六甲山系余話
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地名の由来 六甲山系の成立 六甲登山の始まり
[地名の由来]
岩倉山 菊水山 高取山 鉄拐山 天王谷 旗振山 再度山 船坂 摩耶山 譲葉山 六甲
六甲
- 神功皇后伝説
神功皇后の朝鮮遠征の帰路、九州で産んだ王子(後の応神天皇)が帝位を継ぐことを恐れた兄の香坂(かぐさか)・忍熊(おしくま)の2王子が皇后一行を襲ったが逆に征伐され、香坂・忍熊をはじめとする首謀者6人の首が兜(=『甲』)とともに山中に埋められた。そのために六甲山には合計6つの高い峰がある。
- 大和時代に大和や難波宮(7世紀頃造営)から見て大阪湾あるいは淀川の「むこう」が「ムコ」、淀川の「こっち」が「河内(かわち)」
- ポリネシア、アイヌなどの言葉からマオリ語の
「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)「静かな切り株(瘤のような山)」やアイヌ語の「ムク」という植物が語源。 など
旗振山
- かつては兵庫の米相場を岡山に伝達する旗振通信の旗振場だったことから命名された
鉄拐山
- 須磨の山すそのいつも鉄でできた拐(つえ)を携え、一度に馬数頭分の薪を背負っていた力の強い木こりを人々が鉄拐と呼び、彼の登る山を鉄拐山と名付けた
高取山
- 長田区の民話によれば、昔洪水で山全体が水没した後に大きな松の木に足を絡ませていた蛸を捕って帰った。 このときから「タコ取り山」と呼ばれるようになったとさ
- 鷹が多く住んでいたので鷹取山から転じた
菊水山
- 昭和10年に楠木正成没後600年の記念に神戸市が楠木正成の家紋、菊水の形に松を植樹したのが名前の由来。元は烏山
天王谷
- 平安時代初期の貞観11年(869年)、播磨の広峰山(姫路北方)の広峰社から、祇園牛頭天王が分神されて山城(京都)の祇園、八坂神社に迎えられた。この途中、神輿(みこし)が広峰社で学んだ徳城坊阿闍梨のいた平野(兵庫区、有馬街道沿い)の「上の寺」に泊まった。そこでこの寺も祇園さんとして牛頭天王が祭られるようになり、その麓の現在有馬街道に沿って流れている谷川を天王谷川と呼ぶようになった。
摩耶山
- 伝説では法道仙人が1300年以上前に霊場を開き、その後唐で学んだ弘法大師が摩耶夫人(釈迦の生母)をとう利天上寺に祭ったのがこの山の名の起こり
再度山
- 再度山の名は弘法大師が大龍寺参詣のため2度登ったことに由来しているという
船坂
- 平安時代に土砂崩れで湯の湧き口も埋もれてしまっていた有馬温泉の再興を熊野権現から命じられた僧、仁西(伝説的人物)が船坂で湯船を作ったので、坂の多いこの集落に船坂という地名がついた
譲葉山
岩倉山
[六甲山系の成り立ち]
六甲変動と呼ばれる六甲山系の隆起が始まったのは新生代第四紀の100万年前頃からで本格的な上昇はほんの?50万年前位からと言われている。
日本列島全体で見ても山地・山脈が作られたのはほとんど新生代第四期紀以降(180万年前〜)で、その原因は約100万年前から東北日本〜西南日本全域にわたって強まった東西方向の圧縮力であると言われている。
この東西の圧縮力により、六甲山の最高峰は100万年で932m(約1000m)上昇した。これは毎年1mmのペースに相当するが、阪神大震災のようなマグニチュード7〜8程度の地震を数100〜1,000年毎に繰り返し、その都度1〜2m程度ずつ上昇していった結果と言われている。
六甲山地を形成する花崗岩は、白亜紀末期のころ(7500万年〜7000万年前)マグマが地下でゆっくり冷えて固まったもので、御影(みかげ)石の名前で石材としても有名。
[六甲登山の始まり]
明治以前、六甲山は信仰や修行の場として、あるいは有馬などに海産物などを運ぶルートとして人々の往来があったが、スポーツ登山を六甲山に持ち込んだのは明治維新で神戸に来た外国人たちだった。
長崎グラバー亭から神戸に来て茶の貿易商を始めたハンティング好きの英国人アーサー・ヘスケス・グルームが1895(明治28)年に山上の三国池周辺の土地を借り受け木造の別荘を建てて以来、外国人たちが別荘を建設し、登山路が開かれ散策を楽しむようになった。
このため、六甲山にはシュラインロード、シェール道、カスケードバレー、アゴニー坂などのカタカナの地名が多く残っている。
ちなみにグルームは、神戸に来て早々日本人女性と結婚し、その後73歳でなくなるまで、ゴルフ場や登山道の整備だけでなく植林、防砂工事など六甲開拓に尽くし「六甲山の開祖」と称された。
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