北神戸 丹生山田の郷
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北神戸 丹生山田の郷 地名の由来

惣山町・山田町一帯

+ 藍那(あいな、山田町/藍那異説・小部
摂津国の西端、播磨国との間にあることから古くは相野と呼ばれ、後に藍野、転化して藍那となった(*26)
異説として、 「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*20)によれば、戦国時代後期に千利休に師事した七哲の一人、小部出身の芝山鑑物(向井宗鉄、手水鉢の考案者)が、小部に戻って手水鉢を製作するため丹波の相野から職人を呼び、現在の藍那に住まわせたのが、藍那の語源(相野->藍野->藍那)
+ 小部(おぶ、山田町小部異説・小部
「山田村郷土誌」(*20)によれば、山田川流域の地域を谷通りと称したのに対し、尾通りにあたる部落を尾部、転じて、小部と称した
+ 北五葉・南五葉(きたごよう・みなみごよう、山田町
山田町小部の旧字名「五葉松」から命名(*26)
+ 君影町(きみかげちょう、山田町
鈴蘭台にちなんで、スズランの異名「君影草」から命名(*26)
+ 修法が原(再度公園)(しおがはら、惣山町/周辺
弘法大師(空海)解説)が再度山の南のこの地で修行したのでこの名前がついた
+ 鈴蘭台(すずらんだい、鈴蘭台山田町小部
昭和5年、神有電車(神戸有馬電気鉄道、現 神戸電鉄が乗客増加を狙い、当時の小部駅周辺を別荘地として売り出すため小部駅を鈴蘭台駅と変更した(駅名公募)。健康の花言葉「スズラン」が別荘のイメージにあうとして選ばれたという(*23)
+ 星和台(せいわだい、山田町
星和台の開発を行っている新星和不動産にちなんで命名。新星和不動産は日本生命(日生)の子会社(「星」=「日」+「生」)(*26)
+ 惣山(そうやま、惣山町
「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*20)によれば、藤原純友(解説)を討伐後に、帰路小部の地で没した右大臣橘遠保(たちばなのとおやす)の後裔(小部に土着)で、戦国時代に一向宗(解説)河内36人衆といわれた橘(向井)惣山宗近から名づけられた(それ以前は走折山または岡山といったらしい)ということになっているが、「惣」には村の意味もあるのでただ単に「村の山」の意味かもしれない。
+ 帝釈山(たいしゃくさん、丹生神社・明要寺山田町/坂本丹生山系縦走
丹生山明要寺伝承では、百済聖明王の王子恵が丹生山を中心として堂塔伽藍10数棟を建てたのが明要寺の始まり。この時丹生山の東の山には奥の院を建立して梵帝釈天を安置したためこれが山名に転じて帝釈山と呼ばれるに至った。
+ 谷上、上谷上、下谷上(たにがみ、山田町/上谷上山田町/下谷上
「山田村郷土誌」(*20)によれば、山田で最初に発生した集落である原野の谷の上手に当り、下流側が下谷上、上流側が上谷上となった
+ 丹生山(たんじょうさん、丹生神社・明要寺山田町/坂本
大和朝廷の時代、朝鮮半島を侵略しようとした神功皇后(解説)が諸所の神を集め祀って戦勝を祈願した際、ある神の「六甲の北の山から丹(に:赤土)を採って船、武器、衣服に塗って戦えば戦に勝てるであろう」という言葉に従って皇后が丹(に)を採ったことから丹生山と呼ぶようになったと言い伝えられている。
+ 稚児ヶ墓山(ちごがはかやま、丹生神社・明要寺丹生山系縦走山田町/原野
織田信長の時代、1579年、信長に敵対した三木の別所氏に味方したこの地域の豪族や、丹生山明要寺などは、羽柴秀吉の軍団の激しい攻撃にさらされた。戦闘で明要寺から北東の尾根づたいに帝釈山の東まで逃げてきた大勢の稚児達がこの山で秀吉方の武士に切り殺されたためこのように呼ばれるようになった。村人が墓に供える花を手折った稚児ヶ墓山の東の峰が花折(はなおれ)山となった。
+ 衝原(つくはら、山田町/衝原
山田の最西端にあたり、原野の西、山田川(志染川)が狭隘部に突き当る辺りという意味で衝原(つくはら)となった
+ 天王谷(てんのうだに、有馬街道
平安時代初期の貞観11年(869年)、播磨の広峰山(姫路北方)の広峰社から、祇園牛頭天王(解説)が分神されて山城(京都)の祇園、八坂神社に迎えられた。この途中、神輿(みこし)が広峰社で学んだ徳城坊阿闍梨(解説)のいた平野(兵庫区、有馬街道沿い)の「上の寺」に泊まった。そこでこの寺も祇園さん(関連リンク)として牛頭天王が祭られるようになり、その麓の現在有馬街道に沿って流れている谷川を天王谷川と呼ぶようになった(*16)
+ 鳴子(なるこ、山田町
山田町小部の旧字名「成子谷(なるこだに)」から命名(*26)
+ 花折山(はなおれやま、丹生山系縦走山田町/原野
稚児ヶ墓山参照
+ 東下・西下(ひがししも・にししも、山田町/東下山田町/西下
すでに集落が発生していた原野中(中村)福地の西側、つまり谷の下手が下村となり、下村が東と西に分かれて東下、西下となった
+ 福地(ふくち、山田町/福地
無動寺の前身である福寺(創建の頃は普救寺(ふくじ))の寺領が独立して一村となり、福寺の土地、つまり福地といったのが村名の起こり
+ やきもち地蔵(焼餅地蔵)(やきもちじぞう、山田町/下谷上有馬街道
現在の山の街の有馬街道添いで、山田川上流の地。石積みの緩んだ土橋の修理をするように夢枕に立ち、その石積みの中から出て来たというのが由来。ちょうど正月のことだったため餅を焼いて供えたので焼餅地蔵の名がついた。一時紛失し、再度作ったが、その後元の地蔵が盗んだものによって戻されたため現在、2体ある。
+ 与左衛門新田(よざえもんしんでん、山田町/与左衛門新田
幕末に上谷上、下谷上、原野の3ヶ村入会地に3ヶ村の4人が出資してこの地に新田を開墾したが、村方の同意を得ていなかったため、明治維新に訴訟が起こり、仲裁した横屋村(東灘区役所付近?)の松田與左衛門預かりとなったのが地名の由来(松田與左衛門が開拓したとの説(*26)もある)。その後、上谷上下谷上原野3ヶ村の共有地となっていた。

惣山町・山田町の周辺

+ 岩倉山(いわくらやま、六甲全山縦走/岩倉山
神が座す磐座(いわくら)に由来(*14)
+ 唐櫃(からと、清盛の参詣道
大和朝廷の時代、朝鮮半島を侵略しようとした神功皇后(解説)が帰国後、この村のヌノドの森の石祠の地下に黄金の鶏を石の唐櫃(からびつ)におさめて埋め、ここの村が衰退すればこの金の鶏を堀り出して村の復興をはかるように命じたことから、唐櫃(からと)の地名がついた
+ 菊水山(きくすいやま、六甲全山縦走/菊水山
昭和10年に楠木正成(解説)没後600年の記念に神戸市が楠木正成の家紋、菊水の形に松を植樹したのが名前の由来。元は烏山。
+ 神戸市(こうべし)
生田神社の「神戸(かんべ、解説)」より命名。
+ 高取山(たかとりやま、六甲全山縦走/高取山
長田区の民話によれば、昔洪水で山全体が水没した後に大きな松の木に足を絡ませていた蛸を捕って帰った。 このときから「タコ取り山」と呼ばれるようになったとさ(*16)
+ 呑吐ダム(どんどだむ、山田のダム/呑吐ダム
呑吐ダム上流の山田川(志染川)上流に大小の滝がが川の水を呑んで吐くことから「呑吐の滝」と呼ばれていた。このことから名付けられた
+ 旗振山(はたふりやま、六甲全山縦走/旗振山
かつては兵庫の米相場を岡山に伝達する旗振通信の旗振場だったことから命名された(*14)
+ 再度山(ふたたびさん、六甲全山縦走/再度山
再度山の名は弘法大師(解説)が大龍寺参詣のため2度登ったことに由来しているという。
+ 船坂(ふなさか、六甲全山縦走/船坂
平安時代に土砂崩れで湯の湧き口も埋もれてしまっていた有馬温泉(関連リンク)の再興を熊野権現から命じられた僧、仁西(伝説的人物)が船坂で湯船を作ったので、坂の多いこの集落に船坂という地名がついた。
+ 摩耶山(まやさん、六甲全山縦走/摩耶山
伝説では法道仙人が1300年以上前に霊場を開き、その後唐で学んだ弘法大師(解説)が摩耶夫人(釈迦の生母)をとう利天上寺に祭ったのがこの山の名の起こり(*14)
+ 譲葉山(ゆずりはやま、六甲全山縦走/譲葉山
神前に祭るユズリハ(解説)に由来(*14)
+ 六甲山(ろっこうさん、関連リンク六甲全山縦走
よく言われている通説は、神功皇后(解説)伝説。曰く
 神功皇后の朝鮮遠征の帰路、九州で産んだ王子(後の応神天皇)が帝位を継ぐことを恐れた兄の香坂(かぐさか、かごさか(かごは鹿の下に弭を書く難しい字))・忍熊(おしくま)の2王子が皇后一行を襲ったが逆に征伐され、香坂・忍熊をはじめとする首謀者6人の首が兜(=『甲』)とともに山中に埋められた山を六甲山と呼ぶようになった。そのために六甲山には一ノ岳?など合計6つの高い峰がある。(*14)(*16)
 しかしながら、六甲山に『六甲』の字が使われるようになったのは江戸時代であるらしく、奈良・平安時代では万葉集などで、「牟古山」・「務古山」・「六児山」などの表記で「ムコヤマ」と呼んだものと考えられ、これに神功皇后伝説をはめ込んだという説も多い。このムコヤマのムコは、麓の武庫之荘、武庫川などと同様の地名の転化であるとされる。
このムコの由来にも各説あり、支持が多いのは、
 大和時代に大和や難波宮(7世紀頃造営)から見て大阪湾あるいは淀川の「むこう」が「ムコ」、淀川の「こっち」が「河内(かわち)」
というもの。これ以外にも古代日本人のルーツと同系のポリネシア(南方系)、アイヌなどの言葉からマオリ語の 「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」や、アイヌ語の「ムク」という植物が語源であるとする説などがある。(関連リンク

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