『残された人々』2013.8

 副題がアニメ「未来少年コナン」原作となっている。あとがきには、「この『残された人々』は、原作を『大高潮』、つまり″大津波″といい、1970年に発表されました。」とある。

 大津波だと題名で結末が予想されてしまいそうなので、訳すときに改題されたのはわかるような気がする。

 未来の時代の話だけれど、今読むと、書かれた当時の時代が強く反映されているという感じがする。

 主人公のコナンが聞いた声は、先生の声かと思っていたが、最後の方を読むと、先生も声を聞いていて、その先生に話しかけたのと同じ所からの声を聞いたのか、あるいは先生がその声を伝達してくれたのかよくわからなくなった。どっちにしても出所は同じなので、どっちか詮索しても意味がないと思った。イエス・キリストが神の子なのか神自身なのかで迷うようなものかもしれない。

 コナンの聞いた声を、「神のお告げ」としたら、むしろすっきりするんじゃないかと思う。宗教色を消したいのなら、「内なる自分の声」とも「自然の摂理」とも「良心」とも「良識」とも「倫理観」とも「生活の知恵」とも「先人の知恵」とも「虫のしらせ」とも「予感」とも「正夢」とも「願望」とも「願い」とも「希望」とも言い換えできるように思う。

 特定の宗教の教義を勉強したり信じたり、特定の宗教の儀式を定期的にしていなくても、既存の「神」の概念にあてはまるような概念を信じたり心に思っている人は多いというか、そういう人の方が普通なように思う。日本人だからそう思うのかもしれないが。

 キリスト教信者の人と食事をするときに、自分がすぐ食べ始めようとして、その人に食前の祈りをされると、すこしきまりが悪く、待っている間どうしていいか迷う。けれど、感謝の気持ちがないわけではない。なにに対しての感謝かと聞かれると困るが。

 無理やりな展開で最後に主人公を救うために、魔法や超能力や未実現の科学による道具を持ち出すよりも、奇跡でも起こした方がむしろましな気がするときがある。

 少なくとも可能性が零でなければ、奇跡的偶然の方が科学的にはあり得そうだ。「事実は小説より奇なり」ともいう。「神が起こした奇跡」の方が、すっきりした気持ちになることもある。




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