北神戸 丹生山田の郷
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東下(ひがししも、 約2.7Ku、地図名前の由来(*21)(*26)

鷲尾氏屋敷跡 山田川とクロスする様に南北5Km、東西1Kmに展開する細長い地域で、旧の下村が西下と分かれた東側の地域。

平家追討のため鵯越に向う源義経を先導した鷲尾氏の地であり、また「山田の菊」(東下の菊)発祥の地。また、火の玉や蛇婚伝説などの話も多く残っているという。

鷲尾氏の屋敷は、東下から藍那に向かう藍那道が山道にかかる手前の左手にある石灯籠(写真右・下(灯明))とその南の鷲尾山の間にあったと言われ、現在は田圃になっている。鷲尾氏の子孫は現在下谷上の箕谷付近におり、弁慶(もちろん伝説の人物、解説)の長刀・自筆の書などを伝えている。後述の福田寺が鷲尾氏の私寺であり、墓所は東下のバス停丹生神社前の南方の山上にあるがあまり古いものはない。戦国末期に織田信長に背いた御着城主小寺政職に属したためとも言われている。(*21)

大神宮灯明菊は北区の花にも選ばれているが、神戸市で菊の栽培が始まったのは明治40年頃山田町東下の西田広一氏が、「白ともえ」という品種の苗を自宅の庭に植えたことがきっかけだったと言われている。昭和初期には東下から山田町の各地域に広がり、昭和8年に始まった神戸みなと祭りの花自動車の飾り付けにも使用された。戦争で一時減少したが、山陰でひそかに作り続けられた菊苗によってその後復活し,昭和30年にピークを迎え東下を中心に生産者183人になった。今では高齢化が進み生産者は減っているが、山田の地形からくる昼夜の温度差と適度の乾燥条件を生かして栽培されており、一本の茎に二輪咲かせる二輪菊など近畿はもとより全国でも特に有名。

東下には怪奇伝説が多いことが、「山田郷土誌(第2篇)」(*21)に書かれている。

《社寺・史跡》

七社神社 流鏑馬七社神社(写真右、関連リンク)(室町期)

明要寺(解説)建立以前は丹生山にあり山田全村の鎮守社であったが、明要寺建立に当たって百済の童男行者の勧奨で下山し当初西下に移され、その後現在地に再度移された。
 毎年10月の六條八幡神社の流鏑馬神事では、輪番に当たった部落がまず七社神社前の参道で流鏑馬を行った後、六條八幡までの道程を烏帽子束帯姿や、太鼓、騎乗した射手、流鏑馬の的、挟み箱を担いだ行列が太鼓と「けやり唄」に囃されながら練り歩く。(写真は神社境内を騎乗で進む流鏑馬の射手)

室町期建築の社殿は山田で最古最大で、元禄16年(1703)に作られた鳥居も石造としては山田で最古最大で、左右に天満神社、天一神社を従え、歴史を経た風格を感じさせる神社。

境内に規模の大きな農村舞台があったが、明治の終わりに解体された。

福田寺(ふくでんじ、天暦5年(951) 開山創建、写真は境内社)

福田寺境内社寺の開基が源義経の先導をした鷲尾義久の父と伝えられ、以後、室町期まで鷲尾氏の私寺として運営された。江戸時代宝永年間(1704-1711)から修理費負担を条件に一般村民にも開放されたが、現在でも鷲尾氏の位牌が本堂内にある。

大歳神社(貞永元年(1232)京都より遷座(棟札)、関連リンク

六條八幡創祠以前の山田最古の古社と伝えられる。六條八幡祭礼時には必ずここへも参拝する慣例がある。

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