『ストックトン』2013.7

(1)女か虎か一

 子どものころ読んで、女心として、好きな人が別な女の人と幸せになるのを見るのと、好きな人が死ぬのを見るのとどちらを選択するかという話だと記憶していた。

 子どもでも、自分が手に入れられないものを他人が手に入れるのを見るより、いっそこの世の中から消えてくれた方があきらめがつくという気持ちはよくわかった。ただ、人間は物ではないので、たとえ自分とは無関係にでも好きな人が幸せな方がうれしいだろうし、他人の幸せを妬んだり、自分が楽になるために他人の死を願うのがよくないことくらいはわかる。ただ、子どもなので女心まではわからない。

 結論がないまま終わるので、「どっちだろう」と時々思いだしていた。ミステリーのアンソロジーで読んだので、同じ作者の他の作品も読みたいと思い気にかけていたが、見かけないので偶然の出会いにまかせず探してみた。

 作者はストックトンとわかる。ストックトンで図書館のHPで検索すると童話がいくつか出てくる。アメリカのユーモア作家で児童文学者ということらしい。

 『赤い館の秘密』を書いたA・A・ミルンが、『くまのプーさん』の作者でもあるようなものだろうか。


(2)女か虎か二

 半未開人の王様は、重罪を犯したと疑われた臣下に、公開闘技場で二つの扉のうちどちらかを選択させる。

 扉の奥の一方には罪を問われた者にとって最もふさわしい結婚相手がいて、他方には飢えた虎がいる。女性がいる方を選んだら無罪になり、すぐその場で結婚式が行われる。虎がいる方を選ぶと有罪となり、即座に処刑として虎に襲われて死ぬ。

 裁かれる者が既に結婚していても婚約者がいても結婚を拒否することはできず、扉の奥の秘密は厳重に守られ、王ですらそれを知ることはできない。

 一人の臣下の若者が王女に恋するという罪を犯し、処罰は扉の選択に委ねられることになる。王女はあらゆる手立てをつくして秘密を手に入れる。王女はその秘密を公開闘技場の場で恋人にすばやい身振りで知らせる。王女が教えた扉を若者が開いたら、はたして花嫁がでてくるのか虎がでてくるのか。

 ネットで見たらその後の展開がいろいろ考えられている。それで、気付いたが、謎は王女がどちらの扉を選択するかのひとつだけではなかった。若者が王女の指示した通りに扉を開けるのか、若者が結婚式を挙げた後、その結婚相手と共にずっと生きていくのかという点でも選択の余地があり、その選択も組み合わせるとその後の物語が自分が考えていたのよりもたくさんある。

 王女が花嫁がいる扉を教えたが、若者は虎の方を教えられたと思い、逆の扉を開けて死ぬ。虎の方を教えられたと思ったが死を選び、教えられた方を開け結婚する。花嫁がいる扉を教えられたと思ったが、死を選び虎がいる扉を開け死ぬ。

 王女が虎がいる扉を教えたが、若者は花嫁がいる方を教えられたと思い、教えられた方を開け死ぬ。花嫁がいる方を教えられたと思ったが、死を選び逆の扉を開け結婚する。

 王女は花嫁がいる方を教え、若者も花嫁がいる方の扉を開け、結婚式が終わった後で王女と一緒に他国に逃げる。


(3)女か虎か三

 どうして、自分は、「若者の選択についても謎がある」と思わなかったのか?どうして、自分は、「王女は若者が結婚した後で二人で逃げるということを考えていない」と思ったのか?気になったので、もう一度読んでみた。

 つまり、作者が上記の疑問が生じないような書き方をしていた。

 ただ、実際に起こった客観的な事実は、

 「王女の右手は、眼の前のクッションをしいた手すりにおかれていた。彼女はその手をあげ、かるく、すばやく動かして、右を指さした。」

 「彼はぐるりとふりかえり、しっかりした、はやい足どりで、広い闘技場を扉へむかって歩き出した。・・・・なんの逡巡もなく、若者は右側の扉へと行き、それを開いた。」

 王女は向かって右の扉を指し、若者も向かって右の扉を開いたと読むのが素直な普通の読み方で、作者も読者がそのように読むのを期待していると思う。

 ただ、王女が若者から見て扉と同じ側にいて、扉の上からあるいは扉の横から右手を使って指差したとしたら、若者から見て向かって左側の扉を示したと見る方が普通のように思う。

 そこで、扉と若者と王女の位置関係が問題になる。

 「王様が、闘技場の一方の側の、一段とたかい玉座について、合図をすると、玉座の真下の扉が開いて、罪に問われた臣下が、この円形劇場にはいって来る。ほかに出入口もない広場の真向かいには、まったく同じ形をした扉が二つならんでいる。」

 「若者は闘技場へと進みでる時、習慣どおり、ふりかえって王様に一礼した。・・・彼の視線は、父王の右側の席についている王女の上にぴたりととまった。」

 王女は扉を真正面にみて右を指したから、向かって右の扉を開けろと若者に伝えようとし、若者もそのように受け止めて、王女の指示どおりにしたことに疑問の余地はないように思う。

 ところで、王女は若者から見て王のどちら側に座っていたのだろうか。向かって左側と考えるのが普通だろう。「父王の右側」といったら王にとって右側ということだから王と向かい合わせになって見たら、王の左側になる。お雛様と右大臣、左大臣、裁判長と右陪席、左陪席のようなものだ。右左で何かを伝えようとする場合、どのようなルールに従っているかについて共通の理解がないと誤解が生じやすい。王女と若者の間には、事前の取り決めは何もない。王女が伝えたいと思ったことが正しく伝わったかについて、更に考える余地があるように思う。

 若者が生きることを希望している、花嫁として選ばれた女性と幸せになれるというのは、王女がそう思っているだけで実際は違うかもしれないと読む余地もある。若者は王女が花嫁がいる方を教えることを見越して死ぬ事の方が自分にとって望ましいことで、あらかじめ王女の指示と逆の扉を開けるつもりで、若者から見て向かって左側の手が動いたので、王女の指示が向かって左だと思い、反対の扉を迷いなく開けたとみる余地もあるのではないか。

 あるいは、扉の奥に花嫁と虎を入れる時には、闘技場から入れるのではなく、その反対側から入れるのだろうから、王女は入れる側から見て向かって右と覚え、闘技場の側から見る者には反対側を教えなければならないことに気付かなかったのかもしれない。

 世間では、女は地図が読めないとか、方向音痴だとか言っているそうだ。自分は地図は読めるが方向音痴だ。なぜ方向音痴になるかといえば、一度方向がこれと思うと、その後自分の向きが変わっても、そのことによって軌道修正せず、真直ぐと思ったら途中で階段の踊り場で向きが変わったのに、地上に出てからも真直ぐ歩き、交差点前で道路の方向が九十度変わっていても自分の向きが変わったのに気付かず、見当違いの方に行ってしまうからだ。

 仮に、若者が開けた扉の向こう側に虎がいた場合、死後の世界があり、王女を若者の死について裁くとして、王女が故意にあるいは過失で若者を死なせたのか、あるいは自殺だったのか、正しく裁けるだろうか。

 それとも、若者は本当に王女を愛しており、その点で有罪だったのは明らかであり、虎がいる扉を開けたのは、正しい判決結果であったとして結果オーライだろうか。

 この小説には、王女と若者の間にコミュニケーション障害があったかどうかについても謎があるように思う。


(4)怪じゅうが町へやってきた一

 ストックトン作童話で『怪じゅうが町へやってきた』が、何か記憶に引っかかる感じがしたので、借りてみた。

 初めて見る感じだが、絵がセンダックで有名な人らしい。ストックトンの童話で同じくセンダックが絵を描いている『みつばちじいさんの旅』も読んでみた。

 センダックが気になったので、『センダックの世界』を見ると表紙の絵が三匹の怪獣になっている。見たことがある。怪獣で記憶に残っていたのは、センダック作絵の『かいじゅうたちのいるところ』だった。


(5)怪じゅうが町へやってきた二

 解説を読むと原題は『グリフィンとぼうさま』で『お話集・オーチンのみつばちかい』の中の一編とのこと。

 表題の話は『みつばちじいさんの旅』だと思う。このお話集をぜひ見てみたいものだ。

 最後の生き残りのグリフィンが自分に良く似た石の像があると知り、像がある町までやってくる。町の人はグリフィンを恐れてろくに口もきけず、教会の若い坊様が話をする。グリフィンは坊様が好きになり、坊様の後をついてまわる。グリフィンに出て行ってもらいたい町の人は、坊様がどこかにいけばグリフィンも一緒にいなくなると思い、坊様を荒れ地に追いやる。坊様がいなくなってもグリフィンはそのまま町にい続け、坊様がやっていた病人や貧しい人のところを訪問し、子供に勉強を教えるという仕事を代わってやり、まずまずの成功をおさめる。グリフィンは、町の人が坊様を追い出したのを知り、荒れ地に坊様を探しに行き、坊様を町に戻して、グリフィンの石の像を荒れ地に持ち帰る。グリフィンは、石の像を眺めながら食事もせず死んでしまう。

 ここで、『泣いた赤鬼』を思い出してしまった。赤鬼はたくさんの村人に遊びに来てもらえるようになったが、かわりに青鬼という友人を失ってしまった。たくさんの村人と親しくなるよりも、青鬼という一人の友人と一緒にいた方が良かったんじゃないかと思う。子どもの頃読んだ時は、赤鬼は、青鬼が自分を犠牲にして友人の自分につくしてくれたことに感謝して泣いたのかと思っていたが(これだと青鬼がしたことは、よいことになる)、今は、自分の我儘で青鬼を失った悲しさで、後悔して泣いたのだろうかと思う(青鬼がしたことは結局のところ赤鬼のためになっていない)。『一年生になったら』の歌詞「友達百人できるかな」の歌のせいか、「友達はたくさんいるほど良い、だれとでもみんなと仲良くなることができる」と思っていたが(青鬼とも村人とも仲良くがベスト?)、大人になるにつれ、ただわいわい一緒に騒ぐ相手がたくさんいるより、本当に気の合う友人一人の方が大事かもと思う。

 今、子供に教えるとしたら、「偽りによって多くの人と一緒にいるより、正しいことをして孤独に耐えろ」になるんじゃないかと思う。


(6)三日月刀の促進士

 ストックトンのもう一つの謎の小説。『女か虎か』の王様が、他国から花嫁を探しに来た王子を、だれにも会わせないまま問答無用で一人の女性と顔を覆った状態で結婚させてしまう。その直後、四十人の女性の中から、今結婚したばかりの花嫁を選ばせる。その花嫁について王子が持っている情報は、結婚式で花嫁の手をさわり「はい」という声を聞いて得られたものだけである。

 選択を誤ると即座に王子は殺される。一人の女性が「そっとほほえみ」、別の一人の女性が「かすかに眉をよせた」。王子は「二人のうちのどちらかにちがいない」と思う。可能性としては、どちらも違うということがあり得るが、「王子は正しい花嫁を選び出された」と書かれているので、作者によって選択肢は限られた。

 これは女性がどう考えたかより、どちらと結婚したらより幸せになれそうかで決めるしかないように思う。

 自分にほほ笑んでくれたということは、自分を気にいってくれたということだろうから、ほほ笑んでくれた方を迷いなく選んだら良いように思う。

 でも、「まかり間違えば、人が殺される」という状況で、笑えるものだろうか。王子に同情し、現在の状況に心を痛めて顔が曇ったのかもしれない。心がやさしいのは、こちらかも。そうすると花嫁でもないのに笑顔で誘って死をもたらそうとした女性は、あまりに残酷すぎる。素直に考えれば・・・

 やっぱり、王子がどちらを選んだかを考えるのは、簡単ではないようだ。


(7)みつばちじいさんの旅

 ストックトン作、センダック絵、『みつばちじいさんの旅』。みつばちと暮らしているので、「みつばちじいさん」と呼ばれている。

 若い魔法使いが、おじいさんに「おじいさんは何かの生まれ変わりだ」と言う。おじいさんは、何の生まれ変わりか知りたくて、それを探しに旅に出る。

 竜に食べられようとしている赤ん坊を救い出して、母親に赤ん坊を返す。おじいさんは、赤ん坊に心をひかれ、自分は赤ん坊の生まれ変わりだと思い、魔法使いの大先生に赤ん坊に戻してもらう。竜にさらわれた赤ん坊の母親が、自分の赤ん坊とおじいさんの生まれ変わりの赤ん坊を育てることにする。

 若い魔法使いがうんと年を取って、「みつばちじいさん」のいた村に行くと、前に会った「みつばちじいさん」とそっくりのおじいさんが同じようにみつばちと暮らしていて、そのおじいさんは、「みつばちじいさん」の生まれ変わりの赤ん坊だった。

 うーむ。生まれ変わりという話はよく聞くが、もとの姿に戻してもらったというのは初めて聞く。というか、ただの若返りのような・・・




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