武蔵国


氷川神社(武蔵国一之宮)

 氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年第5代考昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝えられています。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱の神で大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を天照大神の御孫 瓊々杵命にお譲りになられた国土経営の神であります。稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神であります。この御三神をここにお祀りされたのは国土経営民福安昌祈願の為であって大和朝廷の威光が漸次東方に及ぶにつれて、当神社の地位が益々重くなったのでありましょう。地勢上から見ても氷川神社は見沼をひかえ東西南北に展開し交通の便もよく土地も肥沃で民族は弥々繁栄し今日の基をなすに至ったものと思われます。
 第12代景行天皇の御代日本武尊は当神社に御参拝東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き格式高く、また今から凡そ千二百年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定せられた延喜式神明帳には名神大社として月次新嘗安上の官幣に預かり、また臨時祭にも奉幣に預かる等暦朝の崇敬殊の外厚く、また武家時代になっては鎌倉、足利、北条、徳川時代等相継いて尊仰し祭祀は厳重に行われておりました。(中略)氷川神社名の神社は大宮を中心にして埼玉県下及び東京都下、神奈川県下に及びその数実に数百をかぞえます。今日県下だけでも160余社に及ぶことは御神威の高く尊きによるとは申せ武蔵国造の子孫がこの大宮の地を本拠として民族的政治的に著しい発展をしたことを物語って居るものと考えられます。(氷川神社略記より)

大国魂神社(武蔵国総社)

 大國魂神社は大國魂の大神を武蔵の国の護り神として御祀りした社であります。この大神は、出雲に大国主神と御同神で、大昔武蔵の国を開かれて、人民に衣食住の道を教えられ、また医療法やまじないの術も授けられた御方で、俗に福神(大黒神)または縁結びの神として著名な御方であります。
 当社の創立は、景行天皇41年(111年)(約1900年前)5月5日で、当時は武蔵国造が代々神社に奉仕しましたが、大化の改新によって武蔵国府をこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵の國中の神社を一ヶ所に集めてお祀りしました。是が武蔵総社といわれる起源であります。なを左右の相殿に、国内著名の神社六所を合祀したので、六所宮と称せられるようになりました。
 鎌倉幕府並びに北条・足利両氏も篤く崇敬しましたが、徳川家康が江戸に幕府を開くと共に殊に崇敬の誠を尽くし、神領五百石を寄附せられました。明治維新に準勅祭社となり、同7年県社に、同18年官幣小社に列せられました。
 当社は昔より崇敬者が非常に多く、武蔵国は勿論関東一帯にわたり数十万に及び、毎年5月5日の例大祭には、夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜に御旅所へ渡御するので、俗に府中の「闇夜祭」(くらやみまつり)といわれ非常に賑わいました。現在では神輿渡御は夕刻6時より行われております。
 祭神及び神座の順序 本殿中殿: 大国魂大神・御霊大神・国内諸神、本殿東殿:一ノ宮、小野大神・二ノ宮、小河大神・三ノ宮、氷川大神 本殿西殿:四ノ宮、秩父大神・五ノ宮、金佐奈大神・六ノ宮、杉山大神(大國魂神社パンフレットより)


三峯神社

本殿春日造、神紋は下にあるように「菖蒲菱」。境内社は祖霊社・大山祇神社・日本武尊神社・東照宮他多数。鳥居は三輪鳥居でこれは、三峯の名の通り雲取山・白岩山・妙法ヶ岳の三山を表したものか。私の記憶にもう40年も前の事であるが、祖母の家の床の間には三峯神社のお札(掛け軸)が掛かっていた。中央の大木(杉?)に手前から参道らしきものが続いており参道の両脇には狼が一対座っている構図のものであった。当時祖母は半農半漁を営んでおり、祖母にこの絵が何であるか聞いた覚えがある。祖母はまだ小さい私に「畑に来る泥棒とか畑の物を食べちゃう悪い動物から狼が守ってくれてね、家に入ろうとする泥棒も狼が追い払ってくれるんだよ。」とやさしく教えてくれた。その時はじめて掛け軸の動物は”犬”ではなく”狼”だと知った。祖母の家の玄関には盗難除けのお守りが、竃には防火のお守りが貼ってあったのを覚えている。
 当社は今から1900年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾(イザナギ)尊・伊弉冉(イザナミ)尊、二神をお祀りしたのが始まりです。尊の道案内をした山犬(狼)が、お使いの神です。三峯の名は神社の東南にそびえる雲取、白岩、妙法の三山が美しく連なることから、三峯宮と称されたことに因ります。奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え天平8年(736年)国々に疾病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の称号を奉られました。平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、以来僧侶の奉仕するところとなりました。鎌倉時代には畠山重忠が祈願成就の御礼として十里四方の土地を寄進しました。また戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文2年(1533年)に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年(1661年)現在の本殿が造営されました。享保年間(1716〜1735年)には日光法印が社頭の復興に尽くし、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政4年(1792年)に随身門(仁王門)、同12年(1800年)には拝殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修験、関東のの総本山として重きをなし、幕府から十万石の格式をもって遇されました。明治維新の神仏分離により社僧を罷め仏寺を閉じ神社のみとなりました。明治6年郷社、同16年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています。(境内掲示板より)

 当社の由緒は古く、景行天皇が国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折り、尊は甲斐の国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。その後、天皇は日本武尊が巡られた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遣わされ「大明神」の神号を奉られました。又、文武天皇の時、修験の祖役の小角が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。天平17年(745年)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。こうして徐々に仏教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。三津峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発に力を尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352年)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。後柏原天皇の文亀2年(1502年)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。後、天文2年(1533年)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。更に、観音院第7世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇されました。現在、社紋として用いている「菖蒲菱」は花山院宮家の紋であります。この様に天台修験の関東総本山として繁栄した当山も、宝永7年(1710年)山主没後、山主に恵まれず10年間も無住となり、宝物も散逸し、社殿堂宇も破損が見られる様になりました。やがて、享保5年(1720年)日光法印という僧によって、当山も次第に復興され、以後六里四方を支配し、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治2年の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。(三峯神社パンフレットより)

武蔵御嶽(みたけ)神社

 社伝によれば、創建は第十代崇神天皇7年と伝えられ、平安時代の延喜式神明帳には、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されており、古くより関東の霊山として信仰されてまいりましたまいりました。山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心地として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。天正18年(1590年)徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地30石を寄進され、慶長11年(1606年)大久保石見守を長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに改めました。人々の寺社詣が盛んになるとともに、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に拡がり、講も組織され、現在に及んでおります。
 また日本武尊御東征のみぎり、この地で難を狼により救われたといわれ、以来神社の守しめとして多くの人々の崇敬を集めております。明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和27年武蔵御嶽神社と改めました。現在の弊殿拝殿は元禄13年(1700年)に徳川幕府によって造営されたものです。
御祭神:櫛真智命・大己貴命・少彦名命・廣國押武金日命(安閑天皇)、奥宮:日本武尊・御眷属大口真神
(武蔵御嶽神社パンフレットより)