信濃国


寒川神社(相模国一之宮)

御祭神:寒川比古命・寒川比女命(寒川大明神と奉称)
御由緒:相模国始め、関八州総鎮護の神として古くから朝野の信仰が殊に厚く、およそ千五百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国唯一の大社と定められ、特に名神祭に預かる名神大社に列せられました。
御神徳:寒川大明神は相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神であり生業一切の守護神として敬仰されています。わけても八方除けの守護神として、地相、家相、方位、日柄、交通、厄年等に由来するすべての災禍を取り除き、福徳開運をもたらす御霊験あらたかな神様として信仰されています。(寒川神社パンフレットより)

江島神社(江ノ島神社)

当神社は三宮から成り、奥津宮に多紀理毘売命、中津宮に市寸島比売命、辺津宮に田寸津比売命をお祀りする。社伝の「江島縁起」等は欽明天皇13年(552年)の創建と伝える。「吾妻鏡」には寿永元年(1182年)源頼朝は祈願のため文覚上人をしてお岩屋に弁財天を勧請、江島明神と称えて参詣し幕府の祈願所とした。以降朝武の信仰を集めたが江戸時代に至り庶民の間に信仰が広がり江島詣でが盛んとなり江島寺、金亀山与願寺とも称し岩本院上之坊・下の坊があった。徳川家康はお岩屋に詣で社領を寄進している。明治初年の神仏分離により江島神社と号した。当社は江島弁財天として天下に名高く日本三大弁財天の一つであり財宝招福・学芸上達・夫婦和合・交通安全等の神として広く信仰されている。(境内掲示板より)

大山阿夫利神社(式内社)

 伊勢原市大山に鎮座する。山腹700mに拝殿、山頂本殿に「大山祇大神(オオヤマツミオオカミ)」、山頂奥宮に「大雷神(オオイカヅチノカミ)」、摂社の二重社に「高?神(タカオカミノカミ)」をお祀りする。古来より降雨などの農耕神他、商売繁盛・家内安全・海運交通の神として関東一円に信仰が広まる。”大山開導記”によれば明治初期の印旛郡の市町村数250に対し225もの大山講が設立されていたと記録されている。大山祇神は富士山浅間神社の御祭神である木花咲耶姫命の父神であり、よく浅間神社の境内社としてもよく見ることができる。また山頂奥宮の御神体は雨降石と呼ばれる霊石で石尊大権現とも称されていた。山麓から女坂を登り、雨降山大山寺の不動明王を参拝して中腹の拝殿、山頂の本殿奥宮へ参拝した。山頂からの展望は素晴らしくゆっくり登っても6〜7時間の半日コースである。
 大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。
 標高は1251.7mで関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり国御岳(国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには大漁の神として信仰をあつめると共に庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前1000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として国幣の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。引き目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが昔のままに伝承されている。全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人達に親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない。(境内掲示板より)