『とべたら本こ』2013.4

(1)2013.4.11

 中学の図書館で借りて読み、もう一度読みたくて市の図書館で借りて読んだ。

 表紙の明るい絵を見て、「あれ、こんな感じだったかな」と思い、後書きを読んだら、初版以来いわさきちひろさんが挿絵を描いていたのが、愛蔵版は別の人に変わったのがわかった。

 出版年からすると自分の読んだ本は「いわさきちひろ」の絵だったことになる。県立図書館の方にあったので、そちらも借りてみた。いわさきさんの方が人物が写実的で甘さがない。愛蔵版の方がユーモアがあってほのぼの系だ。愛蔵版の方が児童文学向きかもしれない。

 ただ、話にあっているのは「いわさき」版の方のように思える。ただ、どちらも自分が記憶している絵とは違う。どうやら、自分の記憶している情景は自分が本を読んだ時の印象のようだ。でも、だんだん、いわさきさんの挿絵を見たことがあるような気がしてくるから不思議だ。

 気になるのは、作者が映画『転校生』の原作を書いた山中恒さんで、開架の棚にたくさんの本が並んでいるのに、この本は書庫に入っていることだ。まだ戦後の雰囲気を出している時代(昭和三十三年)の話で、今の世相にあわないからかと思ったら、むしろ逆だ。

 失業中の父親が競馬で大穴をあてて大金が入り、家庭崩壊して家出をし、たまたま知り合ったおばあさんの家にいったら、保険金欲しさの息子に唆されて、おばあさんを殺しそうになり、その家を出て、お金がなくなり狂言自殺をしたら、そのことが新聞に載り、自分の子かもしれないと名乗り出た人の家に引き取られ・・という話だ。

 大人になって、今読んでもとても面白い。ただ、子供の時読んだ時は、最後の方はともかく、主人公がいろいろ大人の汚いことに巻き込まれて、少し変わった話だと思った。今、開架の棚に並んでいないのは、そんな事情からかもしれない。


(2)2013.4.13

 愛蔵版の筆者後書きで『赤毛のポチ』のことに、少し触れられていたので、『赤毛のポチ』を読んでみた。

 舞台が北海道で石炭ストーブが出てくる。

 やがて、家の中が、しんと寝静まると・・・・

 そのころには、ストーブが、石炭の最後の燃えがらを、ポトリ、とロストルの下へおとす。(百五十七頁)

 自分が子供のころは、石炭は火をつけるのが大変なので、火種を絶やさないようにした。夜、寝る前に石炭をストーブの口まで入れて空気が入るところを全部閉めて、朝までもたせる。朝起きるとロストルをデレッキでゆすって石炭がらを下に落として、石炭をストーブにくべて空気穴を全開にする。ロストルという言葉をすっかり忘れていたのに気付いた。自分はデレッキと言っていたが、小説ではデリックになっている。

 子供のころ、エステス作『黄色い家』を読み、凍っている道を石炭を買いにいくところなど、「日本」が舞台の小説より余程共感できるところが多かった。北海道の子供には、庭になっている柿の実を縁側から眺めたり、八月一杯夏休みだったり、卒業式や入学式に桜の花が咲いている方がよほど異国の話だった。

 児童文学と普通の小説の違いって何だろうと思う。子供が主人公なら児童文学なのか。大人は子供の本を選ぶとき、「ため」になるかどうかを考えてしまう。その点からいえば、「とべたら本こ」にしても「赤毛のポチ」にしても大人が読んだ方がためになるかもしれない。「次郎物語」の第一部や「路傍の石」もそう思う。

 小説の構成や表現が、主人公と同じ年の小学校五年生では、理解しにくいところがあるように思う。「とべたら本こ」では、自分が読んだのは中学一年生の時だったが、三人のカズオが同じ人間だとすんなりわかったとは言えない。

 「赤毛のポチ」の方は、二百四十四頁のところで、ピアノを弾いているのが誰かが、すぐには理解しにくいように思える。起こったとおり順番に書かれていなくて、結果を見て、そこに至る経過を自分で推理しなければならない。

 それから、二百六十頁の「・・・あのセンセイがなぜ夜中にピアノをひきに行ったか、・・・」の『センセイ』が子供にわかるだろうか。自分がその『センセイ』のニュアンスがわかるのは大学を卒業して勤めてからだ。

 「とべたら本こ」と「赤毛のポチ」の出版が遅れたのは、児童文学とはこんなものという既成概念にあわなかったからだと思うが、むしろ、子供が主人公なら児童文学という決めつけの方がおかしいように思う。

 自分としてはどちらもよい小説だと思う。読んで面白かったからだ。


(3)2013.4.14

 「赤毛のポチ」を読み、なつかしかったのは、石炭ストーブだけではない。

 「いたましい」「はたいてやる」「けたくそ悪い」「ふんとに」「すったらこと」「いかったなぁ」「ゴオツクバリ」「ハッチャキになって」どれが北海道弁でどれが全国共通かはよくわからないが、子供のころは言っていたが今は言わない言葉だ。もっとも、「すったらこと」は心に思うだけで口には出さなかった。そして、今でも心の中では思いっきり言うことがある。

 「ヤバチイ」とは言わなかったが「バッチイ」は言った。「かててもらう」は言わなかったが、「かぜて」は言った。札幌にある施設名は「かでる」になっていて、意味は同じらしい。北海道内でもいろいろあるのかもしれない。「しやわせ」とは言わないが、お風呂につかって「しゃーわせ」と心の中でつぶやく。「あ」とか「お」とか、はっきり口を大きく開けて発音しないなと改めて気づく。あんまり口を大きく開けると雪が入ってくるし、寒いから自然とそうなるのだろう。ロシア語でイエスがダーでノーがニェットだと知った時には、日本だってイエスが「ウンダ」でノーが「インニャ」とか「ウンニャ」で、似てるじゃないかと思った。


(4)2013.4.15

 「赤毛のポチ」は、カッコという女の子とカロチンというあだ名の男の子の話で、二人の間を犬のポチがいったりきたりする。ポチが蝶つがいの働きをしていて、二人のことをかわるがわる書いても一つの話としてまとまっている。

 小説は、朝鮮戦争が終わった昭和二十八年の秋に始まり、翌年の正月二日に終わる。門別の米軍の演習地の話が出たときに、カッコが父親に「どうして戦争するの?」と聞くと「どうしてかなあ。おれはアメリカじゃねえからわからねえなあ。」と父親が答える。(百八十二頁)

 カロチンの姉の文子が弟の担任の先生にこう話すところがある「・・・父はわたしがそんなことをいったら(どうして戦争なんかするのか)、そういうことは、教会の牧師さんか、共産党にならいなさいって、とってもこわい顔をしたんですよ。・・・」(二百三十四頁)。

 カロチン姉弟の父親は、<戦争がはじまると景気が良くなる>(百八十六頁)といい、じぶんで工場をたてて、兵器の生産をする計画を得意になって話し(百七頁)、独立していながら軍備をもたぬ国家なんて見たこともない、「原爆の一つや二つで・・・」と言う(百六頁)。

 世の中の大事なことでも勉強する余裕も機会もないことはたくさんある。よく勉強している人に教えてもらおうとしても、その人の考えていることと違うことを言うことを許してくれない人が多いと思う。


(5)2013.4.16

 「赤毛のポチ」のカッコの家は貧しい。カッコの抱えている問題は、家が豊になれば、解決するように思える。

 とはいっても、クラスメイトは、カッコの家ほど貧しくはないが、みんながみんな悩み知らずというわけではないだろう。クラスメイトのカロチンは家は金持ちだが大きな問題を抱えている。

 カッコは学校でいじめられることもあるが、最近のいじめ問題ほど深刻な感じがしない。少なくとも、貧乏のせいで他の子と違っているところがいじめの原因だろうと、原因がはっきりわかるだけ、ましなように思える。

 とはいっても貧乏が解決できてもまた何か別の問題が起きるだろう。「とべたら本こ」のカズオの家も父親が大金を手にしたせいで前より不幸になった。

 「貧乏」みたいに内容がはっきりしている問題が解決すると、次に現れる問題はなんだかよくわからないもので、なんだかよくわからないだけに、貧乏より始末におえない気がする。

 ただ、生きていくことだけに全力を使い、余計なことを何も考えない方が、生命力も強くなり、なんだか正体をつかめないものに悩むこともなくなるようだ。


(6)2013.4.17

@ 1960年発行 創作少年文学

A 1970年発行 ファンタジー・ブック

B 1977年発行 理論社名作の愛蔵版わたしのほん 

C 1979年発行 フォア文庫

以上、「とべたら本こ」は、四種類発行されている。

 @の挿絵は「いわさきちひろ」で、Aの表紙は新しく描かれているが、中の絵は@と同じ絵が使われている。Bの挿絵は作者の後書きによると「愛蔵版のイラストも、初版以来、ファンタジー・ブック版の装丁をもやってくださったいわさきちひろさんにお願いしたいところであったが、そのいわさきさんは七四年、不幸にして他界された」ので別の方がされている。

 「赤毛のポチ」の愛蔵版の「はじめに」に、「画家のしらい・みのるさんには、この本の《愛蔵版》を記念して、すっかり新しい絵に描きあらためていただくことができた」とある。愛蔵版の挿絵には新しく描かれたものを使いたいので、別の方にお願いしたようだ。

 Cの挿絵はいわさきちひろさんの方が使われていて、表紙はファンタジー・ブック版が使われているが、本の大きさが小さくなったせいか、中の絵は少し省略されている。@ACの挿絵は同じ絵だが、調子が少し違う。

 @ABには作者の後書きがあり、Bには@Aの後書きも載せている。Cには作者の後書きはなく、筒井敬介さんの解説がある。

 @ABCを揃えて眺めるといろいろと面白い。

「赤毛のポチ」の初版の絵と愛蔵版の絵を見比べてみた。構図はほぼ同じだが、作風が違う。愛蔵版の方は版画風というか影絵風で骨太の絵になっている。それぞれ味がある。いわさきさんが愛蔵版発行の際に生きておられたら、作風の違いを見比べることができたのにと思うと残念だ。




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