『オズ』2013.8

(一)

 二度栗山の栗の実の様子を見に、散歩の途中に寄ってみた。栗の実がたくさん生っていて数個地面に落ちている。これを拾ったらまずいだろうと思う。味の話ではなく、自由に出入りできるが他人の敷地内の物だ。

 帰ろうとしたら、お寺なので丁寧にお参りしている人がいる。犬を一匹連れているので、同様に散歩の途中なのだろう。

 すれ違う手前で、いきなり大きな音がした。犬が吠えたというよりクシャミをしたという感じだ。すかさず飼い主が何か一言叱っている。聞き取れなかったが、「ほら、言うこときかないで、タオルもかけないで寝たから風邪ひいたでしょ。」と母親が世話を焼いて子どもに言い聞かせているのと同じようなニュアンスだ。

 反抗期の子どもなら、うるさがって何か言い返すところかもしれない。もちろん犬なので返事はせず黙って歩いていく。

 子どもの頃、『オズの魔法使い』を読んだ。続編がたくさんあるのは知っていたが、読んだことがなかったので読んでみた。

 ドロシーが最初にオズの国に行った時には、ペットの犬(トト)は話すことができないが、続編では普通の動物(猫、鶏、ラバ)がオズの国に行っただけで、話ができるようになる。

 だんだんと「どうして、トトだけは話ができないのか?」という疑問がわく。で、第八巻目の『オズのチクタク』では、話せるけど今まで黙っていたということがわかる。最初にトトが話した時には「ドロシーはおおよろこびで手をたたく」が、本当のところペットの犬は言葉を話せないからいいんじゃないかと思う。


(二)

 ドロシーと愛犬トトが、オズの都にいる魔法使いに帰り方を教えてもらうために旅する途中で、かかしとブリキのきこりと臆病なライオンに会う。

 シリーズ中変わった生き物がたくさん出てくるが、西欧の小説に良く出てくる神話や伝説中の有名な架空の生き物は出てこないのが特徴と思っていたら、第十三巻『オズの魔法くらべ』にユニコーンが出てきた。

 野生の馬がいてもいいはずだけれど、普通のイメージだと人間に使役される動物だ。オズの国は動物も話ができるので、家畜が人間の奴隷のように扱われるのはまずいせいか、生身の普通の馬が出てこない。それでかわりに、ユニコーンをだしてきたのかな?と思う。

 書かれた当時、戦争で馬が使用されていたことも関係があるのかもしれない。それに魔法も使わず相手の好意にもよらずに、一般的方法として高速移動手段があると、物語が成立しなくなる場面がたくさんある。オズの国は狭くて広い。短期間に東西南北の国、エメラルドの都、オズの外の国とを行き来しながら、まったく知られていなかった小国が次々と出てくる。


(三)

 『オズの魔法使い』でかかしが生きていても不思議に思わなかった。そういう設定なんだろうと思うだけだ。

 第二巻『オズのふしぎな国』(復刊ドットコムの題名、早川文庫では『オズの虹の国』)では、ジャック・カボチャ・アタマとノコギリ馬が命の粉を振りかけられて生き物になる。第七巻『オズのパッチワーク娘』では、パッチワーク娘とガラスのネコが命の粉を振りかけられて生き物になる。

 こうなると、かかしも誰かに命の粉を振りかけられて生き物になったのでなければ、おかしな話になる。

 第十四巻『オズのグリンダ』では、「(マンチキンの)お百姓はこのかかしに棒をつけて自分のトウモロコシ畑に立てましたが、かかしはある不思議な方法でいのちを与えられました」(早川文庫29頁)とあり、具体的ないきさつは謎のままだ。

 ノコギリ馬は、きこりが木を切るときの作業台だ。第四巻『オズとドロシー』(復刊ドットコムの題名、早川文庫では『オズと不思議な地下の国』)では、カリフォルニアからゼブという男の子と馬のジムが地震でできた地割に落ちて、オズの国に行く。馬のジムとノコギリ馬が出会ったところで、ノコギリ馬が「ここには本物の馬は一頭もいない」と言い、最後にゼブとジムはカリフォルニアに戻るので、結局オズの国には生身の体をもった馬は一頭もいないことになる。

 最初に『オズの魔法使い』を書いた時には、続きを書く予定がなかったので、設定が次第に変わったというか、付けくわえたところがたくさんある。その理由をあれこれ考えるのも一つの楽しみ方だ。


(四)

 オズの魔法使いは手品を使って魔法を使えるように思わせた。科学を使って魔法を使っているように思わせる小説もある。魔法と科学には似たところがある。

 第十四巻『オズのグリンダ』でドロシーとオズマ姫はドームに覆われた都市に閉じ込められてしまう。都市全体が湖の下に沈められているので、壁を壊しただけでは水が入り込み都市に住んでいる人たちの生活も破壊されてしまう。

 魔法の指輪で救助信号を受け取った南の国の良い魔女グリンダがオズの仲間と救出に向かう。みんなの知恵と魔法を使い、機械装置で都市を上下させており、その装置を作動させる呪文がわかりさえすればよいというところまでこぎつける。ドロシーの推理で呪文がみつかるが、この呪文を機械装置を制御するコンピューターのパスワードに置きかえ、都市を潜水艦に置き換えると魔法ではなく科学になる。ただ、小説が書かれた時代では、置き換えてもやっぱり魔法の話になりそうだ。

 オズマ姫も魔法を使えるけれど、何度もドロシーに魔法でどんなこともできるわけではないと話す。これが、科学が進歩すればなんでもできるようになり、それだけで問題が全部解決してみんなが幸せになれるわけではないと言っているように思える。自分の子どもの頃は「科学万能主義」という言葉をよく聞いたり読んだりした。今は科学が進歩した未来はバラ色という感じを持っている人はいないんじゃないかと思う。その点で、二十世紀初頭のアメリカで書かれたシリーズという感じがする。

 オズシリーズには、魔法万能主義ではなく、登場人物が魔法をどう使うか知恵と勇気を発揮するところを読む面白さがある。そういう魅力があるので、復刊ドットコムでまた簡単に入手できるようになったのだろう。


(五)

 第十一巻『オズの消えた姫』では、オズの国の統治者のオズマ姫が行方不明になる。

 オズマ姫は、見たいと思う相手の今の状況を映し出す魔法の絵を持っていて、南の国の良い魔女のグリンダは、世界中で起きた大事なことのすべてが即時に記録される魔法の本を持っている。

 だから、魔法の絵で、今のオズマ姫の状況がわかり、魔法の本で何が起こってそうなったのかがわかれば、簡単に探し出せそうに思える。

 ところが、魔法の絵も魔法の本もそのほかの魔法の道具もすべて持ち去られている。それで、みんなで手分けして探索の旅に出ることにし、オズマ姫を誘拐するような人間がいそうな危険な場所に進んで入っていく冒険が始まる。

 オズマ姫の部屋に監視カメラを設置して、その画像を記録し、世界中のあらゆるところに監視カメラを設置して記録し、何かあったら、その記録の中から見たい画像を探し出せるシステムがあれば、魔法の絵と魔法の本ができることとほぼ同じことができる。そして、現在では、技術的に可能になっているだけでなく、部分的に現実に実施されていて、犯罪捜査に使われている。

 魔法が使えることで、退屈な日常の物語とは違う物語ができるが、あまり使いすぎると、人間の知恵と勇気を発揮する余地が狭まってしまう。同じように、科学が進歩すると今までできなかったことができるようになって、逆に、物語をつくりづらくなっているところがあると思う。少なくとも、冒険小説と推理小説とSFは、昔の方がおもしろいように思う。もちろん、科学技術も万能ではなく、どう使いこなすか人間の知恵が試されるわけだけれど、小説を読む人間が、今の科学技術でどこまでのことができるのか勉強して、その小説に出てくる新式の科学を使った道具で、どういうことができるのか説明してもらって、それを良く理解して記憶しておかないと、楽しめないのでは・・・と思う。かなり前になるが、テレビの推理ドラマで、電話機の新しい機能を使ったトリックで、アリバイ工作をする話を見たときには、その機能の内容を知らなかったので、全然面白くなかった。

 ところで、オズシリーズの中の登場人物は、だれもプライバシーの侵害とかは言いださない。この本が書かれた当時でも、読んだ子供が、「着替えているときや、トイレに入っているときや、鼻くそをほじっているときに見られたらいやだな」とか思わなかったのだろうか。


(六)

 ドロシーは竜巻で飛ばされて空から、オズの魔法使いは気球でやっぱり空からオズの国にやってくる。オズの国は、死の砂漠に囲まれているので、陸を歩いて行き来できない。カンザスには東の国の魔女の銀の靴の魔法で帰る。

 第三巻『オズのオズマ姫』では、ドロシーは、オーストラリアに行く途中の船から落ちてオズの隣国に流れ着く。オズの国には魔法の絨毯(空飛ぶ絨毯ではない。砂に直接触れなければ大丈夫らしい)を使ってやってきたオズマ姫に連れられていく。カンザスにはオズの外の国のノーム王の魔法のベルトの魔法で帰る。魔法のベルトはオズの国に残し、魔法の絵でオズマ姫が定期的にドロシーを見て、ドロシーが合図したら、オズマ姫が魔法のベルトでドロシーをオズの国に呼び戻すことを約束する。

 第四巻『オズとドロシー』では、ドロシーは、カリフォルニアで地震でできた地割れに落ちて地中の国に行く。魔法の絵を通してオズマ姫に合図を送り、オズの国に呼んでもらい、カンザスには魔法のベルトで帰る。この巻でオズの魔法使いも地割れを通して地中の国に行き、ドロシーと一緒にオズの国に戻り、ずっとオズの国にいることにする。ここで、オズの魔法使いの名前の由来が語られる。

 地中の国で冒険をたくさんして、結局最後は、かねてからの約束によって魔法でオズの国に行き助かるなら、地中の国での冒険はなんだったの?と少し思わないでもない。最後に肩すかしにあったような気分だ。どうせ最後に魔法でなんとかなるのに努力しても無駄じゃないと読んでいる子どもに思わせたら教育上よろしくないだろう。この点は、次の5巻以降では、かなり工夫されていて、魔法にばかり頼ってもいないし、途中の冒険を無駄と思わせていない。


(七)

 第五巻『オズへの道』では、カンザスに戻ったドロシーがボサ男に道を聞かれて、ボサ男を案内しているうちに帰り道がわからなくなる。第三巻でドロシーは雌鶏のビリーナと第四巻では子猫のユリーカと一緒にオズの国に行き、トトが出てこなかったが、第五巻で再登場する。

 ボサ男と歩いているうちにオズの近くの国に来たことがわかる。ボサ男が持っていた愛の磁石で友人を呼び寄せ、その友人に帆船を造って貰い、船で砂漠を渡る。オズの国でオズマ姫の誕生会に出る。カンザスには魔法のベルトで帰る。

 第六巻『オズのエメラルドの都』では、ヘンリーおじさんが借金を返済できずにカンザスの農場を立ち退かなければならなくなり、ドロシーはおじさん、おばさん、トトと一緒にオズの国に永住することにする。オズへは魔法の絵を通してオズマ姫に合図を送って、魔法のベルトで呼んでもらう。

 オズの国に永住するとなると、ドロシーはオズの国で大人になっていくのか、気になる。第七巻以降、ドロシーは成長していないようだけれど、サザエさん一家が年をとらないのと同じことなのか、オズの国では大人にならないのかすぐにはわからない。 


(八)

 第十二巻『オズのブリキのきこり』の129頁(復刊ドットコム)で、「オズを通りかかったラーリン女王の妖精たちの一団が、この国に魔法をかけて魔法の国にしたのです。」「そのときからオズの国では、だれも死ぬということがなくなりました。老人は老人のまま、若くてじょうぶな人も何年たってもそのままです。子どもはいつまでたっても子どもで、心ゆくまで遊んだりはねまわったりしますし、赤んぼうはずっとゆりかごにいてやさしく世話をされ、いつまでたっても大きくなりません。」

 「オズの国のもうひとつふしぎなところは、外の世界から入りこんだ人たちにも同じ魔法がきいて、そこに住んでいるかぎりは見た目がかわらないということです。」

 魔法をかけられたというよりも呪いをかけられたような気がする。

 ブリキのきこりが、自分の生身の頭と会話するところがある。体が切り刻まれても死なず、年を取って死ぬこともないからこんなこともある。

 『ドウエル教授の首』を思い出したが、こちらの方は子どものおとぎ話ではない。

 『オズの魔法使い』で、オズの魔法使いはドロシーに「ここに流れついたときには、あたしは若かったけれど、いまは、すっかり年をとったからね。」と話している(福音館書店228頁)。

 第七巻『オズのパッチワーク娘』では、「モンビは命の粉とひきかえに、主人に【永遠の若さの粉】をくれたんだけど、主人をすっかりだましていたの」とある(復刊ドットコム19頁)。若返りの意味なら矛盾しないが、初めからオズを不老不死の国にしようと考えていたわけではなさそうだ。

 もし、続編を書くとしたら、ドロシーは大人になって子どもを持ちたくなりアメリカに帰り、ドロシーの子どもがオズの国に行って・・・という話にしたらおもしろいんじゃないかと思う。


(九)

 第十二巻『オズのブリキのきこり』で、オズの国では、子どもは子どものままだということがわかるけれど、それが人間だけではなく動物も同じということになっている。

 ブリキのきこり達は、マンチキン(オズの東の国)で、オズの魔法使いが手品に使う九匹の子豚の両親に出会う。そして、かかしが、母親に「オズの国のほかの子どもたちと同じで、いつまでたっても子どものままだよ。」と話す(復刊ドットコム218頁)。

 九匹の子豚は、第四巻『オズとドロシー』で初めて登場するが、どうしてこんなに小さいかとドロシーに聞かれてオズの魔法使いはこう答えている。「【チマチマ島】のブタだからだ。〜ある船乗りが子ブタをロサンゼルスに持ちこんできたんで、九枚のサーカスの入場券とひきかえに、九匹わけてもらったのさ」(復刊ドットコム66頁)。かかしが事情をよく知らなくて、オズの魔法使いは最初の子豚の代わりをマンチキンで見つけたのかもしれない。その場合は、最初の子豚がどうなったのかはわからない。

 第三巻『オズのオズマ姫』でドロシーと一緒にオズの国に行った雌鶏のビリーナは、そのままオズの国に残った。第五巻『オズへの道』では、ビリーナの子どもの十羽のドロシーという名前のひよこが登場する(復刊ドットコム200頁)。第6巻『オズのエメラルドの都』では、十羽のうち一羽がオズマ姫の誕生日の祝賀会でかぜをひいて死んでしまい、別の二羽が雄鶏で、九羽のドロシーたちに八十六羽の娘と息子がいて、三百羽以上の孫がいるとビリーナが話す(復刊ドットコム67頁)。

 第七巻以降に、ビリーナが登場しないのは、人口問題をどう解決するか未定からかと思ったが、成長しないという設定と整合しないからかと思う。それに、第十三巻『オズの魔法くらべ』では、「外の世界からきた人たち〜が、永遠に生きていられるか、はたまた病気にかからないかどうかというと、これがどうも疑わしいのです。」(早川文庫69頁)のように病死するかどうか未定というのとも整合しない。ただ、第十四巻『オズのグリンダ』ではドロシーが「あたしたち成長もしないし、年齢も取らないし病気になって死んだりすることもないんですもの」早川文庫31、32頁)と言っている。

 成長しないということが出産前にも当てはまるなら、子どもは生まれないということになる。魔法がかけられたときに妊婦だった人はどうなったのだろう。仮に生まれても新生児のままだから、何らかの事情で個体が失われても実質補充ができないということになる。

 老衰、病気、怪我によって死ぬことがないとしても、個体が失われたり失われたのと実質的に同じことは起こり得る(食われるとか、溶かされるとか、焼かれるとか、爆発して破片が拾えないとか、地中に閉じ込められるとか、食事できずに動けなくなるとか、眠らされて動けなくなるとか、水の中で呼吸できずに動けなくなるとか(窒息死はしない)ので、子どもが全く生まれないという設定は増えすぎる人口問題より危険かもしれない。ただ、オズの国は食料不足や貧困で飢え死にしたり、戦争で殺されることがない設定なので、当時のアメリカより人口問題は深刻だ。オズの国は死の砂漠に囲まれているので、外国を侵略することも外国に移住することもできない。人口が増えすぎて困るようなことでもあったら、死の砂漠に向かって行進するしかないだろう。

 冬から春になり段々暖かくなっても、それにつれて薄着にしていくので、盛夏になるまで、地域によっては盛夏になっても、外を歩いているときに寒さを感じることがあるように、食料を増産しても、それに応じて人口も増えたら、結局食料不足はいつまでたっても解決しない。

 体がバラバラになっても魔法ののりでくっつけることができる。けれども体の部品が全部そろわない場合もある。第十二巻『オズのブリキのきこり』ではブリキの兵隊も出てきて、ブリキ職人が死んだ東の魔女が持っていた魔法ののりを使って、二人の生身の体の部品から一人の生身の人間を作っていたことがわかる。一人しか作れなかったのは部品がたりなかったせいだ(復刊ドットコム186頁)。

 今現実に他人の体の部品をくっつけて生き続けることができるようになった。部品と表現してよいのかは疑問だが。

 第十四巻『オズのグリンダ』で、「ドロシーは生身の人間ですから危害をこうむったり、誰にも見つからないところへかくされたりする可能性はあります。たとえば、身体をばらばらに刻まれて―生きているまま、痛みも感じないで―ばらまかれることがあります」(早川文庫27頁)とあるのをみると、外から来た人間も身体をばらばらに刻まれても死なないという点はオズ生まれと同じようだ。


(十)

 テレビのグルメ番組のように現実に食べなくても頭の中で想像するだけでも結構楽しめるものだ。小説の中で登場人物が食事をするところを読む楽しみというものがある。とはいっても単に「ごちそう」と書かれただけでは全然楽しめない。質素な食事でも書き方次第でものすごく食欲が刺激されることもある。この点でオズシリーズにはがっかりさせられるところがある。

 第七巻『オズのパッチワーク娘』では、少年オジョは旅に出るが、魔術師にもらったパンとチーズは食べても減った分がもとに戻る(復刊ドットコム59頁)。偶然出会ったボサ男は一度の食事に錠剤を一粒飲むだけだ。ここで、この旅の間中、どうやって食べ物を見つけるのだろうという心配をすることもなく、他のものを食べるシーンも出てこないのかと思うとがっかりしてしまった。

 このボサ男の持っている錠剤は「スープと魚料理と焼いた肉とサラダとリンゴの焼き菓子とアイスクリームのチョコチップがけをぜんぶ煮つめて」つくったものだ(復刊ドットコム122頁)。この食事が錠剤でなくそのまま出てきたとしても、あまり食欲をそそらない。多分デザートは実物を思い浮かべて、食べたいなという気にさせるが、それ以外は抽象的すぎてイメージが湧かないせいだと思う。

 同じ第七巻の別のところでは、錠剤の中身は「ひとつぶで、スープ、魚のフライ、羊肉入りパイ、ロブスターサラダ、ロシア風シャルロットケーキ、レモンゼリーぜんぶと同じ」となっている(復刊ドットコム274頁)。肉料理とサラダがもう少し具体的になっているけれど、なんだかあまり食べてみたい気が起きない。もちろん、錠剤ではなく、本物の料理の方だが。

 オズシリーズで登場人物が食べる食事が、二十世紀初頭のアメリカの食事なのかはわからない。伝統的アメリカ料理と言うのが、そもそもわからない。もちろん物語の場所はオズの国でアメリカではないわけだけれど。とはいっても話しているのは英語だろう。子どもの時、主人公が別の世界にいっても言葉が通じている、つまり英語が話されているのが不思議だった。『猿の惑星』の映画を見ても別の星に不時着したはずなのに、やっぱり英語を話しているのを見て、SFまで子どもの空想物語と同じなのかと不思議だったけれど、最後には納得した。主人公が途中で不思議に思わないのが、不思議だったが。

 この錠剤は第十四巻『オズのグリンダ』にも出てくるが、「小指の爪くらいの大きさなのですが、その中には、スープ、魚ひと切れ、ローストビーフ、サラダにデザートまで濃縮されてつまっていて、それを食べると、正式な食事にはいっているのと同じだけの栄養分が得られるという錠剤」と説明されている(早川文庫203頁)。ただ、この錠剤は不人気で作者も批判的だ。今は、錠剤で必要な栄養素を取るのも普通になってしまったので、余計夢を感じなくなってしまった。

 料理の内容を子細に書けないのは、食べてよい動物をどうやって決めるか、作者にも迷いがあるせいかと思う。なにしろ、動物も話ができるし、話ができる生き物を食べるのは人間を食べるのと同じ気持ちがする。だからか第六巻『オズのエメラルドの都』では「ビリーナがオズにやってきたさいしょのニワトリで、〜オズの人たちみんなが、ビリーナのことを大好きで尊敬しているから、ビリーナだけじゃなく、ひなもけっして食べないの」とドロシーが言う。ただ卵は「かえしてひなにしたい数より多く生まれたときは、食べてもらって」いる(復刊ドットコム145頁)。

 それに、身体の作りが話せる機能を持っていなくても、やたら動物を傷つけたり殺したりできない。第七巻ではオジョは魔法の薬の材料を集めて旅をしていて、黄色いチョウの左の羽をみつけることをブリキのきこりに頼むが、「チョウが羽をもぎとられたりしたら、ひどく苦しんで、すぐに死んでしまいます。どんな状況であろうと、そのようなひどい行為を」許さないと断られる(復刊ドットコム290頁)。

 成長せず、身体の一部を切り離されても痛みを感じず、死にもしないという魔法がどの生き物にまで及んでいるのかもわからないわけだし。

 クジラを食べるのは残酷と言いながら、牛や豚を食べることを残酷とは思わないというのは、自分の国以外の食文化を認めない偏狭な考え方だと思う。どういう食事をしているのか読むのもその国の食文化を知ると言う点では面白い。もしかしたら、オズシリーズの食についての記述がつまらないのは、二十世紀初頭のアメリカの食文化が貧しいからなのかと思ったりする。この点では、今の日本の小説で食事する様子を書いたら悲惨なことにならないだろうかと思ったりもする。


(十一)

 第七巻『オズのパッチワーク娘』、南の国クワドリングに、途中で流れの向きが逆になり、それを繰り返す川がある。(第二十六章あざむき川)

 魔法というわけではなく、不思議な川のようだが、よく考えると埼玉にもそういう川がある。

 荒川や芝川や鴻沼川で、川が海から内陸に向かって流れているのを見ることがある。満ち潮の時には逆流するそうだから見間違えではないだろう。

 昔は、大雨のたびに川筋が変わる川もあったようで、綾瀬川の名前は「あやし川」から来ているそうだ。妖しい、妖精のしわざと思えば、埼玉でもオズの国での冒険のようなことができるかもしれない。


(十二)

 オズの魔法使いは、初めは魔法など使えなかったけれど、第四巻『オズとドロシー』でオズの国に戻り永住することにしてから、南の国の魔女のグリンダに魔法を教わり、魔法を使えるようになる。

 オズの国では、オズマ姫とグリンダとオズの魔法使いだけが魔法を使ってもよいと決められる。

 第6巻『オズのエメラルドの都』で、キャンプをした際に、魔法使いの指示で、水だけを入れて沸かしたなべを火からはずし、大きな深皿に中身をあけるとシチューがでてきた。そのシチューは「いろいろな野菜と、小麦粉のおだんごが入っていて、こくのある、おいしい煮汁がたっぷりかかって」いる。魔法使いが魔法で出したのだろう。(復刊ドットコム151頁〜)

 テーブルのほかの皿のおおいを取ると「パンとバター、ケーキ、チーズ、ピクルス、それに果物が」あらわれる。

 ドロシーのおばさんは「魔法の食べ物だったかもしれないから、あまり栄養はないだろうね。」とドロシーにささやく。

 無から有を出したようなので、催眠術にかかったようなもので、本物の食べ物が見えて、それを食べている気になっているだけで、本当は水と空気しか食べていないんじゃないかと思ってしまう。

 小麦粉のおだんごと読んで、子どもの頃母親につくってもらったお汁粉を思い出した。小さくて丸いおいしいお団子が入っているときと、大きくてお腹は一杯になるけれど、あまりおいしくなくて不格好なお団子が入っているときとがあった。そのうちに、おいしいお団子しか入らなくなり、おいしい方は白玉粉(米からつくる)で作り、あまりおいしくない方は小麦粉で作っていたことがわかった。この変化の理由は日本の戦後の高度経済成長による我が家の経済力の向上だろう。(さらに、戦時中食べられたすいとんが小麦粉のお団子だったことを知り、改めて貧乏だったんだなと思う)

 メニューを見ると魚と肉が出てこないが、おいしい煮汁とあるから、その煮汁には使用されているのだろう。今でも、コンソメスープの素を使えば肉を使わずに水だけでおいしい煮汁を作れるし、レトルト食品を使えば水を沸かすだけだ。

 魔法使いの魔法が調理の手間を省いただけのものと思いたい。タヌキに化かされておいしいまんじゅうと思って食べていたら泥まんじゅうを食べていたなんていうのは勘弁してほしい。


(十三)

 オズマ姫が魔法の使用を禁じても守らない者もいる。

 第十二巻『オズのブリキのきこり』には、変身の術を使える巨人の女(ミセス・ユープ)が出てくる。

 ミセス・ユープは、水をコーヒーに、雑草をオートミールに、小石を魚のだんごに変える。これが朝食だ。(第六章)

 いったん姿を変えたものは、二度と元の形にもどらないという。泥まんじゅうをまんじゅうと思わせられて食べるのとは違う。とはいえ、元がなんだったのか知っていると食欲を失くすものもある。

 最近「人造肉のハンバーグ」のニュースを見たときに一瞬「人肉」と読んでしまいギョッとした。ニンニクを漢字で間違えて書いた笑い話を思い出してしまった。動物をやたらと殺せないオズの国ならこういう魔法は許してもよさそうだ。

 子どものとき、本でお米以外の穀物で作ったお粥が外国にあるのを知った。本の中の登場人物の子どもは、あまりおいしいと思っていないという印象だった。自分でも、お米のお粥がどろどろになっているのは、糊を食べているようで、あまり好きではない。日本では一番おいしい穀物は米だと思われていたこともあるのかもしれない。もっとも、今では、最近の健康ブームもあって、自分は雑穀入り米を食べている。米だけより食感が自分好みだ(雑穀の比率が小さすぎて味はほとんど米のみと変わらない)。とはいえ、日本の伝統的庶民食の稗・粟主体の主食は勘弁だなぁと思う。保存食の干飯は復活させてもよいように思う。


(十四)

 第五巻『オズへの道』で、ドロシー達は、オズの国に向かう途中、キツネの国でごちそうになる。

 メニューは『チキンスープ、シチメンチョウのロースト、カモのシチュー、ライチョウのフライ、ウズラの照り焼き、ガチョウのパイ」だ。キツネは鳥肉が好きらしい。(復刊ドットコム51頁)

 ロバの国では、夕食に、麦かすのおかゆ、食べごろの殻つきオート麦、ふつうの干し草、みずみずしい甘い草を勧められたが、どれも断りそれぞれの希望のものを魔法で出してもらった。

 ボサ男は、リンゴと、ハムのサンドイッチを、ボタン・ブライトは、アップルパイを、ドロシーは、ビーフステーキとチョコレートケーキを食べる。魔法を使わなくてもオートミールは用意してもらえたと思うが希望していない。(81頁)

 翌日の朝にも同じものが用意されていて、ボタン・ブライトが「朝ごはんにパイはやだ」といったので、ドロシーがビーフステーキを分けてあげ、ボサ男はリンゴとサンドイッチとパイを食べる。

 ロバには、それぞれの食べ物の好みが、ばらばらで、同じ人間でもいろんなものを食べたがるということが理解できなかったらしい。

 オズの物語には、いろいろ変わった生き物が出てくるのが特徴だ。動物なのか変わった人間なのかよくわからないものもある。人間の特徴はいろいろな種類の物を食べるところにあるのかもしれない。もっとも、主食についてだけ見ると、やっぱり同じものばかり食べている。おかずやおやつばっかり食べるのは、自然に反しているのかもしれない。


(十五)

 ボタン・ブライトは迷子の男の子で、何を聞いても「わかんない」と言うので、本名もどこから来たのかもわからない。第五巻の最後に、シャボン玉の中に入って帰る。

 後の巻で素性がわかるかと思ったら、第九巻『オズのかかし』で、再登場する。

 「モーの国」で、ポップコーンの雪の中に埋もれていた。前よりも少し成長したようで、今度は、「フィラデルフィアから世界をぐるっと半分まわったところで、魔法の傘をなくしちゃったんだ。〜帰れないんだったら、家がないのと同じだよ。」と自分のことを話す(90頁)。最後にはオズの国で迷子になり、第十一巻『オズの消えた姫』では、ドロシーたちと一緒にオズマ姫を探す旅に出る。帰るところがなくなったので、オズの国に永住したようだ。

 「モーの国」では、糖蜜キャンディーとレモネードの雨とポップコーンの雪しか食べるものがない。ビル船長は「またちゃんと品数のある、まともな食事がしたいもんじゃのう」とため息をつく(83頁)。甘いものばかりじゃあきるけれど、それでも自分は、ヘンゼルとグレーテルが見つけたお菓子の家は、今でも食べてみたいと思う。

 ビル船長のいう「まともな食事」の内容が気になる。その後、魔法で用意された食事が出てくるが、「おいしそうなごちそう」とあるだけで中身がわからない(211頁)。

 第八巻『オズのチクタク』では、ボサ男が行方不明の弟を探し出す。弟は閉じ込められていて、そこにはホテルのセットメニューみたいな、三品のコース料理が実る木がある(237頁)。

 夕食には、スープと肉料理にポテト、野菜、新鮮なサラダをそえたもの、デザート(パイにケーキ、チーズにクラッカー、ナッツにレーズンなんか)の三品のコース料理だ。

 朝食が実る木もあって、そちらの三品は、コーヒーかココア、オート麦のおかゆ、果物というぐあいだ。この夕食、朝食がりっぱなホテルで暮らしたときの食事に引けをとらないようだ。昼食はどうなるのかよくわからないが、朝食のオート麦のお粥は定番メニューのようだ。

 オズシリーズの食事の内容は、自分が子どもの頃のアメリカのイメージと違う気がする。二十世紀のはじめと後半とで伝統的食事内容が変わったのは、日本だけではないのかもしれない。




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