北神戸 丹生山田の郷
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六條八幡神社 (*5)(*21)(*26)  (関連リンク

六條八幡神社

山田13ヶ村の総鎮守社である六條八幡神社。この六條八幡宮の名前の由来は、京都の六条堀川の源氏の館に祀られていた左女牛(さめうし)八幡宮を山田の地に遷して再興したことに拠っている。

また、1673年(寛文13)に作成された縁起(解説)では、この六條八幡宮のあった場所はもともと神功皇后(解説)の行宮(天皇が外出したときの仮の御所)を、その子である応神天皇(4世紀末から5世紀はじめに在位したとされる大和朝廷の頃の第15代天皇、解説)が再営した霊地であり、その後若宮八幡宮と呼ばれる宝殿が造営された場所であるともされている。(長徳年間(995〜999)に基灯法師が応神天皇を祀って創建したとも言われる。)

そして、応神天皇とともに八幡神の祭神である神功皇后、八幡神を守護神とする源氏は、いずれもこの山田の伝承・歴史に深く関わる登場人物でもある。

美しい三重の塔(17.42m)があり、勇壮な流鏑馬の神事(ビデオ)が今に伝わる六條八幡宮には、今も山田13地区の旗が翻り、山田町の象徴となっている。

源氏による創建〜山田13ヶ村の総鎮守

左女牛八幡宮を遷し六條八幡宮を創建した時期については2説あり、ひとつは源為義(頼朝(解説)の祖父で京都六条に住んでいたことから六条判官と呼ばれた)が保安4年(1123年)に山田の領主となった頃で、1673年(寛文13)に作成された六條八幡神社の縁起(解説)に示されている。二つ目の説は平家滅亡の文治元年(1185年)に源頼朝が保元の乱で処刑された祖父源為義のために京都六条の旧為義邸に左女牛八幡宮を建立し、その2年後に丹生山田の地を左女牛八幡宮の社領地にした(鎌倉幕府の記録である吾妻鏡の記述)以降とするもの。

いずれにしても、鎌倉時代から室町時代には大いに栄え、鎌倉時代には社領を管理する政所(領地の政務全体を司る)・公文(年貢などを司る)・下司(領地の事務を司る)・荘官(領地の管理を司る)の四識を置き、政所に下村鷲尾家、公文に同じく下村の畠田家(こちらも現在でも畠田・畑田の姓の多い東下?)、下司に原野村栗花落(つゆ)家、荘官に福地村の村上家を当て、当時の山田の中心全体の組織としている。

更に室町時代には、鷲尾家と栗花落家を頭家として、鷲尾の下に衝原村箱木家・下村の畠田家・坂本村の田中家・福地村の村上家、栗花落家の下に原野村の山田家・上谷上村の阪田家・下谷上村の砂川家・小部村向井家というほぼ山田全域をカバーする神事勤務の役割も組織されたらしい。この神事の組織は現在までも引き継がれ、昭和54年編纂の「山田郷土史(第2篇)」(*21)の各字(部落)の部落役員として歴代(大正〜昭和)の自治会長と並んで六條八幡神社氏子総代が記されている。

江戸時代に幕府領、藩領、旗本領、寺社領など、モザイクのように分割支配された時代を経て、今日に至るまで山田全域13ヶ村(地区)を結び付けてきたのは、いつの時代も変わらない総鎮守としての求心力を保ち続けた六條八幡宮の神事の組織であったようだ。

源氏・神功皇后と八幡宮

源氏(源為義または源頼朝)によって山田の地に建立したのが八幡神社だったのは、八幡宮が代々源氏の守護神(別の言い方をすれば、武士の守護神であった八幡宮を日本一数が多いといわれる神社にまで発展させたのが源氏)だったからだろう。

この源氏の一族である源義経(源頼朝の義弟)が山田を通って一の谷の合戦に向かい、その道案内としたのが後に六条八幡神社の政所・頭家を勤めた鷲尾家の鷲尾三郎であった(「義経の進軍路」参照)というのは因縁を感じさせる。山田が為義の頃(一の谷の合戦以前)から源氏の所領であったとすれば、鷲尾三郎が義経を道案内したのは偶然ではなく、もともとの予定であったかもしれない。また、頼朝に追討された義経の家来となった鷲尾三郎の一族がその後も山田の筆頭家として六條八幡の神事組織でも最重要な地位を占め続けたことも興味ある話である。

また、八幡宮の祭神であり、六條八幡宮のあった場所にかつて行宮(別荘)を構えていた神功皇后は、「神功皇后が朝鮮半島の新羅へ侵攻しようとした時に『六甲の北の山から丹(に、赤土)を採って船に乗り武器や衣服にも丹を塗って戦えば戦に勝てるであろう』という丹生都比売命の神託に従うことによって戦勝した」という丹生山田の伝説(神功皇后解説「丹生神社・明要寺」参照)の主でもある。逆に言えば、伝説の人物と言われる神功皇后の行宮も、この丹生山田の伝説から生まれたものかもしれない。

流鏑馬神事、クリックするとビデオが流れます 流鏑馬神事

流鏑馬(解説)は、「ウマカケ」と呼ばれ、江戸時代から続く行事(祭りの主催者は平安時代から続く、と紹介していた。流鏑馬が流行したのは鎌倉時代からだが、起源は平安中期とされているのであながち嘘とも言えないが・・・)で、六條八幡では1月の引目祭(厄神祭)、9月の神幸祭と並ぶ重要な神事として毎年10月(以前は10日だったが今は第2日曜)に行われる。

六條八幡宮に先立ち、10時頃から東下の七社神社(関連リンク)で流鏑馬を行った後、太鼓と「けやり唄」に囃されながら、烏帽子束帯姿や、太鼓、騎乗した射手、流鏑馬の的、挟み箱を担いだ行列が六條八幡神社までの約1.3Kmの道のりを練り歩く。

六條八幡神社本殿での神事の後、12時前からいよいよクライマックスの流鏑馬が始まる。流鏑馬は4回行われ、最初の2回は静止した馬上から的に矢を射た後に鳥居から本殿までを駆け抜ける。ここまでが本来の神事であるようだが、その後2回の馬を駆けさせながらの騎射(ビデオ)は、なかなかの迫力がある。

六條八幡神社三重塔 八幡神社三重塔(現地掲示板、原文通り)

重要文化財指定 大正3年4月
桧皮葺 初重内部来迎柱後退

山田の歴史は、神社を中心に発展したところで、多くの文化遺産を残しています。  この塔は、五百年前の文正元年(1466年)神社の世話役であり、地方の有力者であった鷲尾綱貞によって建てられたものです。緑の木々を背景に、やわらかな桧皮葺(ひわだぶき:桧の皮で屋根をふく)と上層を区切る細縁の手すりなど優美な姿を見せています。軒先の強い反りや、上層になる程小さくなる形に時代(室町中期)の特長が見られます。仏教建築である塔が神社にあるのは、神仏は一体であるとの考えのあらわれですが、明治以降は、区別され、神社にあった塔の多くは姿を消しました。今、全国で18、県下で3ヶ所残っていますが、その一つがこれです。

神戸市教育委員会

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