北神戸 丹生山田の郷
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藍那(あいな、 約8.0Ku、地図名前の由来(*21)(*23)(*26)

東は星和台、鳴子から、西は神戸市西区の押部谷町までの地域に広がっている。現在の山田で最大の耕地面積を持っている集落で、須磨区の白川集落のすぐ近くまで田畑が広がっている(境は接していない)。

中央北部に、神戸電鉄の藍那駅がある。また、東側に阪神高速の藍那ICがあり、西側は山陽自動車道と神戸淡路鳴門自動車道の両方の起点である神戸西ICに接している。

藍那小石造の七本卒塔婆をはじめ、まだ充分な解明がされていない遺蹟が多く、その意味では一種の秘境といってもよい地域であるが、諸説ある源義経の鵯越への進軍路のいずれもが藍那を経由しており、この故事に因んだ地名が多い。義経は東下の鷲尾三郎の案内で写真左の藍那小関連リンク)の裏の藍那道(別名義経道)から藍那の村落に下りてきて、藍那の辻、相談ヶ谷(いずれも写真下)を通り鵯越の奇襲に向った。

藍那を起点とする丹生山系27Km縦走路は、義経とは逆に藍那道を丹生山まで北に向い、東に転じて神戸電鉄岡場駅まで続く。

写真左下は藍那の辻の道標(右「あいな」左「みき」)、下中央は藍那の辻から数メートル西に入ったところにある宝篋印塔(解説)、右下は相談ヶ谷(義経軍は写真奥から登場してこの場所で軍議を行ない兵を一の谷と鵯越方面に分けたと言われる)

藍那の辻の宝篋印塔は南北朝時代の建立と思われ和泉式部の墓と言う伝承もあるらしく、藍那駅東側にある南北朝時代(永和2年(1376))建立の宝篋印塔が紫式部の墓であると言われているのと対をなす伝承だが、いずれも誤伝((*26))。

藍那の辻の道標藍那の辻の宝篋印塔相談ヶ谷



《社寺・史跡》(*21)

天津彦根神社(八王子宮、創立不詳、建築 享和年間(1801-1804)?)

参道には延宝6年(1678)の石灯籠がある。また境内には、明治初年建築の農村歌舞伎舞台(写真)がある。

《藍那八王子宮農村歌舞伎舞台》

農村歌舞伎舞台(以下、現地掲示板より:原文通り)

 明治初年に建築された間口7.9メートル、奥行は5メートルの入母屋造茅葺の舞台である。
 藍那には本舞台のほかに厳島神社と釈迦堂に農村歌舞伎舞台があったが、厳島神社の歌舞伎舞台は廃絶、釈迦堂の舞台も昭和40年の台風23号により茅葺の屋根を飛ばされてしまったため、今現在も昔の形を残すのは本舞台のみである。

藍那里づくり協議会

大中寺(開基 明応9年(1500))

参道石段の途中に天文8年(1539)の五輪塔3基や天明7年(1789)の地蔵尊坐像、大乗仏典の一石一字塔などの石造物が並んでいる。

七本卒塔婆七本(卒)塔婆(南北朝末期)

由来不明。丹生山の登りに並ぶ丁石(解説・写真)に形が似ていることからその予備だったのではないかと言う説や昔このあたりにあったという西福庵という寺の寺域にあったのではないかと言う説などがある。同じ場所には他にいずれも南北朝時代と思われる宝篋印塔や五輪塔などの石塔がある。

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