箱木千年家 (*5) (衝原、 関連リンク、 山田町の歴史的文化財)
箱木家の古文書によれば平安初期の806(大同元)年に建てられたと記録にあるため"千年家"と呼ばれているが、呑吐ダム建設の際の1977(昭和52)年から2年がかりの移築の際の解体調査で、14世紀頃(鎌倉〜南北朝)の我が国最古の民家である「母屋」と江戸中期に改築した「離れ」を江戸時代末期に一つの棟に収めたものであることが判明した。
箱木家は衝原氏と称し藤原鎌足(解説)の末裔といわれるこの地方の土豪。戦国時代、別所家の家臣である衝原与一左衛門藤豊は三木城で羽柴秀吉の軍勢と戦い討ち死に。三木城落城後、箱木家は衝原で代々庄屋を勤めた。
写真正面が14世紀頃に建てられたと考えられている母屋、向って左側の建物が江戸時代中期に改築された離れで、江戸末期には母屋と離れの間に2室を建てこんで一つ棟に納めていたが、移築に当って元通り母屋と離れを分離して復元再築された。
箱木家住宅(現地掲示板、原文通り)
(国指定重要文化財)
指定年月日 昭和42年6月15日
一般には「箱木千年家」の名で知られています。
箱木家は古くからこの地方の土豪であったと伝えられ、代々庄屋を勤めた家柄です。
現在の建物は、呑吐(どんと)ダムの建設に伴い、昭和52年7月から54年3月にかけて移築工事が行なわれ、従来のところから数十メートル離れた高台に建っています。
移築の際に行なわれた解体調査及び敷地発掘調査により、現存する日本最古の民家であることが確認され、加えて14世紀頃に建てられた「母屋」と、後に建てられた「離れ」とを江戸時代末期に一つ屋根の下に納めた合成建物であったことも明らかになりました。
現在は「母屋」と「離れ」を建築当初の形に分離して再建し、築山、中庭、納屋、土蔵等を移築前と同じように配しています。
平成4年3月
神戸市教育委員会
(写真右)箱木千年家離れから、西方の衝原湖を望む
昭和52年に呑吐ダム(つくはら湖)ができる前は、箱木千年家は現在地の70m西、現在のつくはら湖の湖底にあった
(写真上)箱木千年家離れから、築山を望む
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