってのことかは、よくわからない。

 イギリスの伝統的朝食は、ベーコンに卵らしい。夕方5時のお茶には、バターやジャムをつけたパン、ケーキ、きゅうりのサンドイッチなどを食べるようだ。戦後(第二次世界大戦後)は、その習慣も廃れたようだ。

 小説の食べたり飲んだりするシーンは、けっこう楽しめるものだが、今のところクリスティの小説では、簡単な朝食とお茶の場面以外で、どんなものを食べているのかが、よくわからない。

 短編でクリスマスのごちそうが出てくるところは、おいしそうなのだけれど料理の名前を見ても残念ながらどういう料理なのかがわからない。イギリス料理はどうも日本人にはなじみが薄いように感じられる。


(九)

 ミス・マープルがどうして多くの殺人事件に関われるのか不思議だった。

 ポアロも探偵業を引退してから多くの事件に関わるので、やっぱり不思議だ。

 ただ、ポアロの方は引退してからの方が依頼人に報酬を払ってもらうという問題がなくなるので、逆に多彩な事件に関われるようになったとも言える。

 この問題は、小説の中の出来事が現実に起こり得ることかどうかに拘るから問題になる。

 作者がどんなに工夫しても、現実にはこれほどの偶然は起こり得ないと思う。

 『謎のクィン氏』は、その正体が最後まで謎で、なぜ解決すべき事件に毎度丁度よく現れるのかの現実的な説明は、完全に放棄されている。こんな方法もあったかと思う。

 もともと、小説はフィクション、現実と違っていても問題ないはずだ。というか、大人なら現実が小説のとおりではないことは、充分承知している。

 ただ、最近のテレビドラマは、ドラマはドラマ、現実は現実、所詮別物という考えは、通用しないらしい。

 それから、自分が子供のころは夜10時台のドラマは大人が見るもので子供が見るものではなかったと思うが、今は違うようだ。


(十)

 短編集『死の猟犬』、怪奇的小説が集められている。「検察側の証人」は例外だ。本当に超常現象が起こったというものと、トリックでそう見せかけただけのものがある。

 この短編集は初めて読むが、以前に読んだ話もある。多分、父親が買った雑誌「宝石」の中に載っていたのを子供のころに読んだのだと思う。

 「ラジオ」は、もう一度読みたいと思いながら、作者も題名もどの本で読んだかも覚えておらず、読めずにいたものだったので、今回、クリスティ文庫を読破することにしてよかったと思う。

 どこが、心に残ったかと言えば、度々ラジオから亡くなった夫の声が聞こえ、予告通りその夫が迎えに来るというその夜に、もう病気による死を覚悟しており、幽霊とはいえ自分の夫だから、恐れていないはずだったのに、いざとなったら恐怖を感じ、その恐怖の理由が、夫はもう随分前に亡くなっており、自分にとっては見知らぬ他人になってしまったことに気付いたから、というところだ。

 そして、この幽霊の声は何かのトリックで、結局皮肉な結果に終わったことは覚えていた。

 夫でも何十年も会わないと見知らぬ他人になるというところが、どういうふうに表現されていたかということと、どういうトリックでどこが失敗したのかを確認したかった。

 他に記憶していた短編は、「青い壺の謎」と「最後の降霊会」と「S・O・S」だ。(検索したところ、「青い壺の謎」と「最後の降霊会」は「宝石」で間違いないようだ。)

 怪奇的小説にも関わらずユーモア(あるいは皮肉)が感じられるところが、クリスティらしいと思う。

 100冊もあるので、人それぞれのベストテンがあると思うが、推理小説やミステリーはトリックやオチに着目してのそれが多いと思う。あるいは、登場人物の魅力に注目する人もいるだろう。自分なら「ユーモア」を基準にして選ぶんじゃないかと思う。


(十一)

 短編集『リスタデール卿の謎』も初めて読むはずだが、どれもこれも読んだことがあるような気がする。これは、早川書房以外から別の名前で出されている短編集があり、それを読んだのだろうと思い、検索してみた。

 やはり、創元推理文庫に『クリスチィ短編全集』というのがあった。埼玉県立図書館に1から5まであり、それぞれの収録作品を見ると1が『死の猟犬』で、2が『リスタデール卿の謎』だ。多分、長姉が買ったのを借りて読んだのだろう。記憶している程度と今読んでおもしろいと思う程度はだいだい一致するようだ。

 短編集『リスタデール卿の謎』の方がクリスティらしいように思う。特にその中の「六ペンスのうた」が、クリスティらしい。関係者に話を聞いただけで謎を解き、真実はわかったが証拠はなく、罠をかけてその証拠を得る、最後にちょっとしゃれたことを書いて終わる。


(十二)

 短編集『死人の鏡』には、4作納められている。2作目「謎の盗難事件」を読み始めてすぐに読んだことがあると思った。設計図が盗まれるのは同じだが、題名が記憶と違う。最後のところを読むと同じ犯人、同じトリックだ。

 2作目を飛ばして3作目を読む。これも読み始めてすぐ「第二のドラ」のようだと思う(早川書房の訳では第二のゴング)。こちらは題名も分量も明らかに違うので、別の作品であることは間違いない。流し読みをして最後の謎ときを読むと、登場人物が少し違っていて、犯人と動機が違うがトリックは同じだ。

 4作目の「砂にかかれた三角形」を読む。ポアロの長編のうちの一作を思い出す。保養地の海岸で若い夫婦のうちの夫の方が、女性的魅力にあふれた既婚の女性に惹かれ、夫に構われなくなった妻が周りの人間に憐れまれて、もっとセンスのいいものを身につけるといいのにと思われる。

 もし、同じトリックならこの同情されている妻の、気弱な性格は演技だろうと思いながら読む。やっぱりだ。ただ、分量が違いすぎるので、一見すると同じトリックの使用とはいえない。ただ、長編では、最後にその妻の正体がわかってすべてに納得がいく。

 何度も読む推理小説はあるので、トリックや犯人がわかっているというだけで、もうその作品を読む価値がなくなるというものでもない。自分はチェスタトンのブラウン神父やアシモフの黒後家蜘蛛の会は何度も読んでいるし、これからも読むと思う。

 ただ、読みながら「これは前に読んだことがあったかなかったか」、とか「違う作品だとしたら違う謎ときになっているのだろうか」と思いながら読んだのでは気が散って楽しめない。

 「バグダッドの大櫃の謎」と「スペイン櫃の秘密」もほぼ同じ内容になっている。ただ、こちらは一方にヘイスティングズが登場しているが、他方には出てこず、ポアロがヘイスティングズのロマンチックな謎ときが聞けなくて残念と言っている。この違いを楽しむために両方読むという選択もある。

 あらかじめ、作品と作品の関係がわかった上で読んだ方がいいと思うが、推理小説の解説や感想は、トリックや犯人を伏せるのがマナーということになっているようだ。自分としては、このマナーは逆に読者に不親切のように思う。


(十三)

 短編集『マン島の黄金』、クリスティの死後、出された。雑誌に発表された後、どの短編集にも載らなかったものが多く納められているということで、一つの性格でくくれないものが集まった。

 その中で、「孤独な神さま」が一番気に入った。大人のおとぎ話のようだ。涙がじわっと出てきたところがあって、クリスティは泣かせる話も書けるのだと少し驚いた。笑わせることができることには気づいていたが、この話も最後の部分はユーモアで終わっている。

 「夢の家」も結構気に入った。推理小説以外の長編にも期待が持てる。


(十四)

 短編集『ヘラクレスの冒険』を読んで、ポアロがフランス人と思われるのは、フランス名前のせいだと気付いた。山田太郎という名前を聞いたら日本人とわかるようなものだろう。

 トミーとタペンスのタペンスが本名ではなく愛称だということを『秘密機関』を読んで知った。ただ、プルーデンスの本名からどうしてタペンスの愛称になるのかがわからない。本名からではなく本人の性格からきたものかもしれない。

 タペンスの意味を調べると「2ペンス硬貨」だった。プルーデンスの方は「慎重に行動する」ということになるようだ。本人の性格とは真反対の名前だ。イギリス人なら本名を聞いてくすっと笑うところだろう。タペンスからイギリス人がどういう印象の人間を考えるのかは、わからない。推測すると2ペンスは小銭だから、そのへんによくあって、頻繁にやりとりされることから「庶民的」、「敏捷、すばしっこい(流通速度が早そうなお金から足が速いを連想)」というイメージだろうか。日本語を習いたての外国人は、逆にお金を御足ということがわからないかもしれない。

 『秘密機関』の肝心の謎ときは、タペンスが2(ツー)ペンスであることを当然すぎるくらいに知っていることが前提になっている。

 ポアロが英語の常套句を間違える記述は、注つきになるので、ダジャレを説明される様なもので、笑えない。日本語に訳しきれないところを説明しすぎるとネタばらしになってしまう場合は、訳者も大変だなと思う。


(十五)

 トミーとタペンスの長編三作目『親指のうずき』、トミーの叔母が高齢者施設で亡くなり、二人で遺品を受け取りに行く。遺品の中に、運河沿いに建つ家を描いた風景画があり、タペンスはその家を見たことがあると思う。

 少し経ってから列車の窓から見たことを思い出す。その家を見たときに、後で近くでよく見ようと思い、最寄りの駅を覚えようとしたが、田舎の小駅がどんどん廃止されていた頃で、その家を見てから最初の駅に止まるまでの時間が三十分ほどだった。運河も今では使われていない。

 その風景画は、同じ施設の入居者から叔母がもらったものだったが、その入居者は、タペンスに謎の言葉を残し、行方不明。唯一の手掛かりとなった絵に描かれている家を探し出すことにする。

 自動車で探すことにするが、幹線道路から外れており、田舎の道の整備もなおざりにされているので、地図であたりをつけた場所になかなか行きつくことができない。

 自動車の時代になって、田舎の鉄道が縮小されたり、内陸の船舶輸送が廃止されるのは日本と変わらない。

 「大宮花の丘農林公苑」内の水路に跳ね橋がかかっている。遺構ではなく、雰囲気を出すための飾りなのだと思う。

 

 船の運航の遺構は、見沼通船堀にある。

 

 農業用水路が船の運航にも使われているところがヨーロッパと違うところだろう。農業用水路と排水路の役目をする川との水位を調節するための関だ。現在は年に一度当時の再現のために使用される。


(十六)

 トミーとタペンスの長編四作目『運命の裏木戸』、二人は田舎に家を買う。家の前の持ち主から本も一緒に譲り受ける。本を整理中、子供の頃読んだ本が懐かしくて、読みながら整理しているので、はかどらない。

 そのうちに、本の中に引かれている赤線をつなげると、謎の文章ができることに気づく。タペンスは今度は、この謎ときに夢中になる。

 子供のころに読んだ本でも挿絵が変わってしまうと同じ本とは思えなくなる気持ちには同感だ。もう一度読もうと思っても、同じ話の本は見つかっても、自分が読んだ本と同じ本が見つからないのは残念だ。

 問題のメッセージがある本は、スティーヴンスンの『黒い矢』だ。『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』は有名だが、『黒い矢』は聞いたことがない。ただ、もしかして、薔薇戦争の時代を舞台にした冒険小説ではないかと思った。子供の頃家にあり誰が買ったのかわからない古い本で一部分読んだ記憶がある。一部分というのは、頁が一部分とれてなくなっていたからだ。ネットで調べたら思った通りだった。自分は、『宝島』は世間で言われているほどおもしろい気はしなかったが、『自殺クラブ』はおもしろかった。『黒い矢』も是が非でも全部読みたいとは思わなかったが、記憶に残っているのは、さすがにスティーヴンスンだと思う。

 与野本町駅西口の白薔薇

 

 与野公園の赤薔薇

 

 ヨーク家とランカスター家、どっちが白薔薇でどっちが赤薔薇か調べないとわからない。歴史がわからないと読むのは大変じゃないかと思う。現代のイギリスの子供にも読まれているのか気になるところだ。

 『親指のうずき』には、ランカスター夫人という人物が出てくる。そしてヨーク夫人も。


(十七)

 「トミーとタペンス」というよりは、「タペンスとトミーそしてアルバート」という方がぴったりのように思う。

 『運命の裏木戸』では、飼い犬のハンニバルも大活躍をし、登場人物一覧表に加えられている。他に重要な役割を果たす犬が登場するのは、ポアロの長編では『もの言えぬ証人』、短編集の『ヘラクレスの冒険』、短編集『マン島の黄金』の中の『愛犬の死』だ。

 これだけで、イギリス人は特に犬好きとは言いきれない。自分が散歩中に、飼い犬を散歩させている人達の様子を見た限りでは、日本人も同じくらいに犬好きのように思えるからだ。

 作者のクリスティについても犬好きかどうかは、わからない。『サーバーのイヌ・いぬ・犬』の作者は、この本ではっきりと犬好きと言える。

 
(十八)

 戯曲『招かれざる客』、最後まで読んだが、犯人が誰かわからない。わからないという結論が正しいのかもわからない。

 人は嘘をつく場合もあり、確からしい事実だけから判断するとしたら、犯人は登場人物以外にいる可能性もあると思う。これだけは確かといえそうな事実は、誰でも外から入ってきて、被害者を銃で撃ち、去って行くことが可能だった、被害者は家族の知らない誰かに恨みを買っている可能性が高いということだ。

 推理小説やドラマを見ていると、犯人はどうしてそういう余計な小細工をするのだろうと思うことがある。その小細工が見破られたら言い逃れできなくなる。余計なことをしなければ、たとえ疑われたとしても有罪とできるだけの証拠を警察が手に入れることはできなかっただろうにと思う。

 作者の都合とも思うが、クリスティは他の小説で「犯人のうぬぼれ」と説明している。また、ポアロを見くびって、ポアロをわざわざ引きいれて偽の証拠の証人にしたてている場合もある。名探偵が見くびられることもないように思うのだが、年を取って老いぼれたと思われ、その名声だけを利用しようとしたらしい。


(十九)

 戯曲『アクナーテン』を読み、戯曲『評決』に似ていると思う(文庫ではブラック・コーヒーの題名の本に収録)。どちらも良いことを考え、実行するが、逆にそれが周りの人間に不幸をもたらす。

 『評決』で、登場人物が最後の方で、「極端な理想主義者は、周りの人間を不幸にする点では、極端なエゴイストと変わらない」という意味の事を言う。

 今放送中のドラマで、あくまで隠蔽工作に反対する主人公が、友人から家族のことを考えて、筋を曲げて保身に走るように忠告される。

 永遠のテーマのように思う。自分は『評決』を気にいったが、興行成績はよくなかったようだ。クリスティ作の題名「評決」から観客が期待するものとは、違った内容だったせいだろう。クリスティは別の題名にしたかったようだが、通らなかったらしい。

 読者の求めるものを書かせられる例は、いくつもあるように思う。シャーロック・ホームズは崖から落ちて死んだはずなのに、死んでいなかった。

 オズシリーズも一度は終了宣言を出したが、書き続けられた。

 スティーブン・キングの『ミザリー』で、作中の小説家は、熱狂的な読者に監禁されて一度死なせた主人公を生き返らせて話を続けるよう強要される。小説の中の現実と小説の中の小説が同時進行する。キングが書いたもので自分の好きな小説三本(か五本)の指の中に入る。


(二十)

 『茶色の服の男』(1924)、アンという女性の冒険物語、アンが自分の体験談として語っているが、アンが自身で経験していないことは、別の人間の手記が語っている。

 作中、わたし(私)を指すのは、それぞれ別の人物ということになる。早川書房では別人の手記の部分は、字体を変えているので、文中の自分が誰なのかわかりやすいが、それでもぼんやりしていると間違えそうになる。

 この書き方でコリンズを思いだした。コリンズの『白衣の女』(1860)も『月長石』(1868)も、複数の人間の手記からなっており、しかも作中で筆者が交代するので、今自分は誰なのか読んでいて注意する必要がある。

 このコリンズの方式は、もともとあった形なのか、時代の流行なのか、コリンズが編み出したのかは、よくわからない。

 クリスティは、コリンズを読んでいると思うが、その影響を受けたのかも不明だ。

 全作読んでから自伝を読もうと思っているので、今後解決するかもしれない。


(二十一)

 『茶色の服の男』を最後まで読み、手記を利用したトリックが仕掛けられていることがわかった。

 手記を利用したトリックで超有名なのは『アクロイド殺し』(1926)だ。今まで、このトリックを最初に使ったのは『アクロイド殺し』だと思っていた。どうしてそう思っていたかと言えば、別の作品の後書きを読んだためだ。

 後書きでトリックがばれてしまうのは仕方がないとしても、不正確な記述は許せないと思い、そう誤解させた記述を探してみた。

 創元推理文庫の『ゴルフ場の殺人』に「クリスティ訪問記」が載っており、その中にクリスティ自身のコメントとして、『アクロイド殺害事件』(創元推理文庫ではこの題名)について「大多数の人に好まれており、あのトリックを上手にいかした最初の作品」とある。

 単に最初に使ったとは書いていない、「上手にいかした」という修飾語がついている。ただ、自分としては、『茶色の服の男』も充分によく生かされていると思う。少なくとも、それでだまされた読者で、怒った人はいなかったのだろうと思う。

 『アクロイド殺し』を読んでアンフェアと怒った人は、それほどのクリスティファンでは、なかったのだろう。クリスティのそれまでの作品をすべて読んでいたら、不意打ちでもなんでもなかったはずだからだ。これもまたアリということは織り込み済みだったろうと思う。


(二十二)

 『シタフォードの秘密』、近所付き合いで近隣の人たちを招き、ブリッジをしようとしたら、ブリッジをしない人がいたので、降霊会をしようということになる。

 解説を読むとイギリスでこの頃結構行われていたそうだ。それで、萩尾望都の『ポーの一族』の短編で降霊会をする話があったのを思い出した。

 ゲーム感覚で特別な人を招かずにするところは、子供の頃やっているのを見たことがある「こっくりさん」に似ている。ただ、「こっくりさん」は女の子がやるものというイメージだった。

 降霊会で参加者の友人が殺されるというメッセージが出たので、参加者の一人が不安になり、雪が降りそうな悪天候のなか、徒歩で友人宅に向かう。二時間以上も歩いて友人宅についたら友人が殺されていた。発見者にはアリバイがあることになる。

 読んでいき最後の方で、殺した友人をかついで被害者の自宅まで運んだらどうなのだろうと思った。殺害時刻直前に被害者の自宅で生きている被害者に会った甥の証言があるが、甥が本当のことを言っているのかどうかわからないと登場人物の一人が繰り返し言う。そして雑談のなかで「殺した後の死体の処理」が話題になる。結局、自分の思いつきは、はずれた。

 クリスティは最後の方で読者を間違った推理に向かわせるような記述を次々と出してくるが、自分の考えた間違えた推理も作者がわざとそれを狙ったのだろうか。だとすると、最後の犯人の意外性は少し損なわれるような気もする。


(二十三)

 『愛の旋律』、推理小説でも冒険ミステリーでもない。推理小説とどれだけ違うのだろうと思ったが、それほど違わないという印象だ。

 推理小説でも男女の恋愛や結婚相手の選び方や、夫婦関係について結構書かれているからだと思う。それに金銭問題も。

 読み終わって、ポアロものの『ホロー荘の殺人』に似ていると思った。

 ただ、今までで一番気に入ったカップル誕生物語は、ミス・マープルものの『動く指』だ。


(二十四)

 『未完の肖像』51、52頁に、「黄色い絨毯を敷きつめたように一面に桜草が咲き乱れている雑木林」という記述がある。

 前に読んだ短編にも黄色い桜草が出てきた。黄色の桜草は、日本の桜草とはちがう種類だろう。

 黄色の桜草を桜草と訳してよいのかは疑問だ。黄色かったら桜にはちっとも似ていないと思う。

 

 荒川沿いの桜草公園の田島ヶ原サクラソウ自生地の桜草

 

 黄色に見えるのは、ノウルシという別の植物だ。

 彩湖側の公園内にも桜草が咲いているところがある。

 

 荒川沿いの自転車道を走っていて、初めて桜草自生地の看板を見た時は、荒川沿い一帯に咲くのかと思ったが、今わかる範囲では、その看板がある一角と桜草公園と彩湖の横の公園にしか咲いていないようだ。

 それと鉢に植えられているのは、さいたま市内で時々見る。


(二十五)

 『未完の肖像』、主人公の母親が、娘が現実の厳しさを知らずに不幸せな結婚をしてしまうのを心配してバルザックを読ませる。

 主人公は結婚してから、お伽噺は結婚して幸せに暮らしましたで終わるが、現実の生活はその後も続くと思う。

 ゾラを読んだらどうだろう。『夢』は現実に主人公が夢に描いたとおりの幸せな結婚をするが、主人公は結婚式当日に死んでしまう。不幸せな結婚生活を経験することはない。『パスカル博士』は好きな人と結婚して一時は経済的に行き詰まるかに思えたが、夫は病死し、残された子供と親子二人で暮らせるだけの財産が残っていることがわかる。結婚生活は短くして終わる。『ボヌール・デ・ダーム百貨店』は幸せな結婚生活を送るが、『ごった煮』に描かれる夫の結婚前の生活は、性道徳が全くないかのようだ。

 幸せな結婚が一番だろうが、結婚して不幸になる危険を冒すのと、結婚せずに特に幸せにも不幸せにもならないのとどちらがよいと思うかは人それぞれだろう。


(二十六)

 『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』、題名をみて『九マイルは遠すぎる』を連想した。

 九マイルの方は、この言葉から謎ときをするが、エヴァンズの方はその地方ではありふれた名前だったので手掛かりにならず、最後の方でほとんど謎が解けてからエヴァンズの正体がわかる。

 推理小説の感想で犯人やトリックを書くのはタブーだが、この作品ではエヴァンズの正体をばらすのがタブーだろう。

 クリスティの作品はユーモアがあって笑わせてくれる場合が多いが、この作品で最後に笑いたかったら、エヴァンズの正体を当てようとしない方がいいだろう。自分もまだ推理する手掛かりがないと思って何も考えずに問題の個所を読んだので、とても楽しめた。


(二十七)

 『殺人は容易だ』の容疑者は、田舎の小さい村の誰かだ。そうは言ってもこれだけでは、まだかなりの人数になる。

 ところが、犯人は犯罪の告発者と同じ階級の人間らしいということで数人に絞られる。登場人物一覧表に載せられる人数だ。

 クリスティの小説には「階級」という言葉が良く出てくる。貴族かどうかの違いではないようなので身分と言うのとも違うようだ。

 日本でいうところの「いいところのお嬢さん、お坊ちゃん」という感じで使うようだ。「育ちがいい」のにも近いのかもしれない。

 「イギリスはいまだに階級社会だ」と聞くこともあるが、十九世紀のフランスやロシアの小説を読んでもイギリスの階級と同じものはないように感じる。

 一般の小説だとイギリスの小説よりフランスやロシアの小説の方が気にいるのは、どうも自分の階級が、イギリスで主人公と対等の人間扱いされる階級より下のような気がするからかもしれない。

 身分違いの恋というのはあっても、階級違いの恋というのはないように思われる。


(二十八)

 『殺人は容易だ』、犯行の機会と犯人の意外性から途中で犯人について確信を持ったが、動機がわからなかった。

 最初は、町の浄化という考えに取りつかれたのかと思い、次に特定の人間に対する愛情から、その人間に対して酷いことをした人間に対して報復したのかと思った。どっちにしても精神に異常をきたしているのだろうと思った。

 最後の犯行の状況は、自分の考えた動機では説明できないと思ったら、実際違っていた。

 ずいぶんとロマンチックなことを考えていたものだと苦笑する。

 『ゼロ時間へ』、アリバイクくずしのトリックがわかったところで犯人はわかったが、動機がわからない。

 別れた妻が経済的に困窮し、自分からはお金を受取ろうとしないので、遺産を受け取らせてあげようとしたのかと思った。つい、そこまで愛情が深かったのかと思ったら、これもまた大外れ。

 今度もまた、ロマンチックなことを考えてしまった。

 これだから、最近のストーカー事件は、なんだかわけがわからない。

 久しぶりに萩尾望都の『ポーの一族』の短編『はるかな国の花や小鳥』を出して読んでみた。やっぱりこっちの方が好きだ。

 
(二十九)

 『春にして君を離れ』、非常におもしろかった。主人公と同じタイプの孤独な人間でないとおもしろくないのではないかと思ったが、そうでもないらしい。

 主人公は他人に好かれない理由や他人にどう思われているかについて自覚がなかったようだが、自覚があってもなかなか自分を変えられるものではない。自覚のない人間に対しては「可哀そうに」というよりは「幸せな人だなぁ」という人のほうが多いと思う。もちろん、かなりの皮肉まじりだが。

 人が殺されたり、盗難事件がおきなくても、「あれはどういうことだったのだろう」とか、「あの人はあの時どう思っていたのだろう」と疑問に思い、真相が知りたいことはたくさんある。

 主人公が真相を導き出すやり方が推理小説の場合と同じなのは、さすがクリスティだ。ただ、人の会話や行動から推理しても、その結論が自分の思いすごしかどうか確認するには証拠が必要だ。真実と証明するためには証拠が必要なのは殺人事件と変わりがない。

 推理小説で証拠が貧弱だと、犯人と対決して犯人の自白を引きだしたりするが、この小説の結末は推理小説とは違う。

 結末を明かさないのが、推理小説の感想を書くときのマナーだとすると、この小説も結末を書くのはマナー違反になるようだ。


(三十)

 『死が最後にやってくる』、犯人は正体を現す少し前にわかった。

 最後の最後までわからなかったのは、主人公の女性が二人の男性のどちらかを選ぶかだ。

 どうやら正解を選んだようだが、再婚で判断力が増したおかげらしい。

 クリスティの小説を読むと作者の最初の結婚の失敗がかなり影響しているように思うが、よくある話なので、作者が生涯独身だったとしても、最初の結婚相手と破局しなかったとしても同じだったようにも思う。

 ただ、最初の結婚がなければクリスティという名前の小説家が存在しなかったのは確かだ。別の名前になっていただろう。

 最初の夫がペンネームというプレゼントを残したのは皮肉にも思える。


  (三十一)

 『忘られぬ死』、レストランで会食中に女性が亡くなる。その会食前に被害者の女性が主催者である夫に男性が一人欠席することになったので男女の数を会わせるために、男性を一人追加で招待するように電話する。

 日本では、合コンでもなければ男女同数にこだわることもない。結局、穴は埋められずに、主催者の夫婦に主催者の夫の秘書、主催者の妻の妹と妻の男性の友人と友人夫婦(夫の方が友人)の七名で会食をする。

 男女同数にする意味があるのかと思ったら、ちゃんとあった。食事中にダンスをするが、女性が一人余るので、みんながダンスをしている間に一人で席に残っていることになる。

 一年後に、被害者の夫が事件の再現をしようとする。この時は男女同数で全員がテーブルを離れる時がある。これが重要なトリックになっている。

 トリックのために男女同数を強調したのか、これがイギリスの普通の習慣なのかはわからない。それに既婚の女性が男性の友人と遊び歩くのを夫が非難して止めさせることができないことも普通のことかは不明だ。


(三十二)

 『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』、クリスティが考古学者の夫の発掘調査に同行した時の見聞録。

 現地で雇った人達との風習や考え方の違いについての記述がおもしろい。

 大概はクリスティの方に共感するが、自分はイギリス人ではないので、クリスティ側の風習に疑問を持つ側に共感する場合もある。

 身の回りの世話をする少年が、食事のときにナイフで切らなければならないものが食卓に出ていないときにもナイフを求められることに疑問を持つ。

 もっともな疑問だと思い、子供の頃ナイフとフォークでバナナを食べるのが洋食の際のマナーだと知った時に「バカバカしい」と思ったのを思い出した。

 そして、今でも西欧ではそうやって食べるのだろうかと思い、今バナナが皮ごと一本お皿に載せて出されたらギャグだろうと思う。果物を盛った大皿からとって食べる場合はどうやって自分の皿にバナナを取り分けるのかと思う。ナイフとフォークで取ったら滑稽だし、手でつかんで皿に載せてからナイフとフォークを使うのも妙だ。

 ネットで検索してみたら、日本でバナナが高級品だった時代に、テーブルマナーの勉強でバナナが使われたのであって、外国人が本国で実際にバナナをナイフとフォークで食べているのを見て真似たのではないようだ。

 外国人の友人がいたら、是非実際のところを聞いてみたいものだ。


  (三十三)

 『暗い抱擁』、戦争中の勇敢な行動によって勲章を授与され、保守党から立候補して議員に当選して、なお生まれのいい人間に対して劣等感を持つというのがよくわからない。自分に対してどこまで要求したら気が済むのかと思う。

 似た者どおしで結婚するのがよいのかは一概には言えない。自分にないものを相手に補ってもらうのがよい場合もあるかもしれない。

 ただ、住む世界の違う人間というのは、いつの世でもいるように思う。あるいは世界観が違うとも言えそうだ。住む世界が違う人間とはやっぱり縁がなくなるように思う。

 自分にとっては、他人にうらやましがられるようなところをたくさん持っていながら、劣等感に悩んでいる人間とは住む世界が違うと思う。

 ほかに、酒を飲みすぎて仕事を疎かにし暴力を振るう夫とぐずぐずと一緒にいる女性というのも理解できない。


  (三十四)

 『未完の肖像』を読み、子供のころの空想一人遊びを思い出した。

 畳の部屋の真ん中の畳に座り、海を漂流中で、座っている畳が筏で、その畳の周りが海だと空想する。畳から出ると海に落ちて溺れてしまうので畳の外には出られない。

 そう思って海に落ちないように緊張していたら、突然母親が畳んだ洗濯物を手にして部屋に入ってきた。

 海の上を溺れもせずにズカズカ歩いてきたので、非常に気分を害した。

 おそらく「黙ってさっさと出ていって」と顔に出ていたのだろう、母親は何か言いかけたのを止めて、自分の用事を済まして黙って出て行った。

 子供の頃、『赤毛のアン』が好きだったことも思いだし、今度の朝のテレビ小説は見てみようかと思う。


(三十五)

 『バグダッドの秘密』、主人公が遺跡の発掘調査の一行に加わって、出土品から当時の普通の人の日常の暮らしを思い描くのが好きだと語る。

 自分は、常盤緑道を散歩中、小学校の校庭の廃タイヤを利用した遊具を見て、地球文明が滅びた後でやってきた宇宙人が遺跡調査でこれを発掘したらどういう推理をするのだろうと考えた。

 

 実用品だと思ったら、用途が思いつかないだろう。普通の輪投げの遊具を見つけてそれとの連想から遊具だと考えるかもしれない。

 タイヤを投げて棒に入れて遊べる人間の大きさを推計したら巨人がいることになる。

 『ガリバー旅行記』を見つけた人が文字は読めないが、絵を見て巨人族がいるという仮説をたてる。しかし、巨人族の居住の痕跡はない。

 『ゴジラ』の映画を見つけて、巨人族が外からやってきて地球征服を試みたが失敗したという仮説をたてる。地球征服の戦闘中に輪投げで遊ぶのか?というもっともな疑問が出ると同時に、地球征服の失敗の理由を詮索する。

 『宇宙戦争』の映画を見て、未知の細菌にやられたという仮説が出る。言葉がわからずにそこまで読みとれるかは疑問だが。

 一時は巨人族が優勢だったが、恐竜が滅びたように、巨人族が滅びて遺跡の遊具だけが残されたという仮説もたてられる。恐竜のことはわからないかもしれないが。

 そこで、だれかが、「紙に描かれたものや映像は二次資料だ、直接証拠から推論を試みるべきだ」とか言い出して、科学的実証についての方法論の議論になる。

 意外と犯罪の証明と自然科学は関係が深いかもしれない。


(三十六)

 『娘は娘』、読み終わってから、主人公が友人に「自分を知ったからといって何の役にたつのか、どうせ自分を変えることはできないのだし」と言ったのを思いだし、友人が何と答えていたか気になってその部分を読み直してみた(86頁)。

 返事は、「・・少なくとも、自分がこれこれの場合にどんな行動をとるか、なぜ、そうするかーこの方がいっそう大切なことだけどーというヒントを与えてくれるでしょうねえ」というものだ。あまり参考にならない、というか、何を言いたいのかよくわからない。主人公もあまりピンとこない。

 その後の主人公の言動を考えあわせて、主人公に対してよい助言になっていたことがわかった。が、自分にはあまり役に立たない。

 自分は失言が多いが、あらかじめ話すことを考えておいて話したときに「まずいことを言ってしまった」というのではなく、止める暇もなく話してしまった場合にまずいことを言ってしまうからだ。これでは事前に自分がどういう人間かわかっていても、対処法としては、他人と会話しないということになってしまう。


(三十七)

 冒険ミステリー小説の主人公の女性は、だいたいタペンスのような感じだ。

 普通の小説の主人公も同じタイプかと思ったら全然違う。

 空想の世界に浸るタイプが度々出てくる。クリスティ本人は、むしろこちらの方のタイプではないかと思う。

 『愛の重さ』、34頁、主人公のローラは空想したことが現実に起こったような錯覚をいだく。よくわかる。自分も空想が現実であるように話してしまいそうになり、現実を正しく認識するように自分に言い聞かせることがある。

 ローラは、歩きながら想像上の会話を繰り返し、あまり深くそれに没入していたので、知り合いがやってきたのに気付かずやりすごすところだった。これもまたよくわかる。自分も歩きながら頭の中の会話に熱中して知り合いに気付かずに、後からそれを指摘されたことがある。

 看板や木の枝に頭をぶつけたこともある。

 クリスティの小説に飽きがこないのは、作者と非常に気が合うせいではないかと思う。


(三十八)

 ミス・マープルは、若い時に結婚したいと思った男性がいたが、結婚相手としてふさわしくないと考えた身内に反対されて断念したらしい。

 その後、その男性については、否定的に考えたようなので、身内に止めてもらってよかったと思っているのだろう。もっとも、本音はわからない。何もないより不幸な結婚でも何かあった方がよいと思ったかもしれない。少なくとも結婚当初は幸せだったろうから、その幸せな記憶は残るように思う。

 クリスティの普通の小説は、「結婚相手の選択」というテーマが共通してあるように思う。愛しているが未知数あるいははっきりと条件が悪い男性と好意はあるが愛しているとまではいえない条件のよい男性のどちらと結婚するか。そもそも結婚すべきかとか結婚相手が全く見つからないということは問題にならないらしい。

 結婚した女性の家庭の仕事は、子育てについては子守りと家庭教師と学校の選択の問題で、家事は料理人やメイドを見つけるという問題らしい。


(三十九)

 『無実はさいなむ』、無実の人間が、真犯人がわからないことによって、親しいものから犯人と疑われるということが問題になっている。

 同じ問題が別の作品にもあったと思い、クィン氏が出てくる短編だと思いついた。クィン氏の短編の方は、有罪にするだけの証拠がないということで裁判で無罪になった女性が再婚したが、再婚相手の男性がなぜか妻に対して神経過敏になっているという話だった。

 無罪でも無実ではない。無罪と無実と違うのか?無実の反対の言葉は何?とつい考えてしまった。


(四十)

 『アガサ・クリスティ―自伝』、最初の夫と離婚するまでがほぼ『未完の肖像』と同じ。エピソードが既に読んだものばかりなので、目新しさがないのが残念。

 有名な失踪事件に触れていないが、自伝はアガサ本人の記憶に基づいて書かれているので、本人の記憶にないことを書けないのは当然だ。

 自分のことを最もよく理解してくれていた母親が亡くなり、一人で遺品の整理をしている(同居していた祖母の遺品もある)途中、小切手に自分の名前を書こうとして自分の名前が思いだせない記述がある。そのあたりの記述を読むとうつ病ではないかと思う。ネットでみるとうつ病で記憶障害が起こることもあるらしい。

 夫が愛人をつくったことで記憶喪失になるのかと思っていたが、母親の死が大きかったのではないかと思い、一時的記憶喪失は本当だったのだろうと思う。

 本当のことを言っても信じてもらえず、本当らしい嘘を言った方が信じてもらえそうで、信じてもらえない苦しさから逃れるために、まわりの人間が期待している嘘を言ってしまう。これは、『無実はさいなむ』、『バグダッドの秘密』、『ゼロ時間へ』に出てくる。




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