北神戸 丹生山田の郷
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上谷上(かみたにがみ、 約9.1Ku、地図名前の由来(*21)

上谷上の藁葺きの民家

上谷上は山田川(志染川)の最上流にあって山田町の東の端に位置し、また、山田では六甲山の最高点に一番近く、灘区との境となる六甲連山の北斜面と裏六甲の間の谷沿いに神戸電鉄・北神急行の谷上駅の東側から北区有野町に至る地域。東部は花山、大池団地として開発されている。

「山田村郷土誌」(*20)によれば、上谷上は下谷上とともに山田中心部から見て"谷の上流"にあったことから「谷上」と名づけられており、山田13か村のうち、山田川(志染川)沿いの集落としては最後に形成されたらしい。とはいえ既に室町時代には成立していて、衝原箱木千年家小部の内田家住宅とともに千年家と呼ばれる古い民家(阪田千年家)もあったが、昭和37年(1962)に焼失(*26)している。

烏帽子岩

六甲主稜から派生した支稜の末端には標高651mの石楠花山・616mの双子山があり、その麓の福浄寺という地名はかつて修験道場として栄えた大寺の跡と言われる。石楠花山に天狗岩、烏帽子岩(写真右)という2つの巨岩があるのも修験道場の名残かもしれない。

石楠花山には展望台があり、西は摩耶から東は淡路まで、また前方には大阪湾を超えて紀伊半島までの眺望が開けている。石楠花山から上谷上へ下る道は炭が谷と呼ばれる谷筋でその名の通り、かつては炭が生産されていた。今でも炭が谷の道沿いには炭窯のあとがいくつか残っている。

炭窯の跡

炭窯(すみがま、写真左、下記は現地掲示板)

 薪(まき)を窯の中に詰め込んで点火し、一部の空気穴(通風・煙出し)を残して密閉、炭化させて炭を作ります。炭焼きには豊富な経験と技術が必要で、窯作りの良否や火加減などにより炭の質は大きく変わります。窯作りで数日〜1・2ヶ月、炭作りで5日程かかったそうで、作業は主に幽閉期の冬に行われたようです。
 日本人は約一万四千年前の石器時代から石器時代から炭を製造・利用してきたと言われています。以後、文化の発展に伴い、金属加工用から無煙燃料としての暖房用・炊事用へと一般に普及し、更に茶の湯の世界で芸術品の炭も作られ、世界最高品質の木炭生産国となりました。「日本書紀」や「枕草子」などの書物にも登場し、大仏や日本刀の製造・花火の材料など、木炭は日本文化と深く関わってきました。
神戸市

豊かな水量と落差のある谷は水車の最適地で、播州や北摂から集まってきた酒米を精白していた。精白米は当初牛の背に乗せて再度道(解説)などを経由して運ばれたが、有馬街道の天王谷の道が改修されてからは牛車か馬車を利用して平野経由で運ばれるようになった。また、明治から大正にかけては、六甲山上の池から切り出した氷を氷室で保存し、夏季に神戸へ出荷していた。

花山駅の西8分ほどの天満神社境内には江戸時代の農村舞台である割拝殿形式の舞台(県の文化財)があり床几廻しと呼ばれる装置を持っている。

天満神社

《社寺・史跡》(*21)

天満神社(創立 貞永元年(1232))

上谷上で唯一の神社。おなじみ学問の神様、菅原道真を奉っている。兵庫県指定重要文化財の農村歌舞伎舞台がある。真ん中を道(天満神社への参道)が貫いている(このことを「割拝殿(中央部に通路があり下足のまま通行できる拝殿)形式」と言うらしい)ステージというのは、農村舞台に限らずなかなか無い?




県指定文化財 上谷上農村歌舞伎舞台(現地掲示板、原文通り)

上谷上農村歌舞伎舞台
指 定 年 月 日 昭和46年4月1日
所有者・管理者 上谷上農村歌舞伎舞台保存会

江戸末期から明治にかけて農村歌舞伎が全国的に流行し、山田町でも十三カ村に十四棟もあった。茅葺入母屋造平屋、正面11.07メートル、側面7.40メートルである。

この舞台は文久3年(1863)に建てられたと推定され、割拝殿形式で建物の中央が参道になっている。舞台として用いるときには床を張り、花道は分解式で左横斜めにつけられる。床下の石壁造りの奈落は楽屋になっている。

この舞台の特徴は上演のとき、床几四台をつないで廻り舞台にしていることである。


平成4年11月

兵庫県教育委員会

浄光寺(創立 室町末期?)

もともと真言宗だった上谷上に本願寺8世の蓮如上人(1415-1499)がこの地に布教に立ち寄った際に全村挙げて改宗。

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