『太陽の帝国』2014.5

(0)人口増

 十数年くらい前に、本屋でSFの文庫を選んでいて、興味を持ったが買うのを止めた本をやっぱり読んでみたいと思うが題名も作者もわからない。

 人口増のため、全員一週間のうちの特定の曜日だけ活動し、残りの六日間はカプセルの中で寝て過ごす。七分の一の人間が暮らしているのと同じことになる計算だ。七つの世界が同時進行しているが、それぞれ別の世界の人間と会うことはできない。

 異次元の世界が存在するSFや時間旅行をするSFがある。何かの関係で自分が生きている世界とは別の世界、時間に生きている人間と知り合っても、自分の世界に戻ると、相手が死んだわけでなくても、もう会うことはできない。

 何かの関係で別の曜日に生きている人間と知り合っても、やっぱり、相手が死んだわけでなくても、自分が生きている曜日に戻ったらもう二度と会うことはできない。

 設定を読んだだけで中身を知らないが、面白い設定だと思う。

 創元推理文庫のネットの図書目録で、J・G・バラードの短編集『時間都市』の中に「人口増加と居住スペースの話」があるのを知り図書館で借りた。結果、はずれだった。

 その短編集の中に、ノートに他人が死ぬことを書いたら、そのとおりに死んだ、という話があった。「最後の秒読み」だ。ネットの感想に「デス・ノート」の「ある意味元ネタ」の話があるとあったが、この作品のことかと思う。バラードの方は、ノートに力があるのではなく、書く人間に力がある。

 主人公はこの力を、自分の利益になるように使うことができない。邪魔者を消すことができても、その空いた席に自分が座ることができないからだ。ノートに書いたとおりに他人を死なせることができるという案は、誰が最初に使ったか問題になるほどの案でもないし、これだけなら誰が使っても問題ないように思う。

 推理小説で、連続殺人事件で犯人は襲われたが怪我をしただけですんだ人間だというアイデアはよく使われる。自分が最初に読んだのはヴァン・ダインで次にエラリークイーンの「Yの悲劇」でクリスティも何度も使っている。このアイデアは誰が最初に使ったかは重要でもないし、誰が使ってもよいものだと思う。

 自由に他人を死なせることができる力で自分の利益になることができるかを考えてみる。誰かを脅迫して自分の利益になることをやらせる。自分の正体を知られたら、こっそり暗殺されておしまいのような気がする。自分の力を誰かに信じさせ、かつ、自分の正体を知らせないようにすることができるか。「デス・ノート」ってどんな話だったっけと思う。


(1)

 バラード作、SF作家として有名だと思っていたが、『太陽の帝国』はSFではない。スピルバーグ監督の映画があるのを知り、映画のCDと原作を両方借りた。

 映画と小説、どちらを先に読むか迷う。小説を読んでいる途中で映画を見る。小説は十一歳の少年の視点から書かれているので、主人公の少年にわからないことは読者にもわからない。

 主人公は上海に住むイギリス人の少年だ。父親は裕福で中国人の使用人を使い、プールのある家に住んでいる。

 主人公は、上海市内のホテルに泊まっていて、早朝、日本軍の軍艦がイギリス軍の軍艦に攻撃を仕掛けるのを見る。自宅があるのにホテルに泊まっている理由がわからない。映画を見て、事情がわかる。

 太平洋戦争でのハワイの真珠湾攻撃は知っていたが、同時期に他の場所で日本軍による攻撃があっても不思議ではないのに、そのことについて何も知らなかったことに気付いた。

 日本の軍艦は最初にアメリカの軍艦に呼びかける。

 47頁「日本軍の将校もその水しぶきには構わず、メガホンを通してウェイク号に何か呼びかけた。

 ジムは窓ガラスに手のひらを叩きつけては、ひとりで大笑いをした。上海の人間なら誰でも知っていることだが、アメリカ軍の将校は誰ひとりウェイク号には乗っていないのだ。全員パーク・ホテルの各自の部屋でぐっすり眠りこけているだろう。案の定、船首楼から出て来たのは下着姿の中国人の乗組員だった。」

 日本軍の戦艦は、「イギリスで建造され、日露戦争のさなか一九〇五年に日本に売り渡される前はイギリス海軍で使われていた」46頁。

 イギリス軍の将校はホテルではなく船に寝泊まりしている。やっぱりこのころはもうイギリスよりアメリカの方が金持ちなんだなぁと思う。そして日本はイギリスのお古を使い、中国人は自国で他国の使用人になっている。最初の数頁で各国の力関係がよくわかる。

 
(2)

 監督が有名なのにも関わらず、映画が上映された当時の記憶が全くなかった。

 CDを見て、一番印象的な絵が、主人公が自宅に戻った時に、宿舎として使用していた日本兵が家から出てきたところだ。

 小説でいうと132頁「そのとき人影がふたつ、玄関のポーチから歩み寄ってきた。白い衣を着て、腕から長い袖をたなびかせている。ジムは家に戻ってきていた母親が、客のひとりを見送っているところに違いないと思った。」「そして人影は、軍用キモノをはおった非番の日本軍兵士であることがわかった。」「キモノ姿の日本人が、風呂上がりを襲われた女性の一団のごとく、家から駆け出てくる。」

 中から出てきた人間の白くて薄い衣の後ろから光が射して身体が透けて見える。ナイトガウンをまとった女性と思った瞬間、身体が男性で坊主頭であることに気付き、どきっとすると同時にぎょっとした。

 主人公はアメリカ人の男性二人とトラックできていたが、家の中から出てきた白いキモノを着た大勢の男性に襲われる。長い袖をたなびかせてトラックを襲う姿も異様だ。

 後からだんだんとその光景を見たことがあるような気がしてきた。テレビで映画のCMを流すが、それで見たのではないかと思う。確認することができないのが残念だ。

 主人公は中国人に襲われ、助けてもらったアメリカ人にも邪魔にされ、生きていくには日本軍の庇護を受けるしかないと思い、日本軍に降伏して両親が収容されているはずの捕虜収容所に送られることを望んでいたのが、ここでようやっと願いがかなう。


(3)

 スピルバーグ監督映画の割には知名度が低いように思う。主演の少年が大人になって俳優として成功したか気になってネットでみたら、有名な俳優のようだ。役作りのために肉体を変化させることが話題になっているようだが、この作品でも食料事情のせいで最後はかなりやつれ、最初と最後とで演じている少年が交代したのかと思ったくらいの変わりようだ。

 あまり有名な作品にならなかったのは、原作者のバラードに原因があるように思う。バラードがつくりだす世界と映画を見る人間の期待との間にずれがあるのだろう。

 映画を見る人は、日本人もイギリス人も同じ人間だから敵味方を超えたなんらかの温かい心の交流というヒューマニズムを期待したり、あるいは、日本軍に対抗して捕虜同志助け合うとか知恵と勇気を発揮して苦難を乗り越えるなどの冒険やスリルやヒーローの活躍などを期待するだろう。または、戦争の悲惨さや残酷さで心を痛めたいのかもしれない。

 しかし、バロウズの小説には特別な悪人も善人も出てこないし、特別な悪行も善行もなされない。現実の世界に生きている普通の人の普通の行為しかない。「太平洋戦争時の上海と上海近郊の日本軍の捕虜収容所」という特異な設定から生じる特別なこと以外に特別なことは起こらない。

 作られたストーリーの面白さや退屈な現実生活で味わえないような感情を期待するとがっかりするだろう。  そういう意味では通俗的なものやセンチメンタルなものが嫌いな人向けだ。

 映画の中の日本人の少年(後に少年兵)との心の交流や劇的で皮肉な少年兵の死は原作にはない(マンゴーをもらうところや少年兵の死はある)。空腹のときにへたに少し食べると余計にお腹が減るが、こういう映画にありがちなエピソードのおかげで、この路線でもっと感動的なものが見られるのではと期待させて肩すかしに終わっている。何を描きたい映画か見る者を惑わせるだけのように思う。原作の雰囲気が好きな人には、余計な脚色だろう。


(4)

 CDには反戦映画と紹介されている。子供の頃、第二次世界大戦の時の厳しい食料事情や生活水準の低下を描くと、またそういう経験をしたくないと思わせることで、戦争が起こることを防ぐのに効果があると思っていた。最近は、そのことについて疑問を感じている。今、戦争が起きたとしても、その戦争によって第二次世界大戦時において経験した苦難と同じ苦難が起こるのか疑問に思うからだ。

 捕虜収容所の生活は、「脚気とマラリヤで死ぬ」(231頁)、「粗びきの小麦とサツマイモのはいったバケツから湯気が立ち上り」(232頁)、「収容所内の池から汲んできた少しばかり塩気のある水を煮沸」「骨を折って湯を沸かすよりも、慢性の下痢に罹っている方を選んだ」(212頁)というようなものだ。

 この貧しさが戦争の結果であるかは疑問だ。アガサ・クリスティの自伝を読むと第二次世界大戦が終わって軍務から戻った夫と再会した時には、二人とも戦争前よりも太っていたとある。アメリカとイギリスが豊かで中国と日本が貧しかったということではないのか。貧しさは戦争の結果ではなく原因だったのだと思う。戦争が終わってアメリカ軍が飛行機で食料を落とす。脂肪たっぷりのミルクの粉末、缶詰に入ったハム、チョコレート、戦争は相手がなければできない。アメリカも四年間戦争していたはずだ。

 豊かになるために戦争を始めたのだとしたら、戦争に負けたにも関わらず豊さを実現したように思う。戦争せずに戦争の目的は実現できたことになる。

 今は、むしろ貧しくて戦争を始めた方の側の失敗ではなく、他国より経済的に優位にたっていて戦争を回避できなかった国の失敗に学んだ方がよいように思う。

 本を読んでも映画を見ても、思うのは戦争の悲惨さよりもイギリスとアメリカに対して、どうしてこうも中国は貧しいのかということ。

 小説のはじめと終りに川を流れる棺が出てくる。以下が小説の最後の文章。

 「アメリカの巡洋艦の水兵たちを乗せた揚陸艇の立てる波に洗われて、紙の花が揺れて散らばる。それは波にたゆたいながら、花環のように棺を取り囲んだ。その棺はこれから揚子江の河口までの長い旅路に出るのだが、自然と内陸にはいってくる潮流によって、埠頭や干潟へと戻ってくるだけなのだ。この恐るべき都市の川岸へ再び押し返されるだけなのだ。」

 これが、バラードの世界だ。


(5)

 366頁にアメリカ軍が飛行機で投下した箱の中身が書かれている。

 豚肉やミルクなどのはいった「スパム」「クリム」「ネスカフェ」といった缶詰、棒チョコレート、セロファンにつつまれた「ラッキー・ストライク」や「チェスター・フィールド」などの煙草の箱、さらには『リーダーズ・ダイジェスト』や『ライフ』といった雑誌、『タイムズ』や『サタディ・イブニング・ポスト』などの新聞の束もある。

 スパムでスパムメールを思い浮かべたが、検索してみて、スパムの缶詰がスパムメールの語源だとわかった。

 クリムの方はヒットしなかったが、ミルクの粉末が入った缶詰だと思う。クリームから名付けられたのだろう。ネスカフェがコーヒーなのは、他の記述を読んだり調べたりするまでもなく、すぐにわかった。

 野菜の缶詰はなかったのかと思う。今の感覚だとあまり健康によくないように思う。




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