北神戸 丹生山田の郷
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北神戸 丹生山田のダム

(*23)

山田のダムの地図

山田には、石井ダム、天王ダム、山田池の3つのダムと隣接する三木市の呑吐ダムのダム湖であるつくはら湖がある。

天王ダムは、昭和56年完成の治水(洪水調整用)ダムで、石井ダムも一昨年完成したばかりで試験湛水中の同じく治水(洪水調整用、国交省管轄)ダム。この2つのダムは、過去何度かの水害の教訓として、神戸市内を集中豪雨の被害から守るために建設された。またこの2つのダムは平常時はほとんど水がなく、リクレーションや観光の場を提供するダムでもある。

一方、一見一番山田らしく思える呑吐ダム(実は所在地は三木市)と、その南側の山田池は、東播平野を旱魃からまもるための灌漑用ダム(農水省管轄)で、常時水を満々と湛えるダム湖を有している。山田池はなんと昭和8年完成で、土木学会の「日本の近代土木遺産〜現存する重要な土木構造物2000選 」に選定されている。呑吐ダムは平成2年竣工で、このダム建設のために衝原の集落が湖底に沈み、住民は貴重な文化遺産である箱木千年家とともにその東側の高台に移転することとなった。

山中にひっそりと佇むノスタルジーのダム「山田池堰堤」
(昭和8年(1933)竣工、衛星写真、ダムの諸元等については関連リンク参照)

山中にひっそりと佇むノスタルジーのダム「山田池堰堤」癒しのダムとタイトルしようかとも思ったが、薄っぺらい感じがして、ありきたりではあるがノスタルジーとした。

昭和8年(1933)に竣工したこのダムは地元民にもほとんど知られることなく、山中にひっそり佇んでいる。もちろん休憩所もなく自動販売機もなく、細いハイキングコースを登ってたどり着いた訪問者を作られたときそのままの姿で静かに迎え入れる。

前述したように、山田池・呑吐ダムは印南野(いなみの)と言われた東播平野(加古郡、明石市、加古川市あたり:地図で見ると無数の溜池が点在している)の水不足解消のために建設された。山田を流れる山田川(志染川)は江戸時代以来、その豊富な水量から水利に乏しい印南野の人々から灌漑用の水源として期待されていた(明治の中ごろ山田村全体で精米・製粉や線香・氷豆腐作り用の水車が46台設置されていた)。しかし、その工事の困難さから一旦は見送られ北の淡河川から取水する淡河川疎水が明治25年に完成したものの、印南野の水田化、入植者の増加により再び水不足は慢性化し、坂本を水源とする山田川疎水を建設、大正4年(1915)に今の三木市志染の広野で淡河川疎水に合流した。それでも水不足は解消せず、昭和8年(1933)山田池が竣工し山田川疎水に水を通すに至った。(*23)

下から見た「山田池堰堤」このダムは、土木学会の「日本の近代土木遺産〜現存する重要な土木構造物2800選 」なるものに選定されているらしい。どのような選定基準かは知らないが、この山中に静かに佇むダムとダム湖の風景は確かに一見に値する。関連リンク(の更にリンク)にふんだんに写真が掲載されているので是非ご覧いただきたい。(右の写真はリンク先のHPでもあまり掲示されていないダムの正面の写真。写真左上および上のダム湖の写真の中央右に移っている設備は、手動の取水バルブのある取水塔屋)

《山田川疎水》
地図右(東)端を基点に、つくはら湖南岸(山田池の北)から東広野ゴルフ倶楽部を抜け、広野ゴルフ倶楽部(三木市志染町広野)で淡河疎水と合流。地図の左上に淡河疎水が見える。

衝原の歴史を呑み込んだ「呑吐ダム」
(平成4年(1992)竣工、衛星写真、ダムの諸元等については関連リンク参照)
衝原の歴史を呑み込んだ「呑吐ダム」呑吐ダム正面

水深140m(呑吐ダム)山田池竣工後も東播平野からの水の欲求は止むことなく、ついに27年後の昭和35年(1960)に呑吐ダム計画が表面化し、30年弱の年月をかけて平成4年(1992)竣工するに至った。このダム建設によって「歴史と伝説の里つくはら、山の幸、野の幸多きつくはら、渓谷美あふるるつくはら、この衝原は今ここに一変し、8000町歩の農水と日々50万人の上水の水がめと化す。33戸の陋屋と80町歩の緑野は、思い出とともに湖底に眠る」(昭和53年(1978)「衝原地区開解村式」解村の辞)こととなった。

南北朝(14世紀ごろ)に建てられた箱木千年家をはじめ20戸ほどの民家、寺社は東側の高台に移転し、箱木千年家は移築・修復されたが、江戸時代18世紀から19世紀にかけての民家は残ることなく湖底に没した。

呑吐ダム脇の道祖神今、呑吐ダムのダム湖となったつくはら湖はサイクリングコースとなり、湖上を山陽自動車道が跨いでいる。下流から見た巨大なダムはその威容を誇示し見たものに威圧感を与えている。東播平野にもたらされた水の恩恵が歴史と伝統の里と人々の思い出の犠牲の下にもたらされていることを忘れてはならないだろう。

関連リンクに示されているところでは、呑吐ダムの名前の由来は、(衝原を呑み込んだということではなく)山田川上流に大小の滝が川の水を呑んで吐くことから「呑吐の滝」と呼ばれていたことから名付けられたということであり、山田池の記事でも触れた山田川の水量の豊かさを示している。

住宅街のダム「天王ダム」
(昭和55年(1980)竣工、衛星写真、ダムの諸元等については関連リンク参照)
住宅街のダム「天王ダム」天王ダムの裏側

小部トンネル銘板平野(兵庫区)から有馬街道(国道428号線)を車で10分ほど登ったところにある小部トンネル入り口左側の林間に天王ダム(写真左)が垣間見える。更に480mのトンネルを抜けると前方および左側の低地の向こう側に住宅地が広がり、左下方の低地には天王谷スポーツガーデンの看板とテニス場や野球のグラウンドが見える。このスポーツガーデンが通常時は水のない天王ダムのダム湖スペースである。ダム湖の底に道があり、上流側からダムのすぐそばまで近寄れるというのはあまりないだろう。

豪雨の時に石井ダムと連携して、神戸市内の水害を防止する目的で建設されたダム。

天王ダムの地蔵尊スポーツガーデンのあたりは水呑(みずのみ)という地名で、名前から推察できるようにかつての街道(天王谷越)を往来する旅人の休憩地となっていた(有馬街道参照)。明治初期に街道は有馬街道として整備され、そのルートは現在の天王ダムのある場所を通っていた(ちょうど右上の写真の左側の道のあたり?)が、神戸市街地の水害防止のために天王ダムが建設されることになったときに迂回ルートとして小部トンネルが建設された(昭和48年(1973))。

右の写真の地蔵尊は、天王ダム建設の際に水呑バス停の場所に移設されたと説明板に書かれている。多分、元々はダム湖の底部にあったのだろう。説明板によると「奉供養万人本願 元和十年(1624)甲子一月 福地村地蔵院結衆中」と彫られていると言う。江戸時代の険しく危険な天王越の往来の無事を願って作られたものだろうか。小部でなくこの場所からは直線でも5Km以上離れた福地の村人が安置したらしいのが不思議ではある。

関連リンクの記事によると上部の穴に沿って天端側水路(てんばそくすいろ、ダム用語)なるものがあるのが珍しいらしく、これがあるため、上流側からは穴が8つ、下流側からは穴が2つ見えるようになっているらしい。

車窓のダム「石井ダム」
(平成17年(2005)竣工、衛星写真、ダムの諸元等については関連リンク参照)
車窓のダム「石井ダム」石井ダム

鈴蘭台から新開地に向かう神戸電鉄の電車がトンネルを抜けてすぐ、ほんの5秒間ほどだが、右手に真新しい白いダムがその勇壮な姿を現す。(このトンネル(菊水山トンネル)自体が、石井ダム建設のための神戸電鉄の迂回ルートとして建設された)

昭和13年(1938)と昭和42年(1967)の新湊川の氾濫による神戸市街の水害を契機に、天王ダムとともに計画されたダムで、100年に一度の豪雨にも耐えられる設計とのこと。現在はまだ試験堪水中ということらしいが、実際に大雨が降ったときの車窓から見た風景は一体どんな状況なのだろう。なお、新湊川の氾濫は平成9年(1997、台風7号)、10年(1998、梅雨前線)でも石井川と天王谷川の合流地点の菊水橋からやや下流の東山商店街(湊川市場)付近で繰り返され、上流域(北区?)での大規模宅地開発の影響を指摘する声もあるようで、本当に石井ダムの完成で水害がなくなるのか???のところがある。

このダムは全国的にも珍しいリクレーション機能をあわせ持つダムとなる予定で現在整備工事が進められている。石井ダムへは神戸電鉄の鈴蘭台駅方面、鵯越駅・菊水山方面から道が出来、ダム正面の階段を昇って堰堤に達する。堰堤から鈴蘭台方面へ向かう途中の橋の上からは、かつて烏原道を行く旅人を見守った妙号岩(「清盛の参詣道」参照)がダム湖を見下ろしている。

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