『ソロモン王の洞窟』2013.8

 オズの魔法使いが気球に乗ってオズの国にやってきたことから、オズの国の人たちに大魔法使いと思われ、恐れられた。このことから、『ソロモン王の洞窟』を連想した。

 十九世紀後半、アフリカ大陸の中の地形的に外界と隔絶された地域で、イギリス貴族のヘンリー卿一行のうちの一人が総入れ歯の入れ歯を出し入れするところを見られて、不思議な能力があると思われ窮地を脱する。全部の歯が一瞬でなくなったり生えたりするところを突然見せられたら、相当ぎょっとするだろう。この発想がすごいと思った。それから、皆既日食を自分たちが起こしたように思わせて、その混乱を利用するところがある。

 子どものときに、少年向けの本で読み、具体的な出来事は入れ歯と皆既日食しか覚えていなかったけれど、最後に宝物を見つける非常におもしろい冒険小説だったと記憶していたので、また読んでみることにした。

 自分が読んだのと同じ本はみつからなかったけれど、1998年発行「横田順弥・文」の少年向きの本があった。あとがきを読むと結末は原作と変えているとあったので、創元推理文庫も読んだ。

 横田順弥さんの最後では、探していた弟がファーガソン博士と気球にのってやってきて、ガットリング銃(機関銃)で、内乱に勝った新王を襲撃しようとした旧王側の戦士二十名ほどを全滅させる。

 この結末には、正直怒りを覚える。

 324頁を引用すると、

 「イグノシ王、地面に伏せて。みんなも伏せるか、かくれろ!」

 おれがククアナの人々に、よびかけた。敵をのぞいて全員が地面に伏せた。それを待ちかねたかのように、バリバリバリッという音がして、ガットリング銃が火を噴いた。

 〜略〜

 「はっはははは。たわいもない。もっとも槍やおのを持つ敵を倒しても、自慢にもならんがな。では、着陸するぞ!」

 ククアナ人は銃を見たことがなく、主人公たちが持ちこんだ銃で、それなりに銃の威力を知ったが、機関銃は見たことも聞いたこともなかった。内乱には主人公達も参加し銃も使っているが、機関銃ではないので、「大軍に対しては石ころを投げる程度の効果しかなく(233頁)」銃に怯む戦士は一人もいなかった。

 襲ってくる敵に対して相手にもならず、国王の盾になることもせず、よそ者の指図に従って、咄嗟に地面に伏せるような臆病で卑怯なククアナ戦士というのは、あり得ないと思う。

 創元推理文庫の訳で見ると

 249頁、ククアナ国の軍隊の三分の一に近い二万以上の兵士が、この恐ろしい戦争で死んでいるのだ。

 251頁〜

 私が、イグノシは血の海を渡って王座に泳ぎついたのだ、というと、この老族長は、首をすくめて、「そのとおりだ」と答えた。「だが、ククアナ人というのは、ときどき血を流さないと、じっとしていられない国民なのだ。たしかに、たくさんの男たちが死んだ。しかし女たちは残っている。子供たちも、すぐに大きくなって、倒れたものにとって代わるだろう。それにしても、これだけの殺戮のあとだ、しばらくは平和がつづくだろう」

 内乱ということもあってか、戦士以外は殺されず、略奪もなく家も焼かれない。被害は男性がたくさん死んだだけということになる。そして女性の数は戦争前と同じで一夫一婦制ではないので、戦争がなかった場合と比べて出生数は変わらないのだろう。子供たちが成長するだけの時間で戦争前の状態に復興するということのようだ。戦争がなくても狩りや病気など死の危険は現代人よりずっと身近だ。人はどうせいつかは死ぬので、戦争でそれが早まった人が多くでたということにすぎないという感覚かと思う。命を惜しんで臆病者と思われたり、卑怯な真似をするくらいなら死んだ方がましという感覚ではないかと思う。

 旧王は戦争では死ななかったが、王の意志に反して命を奪うということができない掟になっている。それで、旧王が選んだ者と旧王が倒されるまで決闘をすることになる。

 旧王(ツワラ)はヘンリー卿(イギリス人)と決闘する。

 創元推理文庫244頁

 わが偉大なイギリス人は、体勢をととのえて、重い斧を頭上でふりまわし、満身の力をこめて打ちおろした。一千の咽喉から興奮の叫びが洩れた。見よ!ツワラの首は肩からふっとんでしまったのだ。

 横田順弥さんの方は、ヘンリー卿がツワラを柔道の一本背負いで投げ飛ばすと

 256頁、ツワラは運が悪かった。たたきつけられた地面に、刃が上向きになったおのがころがっていた。ツワラの首から背中にかけて、するどい刃が深々と食いこんだ。

 首を切断する描写を変更した理由はわからない。柔道の一本背負いを出してちゃめっけを出したかっただけかもわからない。あるいは残酷な描写を避けたのかもしれない。創元推理文庫で続けて読むとかなり残酷な描写になる。「北斗の拳」が大丈夫ならこっちも子供に読ませても大丈夫とは思うが。どっちにしても、戦争終結後に残党をやっつけるのに、機関銃で皆殺しの方がよほど残虐だと思う。

 新しく出版する際に、その時点の人権感覚に合わせて変更を加えるのは仕方がないとは思うが、中途半端に変えるのはどうなんだろう?と思う。

 戦争を描いた小説や映画の効用として、戦争の悲惨さを訴えて戦争が起こらないようにするということがあると思うけれど、今、第二次世界大戦を描いて戦争の悲惨さを訴えても意味があるのかな?と思う。今、第三次世界大戦が起こったら、第二次世界大戦と同じ悲惨さがあるのか疑問だ。徹底的にやったら、復興可能か疑問だし、そのへん考えてやるなら、特定の志願した人がどっか知らないところで何かやってるねと言う感じじゃないのかと思う。戦争をするとリアルにどうなるのか全然わからないところが最大の問題のように思う。未来の戦争後を描いた映画は、ほぼ人類が全滅して、元の文化水準に戻るのはいつのことかわからないというような、単なるサバイバル冒険ものだから、こういう映画を見せても戦争を避けるように仕向ける効能はないように思う。




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