『ルーゴン・マッカール叢書』2013.9

(1)

 ゾラ作「ルーゴン・マッカール叢書」第十六巻、『夢想』。

 主人公のアンジェリクが貴族出身の司教に、自分がどのように司教の息子のリュシアンを思っているのかを訴えるところで、なぜか涙が出てきたので、自分のことながら意外に思った。

 何の涙なのかが、わからない。

 世間知らずの娘が、何の根拠もなく王子様が表れて自分を王女にしてくれるという思い込みを語っているだけだからだ。

 自分も思い込みが激しいほうだから、なにか心の琴線に触れたのかもしれない。


(2)

 ゾラ作、「ルーゴン・マッカール叢書」第十八巻、『金(かね)』。

 銀行の取締役会が事前に根回しがされていて、何の議論もなく予定されていた議案が全部全員一致で議決される。

 日本の取締役会の実際は知らないが、自分の知っている範囲の会議をあれこれ思い浮かべ、「実際こんなものだよね」と思い、こういうやり方が意外ではなかったが、「でも、これはフランスの話だった」と気付く。

 いつだれの文章を読んだのか覚えていないが、西欧では、日本のような根回しをしてあらかじめ結論が出ていて、会議はそれを公認するだけというのではなく、ちゃんと会議で議論をして決定するという話だった。なんだガセだったかと思う。


(3)

 ゾラ作、「ルーゴン・マッカール叢書」第二十巻、『パスカル博士』。

 前半、おもしろくない。最後の巻なので、ノルマを果たすように読んでいたが、マッカールの死のところから、突然面白くなる。

 最近、サンマをガスコンロの上で魚焼器を使って焼いていたら、突然炎が出た。魚から出る油に引火したようだ。すぐにガスの火を止めたが、魚の身から滴り落ちた油が燃え尽きても、魚の身の中の油が燃え続けているようで、なかなか火を消せない。

 マッカールには飲酒と言う悪癖がある。ある日、酒を飲んで前後不覚になって眠りこんでいる間に、パイプの火が膝に引火し、体の中の脂肪が燃焼して焼死する。医学的にあり得るのかは、わからない。この悪業のつけをとうとう払ったような、わけのわからない死に方がゾラっぽいと思う。

 その後、立て続けに親族が二名亡くなる。

 と思ったら、預けていた財産の利払いを受け取りにいった女中から、預けていた人間の逃亡を知らされる。

 裕福な金利生活者が金利を生みだす原資を失い突然無収入になる。(後から三分の二の財産が処分されずに残っていたことがわかる。)報酬を受け取らずに診療していた、かつての患者のところを巡るが全く支払を受けられない。友人の若い医師は不在で、その医師の若い妻には借財を言いだせず、相手も全然訪問の意図を察しない。ここで、感傷的な人情話などが出てこないところもゾラっぽいと思う。


(4)

 サッカールは、お金に執着しているが、貯め込んで離さないというのとは違い、大きくお金を動かすことに執着する。大きく稼ぐが結局自分の所には何も残さない。お金をどんどん回して経済規模を大きくするのが世の中のためになるのかどうかは、よくわからない。よさそうな感じはする。

 株価の操作で、証券市場が大荒れになり、巻き込まれて命まで失くす人も出るが、儲ける人間もいる。

 証券取引で勝っても負けても手数料を払わなければならないので、ちびちび勝っても赤字になる。小心者の庶民は相場の上がり下がりの利鞘で稼ぐことは考えない方がよさそうだ。

 とはいっても、働いて稼いで貯めるだけでなく、稼いで得たお金を有利な投資で更に増やし、最後には財産の運用益(これを年金と言っているらしい)で老後を過ごすと言うのが定番のようだ。安全確実な運用方法と言うと国債を買うことになり年利5%ということになるらしい。

 年金と言う言葉は良く出てくるが、今の日本での厚生年金や国民年金とは違う。法律で決まった額の掛け金を払って、法律で決まった額のお金を受け取るわけでない。

 自分の考えで投資先、原資の預け先を決めなければならないので、目先がきくか、安全確実に管理しているかで、老後の生活費に使える額はかなり違ってくるようだ。

 自分で設計する企業年金のようなものかもしれない。もっとも、今の日本の企業年金の仕組みはよくわからない。

 仕事を一生懸命やっている人に、老後のための年金の設計を考えている暇などあるのだろうか。

 退職したら、仕事が全然できず、出世もせず、侮られていた人の方が、経済的に豊な生活をしているなんてことも起きてくるのかもしれない。


(5)

 どこがおもしろかったか。

 「お金がなくて、どうしたらよいのか。」に悩む。

 この点では、第七巻『居酒屋』が一番おもしろいということになる。

 『居酒屋』では、熟練工場労働者が機械に仕事を奪われ生活苦になるところが記憶に残る。

 第十一巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』では、百貨店の出現で近隣の商店がつぶれていく。商店主より百貨店に雇われている人間の方が経済的に豊になっていき、待遇も改善され、社会的地位も上がっていく。

 第十五巻『大地』では、大土地所有者の貴族が没落し、土地が細分化される。アメリカの大規模農業による安い小麦が輸入され、農民は土地の拡大に執着する。

 第十八巻『金』では、一攫千金を狙った証券市場での投資によって逆に財産を失う。

 社会の変化に絡んでいる巻がストーリー的にも変化があって面白い。

 登場人物がなにかとやりすぎな感がある。退屈で単調な日常生活が、何かのきっかけでどんどんなにかにのめり込んでおかしくなっていく。あるいは、片意地をはって、一つのことに拘るあまり、もっと楽に生きられるはずなのに、苦しくなってくる。

 執着心の強さでいくと『大地』が一番のように思う。

 一人の女性から発した一族の人間達の物語だから、共通した性格があってもおかしくはないはずだが、血縁のない登場人物にもこの偏狭さというか執着心の強さが顕著に出てくる。 

 『大地』にでてくる一族の人間はジャン・マッカールだが、ジャンはむしろ穏やかで普通の人間だ。


(6)

 頻繁に財産がいくらで年金がいくらと出てくるが、今でいうとどのくらいの生活レベルになるのかがよくわからない。

 労働者階級以外は家事使用人がいるのが普通らしい。主婦が炊事洗濯掃除食料買い出しをせずに一日中刺繍をしている記載もある。

 女性なら刺繍だけでなく編み物や縫物の手仕事は、女中を使用する奥様でも自らするし、男性は人に使われる仕事は、独立するまでの見習いならともかく、恥ずかしいことになるらしい。

 お金持ちになるとお屋敷で使用する人もかなりの人数になり、一人一種類の仕事しかせず序列もあるようだ。雇い主であっても担当の仕事しかさせられないようで、ちょっとした会社のようなものだ。

 貴族もお金を使うことで貧乏人の役に立っていたのだと思う。その階級にあった生活レベルを維持するのは、贅沢といって責められるよりは、むしろそのお金を受け取る人間に対する義務のように感じられる。会社の業績が悪くなったからと言って、すぐに社員の首を切ったりできないようなものかもしれない。

 高校生の時に池田理代子の『ベルサイユのばら』を読んだら、オスカルがアンドレに小銭を借りるところがある。国家財政が厳しいので無駄遣いしないようにしているそうだ。この時、オスカルは国家のお金を使っているのではなく、自分のお金を使っているのだから、自分のお金をケチって何の意味があるのか不思議に思った。

 どういう生活レベルを維持しなければならない階級かで生活費がかなり違ってくるので、年金がいくらというだけでは、充分余裕のある額かケチケチ暮らさないとダメな額なのかがわからない。

 今年のコント日本一決勝戦で「貯金百億の男」の話があった。俳優を目指していて、今は働かずに貯金を切り崩して生活しているとのこと。これだけ貯金があれば一生生活が安泰と思うのは、給料月何十万円で暮らしている庶民の発想だろう。

 自分で映画をつくることにして、ついでに映画館も建設したら、十年も持つだろうか。もちろん成功して更にお金が入ってくることもある。一文無しになる危険を負って、大きくお金を使って大きく稼ごうとするか、冒険せずに貯金をちまちま使うか、これはもう階級の違いでは説明できない。




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