北神戸 丹生山田の郷
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丹生神社・明要寺跡 (*5) (*7) (*21)坂本関連リンク

丹生神社(写真下 丹生神社本殿)

丹生神社

丹生神社は標高 514mの丹生山(関連リンク名前の由来)山頂にある。

「山田郷土誌(第2篇)」(*21)他の資料では、「丹生神社と丹生氏の研究」(きのくに古代史研究会、インターネット検索した限りでは新書・古書とも入手不能) の著者丹生広良氏の説に基づいて以下の話を紹介している。丹生神社とその祭神丹生都比売命については、Webサイト「神奈備にようこそ!」(関連リンク)に詳しい解説がされている。

丹生神社の祭神である丹生都比売(にうつひめ)という女神は、北九州の伊都(いと)を発祥とし、水銀鉱業を生業とする丹生(にう)氏族の氏神である。水銀鉱業は当然大陸伝来の技術であり、丹生氏も大陸から移ってきた一族と考えられる。ホームページ「神奈備にようこそ!」(関連リンク)では、各種文献に基づき、紀元前5〜3世紀、呉越の戦いから秦による統一に至る中国の戦国時代に呉王女姉妹を奉戴し新天地の倭国へ向かった金属採取に長けた呉越の一族が丹生氏の祖であるとしている。 呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。

水銀の原鉱である辰砂(しんしゃ)は赤土であり、原始古代社会において炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられていた。水銀原鉱の産地のほとんどは中央構造線(解説)沿いにあり、丹生氏族も中央構造線に沿って豊後水道から四国松山、吉野川、阿波、淡路島、さらに紀伊まで進出して行った。この中央構造線に沿って丹生(にう)という地名が多く存在するが、この丹生が丹生氏族が水銀の生産を行った地であり、丹生(にう・にぶ)神社のある、または、あった場所である(関連リンク、全国に170社余りある丹生神社のうち80社が和歌山県にあり、兵庫にあるのは4社)。

この説に従うと、山田の丹生山も丹生氏が住みつき水銀を産した土地ということになる。実際、山田は古くから丹生(にう)山田の里と呼ばれ、「神功皇后(解説)が朝鮮半島の新羅へ侵攻しようとした時に『丹(に、赤土)を採って船に乗り武器や衣服にも丹を塗って戦えば戦に勝てるであろう』という丹生都比売命の神託に従うことによって戦勝した」という伝説(「播磨風土記」、丹生山と明示しているわけではない(下記註)) は、丹生氏族が一族の保護と引き換えに朝廷に霊力のある丹土(にど)を献上したという解釈になる。丹生山の「たんじょうさん」という呼称は山田の北側の淡河側の呼び方で山田側では昭和になっても戦前は「にうやま」と呼んでいた。

(註)播磨国風土記 逸文 明石郡
爾保都比売命(にほつひめのみこと、丹生一族の神?)
播磨の国の風土記にいはく、息長帯日女命(おきながたらしひめのみこと、=神功皇后) 新羅の国を平けむと欲して下りましし時、衆神にいのりたまいき。そのときに国堅めたまいし大神(イザナギ・イザナミ)の子、爾保都比売命(=丹生都比売命)、国造石坂比売命につきて、教えをのりたまわく、『(中略)』とのりたまふ。かくの教えを賜いて、此に赤土(あかに)を出し賜う。其の土(に)を天の逆鉾に塗りて、神の舟の艫(とも)舳(へ)に建て、又御舟の裳と御軍の着衣とを染めて、(中略)かくして新羅を平げ伏することすでにをはりぬ。

丹生広良氏によれば、神祇志に記載されている摂津武庫郡の丹生神社は「入比売(にゅうひめ)神社」となっていて、その入比売神社は、播磨風土記にも登場する著名神社である。即ち、山田の丹生神社はかつては入比売神社と呼ばれていた時期があったということになる。

「山田郷土誌(第2篇)」(*21)によれば、丹生神社は、延喜式内社(平安時代の延喜年間に制定された国法「延喜式」によって位階を定め、その神名帳とよばれる神社台帳に載っている朝廷公認の神社)でこそないものの仏教伝来(大和時代の552(欽明天皇13)年)以前に起源を持つ古社で、平清盛(解説)が福原京の鎮護として日吉山王権現を勧請してから長く山王権現と称して来た。山王権現は丹生山明要寺の鎮守社であったようだが、明治維新のときの廃仏毀釈(解説)で明要寺が廃寺となり、明治2年に丹生神社と改めた。

坂本入り口の鳥居

丹生神社へは、丹生神社前のバス停横の鳥居(写真左)から坂本の集落を抜けて、丹生山中の参詣道を登っていく。山道に入り竹林のトンネルを数10m進んだところに清盛が1丁ごとに建てたという丁石の山頂から24番目の丁石があり、「従丹生山廾四丁」の文字が刻まれている。以下、1丁ごとに「従丹生山ニ丁」までの丁石が続き、二の鳥居手前の「自丹生山丁」の丁石で終わる。清盛が建てたといいながら南北朝以降のものといわれており(*5)、また見た眼にも彫り跡の鮮明な丁石も多く新しさを感じさせる。丁石のなかで唯一道標を併記している11丁石の道標は「左丹生山 右淡河町」と彫られている。「山田郷土誌(第2篇)」(*21)では、明和7(1770)年修復となっているが、淡河が町になったのは神戸市に編入された昭和33(1958)年以降のはずでは? いずれにしても参詣道の丁石は最近の物がかなり混じっているのかもしれない。

丹生神社社務所

二の鳥居から数10mの坂道を登りきると右手に石段があり、その上にかなり大きめの社務所(写真右)が建っている。さらに左側に第2の石段があり、石段を登りきると前方に拝殿がある。拝殿の前には、風雨にさらされて痛んだ本殿の修理と拝殿の改築を平成5(1992)年に行った旨の石碑が建てられている。

「山田郷土誌(第2篇)」(*21)によれば、本殿が春日造、幣殿と拝殿が切妻造となっている。見た感じでは拝殿は切妻の日吉造(ひえづくり)のように見える。(本殿・拝殿・幣殿・社務所などの用語(関連リンク)春日造・切妻・日吉造などの建築様式(関連リンク)

丁石

(写真)左から24丁石、11丁石、11丁石の道標、山頂の丁石

丹生山明要寺(写真下 明要寺跡の碑)

明要寺跡

明要寺は、「丹生山縁起(解説、江戸時代の元禄13(1700)年に書かれたとされている)によると541(欽明天皇2)年、百済(くだら、ペクチェ、解説)聖明王(せいめいおう、=聖王、在位523-554)の王子童男行者(どうだんぎょうじゃ)が開いたとなっている。この聖明王は、日本に仏教を伝えたといわれている百済王朝第26代の王で、童男行者はその王子恵だとされている(*21)

(明要寺の開基がいつの頃かを確実に推定する文献上の手懸りは今のところないが、丹生山の山間にみられる須恵器、土師器などの遺物からおそらく奈良時代においてすでに播磨の文化圏の一角に位置する著名な寺か修行所であったと推定される(*32)。)

百済が大和朝廷(解説)と国交を開いたのは朝鮮半島で百済・高句麗(こうくり、コグリョ、解説)・新羅(しらぎ、シルラ、解説)が三国抗争を繰り返していた6世紀初頭(日本書紀を引用した百済記などでは大和王朝が朝鮮南部の加羅や西部の百済と国交を開いたのは弥生時代の366・367年でその後5世紀末までに5回朝鮮出兵し百済や新羅を討伐したことになっている。北九州または朝鮮南部とみられる倭国については朝鮮・中国の資料に4世紀から朝鮮半島との接触の記録がある)で、第25代武寧王(在位501-523)時代には、朝鮮南部の加羅(カラ、任那(みまな、イムナ)、解説)諸国の支配権をめぐっての新羅との対立打開のため大和朝廷と国交を開き、外交・軍事的支援を得るため513年から儒教文化を組織的に提供、聖明王に代った538年に高句麗・新羅の連合軍と対抗するため大和王朝に仏教を伝え仏像経綸等を提供して救援軍派遣を要請した。大和王朝は百済からの文物にひかれ百済を支援したがその軍事力は三国抗争に影響を与えるほどではなく、554年に聖明王は新羅軍との戦いで戦死した。聖明王の子の威徳王(第27代)は大和王朝の救援の遅れが聖明王の戦死の原因と考え対日外交を中止したが、大和王朝が加羅諸国との復興政策を採ったので597年に王子阿佐を派遣して大和王朝との国交を再開・強化した。翌598年に第28代恵王が即位している。 「山田郷土誌(第2篇)」(*21)では、この恵王は明要寺を建立した童男行者=王子恵が帰国して即位した可能性を示唆している。

明要寺伝承では、赤石(明石)に上陸した王子恵は一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、勅許を得て丹生山を中心として堂塔伽藍10数棟を建てた。従って平清盛が福原京から続く参詣道を整備するまでは、丹生山の表参道は丹生山の北側戸田から登る道であった。丹生山の東の山には奥の院を建立して梵帝釈天を安置したためこれが山名に転じて帝釈山地図と呼ばれるに至った。恵は童男行者と称し、自坊を百済の年号を採って明要寺または舟井坊と呼んだ。

恵が丹生山を目指したのは伝承では、童男行者=王子恵が赤石(明石)に上陸したときに現れた老翁が投げた独鈷(仏具の一種)の行方を追ってたどり着いたことになっているが、もしかしたら同じ大陸に起源を持ち、丹生神社を建てたと思われる丹生氏との関連があるのかもしれない。なお、同様な伝承は三木市志染の高男寺他、東播地方にひろく伝えられている(*32)。さらに、別の伝承(『峯相記』(解説))として、丹生寺観音を法道仙人(解説)が開創したというものもあり、この法道仙人も播磨・摂津の諸寺を開基したという伝承を残す伝説の人物(*32)

恵は多くの技術者も引き連れてきており、彼らによって播磨地方に古くから鍛冶や寺院建築などの木工技術が伝えられたとされている。恵が実在したか否かはともかく、東播地方は古代において朝鮮半島からの渡来人が新技術をもって生活・繁栄したところであり、山田川の河谷にもその勢力が及んでいた可能性がある(*32)

その後、衰微の時代を経て平清盛(解説)が丹生山を比叡山(鞍馬山の説もある)にみたてて明要寺を復興し日吉山(ひえさん)権現を祀って参詣したと伝えられる。上述の山頂までの参道の丁石はこのとき福原の都を起点に清盛が1丁ごとに建てたと言われている。

南北朝から室町にかけて、明要寺は戦乱に巻き込まれていった。鎌倉幕府倒壊(元弘3年(1333年))に尽くした割りに論功行賞が少なかった播磨の赤松円心(則村)(解説Wikipedia )は建武の新政(建武元年(1334年))の破綻を期に足利尊氏につき、明要寺にこもった新田義貞(解説)の一族の金谷氏と戦い、結果、東播と西播の南部を制することとなった。(*33)

戦国時代に到り、明要寺は三木の別所氏に味方した事から1579(天正7)年、羽柴秀吉に僧坊・堂宇を焼き払われ数千人の僧・稚児が焼死した

なお、原野にある稚児が墓山は、落ち延びる途中に殺された稚児達のなきがらを里人が埋めたことから命名された。

明要寺はその後秀吉自身によって復興されたが、往時の繁栄を取り戻すことはできず、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となった。このとき残っていたのは童男行者=王子恵が自坊とした舟井坊だけであったという。

現在は、丹生神社二の鳥居手前数10mの台状の土地に兵庫県の建てた石碑が残っている(写真)。

丹生祭

丹生祭 神事

毎年5月5日には丹生神社の申(さる)祭が行われる。

猿が丹生神社(境内にある日吉神社?)の神の使いとされていたことからの名前らしく、かつては旧暦4月の申の日に行われていたという。(*21)。播州攻めの際に明要寺を攻め滅ぼし、その後再興を許した羽柴秀吉にも因んでいるのかもしれない。

丹生祭 小学生の奉納相撲

午前中の本殿・拝殿での神事(写真左)の後、昼から地元の小学生(山田小学校)による奉納相撲(写真右)が行われる。

昔から丹生祭の奉納の田舎相撲は有名で、山田だけではなく三木、志染、淡河、吉川など東播一帯から力士が多く集まり力と技を競っていたらしい。(*21)。今は、多分、こどもの日の行事ともあわせて小学校の協力の下に行事役も先生が勤めるようになったのだろう。

なお、丹生祭のある5月5日には、麓の坂本にある丹生宝庫も年に1度の公開日で、平安末期に2千の僧兵と幾多の堂塔伽藍を擁していた頃の丹生山の偉容を伝える明要寺全図や豊臣秀吉、小野道風などの書や遺品を見ることができる。

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