常陸国

筑波山神社(式内社)

 筑波山は双耳峰で西側男体山に男ノ神、東側女体山に女ノ神が鎮座している。双耳峰であるが故に御祭神は諸説あったようで、古くは三代実録に”筑波男神・筑波女神”とあり、江戸時代以降、”日本武尊・弟橘比売”、”埴山彦神・埴山姫神”、明治初期には”祭神不詳”ともなり、大正時代に入り現在のようになった。拝殿は南麓にあって御神体である筑波山を拝めるようになっており、頂上まではケーブルカーまたはロープーウェイでお手軽に登れるようになっている。
 男体山本殿流造、外千木、鰹木3本、女体山本殿流造、内千木、鰹木3本。神紋は、丸に三つ葉葵。神門の脇では”ガマの油売り”の実演をやっていた。
 鎮座地:茨城県つくば市筑波一番地ノ一
 御祭神:筑波男ノ神(おのかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 男体山871mに祀る。
      :筑波女ノ神(めのかみ) 伊弉冊尊(いざなみのみこと) 女体山877mに祀る。
 摂 社:稲村神社(天照大御神)・安座常神社(素盞鳴尊)・小原木神社(月読尊)・渡神社(蛭子命)
 境内社:春日・日枝・朝日稲荷・厳島・愛宕神社など多数。
 御神徳:ご祭神の二神は日本人の祖神として「古事記・日本書紀」にそのご神徳が書かれています。二神が結婚して神々を産み国産みをされたことにより、縁結び・夫婦和合・家内安全・子授け・子育て等のご神徳、国土経営をなされたことにより、開拓・国家運営・社運隆昌・職場安全・工事安全・交通安等のご神徳。また、豊作や大漁などの産業面、そして厄除・方位除・心願・安全・進学等の合格祈願などに祖神達の強いご神徳を戴くことができます。
 御由緒:筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神々からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られてきました。その後祖神は「いざなぎの神・いざなみの神」と日本神話で伝える事から、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。第十代崇神天皇の御代に、筑波山を中心として、筑波・新治・茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。第十二代景行天皇の皇太子日本武尊尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。
 奈良時代の「萬葉集」
には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は名神小社に列しました。
 中世以降仏教の隆盛につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子、八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領1500石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起こした筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。(筑波山神社栞から抜粋)


息栖神社(東国三社)

足尾神社

筑波山の北側、茨城県石岡市と桜川市の境にある足尾山山頂に鎮座し国常立尊・面足尊・惶根尊の三柱をご祭神とする。上曽峠から北筑波稜線林道を北上すると右側に足尾山登山道入口がある。参拝した折には入口にある小型の鳥居が崩れてしまっていた。登山道から数百mで拝殿跡に至る。拝殿跡は比較的広い場所で、”足の神様”らしく靴・サンダル・義足などが奉納されている。拝殿があった思われる跡地には天狗のレリーフが左右一対見える。灯篭は風化が激しいものの天明(1781〜1788年)期のもの、その他手水鉢あり。東日本大震災で被害を受けたものらしく前述の登山口鳥居の他、拝殿跡地内の構造物や石碑の幾つかが倒壊している。山頂奥宮へは拝殿跡地左側から登山道が続く。10分程度、厳しい登山道を登ると山頂へ到着する。本殿は大型の流造風石祠である。
(茨城県石岡市小屋1 足尾山山頂)
  神体、鏡。創建年代は、当社がしばしば火災にあい、記録類一切を失ったので明らかではない。海抜627米の足尾山上に祀られており、その「足尾」の名が万葉集に「安之保」と見え、常陸風土記にも「葦穂山」とある。風土記の記述に「その杜(もり)の中に石屋あり」とあることから、奈良朝以前に足尾の山に神が祭られていたものと見られる。
 口伝によれば、平安時代、第60代の主上、醍醐天皇が御足痛に悩ませられた時、霊夢にこの神を知られ、御祈願なさったところ、忽ち全快されたので、白紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」と勅額を下賜されたという。いまに、手形足形の御札を「足形の御影」として崇敬者に頒布しているのは、これに起因している。醍醐天皇御下賜の勅額は、野火のため焼失したので、寛正5年6月、御所へ申し出たところ、再び勅額と菊桐御紋入り嗽石が下賜された。江戸期には修験道の霊山として、、「足尾大権現」の名のもとに神仏習合の信仰があり、当社も山麓の足尾山大岩寺の支配下にあって、勅額再下賜の折の御立会、井関大蔵卿外4名の令旨書は、代々大岩寺の足尾山別当が伝えてきたが、明治初めの神仏分離の混乱期に散逸してしまった。 近世以後、諸国を修行、行脚する修験者によって当社が足病消除に効験ありとする神徳が全国的に広められ、足の諸病に悩む崇敬者の参詣がにわかに多くなった。神の加護により全快した信者が、鉄・銅製等の草履を奉納する風習は、いまは靴・サンダルなどの奉納に形を変えているが、絶えることなく続いている。
 文治年間の始め、源義経の家臣となった常陸坊海尊が当山に籠り、杉室という地で修行して以来、修験道の道場として知られるようになった。現在も杉室に神窟があり、小祠が祀られている。例えば佐渡各地に「足尾(山)大権現」の碑が群立しているのは、祭神のうちの「面足命」が修験道で特に信奉した「第六天」に擬せられ、その信仰が全国的に広まっていた証左といえる。 天保14年1月に社殿が焼失したため再建されたが、第二次大戦中、強風により倒壊したので、戦後修復した。明治6年4月、郷社に列格。昭和27年10月6日、宗教法人となった。明治42年、上曽の愛宕神社を合併したが、平成元年、愛宕神社を分離、別法人となった。当社を式内社、夷針神社とする説があり、全国式内社一覧に記載されている。
 神社データベース神羅(茨城県神社庁新治支部さん作成)より引用

足尾山  筑波山と加波山の中間にある標高628mの山で、古くは「常陸風土記」や「万葉集」に葦穂山と記されています。
 山頂は、コナラなどの落葉樹林が茂り、その中に足尾山神社が建立されています。社伝によると、延喜20年(920)ころ醍醐天皇が足病消除祈願のため与えた勅額は野火により消失しましたが、寛正5年(1464)御所へお願いし再び勅額と菊の紋入り喇(うがい)石が与えられ、足の病を治す神様として信仰が高まり、信者が草履やわらじを奉納する風習が生まれたと言われています。環境庁・茨城県 (足尾山登山道入口掲示板より)

加波山神社

加波山山頂には、本殿が4社鎮座している。南から北へ加波山三枝祇神社本宮本殿・加波山神社(中宮)本殿・たばこ神社・加波山三枝祇親宮本殿である。たばこ神社を除いた3社を総じて”加波山権現”と称される。この3社は別当寺を個別に持つ特殊な形態でもある。御祭神は、本宮・親宮が伊荘册命・速玉男命・事解男命・火具土命・八雷命・日本武命他、中宮が国常立尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊。
 加波山西麓の桜川市真壁町側から登山道を登る。2時間弱かかって山頂拝殿へ到着。ゴールデンウィーク中にもかかわらず静かに佇む。拝殿脇では古木の枝垂桜が満開。拝殿脇から山頂へ向う。七百余柱の神様をお祀りする霊場だけあって、あちらこちらに石祠が鎮座する。

(石岡市大塚加波山1)
 加波山神社(郷社):当社は第十二代景行天皇の御代(約2000年前)日本武尊の御東征に当たり、加波山に登り、三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮(てんちゅうぐう)が創建されたと伝う。延暦20年(800年)征夷大将軍、坂上田村麻呂の御東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(806年)に社殿を寄進された。弘仁5年(809年)には、従五位下を朝廷より賜り第五十二代嵯峨天皇より多数のご神宝が奉納された。その後、和歌山県の、熊野山の御祭神が樺山山頂に祭られ、新宮・本宮の二社が新たに創建された。奈良平安、鎌倉・室町にはいると、別当寺院が建ち神仏混合のかたちになり、このころに7百余の神々を奉る霊場が整えられた。江戸時代にはいると加波山大権現と称し、別当寺院が三社を支配するようになり、山伏・修験社の真言密教加波山三光流の道場・霊場として栄えた。また、加波山天中宮は、水戸徳川家の崇敬厚く、水戸藩の領内を始め県内・外の村内安全・家内安全・嵐除・農業・産業・開運・子授け・安産・海上安全・大漁満足の神社として信仰され大いに栄え現在にいたっている。明治元年(1868年)神仏分離令により寺院は廃止され、明治6年、天中宮・新宮・本宮の中で、由緒古く正しい加波山天中宮は郷社に列せられ社名を、加波山神社に改め、初代宮司に元水戸藩家老・鈴木石見守重義が任ぜられた。明治11年には、参拝者の便宜をはかって石岡市大塚の加波山のふもとに、御拝殿を建て、また明治34年に桜川市真壁町長岡にも崇敬者の希望により、御拝殿・社務所を建て加波山々頂・八郷・真壁の三ヶ所の拝殿にて御祈願、社務を司どっている。尚、親宮・本宮の二社は、村社で三枝祇(さえなずみ)神社親宮・本宮と改め、戦後、当神社の許可をえて加波山の文字を付け加えた。(加波山神社(加波山神社中宮)境内パンフレットより抜粋)