下野国


古峯(ふるみね)神社

 ご祭神は日本武尊、神使は”天狗”で神紋は”団扇”である。この社の特長は拝殿にあって、平入の細長い茅葺の建物で、唐破風が付けられていてそこが参拝口となっている。内部は広く御神体が納められた本殿(御神体は日本武尊の衣と云う)と続いて社務所やその付属施設等になっている。神使の天狗があちこちに飾られ、拝殿屋根にも天狗面を見る事ができる。日光山開祖の勝道上人の影響で仏教・修験道など、その他山岳信仰の形態を残しているものであろうか。
 現在では防火・交通安全・開運厄除・五穀豊穣・家内安全などの神様として崇敬されている。明治期以後の神仏分離をへて仏教の影響を除いた神社となるや、関東・東北・越後などに講中が激増し今も大型バスを連ねての参詣が絶えない。

(栃木県鹿沼市草久3027)

 今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道(しょうどう)上人という僧侶の修行の場となり、上人は古峯の大神の御神威によって、古峯ヶ原深山巴の宿において3ヶ年の修行の後、天応2年(782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。この縁起にもとづき、日光全山26院80坊の僧坊達は、勝道上人の修行にあやかって、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれました。古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などに代表する諸人の敬虔な信仰を集め、久しきにわたってその御神威を保って参りました。明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、仏具一切を取り除き、純然たる古峯神社となり、現在にいたっております。(古峯神社HPより引用)
 伝承によれば、祭神の臣下であった藤原隼人が祭神に従ってこの地に来て定住し、その子孫が宮司石原家であるという。(日本の神々11)

加蘇山(かそやま)神社 (三代実録掲載社)

鹿沼市にある石裂(おざく)山東北麓に鎮座する。この石裂山中腹の崖の裂目の中に本宮は鎮座する。麓から山に向って遙拝殿・里宮・中宮(廃絶)・本宮の配置となっている。遙拝殿には神楽殿も併設されていており、左の写真は里宮のもの。旧県社で御祭神は、磐裂命・根裂命・武甕槌男命、神紋は「三ツ巴」。境内の灯篭には天保12年辛丑(1841年)4月吉日とある。この前日光から、前日光にかけての一帯には磐裂命・根裂命をお祀りした神社が濃厚に分布しており、その特色となしている。神社脇から登山道が続き、杉の大木や千本桂と呼ばれる御神木などが見る事が出来る。石裂山には周遊登山道が整備されているが、今日もまだ尚、修験道の方が参拝されるようで”熊野修験”と書かれた木札などが石祠や月山山頂の社などに見受けられた。
(鹿沼市上久我1697)
 創立は不詳であるといえども、陽成天皇の御宇、元慶2年(878年)9月に神社を賜ったのは三代実録に明らかであり下野国加蘇山神社がこれである。往古は神領200余町歩を附され、加蘇野郷の総社として神官5名を置き奉仕させる。永承年間(1046〜1052年)源頼義、奥羽征伐の時、本社に戦勝を祈り、鎧・太刀を奉納したと言う。後、天文年間(1532〜1555年)、皆川城主、山城守広照は深く信仰し神馬並びに太刀を納めて武運を祈ったと言う。往古より土民の信仰があり、社殿はすこぶる隆盛であった。後、永禄年間(1558〜1570年)に至って久我式部というものが当村に館を築き、その勢いに乗じて本社の領をも没収し、村名も久我村と改称した。かくて本社はようやく衰退に赴いたが承応年間(1652〜1654年)一品親王宮が日光に御入山の際、当社の衰退を深く憂いたまい。本社及び世襲の神官を直として専ら保護される。毎年春秋二季両度の出役があって参詣人の取締をする。明治10年郷社に列せられ、社域64万754坪の大境内には老樹がうっそうとして繁茂する。なかんずく厳上に直立する古桧及び千本桂と称する二株がある。周囲35尺余り、いずれも千有余年を経過しているので神代木と称する。本社は高岳幽岳の中を登ること一里余り、険道をだどり鉄ばしごを踏み、ようやくにして本社前に至る。(上都賀郡誌)
 旧県社、創立年号は、詳細にはわからないが第49代光仁天皇(770〜781年)の御代に、勝道上人が開山したといわれ、磐裂命・根裂命・武甕槌命の火の神御分身の三柱を奉り、五穀豊穣を祈念して、農業の祖神を祭ってある神社という。(栃木県神社誌)

賀蘇山(がそやま)神社 尾鑿山(三代実録掲載社) 

栃木県神社誌には”かそやま”神社と記載されているが、地元粟野町の説明板には”がそやま”と記されている。上記の石裂山南麓に位置しているが、こちら側では石裂山を尾鑿(おざく)山と呼んでいるようだ。事実、賀蘇山神社の社号標にも「賀蘇山神社 尾鑿山」と刻まれている。旧郷社で御祭神は天御中主大神・月読命・武甕槌命と配神で大国主命と神社誌にある。境内社の大杉神社の切株は見事で、当時は樹高70m、幹の太さ14.8mで樹齢1800年余と推定されていたものである。写真は遙拝殿で境内の掲示板には「三間(約5.4m)四方の宝形造りで、正面に向拝一間を設けている。別名を下の宮ともいう。総欅造りで精巧荘厳な彫刻が四囲に配される。 元禄14年(1701年)に完成したこの遥拝殿は、実に60年の工期を要したといわれる。寛永11年(1634年)、日光東照宮を修築した日本屈指の棟梁、彫工たちによって寛永18年頃から着手、中には父子二代にわたり造営に当たった者もいたといわれ、その苦心のあとがうかがわれる。」とある。(鹿沼市入粟野713)
 寛永11年(1634年)、宝暦2年(1752年)、文政7年(1824年)の三度の火災にかかり古くから伝来した旧記がことごとく焼失し、今では判然としない。しかれ共、境内に神代杉と称する周囲四丈余りの古杉があったことを考えると幾年歳を経たか推して知るであろう。そもそも当社一帯の地が古く加蘇尾と総称し総鎮護神として尊崇されていた中頃、北加蘇尾は粕尾と称し、安蘇郡に属された。しかし加蘇尾と呼んだ起源を考えてみると社殿の建っている山内の奥に剣の峯と言われているものがある。そこに二つの巨岩がある。賀の石・蘇の石と称する。すこぶる怪石である。俗にしめなわかけ岩と呼ばれる。その次第は伊勢国二見ヶ浦の注連縄(原文には縄の代わりに”県”とある)岩をほうふつされるからである。賀蘇の字はこの二石の名を取った。春風秋雨二百歳連綿として祭りをおこたる事がなかったが、保元平治の頃に至り、天下麻のごとく乱れ世は修羅のちまたと化した余波を受け、本社もほとんど荒廃に任されたが、伏見帝正応2己丑(1289年)年、朝臣小野道綱は、上河原田村へ落居し、近里の人民を率いて参詣した。社殿の破壊を憂い、粟野・粕尾・上河原田村及び近里から寄附を集め、自己の出資を併せて大いに修理させたのでようやく旧に復した。慶長2年(1597年)6月領主結城中納言秀康が御再建する。その後社殿ふきかえ、粟野・粕尾両郷の氏子、山かやをかり、数千駄収納してこれに充てる。人夫も同じく務める。(上都賀郡誌)
 陽成天皇の元慶2年(878年)9月16日に「授下野国賀蘇山神従五位下」とあって社殿は慶長2年(1597年)6月に領主結城中納言の再建すと棟札にあり、その後栃木県、群馬、埼玉、千葉、茨城等各県の崇敬者の寄付金によって明治22年改築して今日に至っているが、寛永11年(1634年)、宝暦2年(1752年)、文政7年(1824年)の三回火災を起こし、旧記焼亡し、創立年月日も不詳。然れども境内中に目通周囲四五尺の神代杉又同年輩の杉の古株あるを以て考えるに齢千年を経たるや推して知る可きである。この杉は大正6年2月類焼を受け枯死、同年6月止むを得ず伐採し今は切株のみ保存してある。伏見天皇正応2(1289年)年4月朔日、、朝臣小野道綱都賀郡上河原田村へ落居、土人を誘い該社に参詣、奥社々殿、奥社来道の改修をした。その落成の日として爾来毎年4月1日を期して小野氏の子孫数十人登山旧儀古式今に伝統している。旧記、「賀蘇落穂」に該山内、剣の峯に賀の岩・蘇の岩と称える天造奇極の二霊岩突起するあり。賀とは五穀豊穣、蘇とは医薬長寿としてその念願を叶えたと。この名を採って賀蘇山の神と称えたと。当社は都賀、安蘇、両郡の分岐点なる為、神社名をとって郡名に用いたと記してある。(栃木県神社誌)