『ノートル・ダム・ド・パリ』2013.3

(1)ノートルダムの傴僂男2013.3.20

 中学生の時、サバチニの「スカラムーシュ」を読み、同じ作者の別の作品を読みたいと思っていた。

 改造社から出ている世界大衆文学全集の中に「海の鷹」を見つけた。

 県立図書館から借りて読み、巻末に全集のリストがあったので、他にどんな作品が入っているのだろうと見たら「ノートルダムの傴僂男」(1930年出版)があった。ユゴーの作品では他に「九十三年」がある。

 子供のころテレビで映画を見て原作を読みたいと思い、高校の時、間違えてジャン・ジュネの「花のノートルダム」を学校の図書館から借りたのを思い出した。


(2)レ・ミゼラブル2013.3.22

 子供向けの「ああ無情」ではなく、「レ・ミゼラブル」の全訳本を読んだと思ったら、これも全訳ではないと言って、姉が本当の全訳本の上巻を買ってきた。

 読んだこと、あるいは読みかけたことのある人ならわかると思うが、ストーリーの書かれているそれぞれの章の前に本筋とは直接関係のない内容の章が入っている。

 自分の読んだのは、その物語の部分だけをつないだもので、その部分については全訳になっている本だった。

 物語はおもしろく一気に読めたので、全訳本を読んでみたが、最初の章を読んで断念した。大学生になって、再挑戦したが失敗した。姉も下巻は買っていない。

 今回、「ノートル・ダム・ド・パリ」を読んだら、本筋の物語の合間合間に著者が出てくる。書いているのが19世紀で物語は15世紀なので、今がいつのことかわからなくなる。自分の本当の今は21世紀の日本なので余計ややこしい。19世紀の今のノートル・ダムも21世紀の今のノートル・ダムも見たことがないので話が見えないところがたくさんある。

 ただ、19世紀の人間が15世紀のパリにロマンを感じた部分は、21世紀の人間にも共感できる。

 映画のワンシーンで、人形にたくさんの鈴をつけて、その鈴を鳴らさないように財布を掏り取れるかというのがあったのを覚えている。かなりの緊張感を持って見たのは覚えているが、その前後を全く覚えていないので気になっていた。盗人や偽乞食の巣窟やジプシーの踊り子にロマンを感じるのは、現実の彼らの生活を考えてみれば不思議な話だ。


(3)ノートル・ダム・ド・パリ2013.3.26

 河出書房から昭和二十七年に発行された本を読んだ。

 412pで、グランゴワールが副司教に「それに、わたくしは、毎日のように朝から晩まで、このわたくしという天才と一緒にいるという幸福をもっているのですからね。それは楽しいものですよ。」というところがある。

 この小説のテーマは、「自分の楽しみは、最愛の人と一緒にいることだけにある」という人間は、他人や自分を破滅させるということかと思った。

 副司教が、信仰や研究に打ち込むことでエスメラルダに対する思いの苦しさを紛らわせることができたらストーカー行為をせずに済んだろう。

 エスメラルダが、フェビュスのことだけで頭が一杯にならずに、哀れな母親のことも考えられたら、母親と二人で田舎にいって静かに暮せたのかもしれない。塔の中で、エスメラルダが、フェビュスの名を呼んだときには、なんて愚かな女かと思い、正直、絞首刑になっても、同情の念が湧かなかった。

 カジモトの最後を読んだ時には、哀れとは思ったが不幸とは思わなかった。ここは、泣ける。

 小説を読みながら、映画を思いだしたが、カジモトが鞭打ちの刑にあい、エスメラルダから水をもらうところと、寺院が暴徒に襲われカジモトが応戦するところは、見た記憶があるが、副司教については全然記憶にない。


(4)ノートル・ダム・ド・パリ2013.2.29

 1923年と1956年制作の映画を図書館で見た。

 どちらも、スリの場面が出てこないのでがっかりした。1939年制作の映画に期待したい。

 1956年のフランス映画は、ほぼ原作通り。ただ、エスメラルダが成熟した大人の女性で、フェビュスが本気ではないことをすぐさま見抜いているところが、決定的に違う。そのため、母親の部分は完全にカットされている。

 原作を読んでいると、エスメラルダが男の方ではなんとも思っていないことに早く気づくようにとヤキモキするが、映画だとその点はちゃんと気付いている。




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